08. 王子と公女と秘密の育成
「────……と、いうわけで、アンジェリカ嬢をハロルヴァ家にて保護してもらうことにした」
そう言ってにこやかに腹の底が見えないような笑みを浮かべるのは、スヴァルトシェレナ国第一王子であるトピアスである。トピアスの後ろでライラックが呆れた様に目を伏せ深いため息を吐いて見せた。
何がどうして、「と、いうわけで」に繋がるのか分からないが、トピアスの独断なのかはたまた“王命”なのか……。
どちらにせよ、今伝えられたことが決定事項であり、一介の公爵令嬢に断る権利など持ち合わせていないのだ。
「……理由だけでもお聞かせ願えますか?」
ダリアがおずおずとそう問いかけると、トピアスは快く頷く。
「勿論、ハロルヴァ家には知る権利がある。ライラック、説明を」
ライラックは諦めたように短くため息を吐くが、やはりライラックも王族の命に逆らうことなどできる筈もなく、淡々とした声色でダリアに向け説明を始めた。
「────……まず、アンジェリカ嬢は正真正銘海駆人だった。オーケリウムと長年交流がないことからそもそもの連絡手段がない。突然連絡をしても戦の火種となるだろう」
物騒な話から始まったが、これが現実なのである。ダリア自身前世の記憶でアンジェリカがトピアスルートではダリアのいるハロルヴァ邸に居候していたことを知ってはいたが、ゲーム内では理由は簡単にしか語られていなかった為、今この場で明かされる細かい理由に場違いにもファン心が擽られる。
「また、国王にもアンジェリカ嬢が海駆人であることを明かしていない。理由は先と同じく戦の火種になることが目に見えているからだ。どちらも交流してはこなかったが長きに渡る冷戦状態であったようなもの。スヴァルトシェレナが軍事力を高めているのと同様にオーケリウムでもいつ戦が起こっても良いように準備している可能性がある。故に、戦のきっかけを作らないことを最優先事項としてトピアス殿下がご判断された」
ライラックの早口を、ダリアは聞き逃すまいと必死に鼓膜に流し込んで言葉を咀嚼していく。
つまるところ、アンジェリカは実際海駆人だったけど素直にオーケリウムに返すこともできないし、こっちに来ちゃったことも隠しますってことね、と簡単に噛み砕いて嚥下したところで、ライラックは続けた。
「アンジェリカ嬢を王城で保護する案もあったが……、王城でアンジェリカ嬢の正体が漏洩しないという保証もなく、寧ろアンジェリカ嬢の身を危険に晒してしまう可能性が高いこと、そしてもう一つが、単純にトピアス殿下に今現在決まった婚約者がいないことが起因する。婚約者のいない男性の元に同じく婚約者のいない女性が居候するのは理由を公にできない以上、世間体が悪いことも事実」
なるほど確かに、とライラックの言葉にしっかりと頷いて見せるダリア。
並べられる言葉はどれも尤もらしい台詞をなぞっただけのようなものではあるが、筋は通っている。
王太子であるトピアスに婚約者はいないが、有力貴族内から婚約者候補は出ているのだ。それを無視してトピアスの意志を押し通したとなっては、貴族たちが黙ってはいない。王族への反感も高まるだろし、王城内に余計なトラブルは持ち込みたくないことも事実なのだろう。
「なるほど……、今回アンジェリカ嬢を最初に保護したのは我々ハロルヴァ家であること、そしてアンジェリカ嬢の正体を知っているのも、ハロルヴァ家だけ……。更に言えばハロルヴァ家はスヴァルトシェレナ国筆頭貴族の内の一つであり、いい意味で手が出しにくい家格でもある、と……」
ダリアはその後ライラックが続けそうな話を予測し、言葉にするとトピアスもライラックも小さく頷き正解の合図を出す。
「同世代の女性がいることから、アンジェリカ嬢も王城よりも気兼ねなく過ごせるという判断もおありなのですね」
最後にそう付け加えると、
「聡いな、さすがはハロルヴァ家といったところか」
と、ダリアの回答に満足そうに微笑んで見せる。その反応から、ダリアは答えに花丸を貰った気持ちになりホッと胸を撫で下ろした。
「理由にも納得してもらったところで、話を戻そう。アンジェリカ嬢をハロルヴァ家に預けるにあたり一つやってもらいたいことがある」
