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03. 雨と後悔と、終幕のベル





────どの地図にも、どの文献にも載っていない。

陽光の欠片も届かない海の底。深く深い深淵に、世界から忘れられた国、“ハヴスボトム”が存在する。

世界の最高峰、エベレストの標高は八,八四八メートル。それをそのままひっくり返して海に落としたとしても、届くことのない世界の深淵にその国は在った。


地上では科学が発展し、光も炎も音でさえも自由に操り何不自由なく生活を送ることが出来ている。代わりに魔法や迷信と言った類の力は次第に忘れられていき、誰もその力を信じることはなくなった。延いては“信じられないモノ”として例えら、ファンタジーとして語られるようにまでなってしまったのだが……、


忘れられた深淵の世界“ハヴスボトム”では科学の代わりに魔法や魔道具が発展していた。まるで地上が忘れていくものを一つずつ拾い上げていくように────……。


“ハヴスボトム”は海の底にあるにも関わらず自然が豊かであり()()が差す。

それは最早海底ではなく、世界の深淵に存在する別の世界であり、魔法で彩られた鮮やかな国には、二つの種族が国を分けて暮らしていた。


人魚が住まう国────“スヴァルトシェレナ”

魚人が住まう国────“オーケリウム”


種族同士、手を取り支え合い────……というのは夢物語。

いがみ合い、睨み合い、互いの喉元に刃を押し当てながら視線で火花を散らす。そのような関係が、もう何千年、何万年もの気が遠くなるほど続いているというのに、その理由も原因もきっかけも、その永く永すぎる時間の中に溶けて消えた。


今では互いへの“嫌悪感”のみが遺伝子に組み込まれたように無意識化に植え付けられ、息をするのと同じように、互いが互いを憎しみ合っているのである。



――あなたはこの悪意と嫌悪に満ちた連鎖を断ち切り、


真実の愛でこの世界を救えるのか。


それとも――……



「愛していたよ、誰よりも」



最悪の結末を迎え、真実の愛は海の泡となって消えるのか。

全ては、あなたの選択次第――……。






――――「ocean lover ~ 海の中で恋に溺れて ~」――――




あなたは、誰との恋に溺れますか?






「んぁ~~~~~~。なにこれ、神ゲーかな」


薄暗い寝室。寝かしつけという一日の終わりにして一日の中で最大の難所を乗り越え、漸く子どもたちが眠りに就いた午後21時40分。子どもたちの規則正しい寝息が聞こえ始めたところで開いたスマホは痛い程に眩しい。特に仕事に家事育児で一日酷使した目に、スマートフォンのブルーライトは致命傷を与える。

しかしそんな目の痛みなんて、視界から得られる情報と比べれば些細なもの。

私……、二児の子を持つフルタイムパートの主婦である花崎桃香は今、握り締めているスマートフォンの小さな画面の向こうに広がる世界に夢中になっていた。


私は子どもたちを起こさない様、某スパイ映画のBGMを脳内で流しながら無音で寝室から出てリビングへと向かう。こういう時に限って足首の関節がパキポキ鳴るのは何故だろうか……。是非とも育児あるある七不思議に登録して頂きたい。


どうにか子どもたちが目を覚ますことなく寝室を抜け出すことが出来た私は、扉の開閉は最小限にしてリビングへと滑り込む。

金曜日の夜の体は、多分月曜の朝より一週間分の疲労を蓄積した分だけ重い。スマホを握り締めたまま、使い込まれた染みだらけののソファへと飛び込めば、容赦なくのしかかる体重に泣き叫ぶように軋む。四年使い込んでいるスマートフォンの画面の端はひび割れているけれど、使用する分には問題ないと放置してもうどのくらい経ったか。


そんな中流家庭に分相応な生活に舞い込んだのは、煌びやかで豪華絢爛な不相応な世界観。自分の身の丈にあった生活とはかけ離れた世界観が今、小さな画面いっぱいに広がっている。


スマートフォンのスピーカーからギリギリ音割れしない程度の音量で壮大なメロディを奏でるのは、つい先ほどダウンロードが終わったばかりの恋愛シミュレーション系のアプリゲーム。家事の片手間にSNS巡りをしていた際、偶々見つけたのだ。

