第2章:政争の嵐と救世主:「政争の嵐と絶望の淵」
プロジェクトを取り巻く不穏な空気は、基本設計フェーズが完了し、いよいよ開発の核心へと突き進む段階に入ると、もはや隠しようのない明確な「敵意」へとその姿を変えた。フロンティア・システムズ社内に渦巻く派閥抗争の濁流が、スマートファクトリープロジェクトという一点に集中し、その流れを堰き止め、潰しにかかってきたのだ。それは、技術者たちの純粋な情熱や使命感を土足で踏みにじる、冷酷で計算され尽くした組織的な攻撃だった。
攻撃の第一波は、最も直接的かつ効果的な形でやってきた。予算の大幅削減だ。B派閥の役員たちが主導し、「プロジェクトの将来性に対する不透明感」「技術的リスクの再評価」「全社的なコスト削減方針」といった、もっともらしい理由を並べ立てて役員会で強行採決された結果、開発フェーズに割り当てられていた予算は、当初計画の実に三割もカットされることになった。
「予算三割カットだと!? ふざけるな! これでは計画していた人員も、必要な機材も到底確保できないぞ!」
報告を受けた篠田玲子は、普段の冷静さを失い、激しい怒りを露わにした。すぐに社長やA派閥の担当役員に抗議し、決定の撤回を求めたが、一度下された決定は重く、B派閥の「全社的な視点に立った苦渋の決断」という大義名分の前には、覆すことができなかった。
予算削減の影響は、即座に、そして残酷なまでに現場を直撃した。
まず、プロジェクトに投入される予定だった優秀な派遣エンジニア数名が、契約更新を見送られることになった。彼らは、特定の技術領域において貴重な戦力となるはずだった。その穴を埋めるために、既存メンバーの負荷はさらに増大する。
「マジかよ…〇〇さん、契約終了だって…あの人いなくなったら、画像処理モジュールの開発、どうすんだよ…」
「俺たちがカバーするしかねえだろ…また徹夜か…」
次に、開発効率を大幅に向上させるはずだった最新の統合開発環境ツールや、AIモデルの学習時間を短縮するための高性能GPUサーバーの増設計画が、「費用対効果が見込めない」という理由で凍結された。メンバーは、旧式の、あるいは性能の低い環境での作業を強いられ、開発スピードは目に見えて低下していく。
「このシミュレーション、一晩回しても終わらねえぞ…新しいサーバーさえあれば、数時間で済むのに…」
「このデバッグツール、使いにくすぎる…前のプロジェクトで使ってたやつ、なんで導入見送られたんだよ…」
さらに、外注費の削減も断行され、一部のモジュール開発を委託していた協力会社への発注がキャンセルされたり、単価を不当に引き下げられたりした。これにより、協力会社との関係も悪化し、品質の低下や納期の遅延を招くことになる。
篠田は、削減された予算の中で、なんとかプロジェクトを遂行しようと、リソースの再配分、スケジュールの見直し、開発スコープの縮小検討など、必死に調整を試みた。しかし、あまりにも削減幅が大きく、どうやり繰りしても、当初の計画通りにプロジェクトを進めることは不可能に近い状況だった。
追い打ちをかけるように、B派閥による妨害工作は、さらに陰湿さを増していった。社内には、「スマートファクトリープロジェクトは失敗する」「あのプロジェクトに関わると、キャリアに傷がつく」といった根も葉もない噂が、意図的に流され始めた。それは、メンバーのモチベーションを削ぎ、プロジェクトから人材が流出することを狙った、悪質な心理攻撃だった。
「おい、聞いたか? あのプロジェクト、上層部はもう見切りをつけてるらしいぞ」
「下手に深入りしない方がいいかもな…」
そんな囁き声が、給湯室や喫煙所で交わされるようになる。プロジェクトチームのメンバーは、社内で孤立感を深め、冷たい視線に晒されることも増えていった。