「……何でしょうか」
受け入れた上にまだやることを課すのか、とやや不満を覚えるが勿論不敬罪にあたるため顔には出さず、トピアスの言葉の続きを促す。
「主にダリア嬢にやってもらうことになるかとは思うのだが、アンジェリカ嬢に貴族の振舞い方を教えてほしい」
「えっ、……」
まさかの言葉に言葉を詰まらせるダリア。そして同時に前世の記憶が駆け巡っていく。
( ────……これって、もしかして“育成”!? )
オシラブの世界では、攻略対象の好感度を上げるために“育成”が必須であった。
魔力操作のスキル上げは攻略対象者の元へ、知力上げの際は攻略対象者の身内的存在の元へ、体力育成はそれぞれの国の騎士団の元へ、そして……、
( マナーレッスンはダリアの元へ…… )
ぱちり、ぱちりとパズルのピースを嵌めていく。バラバラになった記憶が嵌っていく感触に軽い頭痛がしたけれど、気付かないフリをして完成していく記憶を俯瞰的に眺めた。
( トピアスルートでは魔力操作はトピアスの元へ、知力はヴィンス、体力はルカーシュね…… )
人知れず記憶を整理しているダリアに、ライラックが声をかける。
「ダリア、顔色が悪い。大丈夫か」
「大丈夫です……。 アンジェリカ嬢にマナーレッスンをという話ですね。勿論、お引き受けいたしますわ」
ズキズキと痛むこめかみを指先で抑えるようにしながら、ダリアは話を続け、快く頷いた。
「そう言って貰えると助かる」
カラッと晴れたような笑顔を見せるトピアスだが、その腹の底は王族特有の仮面の内側に隠されており分からない。ダリアは無理に探ろうとすることはせず、トピアスの話に素直に耳を傾ける。
「ここから先は他言無用だ。────“防音結界“」
トピアスの魔法で結界が張られたらしく、キィン、と金属音のような高音が一瞬鼓膜に直接響くが、すぐに余韻もなく消えた。トピアスは神妙な面持ちでダリアをまっすぐに見据える。
「アンジェリカ嬢は、海駆人だが……、魔法が使える」
「!」
前世の記憶で知っていたとはいえ無反応では不自然である。ダリアは初めて聞いたかのように驚いてみせた。
「……だがしかし、育った環境もあり魔力操作が上手であるとは言い難い。魔法が使える海駆人など前例がないため、不測の事態も起こり得る……、となると、彼女には魔力操作の訓練を受けて貰わなければならない」
なるほど、ゲームでの育成は現実世界だとそう繋がってくるわけか、とトピアスの言葉と前世の記憶を結びつけながら飲み込んでいく。確かに、ハヴスボトムの歴史を鑑みれば“魔力暴走”の言葉は酷く重い。スヴァルトシェレナでは生まれたての赤ちゃんでも魔力を持っているが、魔法は扱えない。些細な生活魔法は各家庭で教えながら、前世の世界の義務教育というものと同じく、平民貴族関係なく10歳になる年に魔法学校に入学し、そこで魔法の扱い方を学んでいくのだ。
アンジェリカの場合は義務教育期間の年齢を過ぎていること、そもそも海駆人であり、スヴァルトシェレナに戸籍がないこと……、他にも魔法学校に通うには問題点が多すぎる。つまり、アンジェリカは魔法学校に通わずに魔力操作の訓練を受けるのだ。
「魔力操作の訓練については理解いたしましたが、アンジェリカ嬢は魔法学校に通えませんわよね……。ということは、殿下の元で訓練を行うのでしょうか」
「ああ、ダリア嬢は話の理解度が高くて助かる」
「お褒め頂き恐縮です。……それで、王城に出入りするためにそれなりのマナーを身につけるように、ということなのですね」
ダリアの言葉にトピアスは頷いて見せる。
「ある程度のマナーが備わっていないと、王城ではとにかく悪目立ちしてしまう。アンジェリカ嬢を守るためにも、彼女が最低限のマナーを身に着けることは絶対条件だ。更に、魔力操作の訓練以外にも、アンジェリカ嬢には色々と学んで欲しいものがいくつかある。魔力を操作するとなるとそれなりに体力も知力も必要となってくるが、アンジェリカ嬢の立場上、公に学校に通うことも家庭教師をつけることも難しい。その為、王国騎士団所属であり私の護衛である“ルカーシュ”が主に体力面を、私の弟の“ディック”が知力部分を補ってくれる予定だ」