ストーリーとストーリーの合間に挟まるように入ってくる広告なんて普段は指先が無意識にスワイプして素通りするのだけれど、今回の広告だけは指先検閲に引っ掛かって私の目に留まる。


壮大なBGMが鼓膜を揺らし、耳心地の良い声優さんの声が肌の表面を撫でるような感覚に鳥肌が立った。そして何よりも、目を奪われる繊細なタッチの絵柄に思わず息が止まる。この広告を見つけたのが、帰宅後で良かった。もし朝の出勤途中や仕事の休憩中に目にしてしまっていたら、今日一日仕事なんて手に付かなかっただろう。


金曜日の夜(明日は休み)というのを言い訳に、私はソファにだらしなく寝転んでスマートフォンの画面に夢中になる。オープニングに流れる大まかなゲームのストーリーに気持ちは逸るばかりで。オープニングが終わるとボイスダウンロードが始まり、ダウンロードバーが端まで色付けば、早々に『恋に溺れる』というボタンが表示された。ボタンをタップすると、ヒロインの名前を変更するかどうかを問われる画面へと移る。


「変更しない場合は『アンジェリカ』ね……。まあ、変えるけど」


ヒロインは所謂平民であるらしく、苗字を持たない。名前と愛称が変更できる仕様で、変更しない場合は『アンジェリカ』という名前で愛称は『アンジー』となっていた。攻略対象キャラの性格上最初から愛称呼びするキャラと、好感度が上がれば愛称で呼んでくれるようになるキャラが居るらしい。

夢女子歴二十年以上にもなる根っからの夢女子である私は、恥ずかし気もなく名前の爛に自身の名前を入力する。このゲームでは愛称も設定できるため、愛称にも普段から呼ばれているあだ名を嘘偽りなく入力した。こういうゲームで個人情報なんて気にしたら負けなのである。勿論、超個人的見解だけど。


名前の入力を済ませるとすぐにプロローグへと画面が切り替わる。

プロローグでは自分の分身体となるヒロインの視点で、自身の日常が描かれていた。どうやら孤児であるらしい『私』は教会で育ったという設定で、オープニングにもあった魚人の国『オーケリウム』に住んでいる。敵対し合う両国の関係性に疑問を抱きつつも、孤児である自分に出来ることなんて限られてしまっている、と自分の無力さを噛み締めるいい意味で平々凡々な設定のヒロインだった。

プロローグの内容として一般的なのは各攻略キャラとの出会いシーンだが、このアプリゲームは少し毛色が違い、キャラとの遭遇は殆どない。そもそもこのゲームの特徴は攻略対象キャラが多いところである。プロローグに一気にキャラとの出会いを詰め込んでしまうのは興が醒める可能性もあるし、何より二つの国は敵対し合っているというのだから、人魚の国に住まう攻略対象キャラとの出会いが容易にできない、というのは寧ろストーリーの設定をよく活かしていると思い好感が持てた。若干名、これは攻略対象キャラだろう、と思う出で立ちの登場人物はいたが、フードを目深に被っていて顔どころか髪色さえ分からないよう、敢えて不鮮明に描かれている。


プロローグはその九割九分がヒロインの生い立ちや今までの生活、国の背景など、物語の前提が細かく描写されるのみで終わり、画面がホワイトアウトしていく。

真っ白になった画面に、金色の文字で『Touch Screen』と表示され、素直に従い画面をタップすると今度は攻略対象キャラを選択する画面へと切り替わった。


「あー、なるほど?先にキャラを選択するパターンね。運営との解釈が一致で助かりますわ」


ストーリーを進めていく上で選択肢によって攻略対象キャラのルートに入っていくパターンが一般的ではあるが、このゲームは予め選んだキャラのルートに入れるらしい。

選択肢によって入るルートが変わるタイプは本来攻略したかったキャラではないルートに入ってしまう可能性が高く、推しキャラの攻略ルートに入る選択肢を模索するのに時間がかかる。攻略サイトを見ればいい話ではあるが、攻略サイトに頼らず自力でゲームを進めたいタイプにとっては少々厄介なのだ。更にこうしたアプリゲームの場合、一日に進められるストーリーの話数は決まっているパターンが多く、無課金の場合は攻略完了までかなりの時間を要してしまうため、尚更効率が悪い。その点、予めキャラ選択が可能の場合は確実に攻略キャラのルートを進めるため、キャラとの好感度を上げる選択肢を見極めれば良いだけなのでアプリゲームとしては最良のシステムなのである。かくいう私も攻略サイトは見ずになるべく無課金でクリアしたい派なので、このシステムは精神的にもお財布的にも大変ありがたい。


