05. 孤独と十二年前の祈り
深い深い青の底にある世界が荒廃して、数万年という永い時が経った。
それでも、いたずらに時間だけが永かったわけではなかった。
永すぎる時の中で、世界の在り方が変わり海詠人も海駆人もそれぞれが世界に順応するよう進化していたのである。
数万年前に世界が荒廃したあの日、高濃度の魔素の元では作物も育たず、魚等の生物も生存できなかった。
故に地上より伝わったとされる“タイヨウ”を魔法で創造し酸素を生み出し、“地面”を創り上げて作物を植えたのである。
海の中を泳ぎ回る必要はなくなり、海詠人の尾は二股に分かれ、優美な尾鰭は人型と同じ“つま先”へと変わっていった。肌には尾の名残である鱗が宝石のように複数散りばめられている。
海駆人は元々尾が二股に分かれていたが、海詠人同様尾鰭がなくなり、その形は同じく人型へと変わった。鱗のなくなった肌はラメを散らしたように煌めいている。
そして、その長すぎる時間は、人々に「疑問」を抱かせるには十分すぎた。
────果たして、このままで良いのだろうか。
そうした疑問は水面に落とした小石が波紋を生み出すように。
一つの小さなきっかけはゆっくりと、しかし、確実に広がっていく。
「……そろそろ動き出そうか」
スヴァルトシェレナの郊外にある廃屋には人影が二つ。静かすぎる部屋には衣擦れの音さえしない。
「承知いたしました。では手配いたします」
短い言葉の必要最低限のやり取りを終えた後、フードを目深に被った一人が、同じくフードを目深に被り、壁に背を預けて立つ人物に会釈をしてその場を静かに去っていった。
「────きっと、上手くいくさ」
誰に言うでもなく、残された男は天井を仰いで呟く。言い聞かせるような一言は、誰に聞かれることもなくその場に霧散した。
一方オーケリウムでは、ダークブロンドの髪をフードの奥に押し込む人影がひっそりと闇の中に佇む。
「……、」
ローブの奥に隠したペリドットの瞳に強い意思を宿し、その特別なローブに魔力を流し込むと、人影は音もなく闇の中に溶けた。
ゆっくりと、確実に、交差していく。
そしてある日の事。
運命が突如としてぶつかり、重なる。
「────何事ですか」
凛とした声が、開幕のベルだった────……。
────歴史の奥深くに忘れ去られた、幾数万年前もの時間すら溶ける程昔。
その頃も今の様に種族によって国を分けていたものの、スヴァルトシェレナとオーケリウムは互いの国を自由に行き来することができていた。
しかし、ある日のこと。
オーケリウム国の王が何者かに毒殺されてしまう。それが国王と一際仲の良かったスヴァルトシェレナ国の王であると嫌疑がかけられ、唯一無二の親友を失った悲しみと、ましてやその親友を手に掛けたという屈辱的な疑いをかけられたスヴァルトシェレナの国王が怒り狂い、その膨大な魔力を暴走させて、オーケリウム国だけでなく、ハヴスボトム全体を壊滅寸前にまでおいやった。魔力暴走を起こしたスヴァルトシェレナの国王を、オーケリウムの国王の弟……、つまりは王弟が殺すことで完全壊滅は免れるが、スヴァルトシェレナは国王を殺されたと怒り、オーケリウムは国を壊滅寸前にまでおいやったと恨み、互いに互いを憎しみ合う関係になった。
……という。
しかしそれは幼少期より大人から言い聞かせられる「物語」であり、その歴史が事実であるかどうかは幾数万年と言う膨大な時の中で戦火に焼かれ、時の流れの中に溶けて消えてしまった。
この物語がまだ血生臭さを放っていた頃。
互いを嫌悪する雰囲気はより濃くその血を流れていたのだけれど、時が流れ、若い世代になればなるほど教科書上の物語はその信憑性と同時に嫌悪感をも薄れさせ、今の互いの国の在り方に疑問を持つようになってきた。
そうして、今まで通り互いを憎しみ合う「保守派」と関係改善にも現状維持にも興味がない、いい意味でも悪い意味でも中立である「中立派」、そして関係を改善すべく水面下で行動する「関係改革派」に分かれることとなった。関係改革派は国の在り方に疑問を抱くようになった若い世代がその殆どを占め、保守派は変革を恐れる代々続くような名家や貴族がその多くを占めており、中立派は一番人数が多く、若い世代や一般庶民、古くから続く貴族も半々といったところである。故に中立派をいかに自身の陣営に取り込むかによって、その後を大きく左右するとして、改革派も保守派も必死になっていた。
関係改革派という名前が明るみに出始める少し前のこと。
とある一組の夫婦が、自身の住まうオーケリウム国の領地の民たちに囲まれていた。領民たちの瞳には憎悪と怨恨、そして強い殺意に塗られ、夫婦は恐怖に崩れ落ちそうになる。
「子どもを何処にやった」
「子どもを出せ」
「罪人め」
「子どもを殺せ」
矢継ぎ早に出てくる言葉はどれも物騒なものばかりで、言葉で夫婦のことを殴り続けていた。
「っ、子どもには何も罪はない!」
そう叫ぶ男の声は怒号にかき消され、誰にも拾われない。
男を囲む群衆は一貫して、「子は悪である」「子を殺せ」と呪文のように繰り返していた。
「悪魔を生んだ者に、制裁を」
静かに、けれど憎悪をふんだんに含んだ言葉に、夫婦は自分たちの命の終わりを感じた。
領民たちも一斉に沸き立ち、二人を追い込んでいく。
男性は脳裏に残る、自身の子の顔を思い浮かべた。
愛らしく笑うその子が、“悪魔”な筈がない、と。
