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07. 真綿の檻と推しの訪問



「おはようございます、ダリアお嬢様」

「────……カペラ……?」


瞼を赤く透かす朝日と、穏やかな声色にゆっくりと意識が浮上していく。

声の主と思われる人物の名を呼ぶと、「そうですよ」と短い肯定の言葉が降って来た。


「カペラ、体調はもう大丈夫なの?」

「はい。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。食あたりだったようで、薬を服用し昨日一日療養したお陰ですっかり回復致しました」


まだぼんやりと歪む視界で捉えたカペラの表情は、穏やかないつもの笑顔で。

ダリアはホッと胸を撫で下ろしつつ、ゆっくりと上体を起こした。


「嫌だわ、寝すぎちゃったかしら」

「いいえ、大丈夫ですよ。それよりも、お嬢様も体調が優れずに倒れたと聞きましたが、今朝のお加減はいかがですか」


もう少し休みますか、とダリアを気遣うカペラであったが、ダリアは力なく首を横に振る。


「いいえ、(わたくし)は大丈夫……。 っ、それよりも……!」


ダリアはぼんやりと霞みがかった脳をフル稼働させながら、記憶にかかった靄を振り払い、昨日の出来事を思い出して焦燥感に駆られた。

その勢いのまま、朝の支度をするカペラに視線を向けると、カペラには予想ができたのであろう。ダリアの視線の意図を汲みとり、湯気の立つ紅茶をゆっくりと注ぎながら頷いた。


「ライラック様より、ダリア様が目覚めたら伝えるよう仰せつかっておりましたので、先ほどアンタレス様を通してお伝えいたしました。まもなく、ライラック様がいらっしゃる筈です」


本来ならば、ダリアの方からライラックの元へ行かねばならないのに、カペラの話だとライラック自らこの部屋に来てくれるという。つくづく、兄は自分には甘いな、と思いながらも自分のことを労わってくれる兄に、愛しさを覚えるのもまた事実であった。


「それでは、簡単に身支度を済ませてしまいましょう」


カペラに促され、ダリアはお湯の張られた器で洗顔を終えると、その後はカペラに身を委ねて身支度を整える。丁度準備が終わった時、タイミングを見計らったようにダリアの部屋にノックの音が響いた。


「────……ダリア様、ライラック様がいらっしゃいました」

「どうぞ」


アンタレスの声にダリアが短く答えると、心配そうに眉尻をこれでもかと下げたライラックが入ってきて、ベッドの縁に座るダリアの隣にゆっくりと座り、艶やかなホワイトブロンドの髪を撫でる。


「体調はどうだい?」


まるで薄い卵の殻の表面を撫でるような優しく、柔らかい声にダリアは居た堪れなくなって俯いた。


「大丈夫です……。それよりも、昨日は醜態を晒してしまい申し訳ありませんでした」


ダリアの弱々しい謝罪に、ライラックは首を振る。

公爵家の令嬢ともあろう者が王族の前で倒れるという、あってはならない醜態。ライラックは気にするな、と優しく告げるが、学業に加え貴族社会のマナーもいやという程勉強してきたダリアが昨日のことを気にしない筈もなく。ライラックも分かった上で、形式上の言葉を並べて居るのであろう。酷く悲観的になっているダリアに、ライラックは短くため息を吐いて微笑んだ。


「本当に、気にしなくて大丈夫だよ。ダリアがその日ずっと体調が悪かったことや、その上で領民のトラブルを治めたことなど、ダリアが倒れた背景を殿下もご理解くださってね。寧ろ先触れなく来た殿下の方が、申し訳ないと謝罪していらしたくらいさ」


ライラックの言葉に、ダリアは安堵を隠しきれず深く息を吐く。


「っ、女性は……、アンジェリカ嬢はどうなりましたか……!」


不安を吐き出し空っぽになった胸に巣食う、もう一つの不安に煽られ、ガバッと顔を上げるとわずかな貧血に視界が眩む。それでも強い眼差しをライラックに向けると、ライラックはやはり柔和な笑みは崩さずに穏やかな口調で昨日のその後の展開を語ってくれた。