攻略対象キャラの選択画面を横にスワイプすると、キャラクターの全身像と顔のアップ、身長や体重、キャラクターボイスを当てている声優さんの名前やそのキャラの性格を表すような謳い文句が添えられていて、恐らくストーリー上で出てくるキャラの名言的な一言がボイスとして流れる。攻略可能の場合はキャラクターの全身像の下に『彼との恋に溺れる』というボタンが表示されていて、そこからストーリーに進めるようだった。


「は?こんなん一生悩める……」


ストーリーを純粋に楽しみたい、もしくは恋愛ゲーム初心者ならば、王道キャラが一番良い。基本的にストーリーの正規ルートであり、攻略の難易度も低く設定されていることが多く、こうしたセンターキャラは大衆受けするようなヒーロータイプで、キャラクターボイスも人気声優さんが当てられることがセオリーだからだ。

因みに王道キャラは大抵の場合タイトル画面でセンターを張っていたり、こうしたキャラクター選択場面ではトップバッターで表示されていたりするのがお決まりである。今回のゲームでは、人魚と魚人の国の各国の第一王子が二人でセンターを張っていたため、王子ルートがストーリーの正規ルートなのだろう。


しかし、夢女子タイプである私は、こうしたゲームではストーリーは二の次。いかに好みのタイプのキャラとの距離を縮め、キャラ個別ルートを進むかということに重きを置いているのでセンターキャラが好みでなかった場合は自分好みのキャラクタールートを先に選択している。

今回も、王子はそこそこ好みではあったがその優先順位は高くない。豊富過ぎるキャラクターを吟味するという贅沢な時間を思う存分に無駄遣いしながら次へ、次へとスワイプしていくと……、


「はい、きた。スキ~」


キャラクター選択画面の後半も後半。十人以上いるキャラクターの十人目くらいに出て来たキャラクターは、外見も性格も好みのど真ん中でスピーカーから漏れる声に心臓を鷲掴みにされる。声優さんはこうした恋愛シミュレーションゲームではあまり見かけない珍しい名前ではあったものの、キャラクターの外見と声が見事にマッチしていた。たまに見た目と声の解釈違いで愛せないキャラもいるのだけれど、逆にこれほどまでに解釈が一致するパターンも珍しい。


早速このキャラとのストーリーを進めようとするも、


「あれ……?」


『彼との恋に溺れる』というボタンは表示されておらず、『条件不足』と急に現実感満載の文字だけが表示されていて、ボタンはタップできないようになっていた。

良く見ると、他のキャラの中にも同じように『条件不足』、もしくは『未配信』となっているキャラが居て、攻略できるキャラはまだ限られているらしい。


アプリストアの説明欄に載っていた配信開始日は極最近であったことを思い出し、まだ未配信キャラがいるのは当然か、と納得して再び思案する。

好みのキャラを攻略できないとなると、次の選択肢として挙がってくるのはやはりストーリー重視の王道キャラか、次に好みのキャラになる。キャラクター選択画面をもう一周しながらプロフィールを読み込んでいくと、王道キャラである王子の選択画面に、最初に選択しようとしたキャラと幼馴染であるという設定が記載されていた。幼馴染ということは、ストーリー上で絡みも多いだろう。という邪な考えが神経を支配し、私はすぐに『彼との恋に溺れる』をタップした。


「────ほら、早くおいで」


タップすると同時流れる、王子の甘い声に背筋がぞわぞわと痺れる。

こうして私は人魚の国『スヴァルトシェレナ』の第一王子である「トピアス・アラン・スヴァルトシェレナ」のルートへと入った。



────そこからは、はっきり言って沼だった。

神ゲーだと予感したあの時の私は間違いではなかったのだ。


正直タイトルだけを見れば「クソださ」としか思わなかったのだけれど、成程確かに、私はまんまと()()()いた。この『ocean lover』というゲームは配信開始から早一ヶ月でダウンロード数が一万を超えるヒット作となり、キャラクターの多さ、ストーリーの重厚さなどが評価されていた。更に、略すと『オシラブ』となることからも、必ず推しが見つかるゲームとして早くもSNSで話題となっている。