女性も同じく、愛くるしい我が子が憎まれる必要などない、と強く思い、目を開いて自分たちを囲う領民たちをまっすぐに見つめる。
「……もう一度言う。子に罪はない。罪があるとするならば親である私たちだけだ」
先程までの焦燥感に駆られた声ではなく、凛とした力強い声が空気を震わせ一瞬だけ静寂を生む。
しかし、その静寂もすぐに領民たちの憎悪に飲まれて消えた。
夫婦は目を閉じ、瞼の裏に愛おしい我が子を思い浮かべ、決して子には届かぬ声で祈る。
「どうか、────……幸せになってくれ」
そうして一組の夫婦の命はこの世界から削り取られた。
◇
「……いい子だから行ってくれ」
そう懇願するように、或いは縋るように。
小さな、まだ幼い子どもに言う台詞でも、幼い子に見せる表情でもない。
一人の若い男性が、まだ小さく言葉も拙い少女を隠すように夜の暗闇を纏わせる。
「っ、ぱぱとままは……!?」
涙でくぐもる拙い声は、彼の胸を痛い程に締め付けた。
「パパとママは……、もう会えないかもしれない。それでも……、君は生きなければならない」
掠れる声から必死さが嫌でも伝わる。少女は言いたい事も不安な気持ちも溢れる涙も全て我慢するように飲み込んで、目の前の男性をまっすぐ見つめた。男性もまた、少女の姿を焼き付けるように輝く宝石のような瞳をまっすぐに見つめ、唇を噛み締める。
「いいか。君はいつか、この理不尽な世界を切り開く鍵になる」
「かぎ……?」
「ああ。今は分からなくても良い。けど、知っていてくれ。君は……、君は特別なんだ」
“とくべつ”その言葉の意味は知っていたけれど。
じゃあ何故、特別である筈の自分は今こんな思いをしなければならないのか。
両親に会えないのか。何もかもが分からなかったけれど、目の前の男性が嘘をついていないことと、自分の為を思って言ってくれていることだけは分かる。
少女はきつく、きつく唇を噛んで男性の言葉を咀嚼した。
「さあ、もう行くんだ。……強く生きろ」
「っ、……」
男性に軽く肩を押され、少女は一歩後ずさる。ああ、もう行かなければならないのだと幼心にも理解し、少女はゆっくりと、足を引きずる様にしてその場から離れた。
男性は、自分から少女に行けと促しておきながら、その小さな背中から目を離すことができず、唯の暗闇をじっと見つめる。
男性は知っていた。少女の両親がどうなったのか、少女がこれから過酷な人生を歩むことになることも。
……それでも、その小さすぎる背中に重すぎる運命を背負わせてしまった。
後悔はしていない。
これは、世界を変えるために必要なことなのだから。
「どうか、どうか……幸せになってくれ……、アンジー」
男性もまた、小さな少女の幸せを祈り、目を閉じた。
◇
「────……君が“アンジー”で間違いないか」
暗闇に隠れながら逃げたあの夜から、十二年。
アンジーことアンジェリカは、あの夜関係改革派が多く所属するオーケリウムの教会にて無事保護され、今日この日まで無事に生き延びることができた。
そんなアンジーの元に現れたのは、フードを目深に被った怪しげな男。
フードの奥に隠れた瞳さえも見えないが、声のトーンや雰囲気から悪意は感じ取れない。
「貴方は……?」
「俺は“ロディ”。オーケリウムに所属する関係改革派の代表、とでも言おうか」
「っ、……」
教会の関係者は関係改革派で主に構成されているとはいえ、その代表が堂々と名乗ることに驚き、アンジェリカは目を丸くしたが、少し考えて偽名だろうと気が付き冷静さを取り戻す。
「ロディ、様……? どうして私を……?」
「ああ、唯の“ロディ”だ。代表なんて大層な肩書がついているが……、俺は唯のロディ」
「……じゃあ、ロディ。どうして私のことを知っているんですか?」
同じ関係改革派であるとは言え、よく知りもしない相手を信用するわけにはいかない。ある程度の警戒心をきちんと見せながらゆっくりと会話を重ねていく。
「我々はずっと、君を探していた」
ロディの低い声にアンジェリカも真剣な眼差しで返す。
「我々関係改革派には、君が必要なんだ」
「……それで、どうしたら良いんですか」
何故、とかどうして、とか。そういう質問は野暮である。
恐らく、聞いたところで返ってくる言葉はアンジェリカの予想の範囲を超えない。
そう考えたアンジェリカは、素早く違う質問を用意して投げかけた。
「……スヴァルトシェレナの関係改革派代表と連絡が取れた」
「!」
長年、国への人の行き交いを禁じられていたにも関わらず、連絡手段を見つけ、実際に連絡を取ったというビッグニュースを目の前の男はさも当たり前のことのようにサラリと言ってのけるものだから、アンジェリカはポーカーフェイスを崩して驚きをそのまま表情に乗せる。
「君には、スヴァルトシェレナに行って欲しい」
「……」
ロディの言葉は、重くアンジェリカに圧し掛かった。
関係改革派に所属する以上、危険な道を歩く日が来ることは覚悟していたつもりだったが、いざその道を歩けと示されると怖気づいてしまう。膝が震え、唇を噛み締めないと怖いと叫び出しそうで。
同時にアンジェリカは理解していた。スヴァルトシェレナには、自分が行かなくてはならないことを。
「────……いつですか」
声が震えないように、ぐっと喉に力を入れてそう絞り出すと、ロディは低い声で唸るように呟く。
「今夜だ」
その言葉に、驚かなかったと言えば嘘になるが……、それでもアンジェリカは短く「分かりました」とだけ返した。ロディはアンジェリカの答えを受けると、
