第八話『自習時間を気にしない』
自習時間という名の自由時間は、生徒をやけに鼓舞しがちだ。
先生不在の為、完全に自由になってしまった生徒を止める大人はもういない。
よって、少し早い昼休みを堪能するが如く、各々が友達の所へ行ったり、早弁をしている人も見えた。
「自由とは何かを習っているのかもしれない……」
「糸杉くんは難しい事言うね」
ふと目の前を見ると、与田さんが時雨さんに変わるマジックまで行われていた。
「あれ? 与田さんは?」
「呼ばれて行っちゃったから、席貰った。久しぶりだね、糸杉くん」
ショーの肝心な瞬間を見忘れたというより、与田さん目的にやってきた時雨さんだが、与田さんは与田さんで誰かに呼ばれて席を開けていたようだ。久しぶりというのはどういう意味だろうと考えたけれど、時雨さんの言う事にも慣れてきたから、深く考えるのはやめた。
時雨さんは与田さんの席で、静かにノートを開く。珍しく彼女は自習をするタイプのようだ。ただ席は自分の席でも良かったような気がしなくもない。
後ろからクルクルと器用にペンが回っているのが見える。青緑色の――エメラルドグリーンと言ったほうがいいかもしれない。そんな綺麗なペンが、細い指の上で軌跡を作っていた。
「ペン回し、上手いんだね」
「んー? あぁ……またやっちゃった。癖なんだよね」
癖にしては洗練過ぎていたように思える。努力した人のそれと遜色無いような綺麗な動きだったけれど、無心は時にそんな事を越えるのかもしれない。
「ん? 癖? どんな時の?」
「書くことに行き詰まるとね、筆が止まるでしょ? でも筆は動かしたいから、動くの」
言わんとする事は分からなくもない。しかし相変わらず時雨さんのニュアンスで話している事にも変わりはない。
『書くことに行き詰まる』とは、どんな時なのだろう。最近は時雨さんの言葉を、一回飲み込んでみようとしている。単純に気になるのもそうだけれど、彼女が何を言おうとしてそういう言葉を使ったのかを、知りたいという、興味が強い。
わざわざ自分の席には戻らずに、与田さんの席に座って、ノートを開いて、だけれど行き詰まる。
回り続けていたペンは時々止まって、ノートの上を滑っている。ただ、ゴシゴシと消しゴムが動いているのも、何となく分かる。
遊んでいるようには見えないけれど、勉強しているわけでもなさそうだ。であれば、絵でも描いているのかもしれない。そろそろ答えを知りたくなった俺は、またペンを回し始めた時雨さんの後ろ姿に声をかける。
「絵とか?」
「絵? 絵を描くのは好きだよ? でもシャープペンよりも色鉛筆で描くのが好きかなぁ」
通じているようで、通じていない。つまり絵ではない、としたらなんだろう。
結局、時雨さんには直球で言葉を投げるのが正解なのだと思いながら、答えを促す。
「いつか見せてよ。でも今は? 一生懸命何か書いてるみたいだけど」
「見たいの?」
「見たいというか、気になって……」
「ん! じゃあ絵はいつか描いてあげるよ。何描いてほしい? 星空? 月? 向日葵?」
時雨さんが妙に嬉しそうなのが意外だった。しかし俺の意図とは異なっている。
だけれど嬉しそうならいいかと思い、モチーフの関連性は分からなかったけれど、星空と月と向日葵を思い浮かべる。
「星空に月。それと、照らされて揺れる向日葵かぁ……」
なんとなく言葉を並べてみる。照らされて揺れる向日葵は、ただ想像の上で見えただけの話だ。
どれにしようと考えていると、彼女はノートに向き合って、カリカリとペンを走らせる。
流石に絵を描いているわけではないだろう。
だけれど、彼女の中でのペン回しは、終わったようだ。
彼女は嬉しそうに、ノートの中身を見せてくる。
少しだけ、驚いた。そこには、たった今話していたばかりの、良く見知った言葉が、彼女の堅すぎない綺麗な筆跡で、大きく書かれていた。
『星空に月、照らされて揺れる向日葵』
つまり、彼女のペン回しは、言葉を探す為の行為だったという事になる。
「小説……の、タイトル?」
「うん。たまーにね、書きたくなる事があるの。やっぱりお話するのは良いね。こういう事があるから、さ?」
時雨さんは嬉しそうに、ノートをパタンと閉じる。
まだ小説の中身は一文も書かれていないが、彼女はそれで満足したらしい。
「中身は良いの?」
「うん、中身は後で、ゆっくり楽しむ。ありがとね、糸杉くん。絵はいつか完成したらあげるから、気長に待ってて?」
「まぁ……うん、楽しみにしてる」
どちらかというと、俺自身は小説の中身の方が気になっていたのだけれど、とりあえず頷いておく。
「小説は誰にも見せないの?」
「そだね、恥ずかしいから見せないかな。別に上手じゃないしね? あ、でも絵も別に上手じゃないか。どうしよう?」
「どうしようと言われても……まぁ俺は創作には疎いけど、気持ちみたいなのが大事なんじゃない?」
一般論でしかない話だけれど、時雨さんは少しだけ難しい顔をしてから、納得したように顔を上げて、少しだけ俺から目を逸らした。
「うん、確かにそうかも、そうだよね。じゃあ絵は描いてあげる。ヒントをくれたから特別ね」
そのヒントも、元々は時雨さんから言い出した言葉をまとめただけなんだけれどなと思いつつ、俺は苦笑で返す。
「……気持ちかぁ」
俺が言った当たり障りない言葉を、時雨さんは繰り返す。気持ち良く描いてくれたら俺はとりあえずなんでもいいなと思う。その気まぐれが少しだけ嬉しい。俺にとって、まだ見ぬ出来上がった絵の上手さはきっと問題じゃないのだと思う。だからきっと、気持ちでいいのだ。ありきたりな納得だけれど、それでいいのだと思う。
「それで、小説の方は?」
「こっちはね、内緒」
何となく聞いてみたけれど、見せられない気持ちもあるらしい。逆にそれを聞いて少し安心したのは、ここだけの話だ。
「だって、恥ずかしいからね」
時雨さんは少しだけ意地悪そうに笑ってから、帰ってきた与田さんと二言三言話して、自分の席に戻っていった。
「しぐちゃんは真面目だよねぇ。こんな時でも勉強かー」
与田さんはどうやら勘違いしているようだったけれど、俺は訂正するのもなんだかなと思い、とりあえず肯定しておいた。
ただ、とりあえず俺だけは知っている。
彼女は、自習時間を気にしない。




