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番外編2:鈍感な回路に流れる熱

あの新型検査装置の制御基板トラブルが解決してから、一ヶ月ほどが過ぎた。ハードウェア設計部の木村咲は、すっかり以前の明るさを取り戻し、再びフロアの太陽のような存在として輝いていた。深刻なトラブルを乗り越えた自信も加わり、以前にも増して仕事に精力的に取り組み、周囲からの信頼も厚くなっている。


ただ一つ、以前と明らかに違うことがあった。それは、第二開発部の若手プログラマー、新田誠に対する彼女の視線だ。


トラブル解決の立役者である新田への感謝の気持ちは、もちろん大きい。だが、木村の心の中には、それだけではない、もっと熱く、個人的な感情がはっきりと芽生えていた。あの苦しい日々を共に戦い、支えてくれた彼の真剣な眼差し、不器用な優しさ、そして技術者としての確かな能力。その全てが、彼女の心を強く捉えて離さないのだ。


「よし、まずは、あのお礼のご飯からだ!」


木村は行動的な性格だ。自分の気持ちを自覚した以上、じっとしているつもりはなかった。早速、約束していた「お礼のご飯」に新田を誘い出した。


「この間は、本当にありがとうね! 新田君がいなかったら、マジでどうなってたか…」


金曜日の夜、駅近くのお洒落なダイニングバー。カウンター席に隣り合って座り、木村は改めて新田に感謝の言葉を述べた。


「いえ、俺の方こそ、色々勉強になりましたし。それに、木村さんがあそこまで粘ったから解決できたんですよ」新田は少し照れたように笑った。


「そんなことないって! あ、そうだ、これ、お礼の品!」木村は、紙袋から小さな箱を取り出した。「新田君、パズルゲームが好きだって言ってたでしょ? これ、最近出た立体のやつ。結構難しいらしいよ」


「えっ! わざわざすみません! ありがとうございます!」新田は驚きながらも、嬉しそうに箱を受け取った。彼の趣味を覚えていてくれたこと、そしてプレゼントまで用意してくれたことに、純粋に感激していた。


「気にしないで! それより、今度そのパズル、私にも教えてくれない? 頭使うの、結構好きなんだけど、難しそうでさ」木村は、すかさず次の約束を取り付けようとする。


「え、俺が教えるなんて…でも、いいですよ、もしよかったら」


「やった! じゃあ、今度の日曜とかどう? あ、ダメかな?」


「日曜日…はい、大丈夫です」


とんとん拍子で次の約束まで決まり、木村は内心ガッツポーズを取った。食事中も、彼女は積極的に新田に話しかけた。仕事の話だけでなく、学生時代の話、家族の話、そして、さりげなく新田の恋愛観を探るような質問も織り交ぜて。


「新田君ってさ、しっかりしてるようで、たまに抜けてるとこあるよね。そういうとこ、なんか放っておけないっていうか、可愛いなって思う」


「そ、そうですか…?」また「可愛い」と言われ、新田は戸惑う。


木村は、新田の良いところを具体的に褒め、好意を持っていることを、それとなく、しかし確実に伝えようと試みた。新田も、木村との会話は楽しく、彼女の明るい笑顔や気遣いに心地よさを感じていた。


しかし。


(木村さん、やっぱりいい人だなあ。あんなに大変だったのに、俺にまで気を遣ってくれて…プレゼントまで用意してくれるなんて。本当に、ただただ感謝しかない)


新田の思考は、残念ながらそこまでだった。木村からの積極的なアプローチは、すべて「親切な同僚からの、トラブル解決への感謝の印」として処理されてしまったのだ。彼にとって木村咲は、容姿端麗で、性格も明るく、社内でも人気のある「高嶺の花」。そんな彼女が、地味で恋愛経験も乏しい自分に、特別な好意を寄せるなど、想像の範囲外だったのだ。「まさか、そんなはずがない」という思い込みが、彼の思考回路に強力なフィルターをかけていた。