絶対に課金しないで進めようと思っていた私の決意は早々と砕け散り、今ではある程度の課金には目を瞑ってストーリーをどんどん進めている。ゲーム内には『想い度』と『想われ度』という二種類の好感度が存在し、選択肢によっては想い度のみ、想われ度のみ、もしくはその両方の好感度が上がる仕様になっていた。ストーリーの中盤を超えたあたりで『想いルート』と『想われルート』という分岐点があり、よりポイントを稼いでいた方のルートへと進む。

両方の好感度をマックスで上げていた為、分岐では好きなルートを選択できるようになっていた私は、一週目は『想われルート』を選択し、そのルートを突き進む。


トピアスルートはやはり王道キャラということもあり、好感度を上げる選択肢が分かり易く、攻略は比較的簡単で予定よりも早くクリアすることができた。クリア後はルートの分岐点からスタートすることも出来たのだけれど、ストーリーが予想を大幅に超えて良すぎた為、他のキャラとのルートも見たいという思いに駆られた私は違うキャラとのルートを選択することにして、再び攻略キャラ選択画面へと戻りスワイプを繰り返す。因みに最初に選択したかったキャラのルートは無情にも『条件不足』のままで選べなかったため、諦めざるを得なかった。


「よし、次は魚人サイドを見ようかな」


そうして私のオシラブ生活は沼の底へと沈んでいくのであった。






「────つかぬ事をお聞きしますが」


大小異なる物音のボリューム、異なる話題、そして重なっていく声は『ガヤガヤ』と表現される雑音に変わる。雑音の上では流行りのアイドルが甘い声で恋を歌い、隣の席に座る年若い女子は「何だっけ、この曲!」と若者らしい話題で盛り上がっていた。

あれ、おかしいな。私もまだ若い部類に入ると思っていたのに。何故私は、中学からの友人を前に机に突っ伏しているのだろうか。自分でも疑問に思えるほど友人と対話する気のない体勢の私に、友人は慣れた口調で問い掛ける。


「なんでせう」


今日は子どもたちを旦那に任せて、中学来の親友と楽しい飲み会になる予定だった。

家族間で共有できるカレンダーアプリに一ヶ月以上前から予定を入れていて、この日を楽しみに家事育児仕事と頑張っていた私は、まだハイボールを二杯あおっただけだというのに、何故かもう枯れた声でそう絞り出す。

親友はコークハイを煽りながら左手の人差し指を私に向けた。ダメなんだぞ、人を指差しちゃ。なんて勿論言う気力は持ち合わせておらず、私は何故指を差されているのか分からずに小首を傾げる。


「何で、全身真っ黒コーデなの?厨二病でも患った?」


友人は私の様子などお構いなしにそう言うと、ジョッキを机に置いた。

友人の指摘は尤もで、今日の私はワンポイントも刺繍などの飾りなども一切ない膝丈の黒いワンピースに、黒いタイツ、黒いパンプスを履いている。普段からモノトーンを着ていれば特に気にならないのだろうが、私は普段淡いパステルカラーを好んで着ていて、暗い色と言っても精々グレーを着る程度。此処まで黒で統一されていたら、私を昔から知る友人でなくとも疑問を抱いたことだろう。


「漆黒の堕天使ってか?うるせぇわ」

「漆黒の堕天使に失礼だよ。クロムハーツ着けて出直してくださぁい」


相変わらず口が良く回る友人のツッコミを受けながら、たこわさを一口放り込み、鼻の奥がツンと痛くなる辛味に顔を顰める。まだ辛味の余韻が残っている内に、今度はハイボールを流し込んで少し乱暴に机にジョッキを置いた。


「単純にさ、普段そんな色の服着ないじゃない。何か理由があるのかと思って」


有人の優しい言葉に、目頭が熱くなる。私はもう一口ハイボールを含んで胃に落とすと一緒に飲み込んだ空気を吐き出すのと一緒に声を絞り出す。


「……喪に服しているの」

「藻?」

「喪!藻に服着せてどうすんだ」


日本語を複雑に操って笑えば、友人も釣られて笑う。居心地の良い雰囲気に思わず表情も緩むけれど、昨日の出来事を思い出すと胸を締め付けるような哀しみを覚え、再び気持ちは沈んでいく。