トピアスの言葉に一つ一つ頷きながらも、ダリアは一瞬ある言葉に違和感を覚え、その言葉だけが鼓膜にぶら下がる。
( あれ……? )
トピアスのルートでは、知力の育成ではヴィンスだった筈。
でも今トピアスは知力の面は第二王子である“ディック”に任せると言った。
( 聞き間違い? いや、でも…… )
ダリアは自信のない視線をライラックに向けるが、ダリアの前世の記憶など知る由もないライラックはダリアの視線の意図を汲みとれず、困ったように眉尻を下げる。一先ず、ディックとヴィンスの違いはあれどその他にゲームと違う箇所は見受けられず、ダリアは黙ってトピアスが話し終わるのを待った。
「────……と、いう訳で、ダリア嬢にはアンジェリカ嬢の保護と貴族社会のマナーや振舞い方など出来る限り教えて欲しい」
「承知いたしました。全ては王家の御心のままに」
「ありがとう。アンジェリカ嬢は明日こちらに到着する予定だ」
この場にアンジェリカを連れてこなかったのは、万が一にでも考えてダリアの体調が優れなかった時の為であろう、と勝手に判断しトピアスの言葉に頷いて見せる。トピアスはダリアの反応を見て満足そうに微笑むと、立ち上がって腰に手を当てた。
「さて、ダリア嬢は病み上がりだろうから、無理のない範囲で動くように。そうでなければ私がライラックとヴィンス、双方から叱られてしまう」
「え、ヴィンス様からも、ですか……?」
ライラックは分かる。妹を溺愛しているシスコンなのだ。体調が優れない日が続き病み上がりである妹を無理に動かそうものなら氷冷の魔公子の名に恥じない、背筋どころか心臓さえも凍りそうな怒り方をするだろう。
けれどトピアスの口からはダリアの婚約者であるヴィンスの名も零れ出た。まるでヴィンスがダリアを心配しているような口ぶりに、ダリアは思わず小首を傾げる。
ヴィンスとは頻繁に会うことなく過ごしており、半ばヴィンスが強行突破したお見舞いの後も、ダリアが推しの供給過多という周囲からは到底理解が得られない理由で再度熱がぶり返したのだ。それ以来、ヴィンスはダリアの体調を最優先に考え、ダリアのことを慮りハロルヴァ邸には来ていない。何度か手紙が届いたか内容は当たり障りのない世間話程度で、やり取りも頻繁ではなかった。
「ああ、勿論。婚約者を心配しない者がどこにいるというのだ」
穏やかに微笑むトピアスから、裏の言葉は読み取れない。トピアスとしては素直に一、友人としてヴィンスの恋路に花を添えたつもりでいたのだが、ヴィンスからどころかライラックからの過剰な愛にすら鈍感のダリアに、トピアスの言葉は意図した通りには届かなかった。
「ああ成程、一般論の話なのですね。お心遣い痛み入ります」
恭しく頭を下げるダリアに、「これは伝わってないな!」と悟るがそれを口にすることはせず、微笑みで誤魔化す。
「さてライラック、ルドベキア殿が今回の件で頭を抱えているのは目に見えている。急ぎ王城まで戻るぞ」
パチン、とトピアスが指を鳴らすと張られていた結界が解け、途端に滞っていた空気が流れ出した。
「いえ、私はこのまま領に残り滞っている仕事をいたします故、王城には戻りません」
結界が解けてすぐ、ライラックはトピアスに強い意思で「No」の意思表示をして見せる。
「ははっ、それを本気で言っているのだから面白い。領の仕事は王城でもできるだろう。現地でしなければならない物は、奥方殿に任せるとルドベキア殿は言っていたのだ。行くぞ」
トピアスはライラックに有無を言わせず部屋から出て行った。ライラックも領に残りたい気持ちは本心であろうが、トピアスの命とあっては断ることはできない。
「はぁ……。ダリア、悪いが暫くは帰れそうにない」
「ふふ、ええ、そうでしょうね」
深いため息を吐くライラックに、ダリアは微笑んで返す。王城でほぼ缶詰状態で仕事をすることになるのだろうから、純粋に憐れみが勝ってしまうが、逆に自分の傍に居ない方がライラックの負担が少ないと考えればダリアも快くライラックを送り出せる。