その後の日々も、木村のアプローチは続いた。


毎日のようにランチに誘い(「社食のメニュー、飽きちゃったんだよねー」)、仕事の技術的な相談を口実に新田のデスクを訪れ(「このマイコンの仕様、新田君の方が詳しいかなって」)、帰り際には「タイミング合うなら、駅まで一緒に帰らない?」と声をかける。そのたびに、新田は人の好い笑顔で応じ、親切に対応するのだが、木村が期待するような反応は一向に見られない。


「ねぇ、新田君、この間のパズル、すごく面白かった! また別のやつもやってみたいな。今度、一緒に買いに行かない?」


「え、わざわざいいですよ! 俺、自分で買ってきますから」


(ちがーう! そうじゃないんだってば!)木村は心の中で叫んだ。どうしてこの男は、こうも鈍いのだろうか。いや、鈍いというより、自分に対して「恋愛」という選択肢が完全に欠落しているように見える。


ある日、新田が他の部署の若い女性社員と楽しそうに話しているのを見かけた木村は、胸がチクリと痛むのを感じた。


(…別に、やきもちとかじゃないけど…なんか、モヤモヤする…)


明らかに、やきもちだった。木村は自分の独占欲に気づき、少し自己嫌悪に陥った。同時に、新田の鈍感さに対する苛立ちも募っていく。


(もう! こうなったら、もっと分かりやすくするしかない!)


しかし、木村がいくらアプローチのギアを上げても、新田の分厚いフィルターはびくともしない。まるで、高性能なノイズキャンセリング機能が搭載されているかのようだった。


そんな二人の(というか、木村の一方通行な)状況を、一人の男が面白そうに、そしてどこか温かい目で見守っていた。第二開発部の頼れる先輩、高橋健一だ。


高橋は、人を見る目に長けている。木村が新田に向ける視線が、単なる同僚へのそれではないこと、そして新田がその熱視線に全く気づいていない朴念仁であることに、とっくの昔に気づいていた。


(やれやれ、あの二人…見てるこっちがじれったくなるぜ)


高橋は、面倒見の良い性格だ。そして、人生経験もそれなりに積んできている。若者の不器用な恋模様を眺めているのは嫌いではなかったが、このままでは木村が可哀想だ、とも思った。それに、あの炎上案件で苦楽を共にした新田と木村が結ばれるなら、それはそれで悪くない、とも考えていた。


(いっちょ、俺が一肌脱いでやるか…ただし、あくまでさりげなく、な)


高橋の「渋くてカッコいいアシスト作戦」が、静かに始動した。


まず、新田に対して、ジャブを打ってみることにした。


ある日の休憩中、給湯室でコーヒーを淹れている新田に、高橋は声をかけた。「よぉ、新田。お前、最近なんかいいことあったか?」


「え? 別に、何もありませんけど…どうしてですか?」


「いやぁ? なんか、雰囲気変わったかな、と思ってな。それに、最近、ハードの木村さんが、やけにお前のこと気にかけてるじゃねえか。しょっちゅうデスクに来てるだろ?」


「あ、はい。木村さんには、この間のプロジェクトで色々お世話になったので…そのお礼だって」


「へぇ、お礼ねぇ」高橋は、意味ありげにニヤリと笑った。「律儀な人だな、木村さんも。でも、あんな美人が、わざわざお前のために時間使ってくれるなんて、お前も隅に置けねえな。モテる男は違うねぇ」


「も、モテませんよ! やめてくださいよ、高橋さん!」新田は慌てて否定した。しかし、高橋の言葉は、彼の心に小さな波紋を投げかけた。「木村さんが、俺のことを気にかけてる…?」まさか、とは思う。でも、高橋さんが言うくらいだから、他の人から見てもそう見えるのだろうか。


次に、高橋は木村にも、そっと助け舟を出した。


木村が、たまたま高橋に仕事の相談で話しかけてきた時、彼は雑談めかして言った。


「そういや木村さん、最近、新田の奴と仲いいみたいだな」


「えっ!? そ、そうですか?」木村はドキリとした。


「まぁ、見てりゃ分かるさ。でもな、木村さん」高橋は、少し声を潜めて続けた。「新田の奴は、ああ見えて超がつくほどの鈍感だからな。普通のやり方じゃ、百年経っても伝わらんぞ」