「……で、何でまた喪に服してるの?」


友人の歯に衣着せぬ言い方は大好きだけれど、今日ばかりは唯々痛い。

出来たばかりの傷口に塩をしこたま塗り込まれているようだ。


「っ、思い出すだけで涙が出るのに……そのうえ話せと……?」

「いや別に、無理に話さなくて良いけど。そうなるとこのあとずっと、私の推しとのイチャラブ妄想聞く羽目になるけど良い?」

「それは良いけど、待って。先に聞いて欲しい……っ」


縋るように言えば、友人もこうなることが分かっていたかのように静かにジョッキを傾け、聞く体勢を取ってくれる。私は心臓を直接握りつぶされたような痛みを覚えながら、昨日の出来事を反芻し、話す内容を順序立てた。


「────……そう、時は約23時間前に遡る────」


やっぱり語り出しはこうじゃなくっちゃね。と、私は両肘を机につくと両手の指先を絡ませ、その上に顎を乗せる。この姿勢を取るだけで、誰もが「乗るなら早くしろ」とか言い出しそうな、偉そうな語り部になれるおすすめの姿勢だよ。


「壮大に始めるじゃん」

「推しとの物語だよ?壮大じゃないと許せない」

「過激派かよ、スキ」


ふふ、と互いに笑い合いながら私は昨夜の出来事を────悪夢を、話し始めた。



昨夜、22時過ぎ。

私は家事育児の全てを終え、子どもを寝かしつけたあとの束の間の一人の時間をオシラブに費やしその世界観にどっぷり肩まで浸かるのが日課になっていた。

二児の子持ちの……それも保育士という薄給代表職業でゲームに課金しながら生活できるほど経済的に余裕がある筈もなく、削れるところは削り、倹約者のスキルを使用しながら上手に節約して物語を進めていた私は、その日ももやしをつまみつつアプリを開く。


この日私はXデーを迎えていた。

その日はトピアスルート二周目のエンディングを迎える日だったのである。


「────ちょっと待って、まず言わせて。はっっっっ……や!」


友人の言い分は尤もで、私がオシラブと出会ってからまだ二週間程なのである。

本当の無課金で進めるとなると一人のキャラルートをクリアするのに、平均二週間以上はかかる。それを二周目突入した、と興奮冷めやらぬ状態で連絡したのが4日前の夜。そうして今日この時点でクリアしているのだから、実質3日とかからずに推しのエンディングまで迎えたのだから、あとはお察しの通り。


「大丈夫、無(理のない)課金だし、子どもたちだけにはちゃんとした物食べさせているから」

「待って、副音声が聞こえた」

「それは気のせいだよ。取り敢えず、私は無事にエンディングを迎えたわけさ」


友人を制するとそれ以上は何も言わず、言葉を飲み込むようにコークハイを流し込む。


「────……そう、エンディングを迎えたの。物語の最後の最後でね……もう佳境!クライマックス!って感じ。BGMにオープニング曲が使われてると胸熱でテンション爆上がりしたんだけど……私、選択肢を間違えちゃって……」


思い出すだけで、鼻の奥がツンとなる。これはたこわさの所為ではない。

悲しくて、辛くて、涙が出そうになる合図……。


「推しが……死んだの。ううん。私が……殺したの……っ」

「え、オシラブのヒロインってヤンデレなの?」

「違う……けど、私の選択肢の所為でバリバリの死亡フラグを立てちゃってね……、推しが……ヴィンスが……っ」


感極まって本当に泣きそうになる私に、友人が僅かに焦りを見せる。


「ちょ、待って待って。私が泣かせたみたいになるから!修羅場カップルみたいな雰囲気になるから!」

「あんたとカップルなんて、死んでもごめんだね」

「おい」


こっちの台詞じゃ、と言う友人のお陰で涙は流れずに済んだけれど、心の痛みまでは消えない。


「私が殺したの……。私が選択肢さえ間違わなければヴィンスは生きていたし、私の隣で笑ってくれていた。二周目にして初のバッドエンドを迎えてしまったの……。でも、私には何もできない……だから、せめてもの思いでこうして喪に服しているのよ」


