孤立と共闘
序盤の小さな成功体験で得た微かな希望は、しかし、長くは続かなかった。新田誠が「プロジェクト・フェニックス」の深淵に足を踏み入れるにつれて、その底知れない闇が牙を剥き始めたのだ。佐藤さんが残したスパゲッティコードの迷宮は、表層的なバグを修正しただけではびくともしない、巨大な構造的問題をいくつも内包していた。
特に深刻だったのは、システムの根幹を成す自動搬送ルートの制御ロジックだった。複数の搬送ロボットが効率的に、かつ衝突せずに倉庫内を移動するためのアルゴリズム。新田が解析を進めるうちに、そのロジックには特定の条件下でデッドロック(複数のロボットが互いに道を譲り合い、動けなくなる状態)を引き起こす可能性が潜んでいること、そして、必ずしも最短・最適とは言えない非効率なルートを選択してしまうケースが多発することが判明した。これでは、クライアントが要求する処理能力を満たすことは到底不可能だ。まるで、複雑に絡み合った糸玉の中心に、固く解けない結び目を見つけてしまったような絶望感だった。
「どうしてこんな基本的な部分で…」新田は頭を抱えた。佐藤さんはなぜ、こんな不安定なロジックを組んでしまったのか。あるいは、度重なる仕様変更の末に、継ぎ接ぎだらけになった結果なのか。今となっては確かめようもない。確かなのは、この核心部分を根本的に修正しなければ、プロジェクトの成功はあり得ないということだけだった。
追い打ちをかけるように、別の問題も浮上してきた。特定のエリアに設置された光電センサーからの入力信号が、時折異常な値を示すのだ。これにより、ロボットが荷物の有無を誤認識したり、本来停止すべき場所で停止しなかったりといった、危険な誤作動が発生していた。ログデータを詳細に分析すると、特定の大型モーターが稼働しているタイミングで、センサー信号にノイズが乗っている可能性が高いことが分かった。これは、純粋なプログラムの問題ではなく、ハードウェアとの連携、あるいは設置環境に起因する問題かもしれない。
「ハードの問題か…」新田は溜息をついた。PLCプログラマーの守備範囲はソフトウェアだが、システム全体を動かすためには、ハードウェアとの連携は不可欠だ。そして、ハードウェア担当部署との連携は、往々にして一筋縄ではいかないことを、彼はこれまでの経験で知っていた。「ソフト屋はすぐハードのせいにする」という先入観を持つ技術者は少なくない。
意を決して、新田はハードウェア担当部署に足を運んだ。担当は、木村咲という、明るくサバサバした雰囲気の女性技術者だった。新田は、これまでの経緯とログデータを示しながら、センサーノイズの問題について説明した。
「ふーん、センサーねぇ」木村は腕を組んで、新田の説明を聞いていたが、その表情はやや懐疑的だった。「またソフト側のフィルター処理が甘いとか、そういう話じゃないの? 佐藤さんのプログラム、結構クセがあるって聞いてるし」
やはり、そう来るか。新田は内心でため息をつきながらも、粘り強く説明を続けた。「もちろん、ソフト側での対策も検討しています。ですが、このノイズの乗り方を見る限り、発生源に近いところでの対策も必要だと思うんです。特に、この大型モーターが稼働した直後の波形が顕著で…」新田は、具体的な波形データを示しながら、ノイズの発生パターンとモーター稼働タイミングの相関性を指摘した。
木村は、新田が示した詳細なデータと、その論理的な説明に、次第に真剣な表情になっていった。「…なるほどね。確かに、このタイミングは怪しいかも。ちょっと、こっちでも調べてみるわ。設置状況とか、配線の取り回しとか、見直せる点があるかもしれないし」
「ありがとうございます!助かります」新田は頭を下げた。ひとまず、協力の糸口は掴めたようだ。
しかし、安堵したのも束の間、新たな嵐が吹き荒れた。クライアントの山田浩二との定例報告会だ。新田は、篠田と共に会議室に入った。篠田は事前に、「報告は事実ベースで簡潔に。ただし、解決に向けた具体的なアクションプランも必ず示すこと」と釘を刺していた。
