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番外編:鉄の女の取扱説明書


俺、高橋健一は、この業界でそこそこ長く飯を食っている中堅プログラマーだ。若い頃はそれなりに無茶もしたが、今じゃ多少の修羅場にも動じない、そこそこの安定感と、若いやつらからは煙たがられる程度の口の悪さを身につけた、しがないサラリーマンってところだ。


そんな俺が、ここ数年で一番「手強い」と感じている相手がいる。プロジェクトマネージャーの篠田玲子、その人だ。


社内では「鉄の女」なんて陰口を叩かれているが、まぁ、あながち間違いじゃない。冷静沈着、頭脳明晰、判断は常に的確で、自分にも他人にも厳しい。特に、あの地獄絵図と化した「プロジェクト・フェニックス」では、彼女の存在がなければ、あの若造の新田だけじゃなく、俺たちベテラン勢だって潰れていたかもしれねぇ。その手腕と責任感の強さは、正直、認めざるを得ない。


だが、同時に、なんつーか、人間味ってもんが感じられねぇ、と思っていた。常に完璧で、隙がない。感情を表に出すことも滅多にねぇし、冗談の一つも通じそうにない。まさに、氷の鎧を纏ったキャリアウーマン。正直言って、苦手なタイプだ。仕事以外では、絶対に関わりたくねぇ。俺はずっと、そう思っていた。…そう、あの「事件」を目撃するまでは。


あれは、確か梅雨時の、嫌な雨が降り続く日の夕方だった。その日は珍しく定時で上がれて、駅に向かって歩いていたんだ。折り畳み傘を差しても、足元がじっとりと濡れるような、鬱陶しい天気だった。


ふと、前方を歩く見慣れた後ろ姿に気づいた。すらりとした長身に、きっちりと着こなしたスーツ。篠田さんだ。彼女も定時で上がるとは珍しいな、なんて思いながら、特に声をかけるでもなく、少し距離を置いて歩いていた。


その時だ。彼女が持っていた、やけに分厚いファイルケースが、つるりと手から滑り落ちた。バサッ!と鈍い音を立てて、ケースは歩道の水たまりに見事にダイブ。中から大量の書類が、無残にも雨水の中に散らばった。


「あっ…!!」


普段の冷静沈着な彼女からは想像もつかない、素っ頓狂な声が上がった。俺は思わず足を止めた。篠田さんは、一瞬呆然と立ち尽くした後、顔を真っ赤にして、慌てふためき始めた。


「ど、どうしよう…! ああもうっ!」


傘も放り出し、びしょ濡れになるのも構わず、水たまりの中に散らばった書類をかき集めようとしている。しかし、焦れば焦るほど手元は狂い、書類はさらに水を吸ってふやけていく。その姿は、いつもの「鉄の女」とは似ても似つかない、ただのドジで不器用な一人の女性だった。


(…マジかよ…あの篠田さんが…?)


俺は、正直、面食らった。そして、同時に、不謹慎ながら少しだけ面白く感じてしまった。あの完璧な鎧の下にも、こんな人間臭い一面があったのか、と。声をかけて手伝うべきか一瞬迷ったが、彼女の性格を考えると、弱みを見られたと知ったら、後でどんな仕打ちを受けるか分かったもんじゃない。俺は、気づかないふりをして、そそくさとその場を通り過ぎた。


だが、あの時の、雨の中で慌てふためく篠田さんの姿は、妙に俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。


それから数週間後、今度は休日に、その「人間臭さ」を再び目撃することになった。俺は、近所の大型スーパーに、週末の食料を買い出しに来ていた。カートを押しながら、缶ビールやら冷凍食品やらを放り込んでいると、ふと、見慣れた人影が目に入った。


(…ん? あれもしかして…)


やや離れた冷凍食品コーナーで、熱心に商品を選んでいる女性。カジュアルな服装だが、その立ち姿と雰囲気は、間違いなく篠田さんだった。こんなところで会うなんて、珍しいこともあるもんだ。彼女も、俺と同じで、この辺に住んでるのか?


興味本位で、少し離れた場所から彼女のカートの中を観察してみた。すると、俺はまたしても目を疑った。カートの中には、色とりどりの冷凍パスタ、レトルトカレー、カップ麺、そして大量のカット野菜や惣菜パック。およそ、「料理が得意な女性」の買い物とは思えないラインナップだった。


(…あの人、もしかして、飯、作れねえのか…?)