「日付が変わる頃、国境近くの丘で待っている」
それだけ告げると、ロディはマントを翻しその場を去っていく。
残されたアンジェリカは糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。
動機が激しく、息が苦しい。暫くその場から動くことは出来なかったが、アンジェリカに残された時間は短い。まだ少し震える脚を拳で叩いて無理矢理立ち上がると、アンジェリカは自室へと向かった。
( もう、戻れないかもしれない。私の私物は全て棄てて……、シスターに挨拶…… )
挨拶の言葉の最初の一文を考え始めたアンジェリカの脳裏に、ふと過ったのは自分が居なくなった後のシスターのこと。今からスヴァルトシェレナに行くアンジェリカはいわば犯罪者になるのと同義。
そうなれば行き先を知っているシスターは、隠避の疑いがかけられてしまう。行き先を告げずに別れの挨拶をすることも不自然で、かと言って置手紙は今から書いている時間がない。
アンジェリカは自室の整理をする手は止めないまま、シスターたちとの理想的な別れを思い描く。
一つ、一つ。
思い出を確かめるように。想いを拾うように。
アンジェリカは私物を丁寧に空き箱に詰めていく。
陽が傾き、影が伸びてきたころ、アンジェリカの自室には塵一つ残さず綺麗になっていた。
「────……さようなら」
アンジェリカは夕食の準備で忙しなく動き回るシスターの、その後ろ姿を遠目に見つけて小さく小さく呟いた。ありがとう、とごめんなさい。二つの言葉を胸の内に並べて、アンジェリカは目の前の光景を焼き付けるように、カメラのシャッターを切るように、ゆっくりと瞬きをすると、箱に詰めた十二年分の思い出を抱えて部屋を出る。幸い忙しい時間帯であることから、誰にも会わずに教会の外に出ることが出来た。
十二年というのは長いもので、溢れ返る思い出がアンジェリカの後ろ髪を引き、足が重い。それでもアンジェリカは思い出を振り払うように首を横に振ると、涙が零れないよう少しだけ上を向いて駆け出した。
陽はすっかり落ち、辺りを濡れ羽色に染め上げた夜は、マントを深く被ったアンジェリカの姿を完全に隠す。アンジェリカは周囲に人の気配がないことを確認すると、十二年分の思い出を詰めた箱に右手を翳し、短い呪文を発した。
「────“燃えよ”」
すると手のひらから炎の塊が勢いよく飛び出し、狙いをつけた箱に乗ると勢いよくその箱を燃やす。パチパチと火の粉が弾ける音が耳心地良いが、徐々に炭化していく思い出は胸を締め付けていく。
アンジェリカは風魔法を応用して煙を霧散させながら、赤々と燃ゆる火をじっと見つめていた。
────……どのくらい経ったか。
アンジェリカは焦げた煤の匂いと僅かな煙だけが残された焦げ跡を、風魔法と土魔法を使って形跡を消していく。
「……流石だな」
気配を探知しながら作業していた為、背後に立った人物の気配にも気が付いていたアンジェリカは特別驚くこともなくゆっくりとした動作で振り向いた。
「魔道具なしで、魔法が使えるのか」
振り向いた先には、教会に来たマントを被った男……ロディと、先ほどはいなかった、ロディと同じマントを被る男性が二人立っていた。
「はい……。私は“特別”なので」
アンジェリカは特別であることを誇らしく言う訳でも、鼻にかける訳でもなく。
唯悲し気な表情を浮かべ、まるで自身の罪を告白するかのように小さく呟いた。
「ああ、そうだ。特別だからこそ、今回スヴァルトシェレナに行くのを君に頼んだんだ」
ロディの言葉に、アンジェリカは僅かに口角を持ち上げる。自身が“特別”で良かったことなど、生きていて一度もなかった。それなのに今回、命を丸裸にされたような危険な道を示されて初めて、自身の存在価値を認められたような気がする。
「それで、方法はあるのですか」
アンジェリカは恐怖を誤魔化すように、聊か語尾が強めて問い掛けた。ロディは後ろに控える男性に目配せをすると、男性は何やら包みを取り出してロディに手渡す。
ロディは包みをそのまま、アンジェリカに差し出した。
「……これは……?」
アンジェリカは差し出された包みを受け取り、その重みを感じながらロディに答えを求める。
「それは……所謂、秘宝だ」
何かを隠すように、言葉を選ぶロディにアンジェリカはやや眉根を寄せるが、そこは詮索せずに、手の中にある包みの紐を解いた。
「……これ、は……」
包みの中にあったのは、シルクのような肌触りの良い布。
広げてみると、その形からローブであることが分かる。しかし、布地は白でできており、現時刻が夜であることからそのローブは酷く目立っていた。これを被っていくことは寧ろ自殺行為なのでは、とアンジェリカは今度こそしっかりと眉間に皺を寄せる。
「それは、俺の家系に伝わる魔道具だ」
「魔道具……、これが……」
オーケリウム、延いては海駆人の殆どが魔法を使うことが出来ない。魔力はあるが、それを扱う術を知らないのである。しかし魔力は生まれたばかりの赤子でさえ持っているものであり、魔力を動力源とした魔道具は珍しくない。
アンジェリカは”特別”であるが故、魔法を扱うことができていたが、オーケリウムで生活する以上魔法が使えることが悟られてはならない。故にアンジェリカも魔道具を利用する機会は少なくなかったのだが、手の中にあるローブの美しさに、初めてドレスを着る子どものように目を輝かせていた。