新田は、これまでの進捗、発見された核心部のロジック問題、そしてセンサーノイズの問題について、用意した資料に基づき説明した。そして、それぞれの問題に対する現在のアプローチと今後の計画を述べた。説明を終えると、山田は不機嫌そうな顔で腕を組み、言った。
「ふん、問題、問題って、言い訳ばかりだな。で、結局いつになったらまともに動くんだ? それより、もっと搬送スピードを上げられないのかね? 今のままじゃ、計画通りの処理量を捌ききれんぞ。それと、急遽、新しいサイズの荷物もこのシステムで扱いたいんだが、対応できるんだろうな?」
まただ。問題解決どころか、さらなる要求と仕様変更。新田は言葉を失ったが、隣に座る篠田が冷静な声で割って入った。
「山田様、現在、システムの安定稼働に向けて、発見された重大な課題の解決に全力を挙げております。搬送スピードの向上や新規荷物への対応については、まずは既存の最優先課題をクリアした後で、改めて実現可能性を検討させていただけますでしょうか」
「なんだと? 篠田さん、あんたまでそんな悠長なことを! こっちにも立場ってものがあるんだぞ!」山田は声を荒げたが、篠田は表情一つ変えずに続けた。「もちろんです。ですが、不安定なシステムのまま機能を追加しても、更なる混乱を招くだけです。まずは土台を固めることが、最終的に山田様のご要求に応えるための最短ルートだと考えます」
篠田の毅然とした態度に、山田はそれ以上強くは出られなかったが、明らかに不満そうな表情で、「…とにかく、来週までには何らかの目処をつけろよ!」と吐き捨てて会議室を出ていった。
会議室に残されたのは、重い沈黙だった。新田は、篠田が見せたプロフェッショナルな対応に内心感嘆しつつも、課せられた課題の重さに改めて打ちのめされていた。
その夜から、新田の本当の戦いが始まった。連日、オフィスに泊まり込み、仮眠を取りながらデバッグと解析、そして核心部ロジックの修正案作成に没頭した。栄養ドリンクとコンビニ弁当が主なエネルギー源となり、目は常に充血し、体重も目に見えて減っていった。
複雑怪奇なラダー図は、修正を加えようとすると、予期せぬ別の箇所に影響を及ぼし、新たなバグを生み出す。まるで巨大な粘土細工を修正しようとして、別の部分が崩れていくような感覚だった。センサーノイズ対策も、ソフト側のフィルター処理だけでは限界があり、根本的な解決には至らない。時間だけが、無情に過ぎていく。何度、全てを投げ出して逃げ出したいと思ったことか。佐藤さんが倒れた理由が、痛いほど理解できた。
「…おい、新田。生きてるか?」
深夜、疲れ果ててデスクに突っ伏していた新田に、声がかかった。見上げると、そこには高橋が立っていた。珍しく、残業していたようだ。
「高橋さん…」
「顔色、ひでぇぞ。これでも飲め」高橋は、栄養ドリンクを新田のデスクに置いた。「で、どこで詰まってるんだ? ちょっと見せてみろ」
新田は、自分が修正しようとしている核心部のラダー図を高橋に見せた。デッドロック回避とルート最適化を両立させようとしているが、どうしても複雑になりすぎ、新たな矛盾を生んでしまう、と説明した。
高橋は、しばらく黙って画面を睨んでいたが、やがていくつかの箇所を指差した。「ここの条件分岐、冗長だな。もっとシンプルにできるだろ。それと、こっちのタイマーの設定値、ギリギリすぎるんじゃないか? 安全マージンを考えろ。あと、そもそもこの部分の考え方自体が…」高橋は、佐藤さんのロジックの問題点を的確に指摘し、さらに具体的な修正案のヒントをいくつか提示してくれた。それは、新田が一人では思い至らなかった視点だった。
「…ありがとうございます!」新田の目に、少し光が戻った。
「ま、俺も昔、似たような泥沼にハマったことがあるからな」高橋はぶっきらぼうに言った。「お前、なかなか根性あるじゃねえか。諦めずに食らいついてる。そこは評価してやるよ」
その言葉は、疲弊しきっていた新田の心に深く染みた。一人ではない、見てくれている人がいる。それだけで、もう少し頑張れる気がした。
一方、ハードウェア側でも進展があった。木村咲から内線があったのだ。「新田君、例のセンサーの件だけど、やっぱり設置場所に問題がありそうよ。モーターからの電磁ノイズの影響を受けやすい位置だったわ。配線のシールドもちょっと甘いみたい。今、対策を検討してるから、もう少し待ってて」