「ダリアが倒れた後────……」





「ダリア、ダリア……! 医師を呼べ、すぐに!」


取り乱すライラックにつられるよう、傍にいた侍女たちが慌てて行動する。

ライラックはダリアの薄い肩を抱いたまま小さく震えていた。


「────……失礼、せめて寝台に運びましょう」


力なく項垂れるライラックの肩にそっと手を置き、ライラックの腕からダリアを受け取ったのはヴィンスである。ヴィンスはダリアの華奢な体をいとも簡単に抱きかかえると、優しく、壊れ物を扱うようにそっとベッドへと寝かせた。


「────……冷静沈着で有名な君が、そこまで取り乱すなんてな」

「……御見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」


トピアスが力なくその場に崩れたままのライラックにそう声をかけると、ライラックも我に返ったのかすぐに立ち上がりトピアスに深く頭を下げる。


ライラックはトピアスの言う通り、冷静沈着という言葉が似合う男であった。

ここ、ハロルヴァ領はオーケリウムと隣合っており、いつ戦火に巻き込まれてもおかしくない領地である。故に父であり、ハロルヴァ領の領主である“ルドベキア・トレイ・ハロルヴァ”は領地で保持する騎士団のレベル上げだけでなく、憲兵や衛兵など普段戦場に出ることのない兵たちにも騎士団と同じ鍛錬をさせるなど、その兵力を向上させていた。

そうした軍事要素の強い政策を行っているため一見すると怖いイメージを持たれやすいが、実際は正反対であり、領民の生活を第一に考える温厚な性格をしていた。

保守派の筆頭であることからも貴族色の強い家系だと思われがちではあるが、保守派に属しているのも、子どもたちが裏表の激しい貴族社会で少しでも生きやすいよう多数派である保守派に属しているだけに過ぎない。敵国と隣接している領地を任されていることもあり、ルドベキアの心情的には、一刻も早く両国の溝を埋めたいというのが正直なところなのである。

ルドベキアは領民から支持されるその性格や(まつりごと)に対する手腕を買われ、現在では王都で宰相を務めているため、領地の運営は書類上ではルドベキアの妻であり、ダリアたちの母である“カトレア・リリス・ハロルヴァ”が行っている。その補佐として動いているライラックが、実際には領地の運営の殆どを担っていた。

ライラックは温厚な父とは違い、切るべきところはしっかりと切り、温情や義理、人情で動くことはない。

そんなライラックの唯一、冷静でいられない相手……最早弱点とも言えるのがダリアである。


領地の運営に関しては勿論だが、基本的に貴族的な付き合い以外は人間関係でさえドライなライラックは、得意魔法も水や氷と言った冷たい印象を持ち、影ではその容姿も相まって“氷冷の魔公子(ひょうれいのまこうし)”と呼ばれていた。そんなライラックの取り乱す姿を見て、トピアスは人知れず安堵する。


( “氷冷の魔公子”に、人間的要素があって安心した、なんて本人には言えないな )


一人静かに微笑んでから、今度はダリアを寝台に寝かせるヴィンスへと視線を移した。

ヴィンスは心底心配そうに青白いダリアの表情を見つめている。幼馴染であり、悪友でもあるヴィンスの初めて見る表情にトピアスは目を丸くした。悪態ばかり()きながらも根は優しいヴィンスであるが、基本的に無表情で感情を表に出さないこと、キツイ物言いや口調に免疫のない人物は早々にヴィンスから離れていく。特に第一王子の幼馴染であり側近であるヴィンスに益を強請るような人物に対しての当たりは強く、当てつけの様にヴィンスのありもしない悪い噂を流す者も多い。故にヴィンスは侯爵家にも関わらず交友関係は酷く狭かった。ヴィンス自身はそのことに関して特に不便を感じている様子は見られないが、友人としては交友関係を広めてほしいとお節介的心情を抱いてしまう。

そんな、普段感情を表に出さないヴィンスの人間らしい顔に驚きつつも同時に嬉しさを覚えるトピアスの胸の内等、この場にいる誰も知り得ない。


「────……ダリア嬢の体調も良くない様だし、一先ず場所を移そうか。良いかな、ライラック」

「勿論です。すぐにご案内いたします」


ライラックはトピアスの計らいにすぐ頷く。

流れを見守っていたアンタレスはライラックの答えを聞いてすぐトピアスに頭を下げ、


「トピアス王太子殿下、僭越ながらご案内させていただきます」


と告げ、案内を始める。トピアスが来た時点ですぐに応接間の準備を始め、トピアスを案内出来るよう環境を整えていた。アンタレスの仕事の速さにライラックも一安心しながら、横たわるダリアを見遣る。魘されるダリアの顔色は悪く、苦しそうに眉根を寄せていた。その傍らで、心配そうにダリアを覗き込むヴィンスの肩にライラックはそっと手を添え、