「……そのローブに、魔力を通してみてくれ」
「っ、は、はい……」
ロディの声にハッとしたアンジェリカは、言われた通り魔力を流し込む。すると、
「え……っ」
ローブが見えなくなったのだ。唯ローブが見えなくなっただけでなく、ローブに触れているアンジェリカの体の一部も透明化されている。
「それは、触れている物質、物体全てを透明化することのできる魔道具、“透過するローブ”だ」
「……透過するローブ」
ロディの言葉をなぞるアンジェリカは、改めてローブをじっくりと見つめた。ローブには魔力を流し込み続けなければならない上に、消費魔力も多い。アンジェリカの魔力量は多いが、これを使い続けるとなると半日が限界であろう。一般的な海駆人であれば1時間と持たないことが予想される。そう、これは海駆人向きではないのだ。
どうしてそんなものがあるのか、秘宝と言っていたがこれほどまでの魔道具を一般人が持っている筈がない。アンジェリカはそこまで思考を張り巡らせたうえで、敢えて色々な言葉を飲み込みロディに会釈する。
「有難くお借りいたします」
「────……ああ」
アンジェリカが深く詮索してこないことを確かめ、ロディは悟られない様小さく安堵した。
アンジェリカはローブをきちんと羽織り、自身の姿をすっぽりと覆う。
眩しいくらいの純白のローブを纏うアンジェリカは、暗がりの中では異質なものに見えた。
「────オーケリウムと隣接しているスヴァルトシェレナの“ハロルヴァ”という領内に、関係改革派の代表がいる。彼は“トーマス”と名乗っていた。向こうでは彼の指示に従ってくれ」
「承知いたしました。こちらへの報告や連絡なども全て、“トーマス”様にお任せしてよろしいのでしょうか」
「ああ、その手筈で良い」
「畏まりました」
アンジェリカは短く返事をすると、再度ロディに会釈して見せる。
ロディも小さく頷いて返すと、それを確認してアンジェリカはローブに魔力を通した。
「────……幸運を」
完全に透過し、景色の中に溶けたアンジェリカを視認することはできない。何もない空間にそう告げると、答えるように風が吹き抜けロディの目深に被っていたフードを揺らす。僅かにフードから垣間見えたのは、エメラルド色の瞳だった。
アンジェリカはロディの言葉を背に、歩き出す。
どうやら消費する魔力が大きいだけあり、このローブを纏っている間は自然現象ですら自分を透過している様であった。例えば風が吹いてもアンジェリカの髪一本すら揺らすことなく、アンジェリカを“いない者”として通り過ぎていくのだ。足音も鳴らず、踏みしめる草がたゆむこともなく、アンジェリカは完全に世界の一部に溶け込んでいた。
( 流石、“秘宝”というだけあるわ…… )
アンジェリカはローブの胸元を握り締めながら、幼い頃の記憶を一つ一つ丁寧に思い出す。
十二年前のあの日────……、記憶の中の映像は途切れ途切れであり、様々な出来事は輪郭さえもぼやけている程度の記憶ではあるが、それでもあの日確かに感じた恐怖と悔しさだけは今でも鮮明に思い出すことができる。
アンジェリカは、オーケリウムの平民の夫婦の元に生まれた普通の女の子であった。
至って普通の、良くも悪くも平凡な夫婦はそれはそれは大事にアンジェリカを慈しみ、育てた。決して豊かではないが、貧しすぎることもなく、愛情を一身に受けながら成長したアンジェリカ。
そんな幸せ色で彩った日常が壊れたのは、彼女が四歳の誕生日を迎えて暫く経った日の事だった。
────ドンドンドン!
重く響く扉の音。ノックなんて優しい言い方では当てはまらないその音に、子どもながらに恐怖を覚える。アンジェリカの両親も異変を感じ、父親が母親に目配せをした。母親はその合図をしっかりと受け取り、アンジェリカを抱きかかえて家の奥の部屋へと移り床板を外すと、地下へと続く階段にアンジェリカを下ろす。
「いい、アンジー。良く聞いて。この階段を下りてまっすぐ行くの。一本道だから迷わないわ。行き止まりの梯子を上れば、おじちゃんの家に着くから」
「え、ままは……!?」
「……ママは後から行くね。お客さんが来たみたいだからお話しなくちゃ」
アンジェリカの子どもらしい疑問に返す言葉はどこかぎこちない。
アンジェリカも、異常事態であることは本能で察していた。だからこそ、一人で行かなくてはならない現状が唯々心細かったのである。
「約束する。ママが嘘ついたことある?」
母親のいつもと同じ優しい笑顔に、アンジェリカは首を横に振った。
「でしょう?だから、安心して。おじちゃんもアンジーと会えるのを楽しみにしていたから。アンジーの好きなお菓子を用意しておくって」
「おかし……!?」
「ええ。だから、先に食べてて。ママの分も残しておいてね」
「ふふ、わたし、あのおかし大好きだから、ぜんぶ食べちゃうかも」
「それは困るなぁ……。もし全部食べちゃったら、おじちゃんと買いに行ってくれる?」
「うん!」
母と子の、何気ないやり取り。
当たり前にくる未来を想像させる、優しくて耳障りの良い言葉でアンジェリカはすっかり安心しきっていた。
背後では不穏な物音が響いており、母親の胸中は焦燥感で塗られていく。
「じゃあ、先に行って待っててね」
「うん、はやく来てね!」
「うん、必ず」