とてもゲームの中の話とは思えない程リアルな感情を剥き出しにする私を前に、友人は自身の口元を右手で覆い、俯く。


「……分かりみが深淵……」

「海よりも深い共感をありがとう」


友人も長年推しているキャラクターがいて、友人も私と同じくド腐れ夢女子の為、私のこの遣る瀬無い気持ちに共感してくれたのであろう。憐れみを、まるで目薬を差したように瞳全体に塗りたくり、私を見遣る。


「それはもう、問答無用で喪に服すわ」

「ね。アルカトラズで服役するくらいの覚悟持ってる」

「絶対的覚悟じゃん。尊敬に値する」


息の合ったやり取りを交わしながら、昨夜の傷が少しずつ癒えていくのを感じた。こういう時、時間が解決してくれるとは言うけれど、やはり友人とのこうした何気ないやり取りも確実に今の私にとって良い薬になっているような気がする。


こうして、推しのヴィンスが生きていた頃の惚気話をしたり、友人の推しの話を聞いたり、と互いの愛をぶつけ合いながら、ワーキングママにとって貴重な休みは過ぎていく────……。


「……じゃあ、またね」

「うん、暫く忙しいから次に会うのは来月とかになるかなあ。旦那に頻繁にお願いするのも申し訳ないしね」


飲み放題ではないことを忘れ、五時間も居座った居酒屋の会計を見て、すっかり酔いの醒めた私と友人は五時間も飲み続けたとは思えないほどしっかりとした足取りで駅へと向かう。

そこで互いに乗る路線が違うため、改札の前でどちらからともなくスマホを取り出し、カレンダー機能を見ながら口を尖らせた。


「それなぁ……取り敢えず、今日は旦那さんに感謝! 仕事はさぁ……、進級準備、忙しすぎるよね……」

「ほんと、三月四月はまじでしんどい。運動会前くらいしんどい」

「発表会も然り」

「全面的に同意」


お互い、課せられたタスクを思い出してげんなりする。

保育士、という職種に限ったことではないが、“進級”というのが関わってくる職業は大抵、年度末は忙殺されている印象が強い。私たち保育士も例に漏れず、年度末、そして年度始めは体重が大きく変動するくらいには忙しい。これが減る方に大きい分には良いのだけれど、残念ながら小腹が空いたときにソーセージを茹でて食べてしまう程度には過食に走る私。この時期激太りしてしまうのは言うまでもない。


中でも、年度始めの新しいクラスというのはとにかく地獄をそのまま現実にしたようなカオスになる。

新しいクラス、新しい子どもたち、保護者たち……。新しく関係性を結び信頼を得るのは容易ではないし、進級して大変なのは情緒が不安定な子どもたちの阿鼻叫喚の中で仕事をしなければならないこと。……だと、個人的に思う。それが乳児であればあるほど大変で、酷い時は一人抱っこ、一人おんぶで鼓膜に直接大音量の泣き声を注がれ、あやすためにずっとスクワットしている。事務仕事だって待ってはくれないし、日々のタスクは変わらずあるわけで……それはそれはもう、優しく言ってもリアル地獄絵図なのだ。


「次は二歳児が良いなぁ……」

「あ~、私も二歳児好き!」


どのクラスでも子どもたちが可愛いことに変わりはないが、二歳児は完璧個人的意見から言わせてもらえば、はちゃめちゃに可愛い。できることも増え言葉のやり取りも多く、関わっていてとても可愛いのだ。

0歳児の赤ちゃんも破壊力はやばいが……。

やはり乳児の中でも0歳児というのは一際異色で、初めて集団生活を送る上に慣れない環境で体調を崩す子がかなり多い。

保護者も初めて我が子と離れて過ごすという人も多く、そうした保護者との関わり方や育児のケアの仕方などが特に重視される。月齢による発達、成長の個人差もかなり大きく1日の主活動を考えるのも大変で、更に離乳食も食べる子、食べない子、中期、後期、完了食……と、子どもによって食べられる食材が違う、食事の内容も違う子たちを複数見なければいけないというのは神経を使うし、言葉を話せない為意思疎通が難しく、子どもたち同士の噛みつき、引っ掻き、抓り……歩き出したばかりの子の転倒、お座りが出来るようなった子の転倒、寝返りが打てるようになったものの、寝返りから返ることが出来ない子の対応……などの怪我も事故も個別の対応も多い。