「ヴィンス殿も、参りましょう」


と移動を促す。ヴィンスはライラックの言葉に小さく頷き、もう一度ダリアの表情を見てから立ち上がる。婚約者と言えどまだ婚姻していない状態で、二人きりになるのは世間的にもあまり良いことではない。しかも相手が眠っている無防備な状態ともなれば尚のことである。ヴィンスはライラックに続く形でダリアの私室から出て、応接間へと向かった。



「────……では、件のアンジェリカ嬢について王家の方針を伝えよう」


応接間に案内されたトピアスとヴィンスは、ライラックと向き合う形で座り、まっすぐにライラックを見つめる。

座るライラックの後ろに立つアンジェリカは、自分の行く末が決まるのだと思うと今にも震え出してしまいそうだった。


「アンジェリカ嬢は一時的に王家で保護する」

「!」


“保護”という言葉にその場がざわめく。

互いの国で唯一共通であり、絶対的なルールを破った者への対応としては、まさに“異常”であった。

ハロルヴァ家は国筆頭貴族故に保守派の印象も強い。そんなハロルヴァ家の次期当主であるライラックの前で“保護”という言葉を使ったトピアスの意図と王家の意図が上手く読み取れず、ライラックは無表情にトピアスを見つめる。屈託なく笑う朗らかな印象のトピアスだが、今はしっかりと“王族”の仮面を貼り付けており腹の底は探れない。ライラックは下手な駆け引きは諦めて、トピアスの言葉に深く頷いた。


「王家の御心のままに」


胸に手を当て会釈するライラックに、トピアスは笑顔を向ける。そして渦中のアンジェリカに視線を移すと、その不安に震えるペリドットの瞳と視線が絡まった。


「────……アンジェリカ嬢、申し訳ないが君に拒否権はない。王城に連れて行くが不当な扱いはしないと約束しよう」

「はい、全て異論ございません」


アンジェリカは深く頭を下げると、それを合図にトピアスは立ち上がる。


「では行こうか。ライラックも、忙しいのに先触れもなくすまなかった」

「いえ、謝罪など恐縮です」


トピアス達を見送るため、ライラックも立ち上がる。トピアスやライラックに促される形でアンジェリカもゆっくりと部屋から退出した。

ハロルヴァ邸の前に王家の紋章が入った豪奢な馬車が到着し、御者が扉を開ける。


「ダリア嬢にはくれぐれも大事にするよう、伝えてくれ。真面目な彼女のことだ、王族の前で倒れたことを気にしてしまいそうだからな。今回は体調不良であるにも関わらず先触れもなく訪問した私が全面的に悪いということを伝えてほしい」

「勿体ないお言葉、ありがとう存じます」


ライラックはトピアスの言葉をありがたく受け取り頭を下げて礼を告げた。トピアスもライラックの言葉を受け取り、馬車へと乗り込む。アンジェリカは自身が平民であるが故、公爵令息という立場のライラックに気安く話しかけることなど出来ず、マナーも学んでいない為カーテシーなども出来ない。唯深々とお辞儀をして謝罪と感謝の気持ちを伝え、馬車へ乗り込んだ。


「此の度は突然の訪問、失礼いたしました」


最後にヴィンスがそう言葉を投げると、ライラックは複雑そうに微笑む。


「いえ、ダリアの体調が優れず申し訳ありません」


最愛の妹の婚約者など、ライラックからしたら敵でしかないのだ。しかし、政略結婚は貴族令嬢の務めでもある。しかも自分が公爵家を継ぐ人間である為に、ダリアにその責を負わせてしまっていることも事実であり、ヴィンスを敵であると素直に噛みつくわけにもいかない。ヴィンス自身良い噂は少ないが、かと言って信憑性の高い悪い噂を聞かないのも事実。ライラックとしては無下に扱うこともできなければ素直に受け入れることも難しい相手なのだ。


