番外編:制御不能なシグナル
あの「プロジェクト・フェニックス」という名の巨大な炎が鎮火されてから数ヶ月。かつて不夜城と化していた第二開発部、そして隣接するハードウェア設計部のフロアには、嘘のような平穏が訪れていた。納期に追われる悲鳴も、深夜まで煌々と灯るオフィスも、今はもう過去の光景だ。社員たちは、溜まっていた有給休暇を消化したり、定時で帰ってプライベートを楽しんだり、それぞれの日常を取り戻していた。
新田誠もまた、その日常を享受する一人だった。あの過酷な経験は彼を大きく成長させ、今では若手ながらも周囲から一目置かれる存在となっていた。担当するプロジェクトも増え、忙しい日々ではあったが、以前のような絶望的なプレッシャーからは解放され、充実感を持って仕事に取り組んでいた。時折、隣の部署にいる木村咲の姿を見かけると、あの炎上案件での共闘の日々を思い出し、軽い会釈を交わす。彼女の変わらない明るい笑顔を見ると、なんだかホッとする自分がいた。彼女は、あの困難な時期を共に戦い抜いた、信頼できる「戦友」だった。
しかし、その「戦友」の様子が、ここ最近どうもおかしいことに新田は気づき始めていた。
木村咲。ハードウェア設計部に所属する、太陽のように明るくサバサバした性格の持ち主。技術者としての腕も確かで、特にあの炎上案件では、彼女の迅速かつ的確なハードウェア側のサポートがなければ、プロジェクトの成功はあり得なかっただろう。いつも元気で、周りをぱっと明るくするような彼女が、ここ一週間ほど、明らかに精彩を欠いているのだ。
笑顔が少なくなり、時折、デスクで深いため息をついている。目の下にはうっすらと隈ができ、顔色も優れない。以前なら、廊下ですれ違えば「やっほー、新田君!」と元気な声で手を振ってきたのに、最近は俯きがちに通り過ぎることが多い。
最初は、「疲れているのかな」「何かプライベートで悩みでもあるのかな」くらいに思っていた新田だった。しかし、その状態が何日も続き、日に日に憔悴していくように見える木村の姿に、さすがに心配になってきた。
ある日の午後、給湯室で一人、カップにインスタントコーヒーを淹れている木村を見かけた新田は、意を決して声をかけた。
「木村さん、お疲れ様です。あの…最近、なんだか元気ないみたいですけど、どうかしましたか? 何か、俺にできることがあれば…」
新田の言葉に、木村は一瞬びくりと肩を揺らし、作り笑顔を向けた。「あ、新田君。ううん、なんでもないよ! ちょっと寝不足なだけ。心配してくれてありがとう」
「そうですか…? でも、顔色、あまり良くないですよ。無理しないでくださいね」
「うん、大丈夫だって!」木村は努めて明るく振る舞い、コーヒーカップを持って足早に給湯室を出ていった。
(やっぱり、何かあるな…)新田は確信した。あの強がるような笑顔は、明らかに何かを隠している証拠だ。だが、本人が大丈夫と言う以上、これ以上踏み込むわけにもいかない。新田は、もどかしい気持ちを抱えながら、自分のデスクに戻った。
しかし、木村の状況は、新田の懸念通り、さらに悪化していくように見えた。彼女が担当している別のプロジェクト、新型の高速画像検査装置に搭載される制御基板の開発が、深刻なトラブルに見舞われているらしい、という噂が、どこからともなく新田の耳にも入ってきたのだ。試作した基板が、どうしても要求された性能を出せず、原因も特定できないまま、納期だけが刻一刻と迫っているという。
ハードウェア設計部のフロアからは、時折、上司らしき人物の怒声が聞こえてくることもあった。そして、夜遅くまで木村のデスクの明かりだけが点いている日が増えていった。
(木村さん…一人で抱え込んでるんじゃないか…?)