母親は大きく頷いて、アンジェリカが足取り軽やかに階段を下りていく後ろ姿を目に焼き付けた。柔らかなダークブロンドの髪を揺らしながら一度だけ振り返り、大きく手を振る我が子に、母親は最後まで笑顔を向け続ける。やがてアンジェリカの姿が見えなくなった頃……、母親は素早く体を床上へと持ち上げ、床板を元通りに嵌め直す。床板を隠すように絨毯を敷いたところで、漸く大粒の涙を零してその場に泣き崩れた。
「ごめん、ごめんね、アンジー。嘘つきなママを、許してね」
泣き崩れた瞬間、部屋に押し入る複数の人影。その中には近所に住まう見知った顔もおり、母親は絶望を瞳に映す。
「子どもはどこだ」
低く冷たい声に、母親はわざと震え、驚いている素振りを見せながら答えた。
「ア、アンジェリカなら、遊びにでかけています」
嘘ではない。アンジェリカは遊びに行ったのだから。
涙で濡れた瞳に気が付かない程、押し入った人々もバカではない。
「探せ、まだ近くにいる筈だ!」
一人の男が声を荒げる。一人が母親を羽交い絞めにし、他の複数名で家中を探し回ったが、誰一人としてアンジェリカの姿を見つけることはできなかった。母親は誰にも気づかれない様に静かに安堵したところで、部屋の外へと引きずり出される。部屋の外にはアンジェリカの父親が既に拘束されており、暴力を振るわれた痕に思わず身震いした。昨日まで、何を疑う事もなく。よき隣人として傍に居た筈の人々が突如として何かに取り憑かれたように自分たちを責める様子が唯々恐怖であった。同時に、自分たちのこの後の未来を悟る。
( アンジー、ごめんね。本当に約束を守ることができなくて )
心の内だけで、天使の様に無垢で愛らしく笑う我が子にそう謝罪した。
「っ、子どもには何も罪はない!」
後ろ手に拘束されたままの父親はそう叫ぶが、その場にいた者の内、誰一人にも届いていない。夫婦を囲む群衆は一貫して、「子は悪である」「子を殺せ」と呪文のように繰り返していた。
「悪魔を生んだ者に、制裁を」
静かに、けれど憎悪をふんだんに含んだ言葉に、夫婦は自分たちの命の終わりを感じた。
領民たちも一斉に沸き立ち、二人を追い込んでいく。
一体、何を間違えたのか。
どこで間違えてしまったのか。
こんなにも恨まれるべき存在だったのか、存在自体が罪だというのか。
愛おしい我が子が……。
自問自答するが、導き出す答えはいつも一つ。
「……もう一度言う。子に罪はない。罪があるとするならば親である私たちだけだ」
先程までの焦燥感に駆られた声ではなく、凛とした力強い声が空気を震わせ一瞬だけ静寂を生む。しかし、その静寂もすぐに領民たちの憎悪に飲まれて消えた。
夫婦は互いに一度だけ視線を交える。
そして目を閉じ、瞼の裏に愛おしい我が子を思い浮かべ、決して子には届かぬ声で祈る。
「どうか、────……幸せになってくれ」
そうして一組の夫婦の命はこの世界から削り取られた。
一方その頃、長く続く一本道をアンジェリカは軽やかな足取りで進んでいた。
比較的探究心と好奇心が強いアンジェリカは、非日常的な場所に高揚し、母親と別れる時に抱いていた不安感などは既に薄れていた。
「おじちゃんと~、おかし~」
即興の歌とも呼べない歌を口ずさみながら進むアンジェリカであったが、やがて目の前に梯子が見え、「あった」と声を上げて駆け出す。梯子を器用に上ると、うっすらと明かりが漏れており、そこが出口であると直感が告げる。
梯子を上りきるも、床板は固くはまっているため、幼児のアンジェリカの力では外せない。
「おじちゃぁん!……おじちゃん、出して~!」
アンジェリカは精いっぱいの大声で助けを求めると、バタバタと慌ただしい足音がすぐに聞こえ、やがて一つの足音がアンジェリカの真上で止まった。
「アンジーなのか?」
「うん、ままにおじちゃんのところに行きなさいって言われた! おかしある?」
床板の隙間から零れてくる声は、無邪気なアンジェリカのもので。こんな時でさえ「お菓子」の心配をしているのだから、この下にいるのは紛れもなく自分の知るアンジェリカであることは明確である。
故に、“おじちゃん”と呼ばれた人物は頭が痛くなるほど混乱していた。
色々と考えなければならないことがあるが、一先ずアンジェリカを床上に引っ張り上げなければ、と床板を外してアンジェリカの体を引き上げる。
「えへへ、おじちゃん久しぶり!」
そう笑うアンジェリカに、たまたま隠し通路を見つけて迷い込んだだけなのでは、と現実を突っぱねて都合の良い方に考えてしまう。それならば、どれほど良いか。
しかし、アンジェリカは母親に通路を使って向かうように言われたと言う。その言葉だけで、都合の良い思考は振り払われてしまった。
「ああ、アンジー。ケガはないか? 転んだりとか……、」
「ううん、ないよ!」
アンジェリカの言葉に安堵しながら、視認できる場所を良く観察する。確かに目立った外傷は見当たらない。土埃がついているが、床下から引き上げる際についた物であった。
「アンジー、ママとパパは家にいるのかい?」
「うん。お客さんが来たからね、お話してくるって。おわったらここに来るって言ってたよ」
服についた土埃を払ってやりながら、“おじちゃん”は深く考え込む。
この通路は、いざというときにアンジェリカだけでも逃がせるように、とアンジェリカが生まれてすぐに作ったものであるが、今日に至るまで一度も使用したことがなかった。
( それを使用せざるを得ない状況に陥ったとなると、恐らく────…… )
深刻そうな表情にアンジェリカは不安を瞳に滲ませる。そんなアンジェリカに気が付き、穏やかに笑って見せた。