外部の協力会社に対しても、B派閥の圧力は執拗にかけられた。「フロンティア・システムズとの今後の取引を考えるなら、スマートファクトリープロジェクトへの協力は控えた方が賢明ではないか」「もし協力を続けるのであれば、他の案件での取引条件を見直させてもらうことになるかもしれない」――。露骨な脅しや利益誘導によって、重要な技術を持つサプライヤーや開発パートナーが、次々とプロジェクトから手を引いていく。
「篠田PM! △△社から、基幹部品の供給を停止したいと連絡がありました! 理由は『社内事情』としか…しかし、明らかにB派閥の横槍です!」
「くっ…! またか…!」
篠田は、八方塞がりの状況に追い込まれていた。予算はない、人も足りない、機材も届かない、協力会社も離れていく。そして、社内には敵意と無関心が渦巻いている。彼女は、PMとしての責任感と、この理不尽な状況への怒り、そして日に日に憔悴していくメンバーへの申し訳なさで、心身ともに限界に近づいていた。
夜、一人残ったオフィスで、あるいは自宅の書斎で、篠田は何度も状況を打開するための方策を練った。社長への直訴状を書いたこともあった。B派閥の不正を暴くための証拠集めに奔走したこともあった。しかし、組織の壁は厚く、政争の闇は深かった。彼女の努力は、空回りを続けるばかりだった。
(私が…もっと力があれば…いや、違う。これは、私の力だけではどうにもならない…)
かつてないほどの無力感に、彼女は打ちのめされそうになっていた。しかし、ここで自分が倒れるわけにはいかない。メンバーたちが、まだ必死に戦っているのだから。篠田は、疲弊した心に鞭打ち、翌日もまた、冷静な仮面をつけてオフィスに向かうのだった。
現場の空気は、もはや最悪と言ってよかった。
新田誠は、リーダーとしてチームを鼓舞しようと必死だった。「大丈夫です! 技術的な問題は必ず解決できます! みんなで力を合わせれば…!」しかし、彼の言葉は、日に日に重くなる絶望的な空気の前では、虚しく響くだけだった。メンバーたちの目には、疲労と諦めの色が濃くなっていた。
「新田さん…もう無理ですよ…こんな状況で、まともな開発なんてできるわけないじゃないですか…」ある若手エンジニアが、ついに涙ながらに訴えてきた。「俺、もう…辞めようかと思ってます…」
新田は、返す言葉が見つからなかった。技術者としてのプライド、このプロジェクトにかける情熱、そしてリーダーとしての責任感。それらが、巨大な組織の論理と、個人のキャリアという現実的な問題の前で、脆くも崩れ去ろうとしていた。彼は、自分の無力さを痛感し、奥歯を噛み締めた。
高橋健一は、そんな状況を、醒めた目で見つめていた。彼の口からは、皮肉や諦めの言葉が、以前にも増して多くなっていた。
「やれやれ、見事な泥船だぜ、こいつは。沈むと分かってる船で、必死にオールを漕がされてるようなもんだな」
「高橋さん、そんな言い方…」
「事実だろうが。上が本気で潰しにかかってきてるんだ。俺たち現場がいくらじたばたしたって、覆せるもんじゃねえよ。無駄な努力ってもんだ」
しかし、その諦めたような言葉とは裏腹に、高橋は誰よりも遅くまでオフィスに残り、黙々とコードのレビューや、若手の相談に乗っていた。彼の行動は、言葉とは裏腹に、この状況をなんとかしたい、あるいは、少なくとも、最後まで技術者としての矜持を失いたくない、という彼の本心を表しているのかもしれなかった。
木村咲も、フラストレーションを溜め込んでいた。「設計は終わってるのに、部品が来ないから何もできない! ソフトウェアチームに迷惑かけてるのも分かってるけど、これじゃどうしようもないよ!」彼女は、自分のデスクに積み上げられたままの設計図を、悔しそうに睨みつけていた。
チーム内のコミュニケーションも、次第にギスギスし始めていた。遅延の原因を互いの部署のせいにしたり、些細なことで言い争ったり。かつての良好なチームワークは見る影もなく、疑心暗鬼と不満が渦巻いていた。数名の派遣社員が契約を打ち切られ、将来を悲観した若手社員が一人、また一人とプロジェクトを離れていった。
そして、B派閥は、この瀕死のプロジェクトにとどめを刺すべく、最終段階へと駒を進めた。「プロジェクト緊急評価委員会」の設置。それは、プロジェクトの死刑宣告を下すための、形式的な儀式に過ぎなかった。