いや、忙しいキャリアウーマンなんだから、自炊しないこと自体は別に不思議じゃねぇ。だが、あの完璧主義の篠田さんが、食生活に関してはこんなにもズボラ(失礼!)だとは。またしても、俺の中の「篠田玲子像」が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。


さらに驚いたのは、スーパーを出て、彼女が帰り道を歩いている時だった。買い物袋から、長ネギが一本、するりと滑り落ちたのだ。しかし、彼女は全く気づく様子もなく、そのまま颯爽と(?)歩き去っていく。俺は、慌ててネギを拾い上げ、「あのー!」と声をかけようとしたが、彼女はイヤホンで音楽でも聴いているのか、全く気づかずに角を曲がって消えてしまった。


手元に残された、一本の長ネギ。俺は、それを手に持ったまま、しばし呆然と立ち尽くした。


(…マジかよ…どこまでドジなんだ、あの人…)


鉄の女。氷の鎧。冷静沈着。完璧主義。そんな言葉で形容されていた篠田玲子の、立て続けに目撃した、ドジで、不器用で、生活能力に疑問符がつく(?)私生活。そのギャップは、あまりにも衝撃的だった。


最初は、驚きと、正直なところ少しの面白さだった。だが、それ以来、俺は無意識のうちに、オフィスで篠田さんの姿を目で追うようになっていた。仕事中の、あの厳しく、一切の妥協を許さない表情を見るたびに、雨の中で書類をぶちまけた姿や、ネギを落として気づかずに歩いていく姿がフラッシュバックするようになった。


そう思うと、不思議なもんだ。あれだけ苦手意識を持っていたはずなのに、彼女の完璧じゃない部分を知ってしまったら、なんだか、その厳しさや冷徹さも、不器用な彼女が必死に纏っている「鎧」のように思えてきた。そう考えると、以前ほど、彼女に対して壁を感じなくなっている自分がいた。むしろ、「この人、大丈夫か…?」と、余計な心配をしてしまう始末だ。


そして、俺の篠田さんに対する認識を決定的に変える出来事が、さらに起こった。


あれは、残業で終電間際になった、台風が近づく嵐の夜だった。叩きつけるような雨と風の中、俺はようやく会社を出て、駅へと急いでいた。途中、普段はあまり通らない、小さな公園の脇を通りかかった時、公園の東屋の暗がりに、人影があるのに気づいた。


(こんな時間に、誰だ…?)


気になって近づいてみると、そこにいたのは、びしょ濡れになった篠田さんだった。彼女は、スーツも髪も雨でぐっしょりと濡れ、傘も差さずに、小さな段ボール箱を抱きしめるようにして屈み込んでいた。段ボール箱の中からは、か細い子猫の鳴き声が聞こえてくる。どうやら、捨て猫を拾ったらしい。


「…大丈夫よ…大丈夫だからね…寒くない? ごめんね、こんな雨なのにね…」


篠田さんは、子猫に必死に話しかけながら、自分のジャケットで箱を覆い、少しでも雨風から守ろうとしていた。その声は、いつものような張りのあるものではなく、震えていて、とても弱々しく聞こえた。その姿は、オフィスで見せる「鉄の女」とは全く結びつかない、ただただ優しくて、脆くて、そして必死な一人の女性の姿だった。


俺は、声をかけることもできず、ただ物陰からその光景を見つめていた。普段、あれだけ厳しく、合理的に物事を進める彼女が、何の得にもならない、むしろ厄介ごとでしかない捨て猫のために、嵐の中でずぶ濡れになっている。その姿に、俺は心を強く揺さぶられた。


(…この人も、ちゃんと、血の通った人間なんだな…)


そして、同時に、強い衝動に駆られた。放っておけない、と。あの冷たい鎧の下にある、不器用な優しさや、見せないようにしている脆さを、守ってやりたい、と。柄にもなく、そんなことを思ったのだ。


結局、その夜は、俺が声をかける前に、彼女はタクシーを拾って去っていった。俺は、ただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


翌日、オフィスで会った篠田さんは、いつものように完璧なスーツ姿で、涼しい顔をして仕事をしていた。しかし、俺には分かった。目の下に、うっすらと隈が残っていること。そして、時折見せる表情の中に、隠しきれない疲労の色が滲んでいることを。


