願いの岐路
朝が来た。
いつも通り早朝五時半に起床する生活に慣れ親しんで早半年と数ヶ月。目覚まし代わりのスマホにセットしてあるアラームを鳴る前に止める。そして、ベッドから体勢を立て直し、伸びをした。枕のそばに置いたスマホにはラインの通知が二件届いている。一件は横田先輩からのラインであり、もう一件はカリンさんからのラインであった。
今までの僕なら昨日の今日の出来事の連続に我が目を疑っていただろう。しかし、そうはならなかった。僕はゆっくりと制服の学ランに袖を通しながら、横田先輩のラインを既読にした。
「横田:昨日はありがとう。恩に切るよ。また、連絡する」
僕は横田先輩のラインを見ながら、壁にかけてあるカレンダーに目線を移した。中部中心高校の文化祭まで残り約一週間を切っている。僕は毎朝食べるトーストをトースターに入れて、学ランの制服に袖を通した。
「僕:おはようございます。よかったです。僕も、頑張ります」
先輩からは即座に返信が来た。僕は身支度を整え、ラインを既読にする。
「横田:おう、文化祭の盛り上げは、任せろ」
トースターから焼き上がったトーストを取り出し、齧りながら数秒考えを巡らした。
「僕:頼みます」
スマホ画面に表示された電子時計はそろそろ六時を回ろうとしていた。僕は靴を履いて家の扉を開ける。空を見上げると、どんよりとした曇り空が広がっていた。家の周りのカエデの木々から葉は落ち、寒そうな出立ちの枝が顔を覗かせている。僕は背負ったリュックサックのショルダーベルトを固く握り締め、北高を目指した。
白鳥の門の前近くまで歩いてきた時、学園女子生徒たちが車から降りて門に向かうのがちらほらと視界に入る。僕はその歩く女子生徒たちの後ろ姿を見ているうち、気づいたら駆け出していた。背中のリュックサックが揺れ、吐く息が白くなる。僕は数メートル先にいた女子生徒の近くまで駆けていた。
その女子生徒に声をかけようとしていたのだと思う。声を出そうとしたすんでのところで、僕は立ち止まった。生徒の後ろ姿は確かに桃咲カリンに似ていたが、その横顔は全くの別人だった。
その子が悠然と門に歩いていくのを見ているうち、僕はいても立ってもいられなくなってピンクの桃アイコンのラインを既読にする。こんなに朝早くからラインを送るのは良くないだろうとわかっているのに、先輩から教わった攻略法には則っていないのに、それでも指が画面をタップしてラインを起動させてしまう。
「カリン:こんばんは」
「カリン:会って話をしたいです。いつ頃予定空いていますか?」
ライン画面を見た僕は、周りを見渡した。ちょうど門の正面に僕は立っているが、周りを遠巻きに南中学園女子生徒たちが歩いている。その顔ぶれの中に、彼女はいなかった。
僕の方こそ会って話がしたい、会う口実はなんでもいいからカリンさんに会いたい。そう欲望のままにラインに文字を走らせたい気持ちをなんとか抑えつつ、女子生徒たちが吸い込まれていく先の白い宮殿のような校舎を見た。周りに生えているはずのカエデの木々から落ちた葉は綺麗に片付けられていて、塀の縁に僅かに赤い落ち葉があるだけだった。
カリンさんとは偶然が重なって願いが叶った時にしか会えないのかもしれない。幾度となく考えが頭をよぎった通り、彼女と僕は住む世界が違うだろう。今もこうしてデジタル機器を通じてでしかやり取りができない。そのやり取りにも、思いの丈をぶつけるのを怖がっている自分がいる。
しかし、願いを叶えるのは、願いを掴み取るのは他ならぬ僕自身にしかできないではないか。
僕はスマホに文字を打ち込んだ。
「僕:今日の放課後、空いています。よければ喫茶店で待ち合わせしませんか」
僕はそう打って、喫茶店の公式ホームページのリンクを送った。送ったラインがすぐに既読にはならなかったが、僕は覚悟を決めて踵を返した。喫茶店は西丘駅の近くの丘の上にある喫茶店だ。北高への道すがら、喫茶店を遠巻きに見よう。そして先に案内できるように下調べをするのだ。
縁に残っていた赤い落ち葉が風に飛ばされて宙を舞っていった。
三両しかない電車が西丘駅を出発していったのは、ちょうど僕が駅近くに着いた頃だった。駅を発車する電車は完成当時、緑色だったのだろう。今はところどころ錆びついていて、緑のメッキが剥がれ落ちていた。
駅からは南中学園女子生徒だけではなく、スーツ姿の男性から毅然とした立ち振る舞いの奥様方が降りてきていた。その出てくる女子生徒たちの人並みの中にもカリンさんを探してしまう自分がいる。
しかし、カリンさんは見当たらなかった。見当たらないはずである。僕とカリンさんが今、会うべきではないのだ。
僕はゆっくりと丘を見た。丘の上には小洒落た喫茶店が店を開いていた。
羽休め喫茶。それが店の名前だった。
火が焚べられているのだろう、喫茶店から伸びる煙突からは白い煙がもやもやと立ち昇っていた。暖かそうだな。僕はそう思って今日の放課後を楽しみに県の北部の峰を目指した。
昼休み、閑散とした校庭を窓から見ていた僕に一通のラインが鳴った。ラインには黄色のレモンアイコンが表示されていた。
「檸檬:相談したいことがあるの。いつも通り放課後、ファミレス来てね」
僕はぼーっと窓から見える街の風景を見ていた。
「僕:今日は予定があるんだ。ごめん」
「檸檬:遅くてもいいから来てよ! 待ってるから」
檸檬さんからの返信はすぐだった。僕はスマホを手にうなだれながら文字をタップする。タップはするが、何度も書き直しては文字を打ち直す。今日はダメなんだよ。そう打ちたい。しかし、肝心のカリンさんからの返信はまだ来ていないのだ。来ていないからこそ、ダメとも言いずらい…。
「僕:遅くなってもいいなら」
悩みに悩んだ末、そう打った。カリンさんからの返信はいつだろう、そう思いながら窓の外に再度目をやる。荒涼とした大地に佇む枯れ木には、一羽のカラスが止まっていた。
チャイムが鳴り、昼休みが終わりを迎えた。網の目のようなクラスの自席に戻る。その時、ラインが鳴った。
なんとなく檸檬さんからだろうな、そう思ってスマホを見ると、ピンクの桃のアイコンが表示されていた。ついに来た!という安堵の中でスマホをタップする。ラインには次のように書かれていた。
「カリン:リンクまでありがとう。放課後、楽しみにしているね」
僕は嬉しくなった。と同時に、なんとも言い難い、悟りとも取れる無我の状態が心を占めていくのを感じた。この気持ちはなんだろう。
自席に着くと、クラスの扉をガラッと開けて先生が入ってくる。先生の声かけにより生徒たちが黙々とプリントを後ろに回す。今日は学期末の試験の日なのだ。
無論、ラインに返事などできない。あもすもなく試験は開始され、シャーペンを走らせる音とプリントを捲る音だけがクラスを占めた。僕は試験を受けつつ、自分の心に迷いが生じているのではないかと思ってしまう。そんなはずはない。ないのに、僕はカリンさんとすれ違っているのが多いと感じてしまう。そのすれ違いが今日の放課後、やっと交差するんだろう。しっかりしろ!
そう自分を戒め、プリントにシャーペンを走らした。
今は、こうするしか、ないんだ。
枯れ木のカラスは、街並みを視界に捉えたまま、その場に止まっていた。