第一話『春の木漏れ日を気にしない』
俺には高校に一年と少し通って、やっと分かった事がある。
学校生活というものの中で、俺達学生が一番見つめるのは、気になるあの子の背中でも、はたまた黒板でもない。
時計だ。
チクタクという音は教師の声でかき消されているにも関わらず、最近は見つめているとその秒針の音が聞こえてくるようにすら思えた。
高校二年の春、ちょうどいい小春日和、窓際最後列という完璧に近い俺の席からは桜の木も見える。
しかし、花より団子、花より終業時間。俺は秒針が一番高い所を指すのを見つめながら、目の端でコクリコクリと縦に揺れ続けている同級生に気を取られていた。白い制服の上を、陽に照らされて光る黒髪がコクリと頭が揺れる度に肩に触れては、戻る。
「時雨さん時雨さん……」
一年生の時からの同級生だから、知らないという仲では無い。どうしてかは知らないけれど、彼女は苗字で呼ばれるのを嫌がるから、俺も仕方なく名前で呼ぶ。
もし社会科の高峰先生が居眠りを見つけた暁には、隣のクラスで居眠りしている人まで起こすような怒鳴り声が上がりかねない。それを聞くのも耐え難いし、何より怒られている時雨さんを想像するのもどうにも見ていられない。
俺は明らかに睡魔に負けそうになっている目の前の席の女子――近江時雨さんに、軽く声をかける。
しかし、彼女は俺の声が聞こえているのか聞こえていないのか。危なかしい動きで、少しずつ縦揺れが大きくなっていく。
俺はこの授業で、実に二十回は見つめた時計の分針を見る。授業終了まで、残り三分。
しかし、彼女の睡魔は限界なのか、揺れるというより、既に机に向かってゆっくりと沈下していった。
――まずい、このまま机と激突したら、誤魔化しが効かない。
俺はバッと強めに教科書を机から落として、彼女を起こす最終手段に出る。
バサリ音を立てて落ちる教科書、集まる視線。
そうして、ゴツンという衝撃音。
「ふわっ」
「すいません!」
時雨さんの衝撃音を隠すように、俺は大きめの声で謝りながら立ち上がって教科書を拾う。
どうやら、先生の逆鱗に触れるという事は無さそうで安心する、のもつかの間、彼女はおでこを抑えながら、机にうつ伏せになっていた、ふぁさっと机の上に髪の毛が広がる。
――明らかに、寝る姿勢に入っている。
とはいえ、チャイムまでは秒読みのはず。それにしても、授業中に寝るような人じゃあなかったように思えたのだけれど。人は見た目に寄らない。
一見クールに見えるのに、何となくズボラさが伝わってくるというか、さっきの気の抜けた『ふわっ』という声は俺にしか聞こえなかっただろうけれど、何とも印象が壊れる。
そんな事を思いながら、彼女の小さく動く背中を見つめているうちに、チャイムが鳴った。
帰り支度をしながら、眠そうに目を擦る時雨さんと目が合う。
「……こんなに暖かいし、眠くもなるよね」
俺は彼女から目を逸らしながら、窓の外の桜の木に目を向ける。
「ありがと。呼んでくれてたのは聞こえたんだけど……眠かった」
だからといってあの先生の怖さを知らないわけではないだろう。
一年生の時から俺達を受け持っていた先生だ。彼女には怖いものが無いのだろうか。
「まぁ、春だしね」
「んー? あの先生って、話が長くって……ふぁぁ……」
――風情も何も無い。桜もそろそろ散り時だろうか。
「糸杉くんは気にしすぎだね。ノートもとってたし、だいじょうぶだよ」
時雨さんは、ふにゃふにゃの線で書かれたノートを、こちらに見せる。
「それ……読める?」
「うーん、何とか?」
彼女は、自分で開いたノートを見ながら、少し眉間に皺を寄せる。
飾り気のないヘアピンから見えた丸みを帯びた瞳が、そのうち納得の色に変わる。
「読める? それ……」
「うーん、ま、私が読めたらそれでいいからね」
その口調と見た目だけは綺麗というか、クールに見えるんだけれどなぁと思いながら、彼女の立ち姿を見上げる。
「んー?糸杉くん、どしたの?」
彼女は自分の事は名前で呼ばせるのに、俺の事は苗字で呼ぶ。もしかすると名前を覚えられていない可能性もあるが、そんな事を気にするのも、少し情けない。
「いや、時雨さん。疲れてたのかなーって」
少し抜けているのか、あえて抜いているのか。
「さっき言った通りだよ。あの先生のお話が長かっただけ、いつも眠いけど、今日はご飯の後だったからね」
あくまで、春の陽気みたいな物は気にならないらしい。取り繕う事もない淡々とした事実だけを繰り返す言葉は、彼女の印象には良く似合っていた。
彼女は「んじゃね」と言ってスクールバッグを手に取って、俺から背を向ける。眠っていて少し汗をかいたからだろうか、少しだけ石鹸の香りが残っていた。
何となく見つめる後ろ姿、歩く姿はなんとやら、と言うけれど、その所作は綺麗というよりも、スタスタスタという音が聞こえそうな感じで、友達の輪に入っていくのを見て、俺も帰りの準備を始めた。
多少の付き合いがあっても、一クラスメイトとの関係は、このくらいの温度感で良い。だけれど少しだけ俺は人を気にしすぎるみたいだ。それとも彼女が人を気にしなさすぎなのか。
あるいは、どちらかかもしれないけれど、とりあえず俺もまたスクールバッグを肩にかけて立ち上がり、大きく伸びをした。
「くぁ……まぁ確かに、眠いや」
暖かい日差しは、未だに俺達の教室を照らしている。
それでもきっと、彼女は春の木漏れ日を、気にしない。