「やっぱり、そう思います…?」木村は、思わず本音を漏らした。


「ああ。それに、あいつは自己評価が低いとこがあるからな。『木村さんみたいな綺麗な人が、俺なんかを好きになるはずがない』くらいに思ってるかもしれん」


「えーっ!?」木村は驚きの声を上げた。まさか、そこまで卑屈になっているとは。「じゃあ、どうしたら…」


「ふっ」高橋は、渋い笑みを浮かべた。「もっと分かりやすく、ストレートに行くしかねえだろうな。あとは、そうだな…あいつ、意外と褒められると弱いぞ。特に、技術的なこととかな。まぁ、頑張ってみな」高橋は、ポンと木村の肩を軽く叩いて、自分の席に戻っていった。


(ストレートに…褒める…か)木村は、高橋のアドバイスを反芻した。鈍感で自己肯定感の低い新田には、遠回しなアプローチは逆効果なのかもしれない。


そして、高橋のアシストは、言葉だけでは終わらなかった。彼は、二人が自然に(?)接近するシチュエーションを作り出すことにも長けていた。


月末の金曜日、部署合同の飲み会が開催された。若手からベテランまで、多くの社員が参加し、居酒屋は賑わっていた。席決めの際、高橋はさりげなく幹事に耳打ちし、新田と木村が隣同士の席になるように誘導したのだ。


「あ、新田君! こっちこっち!」木村は、隣の席が新田だと知ると、嬉しそうに手招きした。


「あ、はい…」新田は、偶然(もちろん偶然ではない)隣になったことに、少し緊張しながら席に着いた。


飲み会が始まると、木村はここぞとばかりに新田に話しかけた。「新田君、この間のパズルの話だけどさ…」「そういえば、新しいPLCの技術セミナー、行くの?」アルコールも手伝ってか、いつも以上に積極的だ。周囲の喧騒にかき消されるように、時折、新田の耳元に顔を寄せて話す。そのたびに、シャンプーのいい香りがして、新田の心臓は早鐘を打った。


(近い…! 木村さん、近いって…!)


新田は、隣の美人にドキドキしっぱなしだったが、それでもまだ、「飲み会の席だから、ちょっと開放的になってるだけだろう」と、自分に言い聞かせていた。


高橋は、少し離れた席から、そんな二人を満足げに眺めていた。(よしよし、いい雰囲気じゃねえか。あとは、新田、お前が気づくだけだぞ)


転機が訪れたのは、飲み会から数日後のことだった。新田は、担当していたプロジェクトで、小さな、しかし納期に影響しかねないミスを犯してしまった。幸い、すぐにリカバリーできたものの、彼は自分の詰めの甘さに落ち込み、デスクで頭を抱えていた。


「新田君、大丈夫?」


誰よりも早く、その異変に気づいて声をかけてきたのは、木村だった。彼女は、新田のデスクの隣に屈み込み、心配そうな顔で覗き込んできた。


「木村さん…すみません、ちょっと、ミスしちゃって…」


「聞いたよ。でも、ちゃんとリカバリーできたんでしょ? 誰にだってミスはあるって。新田君はいつも完璧にやろうとしすぎなんだよ。もっと周りを頼ってもいいんだよ?」


「でも…」


「それにね」木村は、新田の目をまっすぐに見つめて言った。「私は、新田君のそういう真面目すぎるところも、すごいと思うけどな。失敗しても、ちゃんと原因分析して次に活かそうとするでしょ? そういう姿勢、技術者として、すごく尊敬してる」


その言葉は、落ち込んでいた新田の心に、温かく染み渡った。ただの慰めではない、自分の仕事ぶりをちゃんと見て、評価してくれている。そして、その真剣な眼差し。彼女は、本当に自分のことを心配し、励まそうとしてくれている。それは、単なる同僚としての親切だけではないような気がした。


(もしかして…木村さん、本当に…俺のことを…?)


