52.対峙と葛藤
「────以後のことは、この場にて私が引き継ぎます」
ライラックの言葉が、その場に落ちた。
その瞬間、場の空気が変わった。
先ほどまでは、歴史が変わるという一種の高揚感溢れる空気だった。
そして、その空気を支配していたのはトピアスだったのだ。
しかし、ライラックが登場し、その良く通る声が響いた瞬間から、空気の所有者がライラックへと移り変わった。張り詰めていた糸は断ち切られ、代わりに広がったのは、重く、粘つくような現実だった。
貴族たちは互いに視線を交わし、先ほどまでのざわめきとは質の異なるざわめきが、静かに広がっていく。
それは期待ではなく、警戒。
そして――打算。
「……」
トピアスは、その変化を肌で感じていた。
ほんの一言で、ここまで流れを塗り替えるか。
(……やはり、厄介だな)
ライラックの存在が、この場における“前提”そのものを覆した。
王の間に流れる空気は、すでに“議論”ではなく“査定”へと変わっていた。
「……続けよ、トピアス」
王の低い声が、静かに落ちる。
逃げ場はない。
トピアスは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。
(ここで退くわけにはいかない)
たとえ空気が変わろうと。
たとえ盤面が塗り替えられようと。
自分がやるべきことは、変わらない。
「────では、続けさせていただきます」
その声は、先ほどよりもわずかに低く、しかし確かに芯を持っていた。
「先ほど申し上げた通り、手記に記された真実を証明する手段は存在します」
場の視線が、再びトピアスへと集まる。
だがその視線は、もはや先ほどまでのものではない。
疑いや値踏み。貴族らしい視線がトピアスに絡みつく。
それらすべてを受け止めながら、トピアスは言葉を紡ぐ。
「時遡行……。
この魔法の行使には、膨大な魔力が必要とされます」
淡々と、事実だけを積み上げる。
まるで、薄い卵の殻の上を歩いているような気持ちだ。
少しでも気を抜けば崩れてしまいそうな地面を踏みしめ、トピアスは姿勢を正し、話を進める。
「ヴェイル・フェルノートの試算によれば、必要とされる魔力量は……およそ、6000マナ」
その数字が落ちた瞬間、再びざわめきが広がる。
だがトピアスは、そこで止まらなかった。
「通常であれば到底提供できる量のマナではありません。
しかし、その条件を満たし得る存在こそが────アンジェリカという少女なのです」
その一言に、空気が静まる。
誰もが、次の言葉を待っていた。
トピアスは、ゆっくりと視線を上げる。
――ここから先は、引き返せない。
それでも、進まなければいけない。
トピアスは脳内で素早く言葉を組み立て、そして発信していく。
「アンジェリカ嬢の魔力に加え、私自身の魔力、そして……」
わずかに、言葉が詰まる。
ほんの一瞬だけ、トピアスの視線がライラックへと注がれる。
その視線の先に気づいた者はいないだろうが、トピアスは反射的に目を反らした。
「────ハロルヴァ嬢の魔力を合わせることで、行使は可能となります」
その言葉が落ちた瞬間。
場の空気は、完全に別の意味で凍りついた。
その視線の先が、誰に向けられたのかを理解したからだ。
「……なるほど」
ライラックが静かに頷く。
周りから向けられる視線など、まるで気にもしていない素振りで、ライラックは鋭く尖ったような視線をトピアスへ向ける。
「つまり、私の妹を利用する、ということでしょうか」
ピリッと空気が痺れたような気がした。
誰しもが息をすることすら忘れ、緊張感で溢れるやり取りを見守るしかなかった。
トピアスは、ライラックの言葉に押し黙る。
その言葉の本質を、誰よりも理解しているからだ。
確かに、利用するのだ。ライラックの言っていることは間違ってはいない。
けれど、その物言いではダリアを傷つけてしまうのではないか。
その言葉を選べば、すべてが崩れる。
そう理解していたからこそ、トピアスは俯くしかなかった。
「────ご存知の方もいるでしょうが……
先日、私の妹が重傷を負いました」
「!」
どよめきで空気が揺れる。
そして、その空気は伝染するようにトピアスとヴィンスをも震わせた。
「ダリアも、貴族……。
ひいては、スヴァルトシェレナ国随一のハロルヴァ公爵家の者です。
貶めるために命を狙われることもあるでしょう。
……しかし、私の耳に届いたのは────……」
ライラックは意味深にそこで言葉を区切ると、冷たい視線でヴィンスを射貫く。
「婚約者殿を庇い、負傷したという事実でした」
ヴィンスの心臓が跳ねる。
嫌な汗が溢れ出て、頬を伝っていく。
「婚約者を身を挺して庇う話は美談にも聞こえましょうが……。
私からしたらそうは思えないのですよ」
澄んだ声は、どこまでも静かだった。
それが、かえって底知れぬ圧を生む。
「ダリア自身が狙われたのならばいざ知らず、ダリアは婚約者を庇った。
狙われたのは、婚約者────ヴィンス殿だったのです」
ライラックの言葉が突き刺さる。
「ヴィンス殿……。あなたは私に言いましたね。
ダリアを守る、と。だから婚約を継続させてほしいと。
そう、確かに……」
静かに、けれど確かに急所を突くような言葉にヴィンスは唇を噛みしめる。
言いたいことはあれど、そのどれもがただの言い訳であり、分かっているが故に言葉が喉元に張り付いて出てこない。
「その約束は破られた。
ダリアを守るどころか逆に守られ、傷つけ、死の淵を彷徨わさせた。
またこういったことがないとも言い切れない、あなた方の傍にダリアを置けと申しますか」
ライラックが妹を溺愛しているということは周知の事実であり、ライラックの言葉に貴族たちは深く頷くだけだった。
そうでなかったとしても、自身の娘や息子にダリアを当てはめ、危険な橋を渡らせたくないという想いに共感したようで、誰一人として口を挟む者はいなかった。
「ダリアの安全が保障されない以上、殿下からの申し出を許可することは出来かねます」
ライラックの言い分は尤もである。
実際にダリアの受けた矢傷を思い出し、ヴィンスの心臓は縮まる思いだった。
あんな怪我を────
もう二度と、ダリアを危険な目に遭わせたくない。
ライラックの声音は変わらない。
部屋に入ってきた時から、今こうして、ヴィンスの落ち度を詰める間もずっと一定のトーンで話し続けている。
そして同時に、ライラックの言葉の裏を読み取ればヴィンスに残された道は一つしかないのだ。
(────ああ、くそ……)
あの銀糸の髪が、好きだった。
白磁の肌も、宝石をはめ込んだような瞳も。
少し吊り上がった目尻が、笑うと下がる瞬間。
澄ましたような表情も、時折見せる子どものような無邪気な笑顔も。
耳の先まで赤くした照れた顔、そして────
「ヴィンス様」
彼女が俺の名前を呼ぶ、あの声が────
(好き、だったんだよな……。
……畜生……)
ヴィンスは心の中の葛藤を押さえつけ、星のようなグレーの瞳で愛しい人と良く似た男をまっすぐに捉える。
「────私は────……」
ヴィンスの覚悟が、空気を震わせた。
────……一方その頃。
塔の上の病室。
「────……」
閉じられた薄い瞼が、わずかに震える。
華奢な指先が、ぴくりと動いた。