「もう少し回復されましたら、また見舞いに来ても良いでしょうか」

「────……ええ、ダリアも喜びます」


嫌だ、と突っぱねられたらどんなに良いか。ライラックは貴族の仮面を貼り付けて微笑み、ヴィンスを乗せた馬車を見送った。



「────以上が事の顛末だ。だから、本当に王太子殿下は気にしていないよ」


ライラックからダリアの倒れた後の事を丁寧に聞き取り、ダリアは心底安堵する。

しかし同時に動揺もしていた。やはり、ヴィンスが婚約者であることは確定している事と、ヴィンスに抱きかかえられてベッドに乗せられた事、また見舞いという形でまた会いに来るという事。その三つの事実にダリアは戸惑いと困惑で軽い眩暈に襲われる。


「……まだ、体調は悪そうだね。今日は休んでいなさい」

「はい……。申し訳ありません」

「謝ることじゃない。ダリアが倒れた時……、本当に全身の血の気が引いたんだ。どうか安静にしていて欲しい」


切れ長でクールな印象の瞳が細められ、困ったように眉尻を下げる表情は恐らくダリアしか見たことが無いだろう。ダリアは不思議な優越感を覚えながら、素直に頷いて布団に体を潜り込ませた。


(わたくし)、お兄様に迷惑かけてばかりね」

「そんなことは無い。ダリアの存在が、私の生きる意味だからね。唯一の兄弟なのだから、このくらいの迷惑ならいくらでもかけなさい」


そう言って微笑むライラックは公爵令息の仮面は着けておらず、唯の「兄」としてそこに居た。

ダリアも小さく笑って応えると、言われた通り目を閉じる。

前世の記憶を思い出してから、情報量の多さに脳が処理しきれずキャパオーバーしていて慢性的な頭痛が続いているダリアは、目を閉じるだけで不快感が少しだけ和らぐのを感じた。


「ありがとうございます、お兄様」


ダリアの言葉に応えるように、ライラックは右手でそっとダリアの額にかかる前髪を払い、そのままの流れでそっと頭を撫でる。手のひらを二、三往復しただけでダリアからは規則正しい寝息が聞こえてきた。すやすやと眠るダリアの寝顔はどこか幼い。


「カペラ」

「はい、ライラック様」


ダリアが眠ったのを確認し、ライラックは立ち上がってカペラを傍に呼ぶ。


「ダリアが目覚めたら消化の良い料理を出すように。それから医師を手配しておくから、到着したらダリアを診てもらいなさい。私は昨日の件で父上へ報告のため登城しなくてはならない。五日は帰れないだろうから、何かあればアンタレスへ」

「承知いたしました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」


カペラがお辞儀すると、ライラックは背を向け部屋から出て行った。カペラはベッドで無防備に眠るダリアの顔色がまだ悪いことが唯気がかりであり、眉尻を下げる。


「ダリアお嬢様……」


うっすらと汗の浮かぶ額を清潔な布巾で拭き、自分の主人の体調が早く回復してくれることを唯願った。







トピアスの前で倒れた翌日、兄から倒れた後の顛末を聞いたダリアはその後も体調が優れない日が続き、王都に登城していた為に傍に居られないライラックの過保護すぎる命令によって、カペラ、アンタレスの監視下でダリアは静養を強制されていた。排泄と湯浴み以外はベッドから下りることも許されない生活が三日続いた頃、


「いい加減、外の空気が吸いたいのだけれど」


ダメ元でカペラにお願いしてみるが、言い切ると同時に「ダメです」と一刀両断され肩を落とすダリアのいる部屋に、ノックの音が転がる。


「はい、ただいま」


カペラが答え、扉を開けるとそこにはアンタレスが神妙な面持ちで立っていた。


「どうしたの、アンタレス」


ポーカーフェイスを崩さないアンタレスの人間味溢れる表情に、ダリアがそう声をかけると、アンタレスは重々しく閉ざされた唇をゆっくりと動かす。


「────……グレンフェル侯爵令息が、お見えです」

「えっ、……!」


ダリアの声は上ずり、唇を滑って外に出て行った。

驚きに目を丸くするダリアとは裏腹に、アンタレスは目線を伏せ、カペラも深刻そうに眉根を寄せている。


( 何か問題でもあったのかしら……。いや、こんな寝起き寝間着ドすっぴん状態で推しに会うなんて問題しかないじゃない……! )


