06. シスコンと婚約者
「お嬢様……」
「────……なんでもないわ、アナスタシア」
前世の記憶が不意に蘇り、自分がゲームの登場人物であることを知ったダリアは急激に溢れる情報量に眩暈を覚える。侍女として付き添うアナスタシアのダリアを気に掛ける声に小さく微笑んで返し、ダリアは今、オシラブの物語の中で、アンジェリカの友人となる“ダリア・バーベリ・ハロルヴァ”なのであると、そう自覚して記憶の整理をする。
「話を折ってしまってごめんなさい。アンジェリカ、と言うのね。あなたはあそこで何をしていたの?」
「……あ、人と待ち合わせを……」
アンジェリカの言葉に生前の記憶が蘇り、目の前の景色とぴったりと重なった。
( そうか、さっきのは第一王子ルートの最初のシーンね…… )
まだ少し前世の記憶は霞みがかった様に輪郭がぼんやりとしているけれど、自分が“ダリア”であることと生前のプレイした記憶があることで、状況を処理し、理解するまでが早い。
どのルートでも基本的にダリアとアンジェリカは最初に出会う。出会い方が微妙にそれぞれ違うが、領民に“海駆人”であることを疑われ、ああして囲まれたところをダリアに救い出されるシーンは第一王子であるトピアスを選択した際のシーンだということを思い出した。
( ということは、待ち合わせの相手は……、 )
ダリアはこの後の展開を思い出しながら、記憶の中の台詞をなぞる。
「……待ち合わせ……、それは、“関係改革派”の誰か、とかしら。」
「!」
記憶が正しければ、アンジェリカはこの後肯定し、自分の素性を明かしてくれるのだが……。
ここはゲームの中ではない。実際にダリアたちが生きている、現実なのだ。
記憶と違う展開になるかもしれない。ダリアの記憶通りに物事が進むとは限らない。
震えだしそうな程の緊張感の中、ダリアはアンジェリカの言葉を待つ。
ゲーム内では、自身の画面タップで場面が展開していくが、現実ではこの沈黙がこんなにも長いことを、生前の自分は知らなかった。
「────……はい……」
長い、長い沈黙の中。馬車の揺れと車輪の音だけの世界を割ったのは、肯定の言葉。
ダリアは内心バレないようにホッと安堵しながらも表情は変えず、アンジェリカをまっすぐに見つめた。
「……良かった。安心して、私も“関係改革派”の一人だから」
「っ、ダリア様も、ですか……!?」
「ええ」
驚きに目を丸くするアンジェリカに、短く答えて小さく微笑んで見せる。
この世界には、理不尽な歴史が刻まれていた。
その歴史の真実を知る者は長すぎる歴史の中へと溶けて消え、文献なども殆ど残っていないにも関わらず、根強く“スヴァルトシェレナ”と“オーケリウム”を引き裂き続けている。
そんな歴史を“理不尽である”と捉え、両国の溝をなくしたいと考えているのが“関係改革派”と呼ばれる派閥。
歴史こそ正義であれ。と謳うのが、“保守派”、どちらにも属さず物見遊山を決めているのが“中立派”と大きく分けると三つの派閥に分かれているが、貴族間では“保守派”と“中立派”がその殆どを占めており、国民は“中立派”が五割、“関係改革派”に属する者と“保守派”が半々くらいに割れていた。“関係改革派”はその殆どを若者が占めており、長すぎる時間の中で一種のフィクションと化している歴史に終止符を打つために活動しているが、保守派の力が強すぎるため、その活動は公には出来ず水面下での活動となっている。
貴族に“関係改革派”が殆どいないことから、ダリアのカミングアウトにアンジェリカが驚くのも無理はない。アンジェリカの反応を見るに、オーケリウムも派閥の割合は同じくらいなのであろう。
アンジェリカにはカミングアウトしたが、実のところダリアの両親も、唯一の兄弟である兄も“保守派”であることから、ダリアが“関係改革派”であることを知らないのだ。
「……ダリア様のご推測の通り、私が今日待ち合わせていたのは“関係改革派”の一人です」
「そう……」
貿易も人の出入りも全てが禁止されている両国間で連絡を取りあうことは容易ではない。