「ほら、お兄様。トピアス殿下をお待たせする訳にはいきません。準備なさってください」
ダリアの言葉に渋々ライラックも動き出した。執務室で仕事を纏めながらアンタレスに指示を出す。時折カペラを呼び主にダリアについての指示を出していたが、アンタレスに仕事の指示を出すよりもずっと細かく指示をしていたことに気が付いたのは、恐らくアンタレスとカペラだけだろう。
「ダリア。敷地内から出るなと言ったが……、アンジェリカ嬢のこともある。恐らく敷地内からやむを得ず出なければならない事態にも陥るだろうし、敷地内だからと安心もしないでほしい。アンジェリカ嬢の件は本当に前例がなく、あまりに危険だ。本当はお前を巻き込みたくなどなかった」
壊れ物を触るように、手の甲でダリアの毛穴一つない白磁のような頬を撫でる。ダリアは目を閉じライラックの低すぎる体温を感じながら、穏やかな愛を受け取る。確かに、この話が絶対にどこからも漏れていないという可能性は低い。事実、ハロルヴァ領の領民の一部はアンジェリカに接触していた。王家とハロルヴァ家、両家の連名でアンジェリカと接触した領民たちには「彼女は海駆人ではなく、肌に見える鱗が極端に少ないだけである」という布告が出されたが、人の口に戸は立てられない。「あれは絶対に海駆人だった」と言い切る人物はいるだろうし、本当にアンジェリカが海駆人であるかどうかを確かめようとする者も中にはいるかもしれない。そうなると、領内は勿論敷地内でも安全とは言い難い状況なのだ。
「危険であることは重々承知ですわ。十分に警戒致しますから、どうか心配しないで」
兄を安心させようと穏やかな声色でそう告げるも、ライラックの心は晴れない。
「ならばせめて、クロヴィスを必ず連れて歩きなさい」
クロヴィス……、その名を”ダリア”として知っているのに、前世の記憶にはどこにも見つけられなかった名前。
確かに知っているのに、まるで知らない人のようにも思えて記憶が混濁していく。先ほど”育成”についての記憶が駆け巡ったこともあり、ダリアの頭痛は酷くなっていくばかりで、ライラックに微笑み返すこともできない。
しかし、今から登城するライラックを不安にはさせたくない。
「必ずクロヴィスを連れて歩くことを、お約束しますわ。だから、どうか心配しないでください。体調面に関してはカペラに嘘などつけないのですから」
ダリアは頭痛を誤魔化すように精一杯口角を持ち上げてそう告げる。
カペラはダリアが幼い頃から共にいるため、ちょっとした顔色の悪さでも見逃すことなく体調の変化にすぐに気が付く。いくらダリアが「大丈夫」だと主張しても、見破られてしまうのだ。そのことをライラックも知っているため、ダリアの言葉に渋々頷いた。
「それもそうだな……」
「さあ、これ以上殿下をお待たせすることはできません。気を付けて行ってきてください」
ライラックの背中を押し、無理矢理一歩を踏み出させる。ライラックの足は重かったが、ゆっくりと一歩一歩と進み、ダリアの部屋から出て行った。
「くれぐれも無理のないように過ごしなさい」
「ええ、必ず」
王家の紋様の入った豪奢な馬車に乗り込むライラックを、ダリアは笑顔で見送る。
トピアスはライラックの性格をよく理解しているからか、嫌な顔一つせず馬車の中で待っていてくれていた。
「殿下、お待たせして申し訳ありません」
「ああ、構わないよ。ライラックのことだ、ダリア嬢と離れるのを拒んでいたのだろう」
「お察しの通りです」
くすくす、唇の端から笑みを零すと、トピアスも満足そうに笑う。
「では、暫く家を空ける。カペラ、アンタレスあとはよろしく頼む。クロヴィスには声をかけたからすぐに来るだろう。必ずダリアに付き添うように」
「承知いたしました」
カペラとアンタレスの返事を最後に馬車の扉は閉められる。
カペラとアンタレスは丁寧に頭を下げ、ダリアもトピアスがいるためカーテシーで馬車を見送った。
ガラガラとタイヤが回る音と、水馬の蹄の音が遠ざかっていきダリアの緊張の糸も緩み……、
「っ、」
気合だけで立っていたダリアの視界は酷く歪んで、ぐらり、体が傾いた。
酷い頭痛に吐き気を覚え、ダリアの顔色は見る間に真っ青になっていく。
