第五話『よだかのほしを気にしない』
カロリーの匂いがした。正確に言えば焼いたメロンパンの甘い匂いと、バターの濃厚な香り。
つまり、このクラスの誰かがあの購買競争に勝利したという事である。俺は心の中で小さく拍手をしながら、今日は一人で弁当を畳む。今日の時雨さんは友達と一緒に昼食を食べていたようだったし、昨日のように食事を一緒にするという事もない。
しかし、カロリーの匂いが随分と近いな、と思っていると、友達と話していた時雨さんがいつのまにかこちらを向いて、メロンパンの切れ端を差し出していた。
「糸杉くんも食べる?」
その手を見ると、ちぎられたメロンパンの欠片。貰う貰わないはともかくとして、彼女がまさか購買競争に走ったとは思えない。
「だーめだってー! しぐちゃん! 私の!私のだから!」
「知ってる。だから分けてもらったのを、分けたの」
時雨さんの横でパタパタしている子は確か、与田さんだっただろうか。一年生の時のクラスでは別だったから、あまり印象はないけれど、時雨さんとよく一緒にいるのを見かける気がする。
「んんんー! だったら分けるよ! はい糸杉くん!」
俺の前にメロンパンが二個並ぶ、そもそも俺はいつ食べたいと言ったのだろう。
「いや、俺は……」
「でも美味しいよ?」
グイっと、時雨さんの手がこちらに近づき、半ば押し込まれるようにメロンパンが俺の口の中に放り込まれる。思わず怯みながらも俺はそれを受け入れてしまった。やや恥ずかしいけれど、彼女が気にしないのだから、気にしても仕方ないような気もしてくる。
「そういうのよくないよしぐちゃん!」
俺が困惑しながらほんのりとまだ温かいメロンパンの甘さとバターの濃厚さを味わっていると、与田さんが時雨さんに突っ込みを入れている。良かった、これがどうもおかしいと思っていたのは俺だけじゃない。
本当に良かった。常識人は存在したのだ。
「昨日これの話したばかりだし……ちょうどよだかちゃんが買ってきたし、ちょっとテンション上がっちゃった。ごめんね?」
俺に謝っているのか、与田さんに謝っているのか分からなかったが、とりあえず俺は軽く首を横に振っておいた。
「いや……俺は別に気にしてないけれども……」
なんだろう、いつも気にしている側の俺が気にされているこの逆転現象。この違和感の正体を見ると、彼女は時雨さんの頭をクイッとこちらへと下げた。
「やー、ごめんね糸杉くん。この子こんなんだから、許したげてよ。あとしぐちゃん! よだかは禁止! 名前で呼ぶ!」
さて、通称『与田よだか』さんの名前はなんだっただろうと考えていると、時雨さんがグワっと頭を上げて難しい顔をする。
「私、よだかって好きなんだけどな。奏海ちゃんは嫌い?」
「だって、あの鳥ってさ……」
よだかなみという音を頭の中で咀嚼して気付く。与田さんの名前とかぶっているのか。
しかしよだかとは、おそらく鳥の事を言っているのだろう。確かに与田さんは時雨さんよりも小さくて、パタパタ動く姿は小鳥っぽいと言われても納得出来る。しかしよだかを思い出すと、いつだったか国語の授業で習ったある言葉が連想される。
――よだかは、実にみにくい鳥です。
たしか、この話の名前は『よだかのほし』だっただろうか。勉強熱心でも無かった俺にしては、妙に印象深く残っている。よだかのほしとまで書いたタイトルの一文目に、そんな事を言ってしまうのかと思ったのだ。
「糸杉くんも、酷いと思うよねぇ?」
与田さんが同調を求めてくるが、同時に時雨さんも少しだけ分かってほしそうな目でこちらを見てくる。
「まぁ……なんでそう呼びたいかくらい聞いても……いいんじゃ?」
少し声が上ずったのは仕方がない。与田さんとははじめて話すのに、妙に距離感が近いのだ。
思わず頭の中でよだかちゃんと呼びたくなってしまう気持ちが起こる程度には、元気に羽ばたいている。動く度に跳ねる小さなサイドポニー、何とも、彼女にはそのままでいて欲しい。背伸びしている保護者感、時雨さんと仲良くなれるのも分かる気がした。
「私ね、星が好きだからよだかも好きなの」
成る程、と思った。彼女は過程じゃなくて、結果だけを見ているのだ。
あの、よだかが星になるまで空を飛びきった悲しい理由はきっと気にしていないのだろう。
「星? 鳥じゃなくて?」
「うん、よだかちゃん、確かに小鳥っぽいけど、なんかキラキラしてるから、好きなんだよね」
二人の間じゃ、そのくらいのやり取りで良かったようで、結局よだかちゃんはよだかちゃんのままになったようだ。
「もー! しぐちゃんはいっつも! 説明してくんなきゃ分かんないよー!」
「でも、説明したら分かってくれるでしょ?」
確かに、思えば与田さんと時雨さんにメロンパンを差し出された時、与田さんは少しだけ手を引き気味にしていたような気が、しないでもない。もしそこまで考えていたなら、常識人極まりないというか、時雨さんの扱いはとんでもなく上手いかもしれない。
「仲良いんだね、二人」
何気なく言った言葉は、どちらかというと与田さんに向けての言葉だったのだけれど、与田さんが口を開くよりも先に、時雨さんが小さく頷く。
「ん、仲良いの。昔から」
「昔はかなちゃんって呼んでくれてたのになー!」
そこは、時雨さんだから仕方がないのだと、割り切るしかないのだろう。実際の所、割り切っているみたいだ。去年俺と時雨さんが同じクラスで、与田さんと俺がこのクラスで初めて会ったという事は、おそらく二人はそれ以前――中学生より前からの友人なのだろう。
だとすれば、二人の相性が良く見えるのも頷ける。逆に、時雨さんと一緒にいたからこそ与田さんはこれだけしっかりしているように見えるのかもしれない。テンションは高いし距離感は近いけれど、嫌な感じが全くしないのは、彼女がそれだけ上手く振る舞えているという事なのだろうと思う。
「でも、よだかちゃんの方が可愛いよ?」
与田さんは時雨さんの言葉を、何とも言えない顔をしながらも受け入れている。つまり、よだかちゃんは良い人だなぁという感想に尽きた。
「それに、頑張って飛んだんだからね」
その言葉に、時雨さんからの想いのような物が一瞬見えたような気がした。
流れ星のように、すぐに見えなくなったそれは、結局与田さんのワチャワチャした話とチャイムの音で記憶の彼方に落ちていった。
だけれど、なんとなく分かった事がある。
きっと時雨さんは、よだかが星にならなかったとしても、気にしない。