ゲーム内では確か、オーケリウムの魔道具を利用しているシーンがあったけれど、魔道具についての詳細は描かれていなかったことをぼんやりと思い出しながら、アンジェリカの話とダリアの生前の記憶を重ねてなぞっていく。
「きっと、領民が言っていたあなたが“海駆人”であることも、間違いではないのね」
ダリアの言葉に、アンジェリカは重々しく頷いた。
「……経緯はどうであれ、領民の間で騒ぎを起こしてしまった以上あなたをこのまま解放することは難しいの。これから私の屋敷へ連れて行くことになるわ」
「……承知いたしました」
アンジェリカは俯き加減でそう小さく呟く。
本来であれば震え、泣きだしてしまっても仕方がないのに、彼女は悲し気ではあるものの毅然としており、光を閉じ込めた様なペリドットの瞳に強い意志を宿していた。
屋敷迄の数十分……、馬車内は唯々静かで。車輪の音と衣擦れの音だけが酷く大きく聞こえた。
────……暫く走ったところで豪奢な門を潜り、大きすぎる屋敷の前で馬車は停まる。
馬車の扉を外に待機していた執事がゆっくりと開け、ダリア、アンジェリカ、と続いて降りた。
「お帰りなさいませ、ダリアお嬢様。そちらのご令嬢は、お客様でしょうか」
馬車の扉を開け、すぐ傍に立つ品の有るロマンスグレーが素敵な執事、アンタレスが、モノクルの奥に光る恒星のような綺麗な紅い瞳を私の後ろに立つアンジェリカに向ける。アンタレスの質問と探るような瞳に応えるよう、ダリアは頷いて見せた。
「ええ、私の客人よ。少しトラブルに巻き込まれてしまって……。汚れてしまったので湯浴みの用意をお願いできるかしら。準備が整ったら、私の部屋へお連れして」
「畏まりました」
アンタレスに指示を出すと、ダリアは振り向いてアンジェリカに小さく微笑む。
「大丈夫よ。後で待っているわね」
「はい……」
アンジェリカは不安そうではあるが、拒否することも逃げることも出来ないため、全てを受け入れるしかない。ダリアは少しでも不安を取り除けるよう精一杯柔らかく微笑むけれど、アンジェリカの表情は暗いままである。
「────……アンタレス」
「は」
「湯浴みには人をつけないで頂戴」
ダリアの意味深な指示にアンタレスは何も言わず、静かに頷いた。
「お嬢様もお召し変えを」
「ええ、お願いするわ」
アナスタシアに促されたダリアは自室へと向かい、侍女たちに髪や化粧を直してもらう。アナスタシアは着替えの準備を、とダリアの元を離れた。
侍女たちが手際よく髪型を整えてくれている間、ダリアは記憶の引き出しを指先でなぞり、“オシラブ”のラベルが貼ってある引き出しを開けた。
( 確かこのあと……、 )
ダリアに連れられ、アンジェリカはハロルヴァ邸にやってくる。そこにトピアスもやってくるのだけれど、恐らくトピアスはあの場に居た、もしくはあの騒動を知っていて、ダリアに連れていかれる場面を目撃していた筈。そうでなければ、こんなタイミングで王族が公爵家の元に来るはずがないのだから。
それよりも、トピアスが来る前に少し厄介な場面があることを思い出し、ダリアはひっそりとため息を吐いた。
「お嬢様、やはり体調が優れませんか?」
「医師をお呼びいたしましょうか」
疲弊した様子のダリアに、侍女が心配そうに声をかけてくれるが、ダリアは小さく首を振って答える。
「私は大丈夫」
無理をしているのではないか、という疑いが燻る侍女たちの表情は、やはり晴れないまま。戻って来たアナスタシアに「ハロルヴァ家の侍女がそんな顔をするものではない」と咎められ、侍女たちも表情を作り直したところで、同じく身嗜みを整えたアンジェリカがアンタレスに連れられてダリアの部屋へとやってきた。
アンジェリカは、ダリアの部屋に入るや否やその形の整った眉尻を下げ、ペリドットの瞳でダリアをまっすぐに見据えた。
「ダリア様、このようなドレス……!」
「貰えない、なんて言わないで。どちらにせよ、そのドレスは私には似合わない色なの」
