018.2人目の魔王
ロゼルタが自分の感情を持て余し、戸惑っている所へ無遠慮にバシャバシャという音を立てて近寄ってきた女性がいる。
「何ですかそんな所で2人で仲良さそうに! 私も混ぜて下さぁい!」
サラだ。
ハーフエルフであるという彼女の肌は雪のように白く、その体の線は人間と比べても細い。
肩口程までの銀髪を揺らし、笑顔で手を振りながら走ってきた彼女だったが、突然驚いた顔付きになり、直後ジャポンッという音と共に姿が見えなくなってしまった。
「何っ!?」
「サラさん!」
驚いた2人はサラがいた場所まで手で水をかき分けながら急いで駆け寄る。そこには落とし穴の様に一部、深くなっている所があった。
「確かに何かの魔物の気配がするぜ。水ん中だな」
「ええっ! サラさん!」
「サラッ!」
普段のロゼルタならここまでは慌てなかったかも知れない。ノルトによって母性を強烈に刺激されてしまった彼女はどうしてよいか分からず、それから逃げる様にサラへと注意を向けた。
水面に近付けたロゼルタの顔の前にニュッとサラの顔が飛び出して来た。
「ばぁっ!」
「うわっ」
両手のひらを顔の横でロゼルタに向け、弾ける様な笑顔を見せたサラは、
「ドッキリでーす。2人でお楽しみ中の様だったので私も混ぜて貰おうかと……ひえっ」
その言葉は最後まで言えず、フワリと体が浮いたかと思うと次の瞬間には再び川の深い所へ投げ飛ばされていた。
「ブハッ……ひどーい! ただのお茶目なイタズラでしたのにっ!」
「テメー次やったら殺す」
「今のはサラさんが悪いです! 心配したのに!」
ノルトもロゼルタの隣に並び、珍しく憤慨する。
何とは無しにふとロゼルタとノルトの目が合い、また2人とも顔を真っ赤にして顔を背けた。
(いいい一体何だってんだ……あたしとした事がたかがあれだけのスキンシップで……まさかこんな人間のガキに惚れたのか、あたしは)
それは今まであまり自分の内面と向き合う事の無かった彼女にとって、少し的外れな思考になってしまう程、厄介で持て余す感情だった。
ロゼルタの頰の紅潮を何と勘違いしたのか?
先程のサラと同じ様に今度はアンナが必死の形相で駆け寄って来た。
「ちょちょちょっと! あんた達何イチャイチャしてんのよ!」
「イ、イチャイチャなんて、してねー!」
「してたじゃない! はぶっ!」
「……」
またもや2人の前で吸い込まれる様に消える。当然ロゼルタもノルトも今度は慌てない。
「おい、その冗談は次やったら殺すと言った筈だぜ」
目を吊り上げ、アンナの姿が消えた水中に腕を突っ込み、弄る。だが暫く辺りをかき混ぜるが一向に彼女の手に触れなかった。
「ん? どこ行った?」
2人が怪訝な顔付きになる。
その時、ノルトに起こる不思議な感覚。まるで時間が止まったかの様に遅くなる感覚。
(あ、これは……)
アンナの家で合成魔物と対峙した時の感覚。そしてあの時と同じく彼の奥深くで語り掛けてくる声があった。
『あの娘はお前の大事な子なんだろう?』
それは彼の肉体に宿る魔王の魂の声。
魔導王ネルソ=ヌ=ヴァロステだ。
まさか川遊びしているタイミングで出て来るとは思いもしなかった。
(はい。そうです)
『なら大ピンチじゃないか。あの子はサハギンチャンピオンの元へ連れて行かれたぞ。2秒後、あの子は殺される』
その言葉でノルトの目が真紅に輝き、魔族のそれに変わる。
同時にノルトの視界が前方、ある一点に集中する。
水面の反射、岩や水草など全ての障害物を透過し、遠く、そして深い水中を映し出す。
(一瞬であんな遠くまで!?)
それは魚の様な顔と体にゴツゴツとした手足のついた黒い魔物の顎が大きく開かれ、もう1匹の小さな魚の魔物に連れられたアンナがまさにひと飲みにされる寸前の光景だった。
瞬間、ノルトの髪が逆立つ!
胸の赤い痣が爛々と輝き、それと同時にノルトの周囲に噴き出したのは血の色の様な濃い赤のガス。
『エキドナの魂は起きた。お前の視界は既に彼女の目によるものだ。エキドナを呼ぶがいい。彼女の力ならうまくやれるよ』
その声のままにほぼ無意識にノルトは叫ぶ。
「来いっ! エキドナァァッ!」
周囲の赤いガスは、明確な輪郭を持たなくても一瞬で世にも美しい女性とわかる姿に変わる。
『貴方がノルトね。ロゼと仲良くやってるみたいね!』
透き通るような心地良い響きの声が頭に流れて来たと同時に一気に時間の流れが戻る。
「ハッ!?」
懐かしい気配に気付き、ロゼルタが息を呑む。
既に彼女の隣にノルトはいなかった。
微かに残った赤いガス、その僅かな霊気を感じて驚愕する。
「エ、エキドナ……様!」
一方、転移したノルトが現れたのはネルソが『サハギンチャンピオン』と呼んだ魔物とアンナの間だった。
その巨大な魔物は『エキドナの目』で見た通り、大きく口を開き、アンナの身体を真っ二つに食い千切ろうかとしており、まさに危機一髪だった。
何を思ったか、その巨大な口にクルリと背を向け、振り返るとアンナを連れ去ったサハギンと思しき魔物の方を力一杯、殴る!