全ての年齢それぞれ違った大変さはあるけれど、0歳児は特出して大変だと個人的に体感して思ったものだ。


「まあ、どのクラスになっても、その一年間楽しめるかどうかは、子どもより一緒に組む職員次第だよね」

「分かる。……てか、こういう話こそ居酒屋でするべきじゃない?こんな別れ際に改札の前でする話じゃないよね」

「正論過ぎて草も生えない。焼野原」


二人でふふ、と小さく笑うと唇から漏れた吐息が白く色づき不規則に宙を舞う。

今度こそ、じゃあね。と互いに片手を挙げて別れを告げ、それぞれの改札へと入っていく。


友人と別れ、タイミング良く来た電車に乗って壁際に凭れながら、車窓に流れる景色を意識の外で眺めていた。友人と充実した時間を過ごしたからか、推しを失った喪失感がかなり緩和されているような気がして、私はヴィンスを失って初めてゲームを開く。ヴィンスが死んだというのに、タイトル画面にも変化はない。ヴィンス自身も、何もなかったかのようにタイトル画面の端で意地の悪い笑みを浮かべていた。

しかし、画面をタップしてマイページに飛ぶと、そこには一番大きく「恋の続きを見る」というボタンがあった筈なのに「新しく恋に溺れる」という文字に代わっていて、一つの恋が自分の意図せぬ形で終わったのだと無情にも事実を突き付けられ、心が苦しくなる。


このマイページの背景は、ルートの有無に関わらず登場人物全てのキャラクターに変更することが出来た。中には衣装チェンジもなく、ボイスすら宛がわれていない、唯瞬きするだけのキャラクターも居る。私はどのキャラルートを進めていても、この背景だけはダウンロードした初日からずっとヴィンスにしていて、他のキャラルートを解放してからはヴィンスのボイスの種類も増え、衣装も変えられるようになった。


仕事終わりにこのマイページを開いて、ヴィンスの変わらない笑みと甘い声を聞くだけでHPが回復していたというのに、今となっては、ヴィンスの意地悪な微笑みは唯の遺影にしか見えない。


勿論、唯のゲームなのだから、マイページの「新しく恋に溺れる」をタップして再び他のキャラクターを選択すれば良い話なのだが、タップして始まる物語は、当たり前だけれど最初から。そうなると、ヴィンスはもう私の知っているヴィンスではないのだ。私の存在まるごと消された初期設定ヴィンスになるため、苦労して集めた彼との思い出(スチル)もなかったことにされる。彼との思い出を覚えているのは私だけ。そんな虚しさが過って、中々他のキャラとの恋を最初から始めることが出来ないでいた。


『────……次は、北街。北街駅~……お出口は、左側です』


車内のアナウンスにスマホから顔を上げれば、ドア上部にある電光掲示板に最寄り駅の名前が流れる。

凭れていた背中を離し、姿勢を整えるのと同時に、座っていた乗客も数人が立ち上がって降りる体勢をとって、アナウンスされた出口へと歩き出した。私も肩にかけた鞄をかけ直し、少し曇った窓越しに電車がホームへと滑り込むのを見つめる。


電車が耳障りな高音を響かせて停まると、慣性の法則に従って立っている乗客の半数がよろけた。

例に漏れず、私も他の人にぶつからない程度には踏ん張りつつもしっかりとよろけて、電車が完全に停まってから姿勢を正す。一拍置いてドアが開くと文字通り人が車内から流れ出て行き、それぞれが改札へ上がる階段、乗り換えの為の階段へと向かっていった。

私はここが最寄り駅のため、スマホの画面は点けたままポケットへと滑らせ、出口へと繋がる改札へと向かう。

歩きながら現在時刻を確認し、子どもたちは多分寝ているだろうけど、キッチンとリビングの惨状を想像してげんなりし、帰ったらまず何から手を付けようか、と計画しながら改札を通り、駅から出ようとすると出入り口付近で立ち止まる人の多さに違和感を覚える。土曜日の夜だし、飲み屋の多い駅の人の出入りはまあこんなもんだろう、と言い聞かせながら人をかき分けて構内から出ようとしたところで、何でこんなに混雑しているのか、原因が分かりため息を吐く。


( 嘘でしょ、最悪……。雨降ってるじゃん )