アンジェリカに用意したドレスは確かに高価な物ではあるけれど、大振りのリボンにフリルの沢山ついた甘めのデザインで、色もカスタードクリームのような淡い黄色をベースに、フリルや刺繍はジェオルジのような明るいオレンジ等のビタミンカラーで鮮やかな色合いのものである。ペリドットの瞳にダークブロンドを持つアンジェリカには良く似合うが、ホワイトブロンドにダークグレーの瞳を持つダリアには似合わない。
( お世辞にも、ダリアは“可愛い”とは言えないしね )
切れ長で少し吊り上がったダークグレーの瞳は美しいが、可愛らしさはない。どちらかと言えば“綺麗”系であるダリアに、可愛らしいデザインはちぐはぐ過ぎて浮いてしまうのだ。
「あの……、ありがとうございます」
恥ずかしそうに、申し訳なさそうに。
それでも、どこか嬉しそうに僅かに持ち上がった口角に、ダリアの口元も僅かに緩む。
それと同時にアンジェリカが今着ているドレスが、トピアスルートでのアンジェリカの基本衣装と同じであることに気が付いた。ゲーム内でもダリアがヒロインを助け出した後にドレスを貸し出すシーンがあり、そこでは攻略中のキャラの好感度が上がるようなドレスを選ぶ場面があった事を思い出し、記憶の中のゲームのシーンとリンクする。
( ……ということは、もうすぐね。……お兄様がいらっしゃるのは )
ダリアが何気なく自室の扉を見遣るのと殆ど同時にノックの音が転がった。
「ダリアお嬢様、ライラック様がお見えです」
先程迄ダリアの準備を手伝っていたアナスタシアの声に、ダリアは小さくため息を吐いてから「どうぞ」と短く答える。
「ダリア!」
返事と扉が勢いよく開かれるのが同時であったことは言うまでもない。
バンッ、と扉が乱暴に開けられて、ダリアに駆け寄るのは、ダリアと同じホワイトブロンドの髪を揺らす男性。
「────……お兄様、お客様の前ですよ。落ち着いてください」
ガバッ、と両腕にダリアを掻き抱くのは、ハロルヴァ家の次期当主であり、ダリアの唯一の兄である“ライラック・ベンジャミン・ハロルヴァ”である。
「落ち着いていられるわけがないだろう。お前がトラブルに巻き込まれたと聞いて、どれだけ心配したことか……」
ダリアの兄ライラックは、眉尻をこれでもかと下げて腕の中のダリアの生存を確かめるように力強く抱きしめるが、腕の中のダリアは苦し気に表情を歪ませていた。
────ライラックのダリアへの愛は重い。
どのくらい重いかが良く分かるエピソードは沢山あるが、その中でも比較的有名で代表的なエピソードは、ダリアと同じ色のホワイトブロンドが自慢で、勿体ないからという理由だけで伸ばし続けているということだろう。その長さは毛先が腰のあたりまであるが、流石に次期当主でもあるライラックは鍛錬などもあるため、邪魔にならない程度に一つに束ねている。他にも「ダリアが寂しがっている気がする!」と言って三日分の執務を半日で終わらせて即時帰宅するなど有能さと同時に周囲が引くほどのシスコンっぷりを見せつけていることは最早日常であり、ダリアよりも青味の強いダークグレーの瞳を持つライラックの見目は美しく次期公爵家当主という立場にいながら婚約者が未だいないのは、そうしたライラックの外見と内面のギャップ故であろうと容易に想像できる。
「────……それで、君だね。渦中の人は」
ライラックは先ほどまでの様子とは打って変わって低い声でそう告げ、頭を下げたままのアンジェリカに視線を送った。アンジェリカは話題の矛先が自身に向いたことで、その華奢な肩を震わせる。
「っ、この度はダリア公女様を巻き込んでしまい、大変申し訳ありませんでした」
アンジェリカは震える声でそう言い切ると、深く頭を下げる。ライラックは氷点下の視線をアンジェリカに向け、唇をきつく結びその下げられた後頭部を見つめた。
「お、お兄様。彼女は────……」
ダリアがすかさず庇おうとするも、ライラックは手のひらをダリアに向け言葉を制する。
「知っているよ。彼女は海駆人なのだろう」