「お嬢様!」
ホワイトブロンドの毛先が取り残されたように空中に舞い、ダリアがゆっくりと崩れていくことに気が付いたカペラとアンタレスが焦燥感に塗られた声で叫ぶ。
「っと、……大丈夫か、お嬢」
「クロ……ヴィス……」
カペラの指先が僅かにダリアのドレスに触れた時、倒れるダリアを受け止めたのは、ハロルヴァ領が保有する騎士団の副団長、クロヴィス・ドランヴァルトであった。
ダリアを「お嬢」と特有の呼び方をし、ダリアの歪む視界に鮮やかな赤髪にすぐ自身を支えたのがクロヴィスであると気が付く。
「お嬢様、大丈夫ですか?!」
不安に駆られ、叫ぶようにダリアに呼びかけるカペラに応える気力がダリアにはなかった。
アンタレスはすぐに医師を呼ぶよう使用人に伝え、クロヴィスはダリアの華奢な体を軽々と抱き上げる。
「ったく、死人みてぇな顔色だな……。お嬢に何があったんだ」
クロヴィスの腕の中でぐったりとして動かないダリアの様子に動揺するカペラに、クロヴィスが問い掛けた。カペラは低い声にハッ、と我に返ると不安に揺れる瞳でクロヴィスを見上げる。
「クロヴィス、様……。あの、ダリアお嬢様は……、」
声が掠れ、焦る気持ちばかりが前に出て言葉が唇の内側で詰まってしまう。
「……まあ良い。一先ず、お嬢を部屋へ運ぶぞ」
「は、はい……!」
クロヴィスは青白い顔のまま、額に汗を滲ませるダリアを心配そうに見下ろし、眉根を寄せた。
( 久々にライラック様に呼ばれたと思ったら…… )
はぁ、と深く短いため息を吐いて、クロヴィスはダリアの部屋へと向かう。腕の中のダリアは心配になるほど軽かったが、温もりを感じ何処か安心しながら屋敷へと足を踏み入れた。
◇
「────……」
ゆっくりと、浮上する意識に身を任せる。夢から醒める瞬間がちょっと好きだったりするのだが……、ダリアは浮上する意識の端で、記憶が途切れる直前のことを思い出してゆっくりと上体を起こした。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「カペラ、私……また倒れたのね」
まだこめかみに違和感を覚えるが、吐き気を催す程の痛みは引いていて少し安心する。
「はい、医師に診てもらいましたが熱もなく顔色が悪いことと、お嬢様が訴える頭痛以外の症状は分からず……。診断のつくような病気も見つかりませんでした」
申し訳なさそうに眉尻を下げるカペラに、逆に申し訳なさを感じるダリア。
( 前世の記憶と今世の記憶を整理している所為、と言ったところで信じてもらえないでしょうね )
前世の記憶は正直ゲームの内容以外のことは断片的にしか覚えていない。前世の生活で当たり前に培ってきた一般常識や単語、自分が働いていた仕事のことなど以外は、殆ど覚えていないのだ。ダリアとして培ってきた記憶や経験に、前世の記憶がゆっくりと混ざっていく奇妙な感覚は、言語化して伝えることが難しい。
ダリアは、誤魔化すように薄く微笑みかけた。
「でも、お医者様が診て分からないのなら、大きな病気でもないのよ、きっと。頭痛以外は元気だもの。それより、クロヴィスはいる? 私が倒れた時、クロヴィスがいたような気がするのだけれど」
「はい、部屋の外で待機されていますよ」
呼びましょうか、というカペラに、お願い、とだけ伝えるとすぐにカペラは部屋の外へクロヴィスを呼びに行く。
二言三言、部屋の外で会話をし、カペラと一緒に入室してきたクロヴィスの、鮮やかな赤髪は記憶が途切れる直前に見たものと同じで、金色の瞳も、左目上から縦に切り裂くように頬まで伸びた傷跡が痛々しいその顔は”ダリア”の記憶の中のものと一致する。
「クロヴィス、迷惑かけたわね」
「お嬢、もう大丈夫なのか」
「ええ、まだ少し違和感はあるけれど……」
こめかみを指先で触れ、困ったように笑って見せるダリアに、クロヴィスは難しい顔を見せた。
「お嬢は昔から目を離すと無理をするし、隠そうとする。今回も心当たりはあるものの、言いたくないだけなんだろ」
「ふふ、クロヴィスにはお見通しね」