あの炎上案件の時、自分たちがどれだけ多くの人に助けられたか。高橋さん、篠田さん、そして他ならぬ木村さん自身にも。もし彼女が今、あの時の自分たちと同じように苦しんでいるのなら、見て見ぬふりはできない。たとえ部署が違い、専門分野が異なっても、何か力になれることがあるはずだ。
翌日の昼休み、新田はハードウェア設計部の木村のデスクを訪ねた。デスクの上には、基板の図面やデータシートが散乱し、オシロスコープや半田ごてなどの機材も置かれている。木村は、モニターとにらめっこしながら、キーボードを叩いていた。その横顔は、明らかに疲労困憊していた。
「木村さん、ちょっといいですか?」
「…新田君? どうしたの?」木村は驚いたように顔を上げた。
「単刀直入に聞きます。検査装置の基板の件で、困ってるんじゃないですか?」
木村は一瞬、言葉に詰まった。そして、諦めたように深いため息をついた。「…バレてたか。まぁ、隠せる状態でもないか…」
「やっぱり…」
「うん。試作した基板がね、どうしても特定の条件下で動作が不安定になっちゃうんだ。原因が全然分からなくて…。もう、何をやってもダメで…納期も来週末なのに…」木村の声は弱々しく、普段の彼女からは想像もできないほど、自信を失っているように見えた。
「少し、詳しく聞かせてもらえませんか? 俺、PLCのプログラム屋ですけど、基板に載ってるマイコンのファームウェアとか、外部機器とのインターフェース周りなら、少しは分かるかもしれません。もしかしたら、ソフト的な視点から何か気づくことがあるかもしれないですし」
木村は驚いて新田を見た。「でも…これはハードの問題だと思うし、新田君にまで迷惑かけるわけには…それに、自分の担当プロジェクトだし…」
「迷惑だなんて思ってませんよ」新田は、きっぱりと言った。「あのフェニックスの時、俺たちだって、木村さんにどれだけ助けてもらったか。ハード側の問題特定や対策、本当に迅速に対応してくれて、どれだけ心強かったか。今度は、俺が恩返しする番です。それに、ハードだソフトだって言っても、結局は一つのシステムじゃないですか。木村さんが言ってたみたいに」
新田の真剣な眼差しと、以前自分が言った言葉を持ち出されたことに、木村の強がっていた心が、少しだけ解けていくのを感じた。「…新田君…」
「一人で抱え込まないでください。俺で力になれることがあるなら、何でも協力しますから」
木村の目に、うっすらと涙が浮かんだように見えた。彼女は俯き、小さな声で言った。「…ありがとう。もし…もしよかったら、少し、見てもらえるかな…」
その日から、新田と木村の共同戦線が始まった。
定時後、新田は自分の仕事を早めに切り上げると、ハードウェア設計部の木村のデスクに向かった。木村からトラブルの詳細を聞き、関連する資料――回路図、部品リスト、データシート、そして問題が発生した時のログデータ――に目を通していく。
問題の基板は、高速で流れてくる製品の画像を撮影し、その画像データをリアルタイムで処理してNG品を判定するという、高度な処理能力が要求されるものだった。特定の画像パターン、あるいは特定の処理負荷がかかったタイミングで、データ転送に異常が発生し、システム全体が不安定になる、というのが主な症状らしかった。
「ハード的には、考えられる原因は一通りチェックしたつもりなんだよね。電源ノイズ、信号の反射、クロストーク、部品のスペック不足とか…でも、どれも決定的な原因には繋がらなくて…」木村は、疲れ切った声で説明した。
新田は、PLCプログラマーとしての視点を活かし、問題の切り分けを試みた。まず、基板に搭載されているマイクロコントローラーのファームウェア(組み込みソフトウェア)のソースコードを確認させてもらった。C言語で書かれたそのコードは、かなり複雑な割り込み処理やDMA転送を駆使しており、タイミングが非常にシビアな設計になっていることが伺えた。
「このDMA転送の設定、かなりギリギリを攻めてませんか? もしかしたら、他の割り込み処理とタイミングがぶつかって、データが壊れてるとか…」
「うーん、シミュレーション上は問題なかったんだけど…実機だと違うのかな…」
新田は、ソフトウェアデバッガを使ってファームウェアの動作をステップ実行で追ったり、重要な変数やレジスタの値をモニタリングしたりして、ソフトウェア側の問題を徹底的に洗い出そうとした。同時に、木村はオシロスコープを使って基板上の信号波形を観測し、ハードウェア的な異常がないかを探る。
二人の専門知識が、互いを補完し合う形となった。新田がソフトウェアの挙動から怪しい信号ラインを指摘すれば、木村がそのラインの波形を詳細に観測する。木村がハードウェア的な制約を説明すれば、新田がそれを考慮したソフトウェアの修正案を考える。部署や専門分野の壁を越えた、純粋な技術者同士の協力関係が、そこにはあった。
作業は連日深夜に及んだ。人気のない静まり返ったオフィスで、二つのデスクの明かりだけが煌々と灯っている。新田は、煮詰まった木村のためにコーヒーを淹れたり、黙々と作業する彼女の隣で、ひたすらデータシートを読み込んだりした。
「木村さん、少し休憩しませんか? 根を詰めすぎても、かえって効率悪いですよ」
「…うん、そうだね。ありがとう」木村は、差し出されたコーヒーを受け取り、ほっと一息ついた。新田の不器用ながらも優しい気遣いが、張り詰めていた心を和ませてくれる。
苦しい状況の中で、木村の心には、新田に対する特別な感情が、少しずつ、しかし確実に芽生え始めていた。