(…昨日の猫、どうしたんだろうな…)


気にはなったが、俺が昨夜のことを知っていると感づかれるわけにはいかない。俺は、さりげなく自分のデスクにあった未開封の栄養ドリンクを手に取り、彼女のデスクに向かった。


「篠田さん、お疲れ様です。これ、よかったらどうぞ。なんか、顔色悪いみたいですけど、無理しないでくださいよ」


篠田さんは、一瞬驚いたような顔をして俺を見たが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、「…ありがとう、高橋さん。いただくわ」と、素直に受け取った。ほんの一瞬だったが、彼女の表情が少しだけ和らいだように見えたのは、気のせいだろうか。


それからというもの、俺は、篠田さんに対して、以前とは少し違う接し方をするようになった。もちろん、仕事のやり取りでは、相変わらず厳しい要求もされるし、俺も言うべきことは言う。だが、以前のような刺々しさは、俺の中から消えていた。彼女が少しでも疲れているように見えれば、「大丈夫ですか?」と声をかけたり、重そうな荷物を持っていれば、「持ちますよ」と手を貸したり。あくまで、気づかれない程度に、さりげなく。


篠田さんも、そんな俺の変化に、何かを感じ取っていたのかもしれない。最初は戸惑っているようだったが、次第に、俺に対する態度も少しずつ軟化してきたように思えた。以前ならピシャリと撥ねつけられたであろう提案にも、耳を傾けてくれるようになったし、時には、仕事以外の雑談に、ふっと笑顔を見せることさえあった。


彼女もまた、俺の(理由は分からないまでも)変化や、時折見せる不器用な気遣いの中に、何かを感じ取ってくれていたのだろうか。俺が持つ、良くも悪くも裏表のない性格や、長年の経験からくる(と自分では思っている)安定感みたいなものに、少しは頼もしさを感じてくれていたとしたら、嬉しいが。


そんな微妙な関係性が続いていたある日、再び「猫騒動」が勃発した。


その日、俺がハードウェア設計部に打ち合わせに行った帰り、偶然、篠田さんのデスクの近くを通りかかった。すると、彼女が電話で誰かと、ひどく困惑した様子で話しているのが聞こえてきたのだ。


「…ええ、そうなんです、三匹も…いえ、私のアパート、ペット禁止でして…ええ、でも、このままじゃ…はい…すみません、ありがとうございます…」


電話を切った篠田さんは、深いため息をつき、頭を抱えていた。その様子は、明らかに尋常ではなかった。


(…まさか、またか?)


嫌な予感がした俺は、思わず声をかけていた。「篠田さん、どうかしたんですか? さっきの電話…」


篠田さんは、びくりとして顔を上げた。そして、観念したように、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。会社の近くの路地に、子猫が三匹も捨てられていたこと。雨が降っていたこともあり、どうしても放っておけず、とりあえず保護して段ボールに入れ、自分のデスクの下に隠していること。しかし、自分のアパートはペット禁止で、連れて帰ることもできず、かといって、このまま会社に置いておくわけにもいかず、途方に暮れていること…。


「…本当に、馬鹿なことしてるって分かってるんです。でも、見捨てられなくて…」篠田さんは、俯きながら、消え入りそうな声で言った。いつもの彼女からは考えられない、弱々しい姿だった。


デスクの下を見ると、小さな段ボール箱の中で、三匹の子猫が不安そうに身を寄せ合って鳴いていた。


(…やれやれ、この人は…)


俺は、呆れを通り越して、なんだかもう、愛おしさすら感じていた。完璧なキャリアウーマンの仮面の下の、どうしようもなくお人好しで、不器用な素顔。


「…仕方ねえな」俺は、ため息をつきながら言った。「俺も手伝いますよ。里親、探しましょう」


「えっ? で、でも、高橋さんにまで迷惑かけるわけには…」


「迷惑なんて思ってませんよ。それに、このままじゃ、どうしようもないでしょう?」俺は、ニヤリと笑ってみせた。「こういうのは、人手が多い方がいい。それに、俺、意外と顔が広いんでね。なんとかなるかもしれねぇ」


半ば強引に、俺は里親探しに協力することになった。まずは、子猫たちの写真を撮って、知り合いの獣医に連絡を取り、健康状態をチェックしてもらう手配をした。幸い、三匹とも衰弱はしているものの、大きな病気はなさそうだった。