「!」
ライラックの言葉にどうして知っているのだろうか、と不思議に思うが、答えはライラックのすぐ傍にあった。ライラックの三歩後ろに立つ女性、アナスタシアはハロルヴァ家の侍女頭ではあるが、元々ライラックの専属侍女であった。雇用主でもあり現当主である父は登城していて屋敷に居ないこともあり、事の顛末を次期当主であるライラックに報告したのであろう。
今日はダリアの専属侍女カペラが休みをとっているため、ライラックが一番信用できる侍女をダリアに付けたが、そのライラックに事の顛末を伝えるのは侍女として当然の役目と言えよう。馬車の中での会話は、原則使用人は聞いていないものとするのだが……、事情が事情だけに、聞かぬ振りは難しかったのだろう、と推測し、ダリアはやや不服そうに顔を顰めるも、アナスタシアが伝えたという証拠はないため言葉を飲み込んでライラックの対応を待つ。
この後の展開も知っているのだけれど、テキストボックスの中に流れる文字を追いかけるだけだったプレイヤーとは違う。今この瞬間、この場に立ち会っている“人間”なのだ。肌の表面を撫でる緊張感も、一言一言の間も、沈黙も、息を呑む音も、その全てが画面越しとは全く違う。ダリアは普段とは違う兄の姿に戸惑いながらも、“次期当主”らしい圧倒的なオーラに尊敬の眼差しを送る。
「……“海詠人と海駆人は、一切の交流を禁ずる”」
ライラックの低い声に、アンジェリカだけでなくダリアも体を小さく震わせた。
「絶対的であり、唯一、互いの国で共通の法律だ。知らない訳ではないだろう」
「はい……」
ライラックの威圧感に部屋の酸素濃度が下がっていく。アンジェリカの呼吸は浅くなり、か細く肯定の言葉を零すだけで精一杯の様子だった。
「今迄この法律が破られたことは無い。前例のない事だから王室の意見を仰がなければならない為、一先ず令嬢はこちらで拘束させて頂く」
ライラックの一言で、部屋の外に待機していた衛兵数名が素早くアンジェリカを取り囲む。
「お、お兄様」
待って、と声をかけようとしたその時。
「ライラック様……!」
常に冷静沈着であるアンタレスが珍しく慌てた様子で、ライラックの元へと駆け寄る。その様子に流石のライラックも何事かと顔を顰めた。
「ライラック様、第一王子────、トピアス王太子殿下がいらっしゃいました」
「な……っ、」
アンタレスの言葉に、その場にいた全員が息を呑む。
「っ、すぐに行く。アンタレスは殿下を応接間にご案内しろ。みなは、おもてなしの準備を」
ライラックは素早く使用人に指示を出したあと、振り向いてダリアにまっすぐ視線を向けた。
「ダリア、暫く彼女と共に部屋にいてくれ」
「はい」
言い方を悪くすれば“監視”となるが、敢えてそう言わないのはライラックなりの優しさだろうか。
ダリアも素直に返事をすることが出来、ライラックが応接間へと移動しようとした時。
「その必要はないよ」
「!」
ダリアの部屋に聞き慣れない声が転がり込んだ。その場にいた全員が扉の方に視線を向けると、そこに立つ人物に全員が青褪める。
「女性の部屋に、不躾にすまない」
ダリアの部屋の入口に立っていたのは、短く整えられたプラチナブロンドの髪に、氷のように透き通ったブルートパーズをはめ込んだ瞳。細身だがしっかりと鍛え上げられた体躯が逞しい男性。今允に話題に上がっていた人物、スヴァルトシェレナ国第一王子であり、王位継承権第一位の“トピアス・アラン・スヴァルトシェレナ”本人であった。ダリアたちが自身の存在を認識して初めて部屋の中に入るトピアスに、全員が素早く頭を下げる。
「く、国の光にご挨拶を……、」
「良い、畏まらないでくれ」
ダリアとライラックが慌てて挨拶を試みるが、最後まで言う前に遮られた為、その先の言葉を飲み込んだ。
「こちらも先触れもなくすまなかった」
「いえ、謝罪など恐縮です。それで、どういったご用向きでしょうか」
流石、というべきか。
いち早く冷静さを取り戻したライラックがそう切り出すと、トピアスは明るく笑いかけた。