ダリアはハッ、と我に返り慌ててベッドから下りた。


「カペラ、今すぐ身支度するわ。アンタレスはヴィンス様を応接室に案内して」

「……ですが……!」


ダリアの言葉を珍しく拒む素振りを見せたアンタレスに、ダリアは全てを察した。


( さては、お兄様ね……。大方、(わたくし)の体調が回復していないだの何だの理由をつけて、誰にも会わせないように、もしくは部屋から出さないように言いつけていたんだわ )


ダリアはそう推測して不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

実際は、


「アンタレス、例えダリアが回復してもヴィンス殿にだけは会わせるな」

「……承知いたしました……が、ダリア様自身がご納得されないのでは?」

「では、ダリア自身に外出しないよう言いつけるんだ」


と、自分がいない間に、婚約者と逢瀬を重ねることを良しとしないライラックの想い(シスコン)が発動しただけであり、それ以上でも以下でもないのだが、その事実をダリアが知る術はない。

アンタレスもダリアの気持ちを優先してあげたい気持ちと、自身が守るべきはライラックの命であることから、複雑に感情が揺れ動き先ほどの表情を見せたのであろう。


( どの時代も、“中間管理職”って大変ね…… )


前世の記憶であろう言葉が脳裏に浮かび、言い得て妙だとその言葉をそのままなぞる。

アンタレスの気持ちを汲んであげたいが、推しにも会いたい。

しかし、今はとてもではないけれど会える格好ではない。身支度にはそれなりの時間がかかることや、実際病み上がりであり体力的にも長時間人に会うことも身支度自体、今のダリアには負担が大きい。

以上の状況を鑑みて、今回はアンタレスの為にもヴィンスに会うことはやめよう。と判断し、言葉にして伝えようとした瞬間。


「愛しの婚約者様は、まだ寝ているのでしょうか?」

「!」


部屋に滑り込んできた低く、甘い声にダリアの薄い肩が跳ねる。

良く知っている筈なのに、知らないような低い声のする方に視線を向けると、そこに立つのはブリュネットの髪が綺麗な酷く顔立ちの整った男性だった。


「ヴィンス、様……」


ダリアが掠れるような声で名を呼ぶと、ヴィンスは目尻をわずかに下げ、柔らかく微笑む。


「体調はどうですか、ダリア嬢」

「ふぐぅ……!」


あまりにも柔らかく、優しい微笑みにダリアの心臓はいとも簡単に打ち抜かれた。


「ははっ、本当に面白い反応を見せてくれますね」


少年のように無邪気に、けれどどこか色っぽさを感じさせる笑顔にダリアは推しの過剰供給でまた倒れてしまいそうになる。しかし、ここで倒れて二度も同じ醜態を晒すことは許さない、と気力で踏ん張りヴィンスに視線を向けた。


白磁のような白い肌に、陽光に透け金色に光るブリュネット。

グレーダイアモンドのような透き通った灰色の瞳は、ダリアの持つダークグレーの瞳とまた少し違った色合いに見えた。整った顔立ちに見惚れていると、


「お嬢様」


カペラがこっそり耳打ちをしてきて、ダリアはハッ、と我に返った。


「お嬢様、身支度をしませんと……」


カペラの言葉に、今自分が完全に寝間着であることを思い出して頬に一気に血の気が集まっていく。


「ヴ、ヴィンス様!(わたくし)このような格好で……身支度をいたしませんと……!」


耳の先まで赤くする婚約者の反応を見ながら、ヴィンスは小さく笑い、ダリアに歩み寄る。ヴィンス(推し)の視界から一刻も早く外れて隠れたいと思っているのに、何故近づいてくるんだこの人は、と理不尽すぎるヴィンスの行動に疑問を覚えながらも、逃げ場のないベッドの上でヴィンスが自分の目の前にまで来るのを唯待つことしかできずにいた。

そしてヴィンスがダリアのすぐ目の前にまで来ると、ヴィンスは人差し指でダリアの綺麗なホワイトブロンドを掬い、自身の唇に当てる。


「その恰好のままでも、別に私は構いませんが」


ぎゃああああ、と大きな声で叫び出したかったがそれをどうにか公爵令嬢の気力だけで堪え、すぐ目の前に迫るヴィンスの顔を直視しないよう、視線をわざとらしく反らせることしかできなかった。