次に、SNSや地域の動物保護団体の掲示板などに、里親募集の情報を掲載した。篠田さんと二人で、子猫たちの特徴や性格(まだよく分からないが)を書いた紹介文を考え、可愛い写真を添付する。その共同作業は、なんだか不思議な連帯感を生んだ。


「この子、一番やんちゃそうですね」「この子は、ちょっと臆病かな?」


普段の仕事では見せないような、柔らかな表情で子猫を見つめる篠田さん。その横顔を見ていると、俺の心臓が、柄にもなくドキドキしていることに気づいた。


数日間、俺たちは仕事の合間を縫って、里親希望者からの問い合わせに対応し、面談の日程を調整した。篠田さんは、相手の家族構成や飼育環境などを、いつもの仕事と同じように、きっちりと、しかし愛情を持ってヒアリングしていた。


そして、幸運なことに、比較的早く、三匹それぞれに、温かく迎えてくれそうな里親候補が見つかったのだ。


最後の一匹を、里親さんの元へ届ける日がやってきた。日曜日の午後。俺の車に、キャリーケースに入れられた子猫と、篠田さんを乗せて、隣町の里親さんの家へと向かった。


車中、助手席の篠田さんは、少し寂しそうにキャリーケースの中の子猫を見つめていた。


「…なんだか、あっという間でしたね」


「そうですね。でも、いい家族が見つかって、本当によかったですよ」


「…はい。高橋さんのおかげです。本当に、ありがとうございました」篠田さんは、俺の方を向いて、深々と頭を下げた。


「いやいや、俺は別に…篠田さんが拾わなきゃ、この子たち、どうなってたか分かりませんから」


里親さんのお宅は、日当たりの良い、温かい雰囲気の家だった。優しいご夫婦が、子猫を笑顔で迎えてくれた。篠田さんは、名残惜しそうに子猫を撫でた後、「この子を、よろしくお願いします」と、再び深々と頭を下げた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


無事に子猫を預け、里親さんのお宅を後にする。帰り道、夕暮れの空が茜色に染まっていた。車の中には、安堵感と、少しの寂しさが漂っていた。


「…よかったな、あの子」俺が言うと、篠田さんは、窓の外を見ながら、小さく頷いた。


「はい…本当に…」そして、ふっと息をつくと、俺に向き直って言った。「高橋さん」


「はい?」


「あの…なんで、そんなに親切にしてくれるんですか? 私、高橋さんには、いつも仕事で厳しいことばかり言ってるのに…」


その問いに、俺は少し言葉に詰まった。まさか、「あなたのドジなところとか、猫を拾っちゃうようなお人好しなところとか、そういうギャップにやられちまったんですよ」なんて、言えるわけがない。


俺は、少し照れ隠しに、ぶっきらぼうな口調で答えた。


「…別に、深い意味はねぇですよ。ただ、困ってる奴がいたら、手を貸す。それだけです。それに…」俺は、ちらりと彼女の横顔を見た。「篠田さんの、ああいう…なんていうか、まっすぐなところは、嫌いじゃねぇですから」


俺の言葉に、篠田さんは驚いたように目を丸くし、そして、次の瞬間、ふわりと花が咲くように微笑んだ。それは、俺が今まで見た中で、一番綺麗で、一番人間らしい笑顔だった。


「…ありがとうございます、高橋さん」


その笑顔を見て、俺は確信した。この人のことを、俺はもう、単なる「手強いPM」だとか「苦手なタイプ」だとか、そんなふうには見られないだろう、と。完璧な鎧の下にある、不器用で、優しくて、脆くて、そしてどうしようもなく魅力的な素顔。それを知ってしまった以上、もう放っておくことなんてできそうにない。


恋愛だのなんだの、そういう具体的な形になるかは分からない。だが、俺と篠田さんの間には、あの炎上案件や、今回の猫騒動を通して、仕事上の関係だけではない、何か特別な絆のようなものが、確かに生まれていた。


夕暮れの道を走りながら、俺は、隣で静かに微笑む彼女の横顔を盗み見た。この「鉄の女」の、俺だけが知っているかもしれない「取扱説明書」のページを、これから少しずつ、読み解いていくのも悪くないかもしれないな、と。そんなことを考えている自分に気づき、俺は一人、苦笑いを浮かべた。

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