「ハロルヴァ領には視察に寄っただけだったのだが、ちょっとしたトラブルがあったと聞いてね」
「……領地でのトラブルにまで関心をお寄せ頂き、有難い限りで御座います」
「それで、そこの彼女が“そう”なのかな?」
トピアスの言葉に、アンジェリカは今度こそ傍目から見ても分かるほどに震える。その場に膝から崩れ落ちてしまってもおかしくない状況なのに、気力だけで立つその姿に、ダリアは尊敬すら覚えた。
「そこのご令嬢、名前を伺っても?」
「っ、ア……、アンジェリカと申します。平民故、苗字は御座いません」
震える声でそう告げる。ペリドットの瞳は、染み一つないカーペットを見つめたままであるが、トピアスは緊張を解すように柔らかい声色で語り掛けた。
「何、怖がらなくて良いよ。私は君を捕まえに来たわけではないのだから」
「っ、……」
思いもよらない言葉に、アンジェリカはパッ、と顔を上げまっすぐにトピアスを見つめる。二人の視線が絡まるこの瞬間、彼女たちの物語が始まった。
( んぁ~~~。何これ、ご褒美タイムかな? 一枚目のスチル絵のシーンじゃない……? )
公爵令嬢とは思えぬ口言葉が次々と生まれてくるのは恐らく、前世の自分の影響だろう。ゲームのファンであった記憶とその時の感情を鮮明に思い出し、ダリアの浮ついた心と脳裏に咲いた色鮮やかな花畑だけが、今この場で唯一つの場違いである。
「……あー、これは俺も入って良いのか?」
「!」
ダリアの部屋の入口で、トピアスの影に隠れていた一人の人物がゆっくりとその顔を出し、その存在にダリアの呼吸が止まった。
「ああ、すまない。忘れていた訳じゃないよ」
「嘘言え。完全に俺の存在を忘れていただろう」
陽光に透け、金色に輝いて見えるブリュネットの髪に、星屑をそのまま閉じ込めた様なグレーダイアモンドの瞳は気だるげに少し細められていて。
( ああ、嘘……そんな…… )
ダリアの目の前に立つのは、画面越しに何度も、何度も見つめ合った人物。
生来の性格からフランクであるとはいえ、仮にも国の第一王子であるトピアスに敬語どころか悪態まで吐ける人物なんて、オシラブの世界には唯一人しかいない。
「怒るなよ、───────ヴィンス」
トピアスの、薄く形の良い唇がその人物の名前を紡ぐ。
今、目の前にいるのは……
( お、推しだぁああぁああ……! )
ダリアは泣き崩れそうになるが、公爵令嬢として生きて来た十七年分の気力でどうにか踏ん張り、持ちこたえた。
「怒ってないさ。唯、人の婚約者の部屋に、婚約者の俺よりも先に入るのは如何なものかと思ってな」
「だから悪かったって。唯でさえ人相悪いのに、そんな顔をしたらお前の婚約者も怖がるだろう」
くつくつ、喉の奥で転がすような笑い方をするトピアスは“第一王子”の仮面を被っていなくて。酷く自然体な姿に若干の戸惑いを見せる。
それよりも、ダリアは二人の会話の内容を整理することに忙しかった。
( え?婚約者って言った? え、誰と誰が? ……ん?ここは私の部屋よね……。ん? )
一人百面相をするダリアに、ヴィンスが小さく笑って一歩近寄る。
「何変な顔をしているんですか、ダリア嬢。理由もなく、婚約者に会いに来てはいけないのでしょうか?」
「へぁ……っ、」
推しが動いて、喋って、目が合った。推しは長く骨ばった指先でゆっくりとダリアの白い手を取ると、形の良い唇をその手の甲に押し当てる。柔らかくて温かい感触が僅かに触れ、触れた面積は小さいのに、そこに灯った熱が一気に体中に広がっていく。
その行為自体はスヴァルトシェレナでは挨拶として貴族間ではよく行われる行為ではあるのだけれど、突如与えられた甘すぎる熱と、瞬き以外の動きをするヴィンスに情報処理が追い付かず、ダリアは水面から顔を出す魚のように口をぱくぱくと動かすだけで精一杯で。変な声が漏れてしまったが、それすらどうやらヴィンスには好印象に映ったらしい。
「ははっ、何処から出しているんです、その声」
少し目を細め、口角を意地悪く持ち上げる笑い方は、もう何度も見た。