友人と居酒屋を出た時には雨は降っていなかったし、駅に着いた時も電車の窓は濡れていなかったように思うのだけれど、正直そこまで意識して電車の車体を見る事はないため、気が付かなかった。

普段は欠かさず見る天気予報も、今日は土曜日。いつもの朝の情報バラエティはやっていなくて、天気予報もわざわざ調べることなく家を出てしまったのが運の尽き。生憎傘も持っていない。

時計は23時過ぎを示しており、この時間は確実に子どもたちも寝ているため旦那に迎えを頼むことも難しい。タクシー乗り場にタクシーは一台も停まっておらず、乗り場はアーケードのような屋根もない剥き出しの屋外の為、タクシーを待つだけでも濡れてしまう。夜23時を回った今、私の家の近くを通るバスはもう運行していないし、ここは諦めてコンビニでビニール傘を買おうと、濡れるのを覚悟して首を竦めて外へと走り出す。


駅を出て最初のコンビニまで、数百メートル。

もう視界にはコンビニを捉えているが、その手前の信号が赤になった為立ち止まる。

赤信号、皆渡っても立ち止まる。雨でも止まろう、赤信号!


( ……あ、そう言えば私スマホの画面オンにしたままだったっけ )


電車を降りる際にポケットに滑り込ませたままのスマホの存在を思い出した私は、何気なくスマホを取り出した。ゲームを開いたままポケットに入れていたため、スリープモードにもならず画面が点灯したままのスマホ。ヴィンスがゆっくりと瞬きをしている様子に、やはりHPは回復していく。自分で殺しておきながら、勝手に回復して……。もしかして私、サイコパスだった?と自問していると、


「────……おい、危ないぞ!!!」


周囲のざわめきの中、そう叫ぶ声が聞こえて何事かと顔を持ち上げた。

すると、強い光に照らされて一瞬視界が白く染まる。眩しさに目を細め、その強い光が車のヘッドライトだと気づいた時にはもう遅くて。

雨に濡れた路面を滑り、完全にコントロールを失った制御不能の鉄の塊が、信号待ちで止まっていた私に向かって突っ込んでくる。ああ、これはもう避けられない。死ぬかな。大怪我かな。ああ、どちらにせよ家族に迷惑がかかる。


子どもたちが心配だな。旦那は米も研げない人だから、大丈夫かな。子どもたちの成長をまだそばで見たかったな。


せめて大怪我であれ。


そんな、車が突っ込んでくるまでの1秒にも満たない僅かな時間で元も子もない願いを心の中で唱える。

ヘッドライトの眩しさの奥に見えた車は、どうやらトラックらしい。


( ────……ああ、これはダメだ )


大きすぎるシルエットに、私は静かに最期を悟り、無意識にスマホを強く握りしめた。


『……おい、いつまで阿呆面晒してんだ。ほら、早く来いよ』


スマホを握り締めた際、指先が画面に触れたのだろう。

ヴィンスの甘い甘い声が、テキストボックスの中の台詞をなぞる。


ああ、最期に推しの声が聞けたのなら。

案外、悪い終わり方ではなかったのかも。

そう暢気に思いつつも、やはり指先に後悔が引っ掛かる。


( ────どうせなら、 )


推しを、救ってあげたかったな。


生きているヴィンスと、エンディングを迎えたかった。

どうか、どうか。来世(次の周回)では、ヴィンスが幸せになりますように。

いや、寧ろ私が幸せにしてあげたい。他の人の手で幸せになるのではなく、私が────……

そう、私自身で……やり直したい。彼の人生、幸せで溢れる人生にしてあげたい……。


( 転生……、できるかな。神様もし……、もし二度目の人生を送ることが許されるのならば…… )


ヴィンスのいる世界へ。

オシラブの世界へ。


彼を救うことのできる人生を、歩ませてください。


そう、祈りと願い、自分が叶えてあげたかったという後悔と懺悔。その全てを詰め込むようにスマホを握り、私は来る衝撃に備えて体を硬直させ、目を閉じた。


そして、


「っ、きゃああぁああ!」


名前も顔も知らない人の叫び声。

雨の音、眩しいヘッドライト、ゴムが焼ける匂い、そして耳を劈く高音――





キキィ―――――――ッ!!!




終幕のベルは、酷くうるさくて。

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