委員会開催の通知を受けた時、篠田は静かに目を閉じた。もはや、抵抗する気力すら残っていなかったかもしれない。新田や高橋、木村も、その知らせを重い沈黙で受け止めた。誰もが、結末を予感していた。
評価委員会当日。フロンティア・システムズ本社ビルの最上階にある、重厚な扉の役員会議室。中央の大きなテーブルには、B派閥の役員を中心に、会社の重鎮たちが顔を揃えていた。彼らの表情は硬く、冷ややかで、まるでこれから断罪される罪人を見るかのような目を、入室してきた篠田と新田に向けていた。高橋と木村も、チームの代表として後方の席に座っていたが、その顔色は土気色だった。
篠田は、最後の力を振り絞り、用意してきた資料に基づいてプレゼンテーションを開始した。プロジェクトの技術的な成果、これまでに達成したマイルストーン、そして今後の計画と期待される効果…。彼女の声は、わずかに震えていたが、それでもなお、理路整然と、そして情熱を込めて訴えかけた。
「…確かに、現在、多くの困難に直面しています。しかし、それは外部からの予期せぬ妨害によるものであり、プロジェクト自体の価値や実現可能性が揺らいだわけではありません。この技術は、必ずや我が社の、そして日本の製造業の未来に貢献します。どうか、もう一度、チャンスをいただけないでしょうか」
次に、新田が立ち上がり、技術的な詳細と、現場の努力について補足した。彼は、メンバーたちが置かれた過酷な状況と、それでも諦めずに続けてきた創意工夫について、訥々と、しかし真摯に語った。
だが、彼らの必死の訴えは、冷たい壁に跳ね返されるだけだった。
「しかし篠田君、君の報告を聞いても、やはり当初の計画からの遅延は著しく、リスク管理体制にも大きな問題があったと言わざるを得ない」委員長であるB派閥の筆頭役員が、冷ややかに言った。「予算超過の懸念も払拭されていない」
「それに、提示されたデータも、楽観的な予測に基づいている部分が多いのではないかね? もっと現実的なシミュレーション結果はないのかね?」別の委員が、意地の悪い笑みを浮かべて追及する。
彼らは、篠田たちが提示した成果やデータを意図的に過小評価し、リスクや問題点ばかりを針小棒大に指摘した。用意された、都合の良いデータや、匿名の「専門家」の意見なるものを持ち出し、プロジェクトの継続がいかに無謀であるかを強調した。それは、公正な評価とは名ばかりの、糾弾の場だった。
篠田は、一つ一つの指摘に冷静に反論しようとしたが、多勢に無勢。しかも、相手は最初から結論を決めている。新田は、あまりの理不尽さに、怒りで体が震えるのを抑えるのが精一杯だった。
議論(という名の一方的な糾弾)は、予定された時間を大幅に超えて続いた。そして、ついに委員長が、最終的な結論を告げるべく、重々しく口を開いた。
「…えー、長時間にわたる慎重なる審議の結果、誠に遺憾ながら、本委員会としては、スマートファクトリープロジェクトは、現状のリスク、コスト、そして将来性を総合的に勘案し、これ以上の継続は困難であり、一旦、プロジェクトを中止することが妥当であると判断せざるを得ません。関係者の皆さんのこれまでの努力には敬意を表しますが、これもまた、会社全体の未来を見据えた上での、苦渋の経営判断であります…」
その言葉が、まるでスローモーションのように、会議室の重い空気に響き渡った。
中止――。
篠田は、固く目を閉じた。肩が、小さく震えている。新田は、顔面蒼白となり、握りしめた拳が白くなっていた。高橋は、天を仰ぎ、深い、深い溜息をついた。木村は、俯いたまま、静かに涙を流していた。
一年以上にわたる、彼らの努力、情熱、そして夢。その全てが、組織の論理と、権力者の都合によって、今、無慈悲に踏み潰されようとしていた。会議室は、息苦しいほどの絶望的な沈黙に支配された。もう、誰も何も言うことはできなかった。技術者たちの誇りも、未来への希望も、全てが潰え去ったかのように思われた。