ダリアとして目覚め、アンジェリカに出会い、記憶を呼び起こす中で自身がオシラブの世界に居ることは理解していた筈なのに。実際に最推しを目の当たりにして初めて、転生した事実が“理解”を追い越して“実感”したダリアは、
「────……っ、」
完全にキャパオーバーとなりその場に倒れた。
「ダリア!!」
倒れるダリアを受け止めたのはすぐ隣に立っていたライラックであったが、ダリアが薄れる意識の中で、最後に見たのは意地悪い笑みを引っ込め、ちゃんと“心配”や“焦り”の表情を作りダリアに向けるヴィンスの姿だった。
◇
「────……、」
目を覚ますと、陽はすっかり暮れて、慌ただしかった筈のダリアの部屋には誰もいない。
「っ、…私…!」
がばっ、と起き上がると軽い貧血で目が回る。
しかし、直前の記憶に背筋が凍り付き、華奢な肩は勝手に震えた。
ダリアは先ほど、錚々たる顔ぶれの中で倒れてしまったのだ。
アンジェリカでさえ、王子を前にして震えながらも自分の脚で立っていたというのに……
「私ときたら……、まさか推しを目の前にして興奮で倒れるとか……」
誰もいないことを良いことに、感情をそのまま口に出す。
「……それにしても、凄いこと言ってなかった? ヴィンスが私の婚約者……?」
両膝を立て、膝の上に肘を乗せて自身の重い頭を支えながら記憶の糸を手繰り寄せた。
数時間前のやり取りを思い出しながら、更に深いところに沈んでいる前世の記憶を掘り起こす。
「ヴィンスに婚約者……そんな設定あったのかしら……。あったとしても、ダリアが婚約者だった設定なんて……」
脳内だけで整理することは難しく、ダリアはベッドから下りると机の上に紙とペンを出して思い出せる限りの情報を書き綴っていった。
「……私は、ダリア……、兄はライラック……、お兄様とお父様は保守派よね……。トピアスは第一王子でスヴァルトシェレナの関係改革派の────……」
関係図を書き出しながら、性格やその他の情報を書き足していく。時間をかけ、かなり詳細な相関図が書き上がったけれど、やはりヴィンスとダリアが婚約者であるという設定は前世の記憶にはなかった。
「見逃しているだけで、実は公式では婚約者だったのかしら……。いいえ、あれだけオシラブをやりこんだ私が見逃している情報なんてないわ。特に推しの情報だもの。絶対に網羅している筈」
ダリアは所狭しと文字を敷き詰めた紙をじっと見つめながら記憶の整理を続ける。
しかし、いくら書き出しても、思い出しても、前世でやり込んだ全キャラのルートのどれでも、ヴィンスの婚約者がダリアである設定はなかった。
「そんなこと、あり得るのかしら……。私が原作と違う行動を取っているのならばまだわかるけれど……、今のところ原作と違う行動はしていない筈。それなのにこうも設定が違うことって……」
トピアスのルートで、アンジェリカが最初に出会う主要キャラは友人枠の“ダリア”であることに間違いはない。続いてライラック、トピアスと続くが、確かにトピアスの幼馴染という立場のヴィンスもトピアスと一緒にアンジェリカの前に現れていた。その場ではトピアスと初めて出会うシーンがスチルとして描かれており、ヴィンスとは互いに自己紹介をするくらいしか会話をしていない。
勿論、その場にダリアは居るのだがダリアとヴィンスが関わるシーンは描かれていなかった。
トピアスルートでは確かに幼馴染であるヴィンスがちょくちょく出てきていたものの、ヒロインと1対1で会話するシーンは殆どない。
「……やっぱり、公式で明確に描かれていなかっただけでそう言った裏設定があったのかも……」
万年筆の胴軸の後ろで顎を挿すようにして顔を支えながら、ヴィンスのルートを思い返す。
「ヴィンスの台詞を一言一句違わず思い出すのよ! 唸れ私の記憶力……!」
ダリアは目をぎゅっと閉じ、全ての感覚を遮断して記憶に潜り込んだ。
ヴィンスのルート攻略は終ぞ叶わなかったけれど、各キャラルートでもトピアスの側近という立場からそれなりに重要人物として描かれていた。