「ああ、ごめんね。少し考え事をしていたんだ。それと、お菓子だったね。アンジーの好きなお菓子はちゃんとあるよ」
そう言って戸棚からアンジェリカの好物である“ゴーフル”を皿の上に並べてアンジェリカに出す。アンジェリカは目を輝かせながら、その薄くて平らなお菓子を手に取った。軽くて繊細なお菓子を壊れないようにそっと持ち上げる、力加減がまだ分かっていない幼児特有の様子に、ほんのりと胸が温かくなった
牛乳をコップに注いでアンジェリカの前に置いてから、“おじちゃん”はアンジェリカに背を向け、以前交わしたアンジェリカの父親との会話を思い出す。
────アンジェリカが生まれる前の事。アンジェリカの父親、ロバートは古くからの友人であるレオンの元へ、妻であるミシェルが身籠ったと報告を兼ねて訪ねて来た。
「────は? 地下に通路を?」
突然やってきて妻が妊娠したと聞いた後、徐にそう提案されてレオンは驚きに目を見開く。
「ああ。いざという時、ここに逃げ込めるだろう」
「……全く、面倒事に進んで巻き込まれたくはないんだがな」
レオンは短くため息を吐いて眉尻を下げて見せる。ロバートも申し訳なさそうに微笑んでから、深刻そうに視線を落とした。
「……本当に申し訳ないと思っている……。だが、頼れるのは君しかいないんだ」
レオンとロバートは両親の仲が良く近所に住んでいたこともあり、所謂幼馴染というもので、生まれてからずっと一緒に育ってきた。幼馴染というよりも兄弟に近い存在である。
心根の優しいロバートが、“面倒”に積極的に他人を巻き込む性質でないことは理解していた。だからこそ、本当にロバートが困っている時は助けてやりたいと思っているのだが……、
( 今回の件については……、どこまで力になれるか…… )
大事な人に、大事な人が増える。それはとても良いことである筈なのだが、レオンの表情は暗いまま。それは、ロバートとミシェルの間に生まれる子は“特別”であると生まれる前から決まっているから。
「……条件がある」
レオンはそう切り出し、ロバートに地下に通路を作るための条件を提示した。
一つは、地下の通路の存在を“いざという時”まで子どもに伝えないこと。
二つ、魔道具は魔力の使用痕跡が残ってしまう為使用せず、全て手作業で行うこと。
三つ、“いざという時”に真っ先に疑われてしまうことを避けるため、今後互いの接触は最低限にし、周囲には仲違いしているように思わせること。
その三つに同意するよう、ロバートに促す。
ロバートは面倒……というよりも、通り越して厄介事を持ち込んでしまった自覚と、家族に等しい親友を巻き込んでしまう事への申し訳なさから、二つ返事で頷いた。
「────本当に、すまない」
ロバートはレオンにそう謝罪し深々と頭を下げたが、レオンは眉根を寄せて不快感を見せる。
「勘違いするな。今回のことに嫌々とか渋々関係した訳じゃない。嫌ならば例え親友の頼みだとしても断っているさ」
レオンはそう言うと、一呼吸置いてからロバートにまっすぐ視線を向けた。
「俺を巻き込まず、勝手に一人で解決しようとしたり、他人を巻き込むことの方がよっぽど許せないからな。寧ろ、俺を巻き込んでくれて────頼ってくれて嬉しいとさえ思っている」
元来面倒くさがりでトラブルには首を突っ込まないタイプのレオンが、そう言って困ったように笑う表情にロバートの目頭は熱くなる。
「────……ありがとう」
心からの感謝を伝え、ロバートは俯いた。
それからすぐにロバートの家とレオンの家を繋げるための地下道を掘り進め、アンジェリカが無事に誕生してから数ヶ月で貫通することに成功する。生まれたばかりのアンジェリカを抱き、実際にその道を通ってレオンにアンジェリカの顔を見せに行った際、レオンはアンジェリカの誕生を心から祝い、腕に抱いて泣いてくれた。
それから、唯掘っただけの道とは言えない道を数年かけて整備していき、いざというときに備えた。
勿論、そんな日が来なければ良いと、懸念は唯の懸念で終われば良い、と願いながら。
……けれども無情にもいざというときは来てしまった。
( アンジーが来たということは、ロバートもミシェルも…… )
不穏な影がレオンの背に触れ、ぞわりと鳥肌が立つ。
仲違いしているように見せていたとはいえ、アンジェリカが生まれて四年。その間だけ表立って連絡を取りあっていなかっただけで、レオンとロバートが旧友であることを知っている人は沢山いる。ここでアンジェリカを匿っていてもレオンとロバートの関係を繋げるのは容易く、見つかるのは時間の問題だろう。
いざというときの為に、ロバートと決めていたのは「必ずアンジェリカを生かす」ということだけ。
どう動けば良いかの予測が立てづらく、予め作戦や動きを決めていた方が動きにくくなる可能性があったため、臨機応変という尤もらしく、それらしく、それでいて無責任な単語で片づけていた。それは寧ろ、いざというときが来ない様にという願掛けでもあったのだが。
( さて、どうしたものか…… )
ちらり、横目でアンジェリカを見遣ると出した分のお菓子は食べ終わっており、牛乳を飲み干すところであった。
無邪気で何も知らない無垢なアンジェリカ。地下道を作るにあたって提示した条件もあり、アンジェリカとは頻繁に会っていたわけでもないのにこうして自分に懐いてくれ、自分に安心感を覚えてくれている愛しい子。親友と交わした約束を果たすために出来ることを、レオンは模索する。