「本当ですか!ありがとうございます、木村さん!」
「いいってことよ。こっちも、ソフト屋さんの言うこと、たまには聞かなきゃね」電話の向こうで、木村が明るく笑う声が聞こえた。部署間の壁を越えて、少しずつ協力体制が形になり始めていた。
核心部のロジック問題とセンサーノイズ問題。二つの大きな壁に対して、突破口が見え始めたかに思えた。しかし、高橋のアドバイスを受けて修正を進めても、根本的な解決には至らない。既存のロジックをいくら修正しても、複雑になりすぎるか、性能が犠牲になるかのどちらかだった。
「もう、このロジック自体が限界なのかもしれない…」新田は呟いた。
その呟きを聞いていたのは、高橋と、そしていつの間にか新田たちの作業スペースに来ていた篠田だった。彼女は、厳しい表情ながらも、新田たちの奮闘ぶりを静かに見守っていたのだ。
「限界、ですって?」篠田が問いかけた。
「はい。このまま修正を続けても、根本的な解決は難しいかもしれません。思い切って、制御アルゴリズム自体を見直す必要があるのでは…」新田は、半ばヤケクソ気味に言った。
「アルゴリズムの見直しか…」高橋が腕を組んで唸る。「そりゃあ、理想かもしれんが、今からじゃ時間が…」
「どんな方法を考えているの?」篠田は、新田の目を真っ直ぐ見て尋ねた。
新田は、頭の中で漠然と考えていたアイデアを口にした。「例えば、もっとシンプルな分散制御方式にして、各ロボットが自律的に周囲の状況を判断して動くようにするとか…あるいは、思い切ってAIの技術、強化学習あたりを使って、最適な搬送ルートをシステム自身に学習させるとか…」
「AIだと!?」高橋が驚きの声を上げた。「そんなもん、この納期で実装できるわけないだろう!」
「確かにリスクは高いです。でも、今のロジックを修正し続けるよりは、可能性があるかもしれません」新田は食い下がった。
篠田は、しばらく黙って考えていた。そして、静かに言った。「…分散制御方式、それからAIを使ったルート学習。それぞれのメリット、デメリット、そして実現に必要な期間とリソースを、明日の朝までにまとめて報告してちょうだい。可能性があるのであれば、検討する価値はあるわ」
その言葉に、新田と高橋は顔を見合わせた。まさか、篠田がそんなリスクの高い提案を真剣に検討するとは思っていなかった。
翌日、新田は寝る間も惜しんでまとめた資料を篠田と高橋に提示した。分散制御方式は、比較的短期間で実装できる可能性があるが、最適性の保証は難しい。一方、AI(強化学習)を用いた方式は、実装と学習に時間はかかるが、成功すれば劇的な性能向上が見込める。
「…やってみましょう。AIで」篠田は、最終的にそう決断した。「時間は、他の部分の効率化と、必要ならクライアントとの再交渉で捻出する。高橋さん、あなたにも協力してもらうわよ。新田君だけでは荷が重すぎる」
「…はぁ。仕方ねぇな。面白そうではあるしな」高橋は、やれやれといった表情をしながらも、どこか挑戦的な笑みを浮かべていた。
最大の難関と思われた核心部の問題に対して、チームは、リスクを承知の上で、革新的なアプローチを選択した。重苦しい雰囲気に包まれていたプロジェクトに、再び一条の光明が差し込んだ瞬間だった。シミュレーションでは、新しいアルゴリズムは驚くほど高い性能を示す可能性が示唆されていた。
もちろん、これからが本当の正念場だ。新しいアルゴリズムの実装、膨大な学習データの準備、そしてシミュレーション通りに実機が動く保証はない。さらに、山積する他の課題も解決しなければならない。納期までの時間は、依然として限られている。
しかし、新田の心には、以前のような孤独な絶望感はなかった。隣には、信頼できる先輩の高橋がいる。ハードウェア側では、木村が協力してくれている。そして、厳しいながらも的確な判断を下し、チームを導く篠田がいる。一人ではない。チームで、この巨大な壁に挑むのだ。新田は、新たな決意を胸に、キーボードに向かった。本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。