最初は、ただただ感謝の気持ちだった。一人で抱え込み、絶望しかけていた時に、手を差し伸べてくれたこと。自分の専門外であるにも関わらず、嫌な顔一つせず、親身になって協力してくれること。その優しさと誠実さが、心に染みた。
次に感じたのは、尊敬の念だった。新田の、問題に対する論理的なアプローチ、粘り強く原因を追求する姿勢、そして時折見せる鋭い洞察力。あの炎上案件で感じた彼の成長は、本物だったのだと改めて実感した。技術者として、彼の能力を素直に「すごい」と思った。
そして、いつしか、その感情は、友情や尊敬だけでは説明できないものへと変化していった。
深夜のオフィスで、隣で黙々と作業に集中する新田の真剣な横顔。時折、難しい顔をして唸っているかと思えば、何か閃いたように目を輝かせる瞬間。疲れているはずなのに、「木村さんなら大丈夫ですよ、絶対解決できます」と、根拠はないけれど力強い言葉で励ましてくれる時の、少し照れたような笑顔。
その一つ一つが、木村の心に温かい光を灯し、同時に胸を高鳴らせた。トラブル解決という共通の目標に向かって、二人で力を合わせているこの状況が、苦しいはずなのに、どこか心地よく感じられる。もっと、彼のそばにいたい。もっと、彼のことを知りたい。
これは、恋だ。
木村は、自分の心に芽生えた感情を、はっきりと自覚した。相手は、職場の同僚で、しかも部署も違う年下の男の子。状況を考えれば、戸惑いがないわけではない。でも、このドキドキする気持ち、彼を見るたびに温かくなる心は、嘘ではなかった。
(今は、そんなこと考えてる場合じゃないんだけどな…)木村は、自分の頬が熱くなっているのを感じ、慌てて思考を打ち消した。まずは、このトラブルを解決することが最優先だ。
そして、共同戦線を開始してから三日目の夜。ついに、解決への大きな糸口が見つかった。
きっかけは、新田のふとした疑問だった。「この基板って、特定の外部センサーと接続した時にだけ、不安定になるんですよね? そのセンサーのデータシート、もう一度見せてもらえますか?」
木村は、言われるままにセンサーのデータシートを新田に渡した。新田は、その分厚い英語の資料を、食い入るように読み始めた。そして、数十分後。
「…木村さん、これ…!」新田が、あるページを指差して言った。「このセンサー、データ出力のインターフェース電圧の仕様が、こっちのマイコンの入力許容電圧の推奨範囲を、ほんの僅かですけど、上回ってる可能性があります!」
「えっ!? 嘘…」木村は、慌ててその箇所を確認した。確かに、センサーの出力電圧の最大値が、マイコンの入力電圧の推奨最大値を、0.1Vほど上回っている。絶対最大定格は超えていないため、即座に壊れるわけではないが、不安定な動作を引き起こす可能性は十分にある。完全に設計上の見落としだった。
「どうして今まで気づかなかったんだろう…!」木村は自分のミスに愕然とした。「ごめん、新田君! こんな基本的なこと…!」
「いや、データシートの隅に小さく書いてあるだけですし、気づきにくいですよ。それより、これが原因だとしたら、対策は打てます!」
すぐさま対策が練られた。センサーとマイコンの間に、電圧レベルを変換するICを挿入するか、あるいは、ソフトウェア側で、入力信号の閾値を調整することで、不安定な信号をマスクする方法。時間的な制約を考えると、後者のソフトウェアでの対策が現実的だった。
新田は、猛スピードでファームウェアの修正コードを作成した。木村は、その間にもう一度、ハードウェア側の他の要因がないか、最終チェックを行う。
修正したファームウェアを基板に書き込み、問題のセンサーを接続して、動作テストを開始する。以前なら不安定になっていた条件下でも、システムは安定して動作を続けている。データ転送も正常に行われ、要求された処理速度もクリアしている。
「…動いてる…安定してる!」木村の声が震えた。
「やった…! やりましたね、木村さん!」新田も、安堵と興奮が入り混じった表情で言った。
二人は、顔を見合わせ、そして思わず笑い合った。数日間の苦労が、報われた瞬間だった。深夜の静かなオフィスに、二人の明るい笑い声が響いた。木村は、心の底からの安堵感と、大きな達成感に包まれていた。そして同時に、隣で一緒に喜んでくれている新田への感謝の気持ちと、抑えきれないほどの愛おしさが込み上げてくるのを感じていた。
(新田君が…いなかったら、きっと解決できなかった…)
トラブルは無事に鎮火し、新型検査装置のプロジェクトも、なんとか納期に間に合わせることができた。木村は、上司からの労いの言葉よりも、新田からの「よかったですね!」という笑顔の方が、何倍も嬉しく感じられた。
日常が戻ったオフィス。木村は、以前の明るさを完全に取り戻していた。しかし、彼女の新田を見る目には、以前とは明らかに違う、熱っぽい何かが宿っていた。
その週の金曜日。木村は、少し緊張しながら新田のデスクに向かった。
「新田君、今度の週末って、何か予定ある?」
「え? 週末ですか? 特に大きな予定は…ないですけど」
「あのね、この間の…基板の件のお礼、ちゃんとしたいなって思って。もしよかったら、ご飯でもどうかな? もちろん、私にご馳走させて!」
木村は、満面の笑顔で新田を見つめた。その笑顔の下に隠された、制御不能になりそうな恋のシグナルに、まだ新田は気づいていない。だが、二人の関係が、新たなステージへと動き出す予感は、確かにそこに漂っていた。木村の、情熱的なアプローチが始まるのは、きっと、もうすぐのことだろう。