「まあ、ライラック様よりお嬢の護衛を頼まれた。少なくともライラック様が王城から戻るまではお嬢についているから、何かあれば頼れ。ちなみに、俺やカペラには隠そうとしても無駄だということも覚えておけ」
「そうね、二人に隠し事はできないみたいだから、素直に甘えることにするわ」
穏やかに笑って見せると、ようやくクロヴィスも納得したように表情を緩める。
「お嬢が部屋にいる時は、基本部屋の外に待機している。何かあれば声をかけてくれ」
「分かったわ」
クロヴィスと短いやり取りを終えたところで、カペラが白湯と医師に処方された薬を持ってきた。
「お嬢様、お食事前にこちらを服用ください。服用後に食事を摂ってからしばらくは安静にして頂き、副作用等見られなければ無理のない範囲で動いても良いそうです」
「そう、ありがとう。それじゃあ、天気も良いし副作用がなければ庭に出ましょうか」
「ええ、良いですね。お菓子と紅茶をご用意します」
カペラとにこやかに会話をしながら、ダリアは薬特有の喉越しの悪さを我慢しながら無理矢理胃に落とし込む。
幸い、大きな副作用は出ることなくダリアはその日、庭のガゼボで穏やかなティータイムを過ごすことが出来た。
◇
「────……え、私がハロルヴァ邸に……?」
困惑の色を瞳に塗ったのは、ダークブロンドの柔らかな髪を靡かせるアンジェリカであった。
ハロルヴァ領にて領民に糾弾されかけていたところをダリアに救われ、トピアスと共に登城して二日目の朝、トピアスに呼ばれて執務室に入ったアンジェリカに聞かされたのは今後のアンジェリカの身を置く場所の提案である。
「ああ、くどいようだが……、君の扱いはとても難しい」
トピアスは複雑な表情を浮かべながらアンジェリカを真っすぐに見据えた。
トピアス、ライラックと共に……というよりも、連れられて王城に入ってすぐ、アンジェリカは身体検査を受け、海詠人特有の鱗の残る肌は確認できず、代わりに海駆人特有のグリッターを塗ったような煌めく肌から海駆人であることが確定された。
そのことがトピアスに報告されてすぐ、アンジェリカはトピアスに呼び出され、人払いされた執務室へと入り今に至る。
「最初に伝えておくが、私はスヴァルトシェレナ国の第一王子であると同時に────”関係改革派”代表でもある。……ああ、いっそ”トーマス”と名乗った方が分かり易いだろうか」
「!」
執務室には防御魔法の一種である、“防音結界”が張られた状態であり、中での会話は全て秘匿される。故に、トピアスはアンジェリカに包み隠さず自身の立場を明かした。”トーマス”という名前は、アンジェリカがオーケリウムを発つ際にロディから聞いていた名前であり、その人物に接触するよう言われていたのだ。
思わぬ人物が目標の人物であったことに驚きを隠せず、アンジェリカは大きな瞳を丸く見開く。
「君は、オーケリウムの関係改革派代表である、”ロディ”殿に言われてこの国に来たのだろう」
「は、はい」
アンジェリカが明かす前に”ロディ”の存在を知っていることから、トピアスの言葉に偽りがないことが分かる。
アンジェリカは素直に返事をし、頷くとトピアスは緊張を解すように柔らかく微笑んだ。
「身体検査で預かったこのシルクのローブは、魔道具の一種だね」
「はい。透過するローブと言います。魔力を流し込むことで使用できる魔道具です」
「なるほど……。実は私もこのローブに魔力を流してみたんだが……、恐ろしい程に魔力の消費が激しくて、魔力量の多い私でも長時間の使用は難しいと感じたんだ」
「ええ、仰る通り魔力の消費が激しい魔道具ですので、魔力の少ない海駆人が使用するには難しいものなのです。ロディ曰く秘宝とされる物であるそうなのですが、出所などは聞いておりません。唯、私になら扱えるだろう、と……」
「……それは、君が”特別”だからか」
「────はい」
アンジェリカは自身が”特別”であることを、喜んだことなど一度もない。肯定する言葉はどこか悲し気で、トピアスもアンジェリカの心情に気が付いたのか言葉に詰まる。
( 彼女の反応から見るに……、恐らく彼女自身自分の”正体”に気が付いていない…… )
トピアスは王族としての公務の傍ら、関係改革派としての活動を行っていた。