キャラクターがヒロインとの出会い、恋に堕ち、惹かれ合う二人────……
ヴィンスは最初、ヒロインに惹かれるキャラクターたちを否定的に見守る場面があった。それは何故か……。
本人は「恋に臆病になるくらいには、唯の男なんだよ」と告げていて……。
「ヴィンスが恋に臆病になるような原因があったってことよね……」
うぅん、と唸ってもまだダリアとの記憶の同期が完全には出来ていない状態だという事もあり、前世の記憶を深く、深く潜り探ることはまだ難しい。逆に比較的新しい今世の記憶を遡っても、物心のついた最古の記憶でも自分自身に婚約者がいた事実は見つけられなかった。
ダリアはヴィンスの言葉を書き綴り、その文字を囲うようにくるりと丸を描いて台詞を強調させると、細かな字でびっしりと埋め尽くされた紙を引き出しの中へと仕舞った。
前世の記憶とダリアの記憶を無理矢理引き出し、乱暴にかき混ぜた所為で少しだけ視界が歪む。
ダリアはゆっくりと立ち上がると、広いバルコニーに出て夜風に当たった。
どのくらい寝ていたのかは分からないが、見上げた濃紺の空に穴が開いたような綺麗な月は真上に上っていて、今が深夜であることだけは分かる。
( アンジェリカはどうなったかしら……。物語上ではトピアスの名の元、王室の保護下に置かれている筈だけど…… )
推しの姿にキャパオーバーで倒れるという、原作にはないダリアの行動で、もしかしたら物語が変わってしまったかもしれない。何気なく立てた仮説がダリアの背中を撫でて鳥肌が立つ。
( きっと、急に倒れてお兄様も心配している筈……。明日、心配をかけてしまったこと、殿下の前で倒れるという情けない姿を見せてしまった事を謝ろう……。ついでにアンジェリカの処遇を聞くことが出来れば良いな )
ダリアは白く浮かぶ月を、ダークブルーの瞳に焼き映しながら明日の簡単な予定を組み立て、生前の記憶も整理していく。
( 私は────……花崎桃香……。そう、主婦だったわ。可愛い子どもも居て…… )
目を閉じ記憶を掘り起こすと、最後の景色は眩しすぎる車のヘッドライトに塗られて何も見えない。
見知らぬ人の悲鳴に、雨音をかき分け進んでくるトラック、耳を劈くブレーキ音、ゴムの焼ける音……。
「っ、……」
ズキン、とこめかみに酷い激痛が走り、ダリアは顔を顰めた。
……愛しい家族との別れは酷く悲しい。子どもの成長を見守ることができなかったのは胸が張り裂ける程辛いけれど、それでも死んでしまった今、生前の自分の人生に思いを馳せても仕方がない。
それに、生前の記憶と共に思い出したことに人知れず心を躍らす。
そう、ダリアは生前……それこそ死ぬ間際までやり込み続けた“オシラブ”の世界に転生したのだ。
子どもたちのことが気にならないと言えば嘘になる。それでも、今の自分はダリアとして生きて来た17年分の記憶がベースとなっていることと、生前、暇さえあれば思い描いていた“転生”という形で二度目の人生を歩むことができるのは僥倖であり、更に転生先もはまり込んでいたゲームの世界であるという事も僥倖であった。
────そして、死を目前にして強く願ったことを思い出し、ダリアは両頬をバチン!と叩く。乾いた音と、瞳の表面に涙の膜が張られる痛みに、頭の中が僅かにすっきりしたような感覚を覚え、ダリアは淑女とは思えぬ方法で自身に気合を入れた。
( ────……そう、私はダリア・バーベリ・ハロルヴァ……
私はこの世界で、今度こそ……! 絶対に推しを救ってみせるのです! )
春先の夜気は冷たく、ダリアの薄い肌をいとも簡単に冷やしていく。叩いた頬の熱だけはしつこく残っているものの、ダリアの華奢な体では体温を維持できず、薄い肩を小さく震わせたダリアは部屋へと戻り、ベッドの上に上った。すっかり冷えてしまったつま先を、肌ざわりの良い布団の中に潜り込ませると、都合よく眠気がダリアの瞼をゆっくりと撫でる。
そのままダリアは抗うことなく、誘われるがまま深い夢へと落ちて行った。