間髪入れずにアンナを奪い返すと再び転移をし、少しばかりの距離を置いた。
その拳の威力もまた尋常ならざる威力。相手は小型の魔物とはいえ、水中だというのに川の底まで吹き飛ばされ、1発でノビてしまった。
(ノ、ノルト!?)
場面転換があまりにも多く、早く、アンナには自分の身に何が起こったのかはっきりと分からなかった。
まずロゼルタに向かって駆け寄って行った。すると突然深い穴に吸い込まれる様に落ち、それと同時に何者かに足を捕まれた。
その後恐るべきスピードで水中を移動、あっという間にここまで連れて来られたのだ。
気付くと目の前には見たこともない魚のような大きな魔物が口を開いており、神に縋る間も無く(食べられる!)そう思った瞬間の出来事だった。
いつの間にかノルトによって救い出され、彼の背中に守られている。
(ノルトぉぉ)
思わずそっと背中に顔をつける。
そのノルト、水中でサハギンチャンピオンを睨み、ニヤリと笑う。そんな表情はかつて彼の人生で一度もした事がない表情だった。
その大きな魔物はガチンと歯を鳴らすとそれが空振りであった事に気付く。ノルトの気配を感じてか、キッと怒りの表情を彼に向けて睨み付けた。
ノルトとアンナの周囲に突然、空間が出来る。ノルトが空中から空気を転移させ、強力な魔法によって固定したのだ。
「プハァッ! ハァハァ……」
それによって突然体重を感じ、アンナの膝が折れる。今まで必死で息を止めていた事から解放され、荒い呼吸をした。
「間に合って良かった」
「ハァハァ……うん、一体あの速さでどうやって……」
ノルトはそれには答えず、右の手のひらを魔物に向けた。
餌を食いそびれ、怒ったサハギンチャンピオンはすぐに方向転換し、ノルトの方へ凄まじい勢いで向かう。
「ヒッ! ノ、ノルトッ! 来たっ!」
ノルトの背中に隠れ、その肩口から顔を少し出して叫ぶ。
口元に笑みを浮かべたままのノルトの手のひらが眩しく水色に光ったかと思うと、
「『氷結』!」
ネルソの時とは違い、エキドナではなくノルトの腕から放出されるエネルギー。それは前方へ放射状に伸び、見渡す限りの水中をサハギンごと、一瞬で凍結させた。
「す、凄い……」
アンナは目をパチクリとさせ、水中から見る氷山の様なその光景を見て唖然とした。
そのアンナへと振り向き、何事もなかったかのようにノルトが言う。
「大丈夫そうだな」
目と眉が吊り上がり、ノルトらしさの欠片もない顔付きだった。
「う、うん。大丈夫」
「よし。なら帰るぜ」
「待って!」
疑う様な顔のアンナが上目遣いでノルトに言う。
「あなた、誰?」
「誰? 誰だと? 俺を知らないのか? ……あれ? 俺?」
言った本人が違和感で戸惑う。
みるみるその顔から嶮が取れていき、やがて元通りの気弱そうな少年になった。
「……あ! ノルトに戻ったわ!」
「え? いや、僕はずっと僕でした……だったよ?」
「違うわ! なんか『俺様ノルト』って感じで偉そうだったわ!」
そんな事を言いながら、
(でも……悪くなかったわね)
などと考えていた。
不意に彼らの周りの空気の壁がスライムの様にブヨブヨと波打ちだした。
あっという間もなくそれは一気に崩れてまた元の水中へと戻ってしまった。
泳げないノルトはグボボボ、とすぐに溺れそうになる。アンナはその体の後ろから手を回し、器用に水面まで泳いだ。
「プハァッ!」
「ぶはっ! ゲホッゲホッ!」
「んーもう! しまらないわねえ!」
眉を顰めたアンナだったがすぐに笑顔になり、
「でも、有難うノルト。助けてくれて」
後ろからノルトを思い切り抱き締め、その頰に口付けをした。
「ふぁっ!?」
(あ……ヤバい。つい……)
魔族、旅、全裸、魔王、死……非日常が重なり過ぎてコントロールが効かなくなってしまっていた。
「ああああの、今のはその、違うから!」
「いや、違わねーだろ」
呆れた口調で言ったのはロゼルタだった。
魔物の気配を感じ取り、もうここまでやって来ていた。
後ろにはドーンとテスラもいた。
「全く人間てのは節操がないねえ」
「ああああんた達に言われたくないわ! スッポンポンの癖に!」
顔を真っ赤にしたアンナが苦し紛れにそんな事を言うが、
「テメーもだろ」
そう言われて二の句が告げなかった。