19.花束と過去の呪い
王城の塔を抜ける風が、窓辺の書類を小さく揺らした。
午前の光は柔らかく、少し離れた訓練場からは剣戟の音が微かに届いてくる。
その音を背に、ヴィンスは静かに筆を置いた。
トピアスによるアンジェリカの魔法授業に関する報告書に、署名を終えたばかりだった。
初日は緊張を色濃く見せていたが、魔力の扱いは素直で、吸収も早い。
今ではすっかり緊張も解け、トピアスの指導を驚くほどの速さで吸収している。
……そして何より、指導するトピアスの表情が随分と柔らかくなった。
そのことを本人に告げたとき、「ヴィンスも何か良いことでもあったのか」と返された。
ダリアと顔を合わせる約束が近いことを悟られまいと、「そんなことはない」と返すまでに一拍の間が空いた。
そのわずかな沈黙を、トピアスが聞き逃すはずもない。
けれど、彼はあえてそれ以上追及せず、話題を変えてくれたのは記憶に新しい。
机の端には、昨日届いた花の見本帳が開かれたままだ。
鮮やかな赤、橙、淡い桃色──
どれも、自分が普段選ばぬ色ばかり。
そもそも、花を贈るなどということは滅多にしない。
精々、貴族内で祝い事があった折に、トピアスの代理として花束を手配するくらいのものだった。
だが、あの日──
「自分には似合わない」と、彼女がふと零した声が、なぜか耳に残っていた。
まるで、それを打ち消す色を探すように。
だから、見本帳を開いたとき、ふとその色の中に彼女の姿が浮かんだ。
淡く光を帯びた髪。真っ直ぐに見据える瞳。
静謐で、氷のように冷たく見えて、
それでもどこか、触れたら壊れてしまいそうなほど儚い。
……暖かい色が、彼女を包むところを見てみたい。
そう思った。
だから、あの花束を選んだ。
けれど、それが本当に正しかったのか。
彼女の表情を思い出すたびに、胸の奥が微かに疼く。
──そういえば、昔。
ひどく退屈な茶会があった。
まだ学院にも通い始めて間もない頃、父の代理で顔を出しただけの場。
金の縁取りのティーカップ。
柔らかく笑う少女。
「青が似合う」と軽口を叩いたのは、他でもない自分だった。
「赤や橙なんて着たら、貴女の静けさが台無しになってしまいそうで、勿体ないです」
無邪気で、無知で、それでいて誉め言葉のつもりだった。
令嬢の瞳がわずかに曇った理由も、そのときは理解していなかった。
──まさか、あのときの彼女が。
記憶は淡く、あやふやだ。
けれど、彼女が少しだけ俯いた仕草と、光を弾く白金の髪だけは、不思議と忘れられない。
今になって思えば、
あれはきっと、彼女だったのだ。
「……本当に、心無いことを言った」
呟いた声は風に溶けた。
彼女が今も寒色を選んでしまう理由を思うと、
胸の奥が締め付けられる。
花束ひとつで償えるとは思っていない。
それでも──もし、あの花に少しでも彼女の心が触れたなら。
それだけで、今は十分だ。
インクの乾きかけた報告書を束ねていると、
扉の向こうから軽いノックの音がした。
「────ヴィンス、まだ執務中か?」
書斎の扉を軽く叩いて現れたのは、トピアスだった。
肩にはまだ授業用のローブが掛けられ、背後からはアンジェリカの笑い声が遠くに響いてくる。
「アンジェリカ嬢は?」
「ジェジィに案内を頼んだ。少し休憩させている」
「……ああ、あいつなら余計な詮索はしないな」
ヴィンスは頷き、手元の書類を整えた。
ジェジィとは、トピアスの側近であり、ヴィンスの同僚でもあるジェズアルド・ジェラルディのことだ。
寡黙で生真面目な男。余計な詮索も、無駄な感情も交えない。
アンジェリカを任せるには、確かに最適だった。
「……で、殿下。何のご用です?」
「何だ、堅苦しいな。少し話でもと思ってな。どうせお前、放っておいたら昼食を抜くだろう?」
「……仕事が終わったら食べます」
「その変な間、絶対に俺が言わなかったら食べなかっただろう」
トピアスは笑いながら、机の上の見本帳に視線を落とした。
鮮やかな赤や橙の花が描かれたページが開かれたままだ。
「……ずいぶん派手な色だな。お前にしては珍しい」
「研究用の資料です」
「ふうん。誰かに贈るための研究か?」
軽口のような言葉に、ヴィンスの指が止まる。
わずかに眉が動くのを見て、トピアスは愉快そうに笑った。
「……トピアス」
「冗談だよ。だが、最近随分と楽しそうだな」
「……余計なことを言うな」
冷静を装って返すが、耳の先がわずかに赤い。
トピアスはくつくつと笑い、窓際に歩み寄った。
「アンジェリカ嬢も、お前も。最近どこか柔らかくなったな。春のせいかもしれない」
「春だろうが冬だろうが、俺は変わりません」
短く返す声に、トピアスは肩を竦める。
「そう見えるかどうかは、周りが決めることだ」
そう言って扉の方へ向かいかけたが、ふと思い出したように振り返った。
「なあ、これから昼食に行かないか?今日は珍しい料理を出すらしい。ジェジィとアンジェリカ嬢も呼んである」
「結構です。まだ仕事が残っていますので」
「ほら、昼食抜く気じゃないか。……少しくらい息抜きしろよ」
「息抜きは効率を下げます」
即答に、トピアスは呆れたように笑った。
「お前は昔からそうだな。何でも数字と論理で片づける」
「合理的で結構なことです」
「まったく。──だが、合理では片づかないこともあるぞ」
軽く手を振り、トピアスは部屋を出ていった。
扉が閉まると、室内には風の音だけが残る。
昼食の時間だからか、剣戟の音も聞こえない。
──柔らかくなった、か。
窓の外では、午後の光が噴水を照らしていた。
水面に反射する光の粒が、どこかあの花束の色を思わせる。
「……暖かい色、か」
小さく呟き、ヴィンスは羽ペンを取る。
書類の余白にそっと筆を滑らせた。
「Dahlia」──その花の名を綴る。
インクが乾いていくのを見つめながら、
彼は静かに目を伏せた。
かつて無意識に傷つけた少女が、
今、誰かの腕の中で笑っているのかもしれない。
それでもいい。
もしその笑みのどこかに、
自分の贈った花の色が一つでも残っているのなら──。
それで、十分だ。
と、思えないくらいには、彼女が愛おしい。