戦争の起源を辿れど、スヴァルトシェレナ国にある資料はどれも自国に都合の良いように書き換えられたような、不自然なストーリーの物しか残っておらず、真相までたどり着くことができずにいたのだが、ある日図書室の王族のみが立ち入ることのできる禁書エリアで、王家の家系図のようなものを見つける。
そこには不自然に修正された箇所を見つけたことで、状況が一気に動き始めた。
( しかし、全てを伝えるにはまだ時期尚早か…… )
目の前のペリドットの瞳を宿す女性が、トピアスの────……否、関係改革派にとって”鍵”となる存在であると確信している。
けれど、それを伝えるには、彼女自身があまりに無知すぎた。
「────……スヴァルトシェレナ国には、魔法研究塔という組織がある。主に結界の維持や国内の魔素濃度の調整、魔法の研究を行っている機関なのだが……、そこに関係改革派所属の研究員がいる。その者の研究している魔法を応用し、今回オーケリウムとコンタクトが取れたのだ。そこで、君がスヴァルトシェレナに来る日、時間、場所を決め、あの日あの騒動の現場に”トーマス”としていたのだが……。いかんせん、変装してしまっていた故に、君を助けに入ることができなかったんだ。申し訳ない」
トピアスに謝罪され、アンジェリカは全身の毛穴から汗が噴き出す感覚を覚える。
「いけません、殿下。謝罪などしないでください」
平民に王族が頭を下げるなど、あってはならない、とアンジェリカは慌ててトピアスの謝罪を取り消した。
「あの日、透過するローブを使い続けていた私は魔力が底を尽き、ローブに魔力を上手く流せなくなったのです。体力的にも辛く、段差に躓き転んでしまい……。その際、スカートの裾から見えた脚に、あの場にいた人たちが気付いてしまったのです。スヴァルトシェレナに入ってすぐローブを普通のローブに切り替えていれば、あのように大ごとにはならなかったのですから、私が悪いのです」
謙虚に謝るアンジェリカの姿をトピアスは好意的に受け取り、小さく「ありがとう」と述べる。
「……今後もロディと連絡を取る際は魔法研究塔を使用することになり、君にも通ってもらう機会があるだろう。しかし、魔法研究塔には貴族出身の研究員も多い。関係改革派所属でない研究員が殆どであり、礼儀作法に煩い者も少なからずいるのが事実だ」
トピアスの言葉を自分なりに解釈して飲み込むアンジェリカ。
おそらくトピアスは、平民出身のアンジェリカは貴族風の身の振り方を知らないことを遠回しに指摘しているのだろう。オーケリウムでも貴族の殆どが保守派であったことを思い出し、自身の置かれた立場から悪目立ちすることは悪手であることも理解している。
「ハロルヴァ邸には、ダリア公女様がいらっしゃる為、居候の傍ら礼儀作法を学ぶことができる、という訳ですね」
「……ああ、その通りだ」
アンジェリカの理解度の速さに驚きつつ、トピアスは頷いて返した。
「ダリア嬢は、アンジェリカ嬢と年齢も近く同性である。ここにいるよりもずっと、気楽に過ごせるだろう」
「お心遣い、ありがとうございます」
アンジェリカは深々と頭を下げ、感謝を伝える。確かに、教会で孤児として育ったアンジェリカは礼儀作法を知らない。それでも、穏やかな口調や端々に見える丁寧な所作は、その辺の貴族よりもずっと気品に溢れており、何よりも緊張した面持ちがたまに和らぎ、覗かせる笑顔を見る度に、心の奥を擽られる思いであった。
「明日、私とライラックでハロルヴァ領へ向かう。ダリア嬢は病み上がりであることから、万が一体調が悪かった時の為に君は一日ここで待機していてくれ。ダリア嬢の了承を得ることができ次第、アンジェリカ嬢にもハロルヴァ領へと向かって欲しい」
「はい、承知いたしました。早速準備させていただきます」
アンジェリカはそう告げ、再度丁寧にトピアスにお辞儀をして、執務室から出て行く。その後ろ姿は小柄で華奢なのに、何処か逞しく見えるのだから不思議である。
「────……不思議な子だな」
アンジェリカに対し、およそ年頃の乙女に抱く感想ではない言葉を零し、トピアスは一人静かに笑った。