「……まだ顔が赤いですね」


貴方の所為です、とは勿論言えない。

ダリアは黙って俯き、羞恥心から華奢な体を小さく震わせる。そんなダリアを見て、やはりまだ体調が優れないのだろうと判断したヴィンスは一歩下がってダリアから距離を取った。


「体調が悪いのに、押し入ってしまい申し訳ありません。何度か先触れは出したのですが返事がなかったので無理に来たのですが……、また日を改めるとしましょう」


先触れ?と疑問を視線に乗せてすぐ傍にいたカペラを見るけれど、あからさまに視線を反らされてしまう。ああ、なるほど。これはライラック絡みかとすぐに推測し、ダリアは小さくため息を吐いた。


「こちらこそ、わざわざご足労頂いたのに申し訳ないです……」


眉尻を下げヴィンスに謝罪をするダリアに、ヴィンスは柔らかく微笑んで返す。


「いえ、今日は顔が見れただけで十分です」


画面越しに見ていた瞬きをしたり時々笑顔を覗かせたり、一枚一枚の絵を重ねただけの“映像”ではなく、彼もまた生身の人間であり、この時この一瞬を生きている存在なのだと、当たり前のことを噛みしめたダリアはどこか申し訳なさそうにヴィンスを見つめた。


「────……それじゃあ、ダリア嬢……、お大事に。また来ます」

「はい……」


ヴィンスの言葉に短く返事をすると、ヴィンスはそれを合図にダリアの部屋から出て行く。アンタレスが見送りにいくため、ヴィンスの後を追い扉は完全に閉められた。


「っはぁ~~~~~~……」


ダリアとカペラは二人で深く息を吐き、緊張を体外へと吐き出す。


「カペラ、ちょっとお話があるのだけれど」

「……私からは何もないですよ……?」


カペラはさっと視線を反らしてダリアから距離を取った。勿論、ダリアはそれを許すまいとベッドから下りて詰め寄る。


「お許しくださいぃっ、私からは何もお伝えできません」


眉尻が下がり、困った表情を見せるカペラから言質をとり、どれもこれもライラック絡みであることを察したダリアは呆れた様にため息を吐いた。そこへ、ヴィンスの見送りを終えたアンタレスが丁寧に扉をノックして中へと入ってくる。


「お嬢様、カペラは私の命に従ったに過ぎないので、その辺で御赦しくださいませ」


元々怒っていたわけではないが、アンタレスの言葉に「分かったわ」と短い言葉で返してダリアは再びベッドの縁に座った。


「お気づきかと思いますが、全てライラック様のご意思によるものでして……」

「そんなことだろうと思いましたわ。全く、お兄様も過保護なのだから……。少し倒れたくらいで、こんなに過剰に守っていただかなくても良いのに」


実際は妹思い(シスコン)の嫉妬が大爆発しただけなのだが、それはアンタレスだけが知る事実であり、アンタレスもむざむざ妹からの評価を下げることもあるまいと、ダリアの言葉を肯定するように黙り込む。


「それよりもアンタレス、お医者様を手配してくれる?お医者様にきちんと診ていただいた上で結果をお兄様に報告すれば、少しは安心してくださるわよね」

「……は、では本日中に医師を手配いたしましょう」


アンタレスはダリアの言葉に頷きすぐに行動を始めたのを確認し、ダリアは倒れ込むようにベッドに体を沈めた。ライラックは元々妹思いである設定が確かにあったことを思い出す。ライラックルートは「未配信」となっていた為、前世でライラックとの恋を選択することはできず、他のキャラクタールートのストーリー上で紹介されるライラックや、公式ホームページに記載されていた設定で「妹思い」の文字が綴られていた。


( よもやここまでとは……。お兄様に愛されているのは良いことの筈なのに…… )


この世界でも、養子等で血が繋がっていなければ例え兄弟でも結婚することは認められている。しかしライラックとダリアは正真正銘血の繋がった兄妹であり、ライラックとダリアが結ばれる世界線は存在しない。事実、ダリアにはヴィンスという婚約者が宛がわれているし、ライラックと恋に堕ちる可能性があるとすれば、乙女ゲームのヒロインでありこの世界の主人公である「アンジェリカ」だけである。