まず、レオンは徐に寝室のクローゼットの引き出しを開け、ロバートから地下道が完成した日に預かった革製の巾着を取り出した。ずっしりとした重みを感じながら、その巾着を開いて中身の確認をする。
( 金貨が五枚、銀貨が三十五枚……随分溜め込んだもんだ。これだけあればアンジェリカ一人であれば当面の生活は保障されるだろう )
この世界での平民の平均月収は良くて金貨二枚。ロバートも平均的な月収であった筈だが、アンジェリカの為にお金を貯め、そのお金を躊躇なくレオンに預けてくれるロバートに静かな感謝と感心を寄せながら、必要な物を家中から集め始めた。
十分と経たずにレオンは必要な物を揃え終わり、比較的小さめのポシェットに荷物を詰めていく。
裾を雑に切り、無理矢理アンジェリカの丈に合わせただけのローブを被せて丈を確認していると、アンジェリカは小首を傾げた。
「おでかけするの?」
「────……ああ、お日様が沈んで暗くなったらお散歩に行こう」
「えっ、よるのおさんぽ!?」
子どもはいつだって“特別”が好きだな、と喜ぶアンジェリカを見て思わず微笑む。窮地に立たされているというのに、そんな事を知らないアンジェリカの笑顔は図らずもレオンの心に僅かな平穏を与えた。
「アンジー、夜ご飯は何が良い?」
「え!おじちゃんとよるごはんも食べるの!? えっとね、えっとねぇ!」
アンジェリカは目を輝かせながら、子どもらしいハンバーグやオムライス等のメニューを挙げる。どれも家にある材料でできるな、と考えながらローブの丈の調整を始めた。
数時間後。
日はすっかり暮れて、結局ハンバーグもオムライスもどちらも食べたアンジェリカは満腹になり眠気に襲われていた。
「アンジー、お散歩には行かないのか?」
レオンはこの時間まで自分のところに誰も来なかったことに、アンジェリカに気取られぬよう安堵しながら窓の外を見遣る。窓の外には暗闇が広がり、自身の家の窓から零れる明かりに照らされる範囲に人影は見えない。嫁の利くレオンは更に遠くへと視線を持ち上げてみるが、人気はなくいつも通りの静けさと濃紺が広がっているだけだった。
( 行くなら今か…… )
重たい瞼を一生懸命持ち上げるアンジェリカ。このまま眠らせてあげられたらどんなに良かったか……。
それでも、アンジェリカの今この瞬間の安眠と、これから数十年と続いて行く未来を考えると、その二つは天秤にかけることすらできない。レオンは覚悟を決めた様にゆっくりと瞬きをしてから、眠そうなアンジェリカに声をかける。
「ほら、アンジーの為にローブを作り直したんだ。これを着てお散歩に行こう」
「わ、おじちゃんすごい!これ、わたしのなの?」
小さくてもしっかり“女の子”のアンジェリカは、自分の為の新しい洋服に目を輝かせた。
安さに惹かれて買ったは良いものの、色味が自身に合わずに唯の肥やしになってしまっていた濃い紫色のローブは、汚れも傷も殆どない。雑に切った裾を手縫いで整えたものに、“Angelica”と名前を刺繍しただけのものではあるが、それでもアンジェリカは嬉しそうに、まるで上等なドレスを受け取ったようにローブを抱きしめてその場でくるくると回って見せた。
「さあ、外は暗いからおじちゃんとしっかり手を繋いでいこう」
「うん!」
レオンは黒いローブですっぽり自身を覆うと、アンジェリカが差し出した小さな手を握り締める。
柔らかく、少ししっとりとした幼い手を、レオンはきっと一生忘れないだろう。
「いいかい、もう夜だからみんなは寝ているかもしれない。声は出さず、静かに行くよ」
「わかった!」
人差し指を立てて唇に当てそう約束を一つすると、アンジェリカの手を引いてレオンは家の外へ出た。
ローブの隙間を縫って肌を滑る夜気はひんやりと冷たい。音、気配、全てを取りこぼさないようレオンは全神経を尖らせて歩く。真剣に歩くレオンにアンジェリカも子どもながらに一抹の不安を覚えるが、声を出したら体中が震えてしまいそうで、言葉を飲み込み、静かに歩みを進めた。
────アンジェリカの普段歩く速度よりやや早いくらいのスピードで歩き、三十分は経過した頃。
元々あった眠気に疲労感も相俟ってアンジェリカの機嫌はどんどん悪くなっていく。
「もうやだ、歩きたくない」
唇を尖らせてレオンの手を振り払い、明らかに拗ねている顔にレオンは小さくため息を吐いた。
それはアンジェリカの機嫌の悪さに対してではなく、追われているかもしれないという不安と焦燥感からくるものである。大声で泣き出さないだけ幾分かマシか、とレオンは思いながらアンジェリカに背中を差し出すように屈んだ。
「おいで、おんぶにしよう」
「やったー!」
アンジェリカは嬉しそうに両手を挙げると、喜んでレオンの背中に飛びつく。勢いもあってアンジェリカの重みと衝撃にややバランスを崩しながらも背中に感じる温もりと小さな重みを嚙みしめるように奥歯に力を入れて立ち上がった。
「眠かったら少し眠っても良いよ。もう少し先まで行かなくちゃだからね」
「わかった!」
アンジェリカの元気いっぱいな返事は幻だったのでは、と疑うほど、レオンの背に体重をかけたアンジェリカはすぐに規則正しい寝息を立て始める。
「……無理をさせたね」