新田の中で、「まさか」というフィルターに、初めて亀裂が入った瞬間だった。


そして、その亀裂を決定的なものにしたのは、やはり高橋健一、その人だった。


翌日、高橋は、まだ少し元気のない新田を捕まえて、こう言った。


「おい新田、いつまで鈍感なフリしてるんだ?」


「え? 何のことですか?」


「とぼけるなよ。木村さんのことだよ」高橋は、真顔で新田を見据えた。「あんな分かりやすいアプローチされて、気づかない方がどうかしてるぜ。いい加減、ちゃんと気づいてやれよ。あんな美人が、お前のために必死になって、心配して、励ましてくれてるんだぞ。お前が落ち込んでたら、自分のことみたいに心配して飛んでくる。それが、ただの同僚への親切に見えるか?」


高橋の言葉は、一つ一つが重く、新田の胸に突き刺さった。そうだ、言われてみれば、木村の態度は、ただの親切にしては、あまりにも熱心で、個人的すぎた。ランチの誘い、プレゼント、飲み会での距離感、そして昨日の励ましの言葉と真剣な眼差し…。それらが全て、一つの線で繋がった。


「木村さんが…俺を…?」


「ああ、そうだ」高橋は、フッと息を吐いた。「ま、あとは自分で考えろ。チャンスを無駄にするなよ」そう言い残し、高橋は去っていった。その背中は、やはり渋くてカッコよかった。


新田は、呆然とその場に立ち尽くしていた。木村さんが、俺を好き…? 信じられない気持ちと、同時に、込み上げてくる熱い感情。そうだ、自分だって、いつの間にか木村さんのことを、ただの同僚として見てはいなかった。彼女の明るさ、強さ、そして優しさに惹かれていた。彼女がそばにいると嬉しくて、他の男と話していると、少しだけ面白くないと感じていた。それは、紛れもなく…。


新田は、自分の気持ちをはっきりと自覚した。そして、木村の気持ちに、今すぐ応えたいと思った。


その日の夕方、新田は意を決して、帰り支度をしていた木村を呼び止めた。


「木村さん、あの…少し、話があります。外で待っててもらえませんか?」


木村は、驚いたような、そして少し期待するような表情で頷いた。


会社のビルを出て、駅へと向かう道。以前、木村から告白された(と新田は後から気づいた)時と同じ帰り道だ。今回は、新田の方から、少し離れた公園に木村を誘った。街灯がぽつぽつと灯り始め、人通りもまばらな公園のベンチに、二人は並んで座った。


「あの、木村さん」新田は、緊張で震える声で切り出した。「俺、今まで、全然気づかなくて…本当に、すみませんでした」


「え…? 何のこと?」木村は、戸惑ったように聞き返す。


「木村さんが…俺に、好意を持ってくれてるってこと…です。高橋さんに言われて…それに、これまでのこと、色々と思い返して…やっと、気づきました」新田は、顔を真っ赤にしながら、正直に話した。「俺、木村さんみたいな綺麗な人が、俺なんかを好きになってくれるなんて、ありえないって、勝手に思い込んでて…」


木村は、驚きで目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。「…そっか。やっと気づいてくれたんだ。…うん、そうだよ。私、新田君のこと、好き」


その言葉に、新田の心臓が大きく跳ねた。


「俺も…」新田は、勇気を振り絞って続けた。「俺も、木村さんのことが好きです。一緒にいると楽しくて、明るくて、尊敬できて…気づいたら、目で追ってました。もし…もしよかったら、俺と、付き合ってください」


言い終わると同時に、木村の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「…嬉しい…! よかったぁ…!」木村は、涙を拭いながら、満面の笑みを浮かべた。「私の方こそ、お願いします!」


安堵と喜びで、胸がいっぱいになる。新田は、そっと木村の肩を引き寄せた。木村も、自然に新田に寄り添う。街灯の柔らかな光が、二人を照らしていた。


どちらからともなく、顔が近づいていく。新田は、木村の潤んだ瞳を見つめ、そして、ゆっくりと唇を重ねた。初めてのキスは、少しぎこちなかったけれど、とても温かくて、甘かった。鈍感な回路に、ようやく流れ始めた熱いシグナルが、二人の心を確かに結びつけた瞬間だった。

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