しかし、そのアンジェリカも前世の記憶を元に考察すると、今現在トピアスルートを進んでいるのだ。ライラックと結ばれる可能性は低いだろう。

ライラックの置かれている立場から考えると、ダリア(自分)にばかり構っている暇も余裕もないだろうに、とライラックの行く末を勝手に心配し、ダリアは落ち込む。


(わたくし)がもっと頼りがいのある妹になることができれば、お兄様も安心してくださるかしら」

「────……恐れながら、それは難しいのではないでしょうか」


独り言のように零した言葉に、傍に居たカペラが反応した。


「あら、どうして? (わたくし)が頼りないばかりに、お兄様に迷惑や心配をかけてしまっているのよ。(わたくし)がもっと自立できていれば、私という負担が減るのではないのかしら」


ダリアの言葉から、ライラックのシスコン度合いが正確に伝わっていないことを瞬時に把握したカペラは慎重に言葉を選ぶ。


「……そうですね、ライラック様はダリアお嬢様をこの上なく溺愛していらっしゃいますから……。お嬢様を心配されるのは、最早趣味の領域に入っているのではないかと思います」


寧ろ、ライラックの手が届かないほどにダリアが自立してしまった場合、ライラックの行き場のない愛情は矛先を失い、どう暴走するか分からない。

今後もハロルヴァ家に仕えるであろう使用人たちは、ダリアとヴィンスの婚約を喜びつつもライラックの動向にずっとハラハラしているのが現実である。事の深刻さをダリアにしっかりと伝え正確に把握して欲しいと思いながらも、どう伝えるべきか悩むカペラはそれ以上言葉を紡ぐのを諦めた。

それと同時にダリアの部屋の扉がノックされ、カペラはこれ幸いとノックに応じる。


「ダリアお嬢様、お医者様がいらっしゃいましたよ」

「あら、随分早いのね」


カペラの言葉に、ダリアはベッドに沈ませたままの上体を起こした。


「はい、どうやらお嬢様が体調を悪くされた時の為にと、ライラック様の計らいで屋敷のすぐ傍の宿に滞在してもらっていたようでして」

「そうだったのね。何から何までお兄様の負担になってしまっていて、申し訳ないわ……」

「ここは素直に、ライラック様のご厚意に甘えましょう。お医者様をお通ししますね」


未だ、ライラックの重過ぎる愛に気付かないダリアに、カペラは半ば諦めのため息を吐きながら廊下で待機している医師を部屋の中へと通す。

医師の手際良い診察はすぐに終わり、ダリアの体調は回復していること、適度な運動は寧ろ体調回復に必要なプロセスであることを医師の診断の元証明してもらい、ダリアはホッと胸をなでおろした。


「病み上がりですので、くれぐれも無理のない範囲でお願いしますね」

「ええ、肝に銘じますわ」


穏やかな医師の言葉にダリアはしっかりと頷いて応え、医師を見送ってすぐにライラックへ手紙を書くため筆を執る。自分はすっかり健康体になったこと、体調回復のために適度な運動を再開することを書き記し、医師の診断書も同封した手紙をアンタレスに預けた。


「これで、晴れて自由の身よ。明日は久しぶりに庭の散策でもしようかしら」


筆記具を片付けながら、ダリアは日が傾き始めた窓の外を見遣る。

影が伸びるこの時間は、ほんの少し寂しさと人恋しさを覚えるが嫌いではない光景であった。前世でも、夕方というのは形容し難い寂しさを覚えるものだったな、と思い出し記憶の中の光景と重ねた。


暫くして、アンタレスが風魔法の応用で手紙を既にライラックに送ると、ものの数分でライラックからの返事があったことを伝えられ、ダリアはライラックからの手紙の封を恐る恐る切った。


そこにはライラックらしい丁寧で美しい文字が羅列しており、


「ダリアの気持ちを汲んで外出は許可するが、あくまで敷地内だけである。敷地から出ることは絶対に許さない」


といった内容がそれはそれは丁寧にオブラートに包まれた言葉で並べられていた。

ライラックの過保護さに呆れながらも、明日は予定通り庭の散策程度ならできそうだと、久しぶりに外の空気が吸えることを密かに楽しみにしながら、ダリアは眠りに就く。


つま先に触れるシルクのシーツの素材が気持ち良くて、病み上がりのダリアの意識はすぐに夢の底へと沈んでいった。




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