背中のアンジェリカからの返事はないけれど、レオンは眠るアンジェリカを労わるように声をかけて急ぎ足で夜道を行く。幸い今この時点で誰かに尾けられている気配はない。このまま“安全圏”まで行けるように祈りながら、レオンは足音を殺して歩き続けた。
やがて、目的地にたどり着いたレオンはアンジェリカを支える腕を揺らし、小声でアンジェリカの名を呼ぶ。
「アンジー、起きてくれ」
「ん、……ついたぁ?」
小さく身じろぎしたアンジェリカは眠たげにそう問いかける。声色から機嫌の悪さは伺えない。レオンは少しホッとしながらゆっくりとアンジェリカを地面に降ろした。
「アンジー、ここから赤い屋根が見えるかい?」
レオンが指さした方向にアンジェリカも視線を向ける。濃紺の空に赤い屋根は良く映えて、幼いアンジェリカの視界にも捉えることができた。
「うん、大きな教会だね」
「ああ、あそこにおじちゃんの知り合いがいるんだ。今日行くことを伝えてあるんだけど……、おじちゃん、ちょっと忘れ物をしちゃってね。アンジーだけ先に行っていてくれるかい?」
アンジェリカが眠っている間に必死に考えた言葉を紡ぎ、アンジェリカに申し訳なさそうに微笑んで見せる。
「えっ、一人じゃむりだよ……。わたしも、いっしょにもどる!」
アンジェリカは不安そうに眉尻を下げて全力で首を横に振った。レオンは屈んで膝を地につけ、アンジェリカの小さな両の手を握り締めながらまっすぐに向き合うと、アンジェリカの綺麗なペリドットの瞳を見つめた。
「でも、結構長い距離を歩いただろう?この距離を、もう一度歩けるかい?」
「……」
アンジェリカ自身、自分がどのくらい眠っていて、眠っている間にどのくらいの距離を進んだのかは知らない。レオンの背中で休んだとはいえ、幼いアンジェリカの体力は回復しておらず、脚に残る疲労感はアンジェリカの表情を曇らせた。
「アンジーをもう一度おんぶして連れて帰るのは、おじちゃんも凄く大変なんだ。だから、先に行っていてくれると助かるんだけど」
お願い、とアンジェリカに言って見せるけれどアンジェリカは中々首を縦に振らない。脚の疲労感も眠気も不快だが、知らない場所に一人で向かう勇気も持てないアンジェリカに決断は下せなかった。
「……いい子だから行ってくれ」
そう懇願するように、レオンは眉根を寄せて苦しい心を隠すように告げる。
レオンの言葉にアンジェリカは堪えていた涙を零し、思い出したかのように口を開いた。
「っ、ぱぱとままは……!?」
涙でくぐもる拙い声は、レオンの胸を痛い程に締め付ける。
「パパとママは……、もう会えないかもしれない。それでも……、君は生きなければならない」
掠れる声から必死さが嫌でも伝わる。アンジェリカは幼心にレオンにももう会えなくなるのではないか、と漠然とした不安を抱いて頷くこともできない。それでも、言いたい事も不安な気持ちも溢れる涙も全て我慢するように飲み込んで、レオンをまっすぐ見つめた。レオンもまた、アンジェリカの愛しい姿を焼き付けるようにアンジェリカを見つめ、唇を噛み締める。
「いいか。君はいつか、この理不尽な世界を切り開く鍵になる」
「かぎ……?」
「ああ。今は分からなくても良い。けど、知っていてくれ。君は……、君は特別なんだ」
“とくべつ”その言葉の意味は知っていたけれど。
じゃあ何故、特別である筈の自分は今こんな思いをしなければならないのか。
両親にも何故会えないのか。何もかもが分からなかったけれど、レオンが嘘をついていないことと、自分の為を思って言ってくれていることだけは分かる。
アンジェリカはきつく、きつく唇を噛んでレオンの言葉を咀嚼した。
「お、おじちゃんはちゃんと後から来るよね?」
アンジェリカの言葉にレオンは小さく微笑んで明言を避ける。それで誤魔化されてくれる程、四歳児は甘くないことを知っていたが、守ることのできない約束をしたくないことも事実で。
レオンの複雑な心情を読み取ることは難しいが、レオンを困らせてしまっていることだけは理解しているアンジェリカは言葉の代わりに涙を零す。
「────……もう行くんだ。……強く生きろ」
「っ、……」
レオンに軽く肩を押され、よろめいた体を支えるように脚が自然と一歩下がった。硬直した体が動いたことをきっかけに、アンジェリカは鉛をつけたように重い脚を引きずるように一歩、また一歩と後ずさる。
アンジェリカがくるりと背を向けたところで、レオンも立ち上がった。何度も何度も確認するようにアンジェリカは振り向きながらゆっくりと赤い屋根の教会を目指す。子どもの脚でも三分とかからないであろう距離だが、蝸牛の歩みにレオンは眉尻を下げた。アンジェリカの気持ちは痛い程分かっている。それでも生きていて欲しい。生き抜いて欲しい。親友と交わした最後の約束であることは勿論だが、それよりも何よりも、何の罪もない愛しい子が、不幸になる未来などあってほしくないのである。
自分から少女に行けと促しておきながら、レオンはその小さな背中から目を離すことができず、アンジェリカの姿がすっかり闇に溶けてしまってからも、その唯の暗闇をじっと見つめる。
レオンは知っていた。アンジェリカの両親が……、ロバートとミシェルがどうなったのか、アンジェリカがこれから過酷な人生を歩むことになることも。
その小さすぎる背中に重すぎる運命を背負わせてしまったことを、後悔はしていない。
これは、世界を変えるために必要なことなのだから。
「どうか、どうか……幸せになってくれ……、アンジー」
レオンもまた、小さな少女の幸せを祈り、目を閉じた。