001.傷付いた少年
「そう……どうしても辞めるのね」
「は、はい。アンナお嬢様に頂いた御恩は一生忘れません」
広いが華美な装飾もなく、素朴と言える部屋だった。一般的な生活水準の家ならどこにでもある『光明』の魔法で輝くトーチがその部屋の中を明るくなり過ぎない程度に照らす。
そこに対照的な佇まいの少年と少女がいた。
1人は頭を床に擦り付けており、この家の使用人として仕えていた少年、ノルト。
その彼を複雑な表情で椅子から見下ろしている少女。彼女はこの家の主の娘、名前をアンナという。
「ふぅん……その、一応、理由を聞いてもいいかしら? い、いいわよね? 雇い主なんだし」
「それは、はい」
2人のやり取りはとてもぎこちない。
少し考えた後、意を決した様にアンナが言う。
「えっと……その……わた、私のせい、だったりする?」
「とんでもありません!」
両手を突き出し、首を振って否定する。
その驚いた顔を見てアンナはふと別の事が気になった。
「あらノルト。あんたその顔どうしたの? 酷い怪我をしているわ」
「ハッ……いえこれは……その、う、馬の世話をしている時に小屋の柱に打つけまして」
「ふうん。ドジねえ」
アンナのその言葉を聞いて小さくフゥと溜息をつき、床を見下ろす。
ここはロスという名前の小さな町。
アンナの父親はこの町の町長をしていた。
身寄りの無いノルトは1年程前からここで住み込みで働き出した。
彼なりによく働いたつもりだった。
そのせいなのか、はたまた歳が近いからなのか、すぐにアンナに声を掛けられる様になった。
買い物や学校の付き添いに始まって、ちょっとした仕事を全て彼に頼む様になる。
彼はこの数年感じた事の無かった小さな幸せを噛み締めていた。
だがそれもほんのひと時の事。
最初はアンナに目を掛けられるノルトに嫉妬した古参の使用人達が、彼の体のあちこちにある痣を揶揄ったり、ノルトの服を隠したり、仕事を失敗させたりと意地悪をする程度だった。
しかしそれはすぐにエスカレートしていく。
日常的に暴力を振るわれるようになり、やがて彼らにでっち上げられた報告によって雇い主のヒョールからさえも『娘に色目を使う身の程を知らぬ薄汚い小僧』としてあからさまに疎まれる結果となった。
(それでも1年を耐えられたのは……アンナお嬢様が優しくしてくれたから)
彼女に心配を掛けたくない一心で耐えていたが、昨日、決定的な事件が起こった。
いつもの様に周りを囲まれて暴力を振るわれた後、使用人の1人がこう言った。
『はぁはぁ……分かった。これだけやっても出て行かないのはアンナお嬢様が好きだからだな?』
『い、いえ、そんな事は』
『やれやれ。ちょっと優しくしてもらっただけで勘違いしやがって』
『そうだ。アンナお嬢様は皆に優しいんだぜ? お前だけにじゃねえ』
『お嬢様も気の毒に。こんな汚い、痣だらけのガキに好かれるなんてな』
『そんな噂が広まったらご主人様達はきっとこの町に居られなくなるだろうな。なあノルト?』
それはこれ以上ここに居座るならアンナに被害が及ぶぞという、論法はよく分からなかったがノルトにとっては最も効果的な脅しだった。
(お嬢様に迷惑を掛ける訳にはいかない)
(いいさ、今まで通りだ。アンナお嬢様がいただけ、ここは天国だった)
(また前と同じになるだけ。慣れっこだ。耐えられる)
「……ト、ノルト! 聞いてるの?」
我に返り、ハッとして顔を上げた。
そこには少し悲しげな顔をした少女が姿勢良く座っていた。
「は、はい」
「もう! 私の話を聞くのがそんなに嫌なの!? ……い、いいわ。分かったわよ。そんなに出て行きたいなら、行けばいいじゃない!」
「は、はい」
もう一度同じ返事をした。
出て行きたくはない、喉元まで出て来たその言葉を飲み込む。
彼女の父親であり、ノルトの雇い主である町長ヒョールにまで嫌われている以上、今更どうにもならないと分かっていたからだ。
アンナはノルトに背を向け、机の方に向き直った。
「お嬢様に買っていただいたこの服は必ず洗ってお返し致します」
「そんなの要らないわ。私が男物の古着持ってたって仕方無いでしょ。それは私が好きで貴方にあげたの。いらないなら捨てていけば?」
「いらないなんて……これは……」
かつて彼女と共に入った店で買って貰ったベージュの長袖シャツを掴み、私の宝物です、と言おうとして、だがその言葉も飲み込んだ。
アンナの後ろ姿に向かって深々と頭を下げ、
「今まで本当に有難うございました。ではこれで失礼致します」
ピクリとも動かないアンナが残る部屋にバタンと小さく乾いた音が響いた。
◆◇
アンナと別れ、町長の家を出た後、当てもなく通りを歩いていたノルトを呼び止めたのはあの使用人達だった。
もう使用人を辞めた事を告げると何故か彼らはゲラゲラと笑い出す。
「そうかいそうかい。じゃあやっと気にせずにいけるな」
言い返す間も無くノルトは吹き飛んだ。壁にぶつかり蹲る。
なんとか顔を上げると相手の足がピンと前に伸びている。どうやら前蹴りを食らったらしいと分かった。
「うぐっ……オエッ」
「こらこら、汚いだろお前……おや? その服、お嬢様に買わせたやつじゃないのか」
「返して来いと言ったろう?」
囲まれて頭の上で大声を出す彼らに必死に弁明をする。
「い、いえ、申し上げたのですが、いらないと言われまして……」
そこまで言うと髪の毛を掴まれ、引っ張られた。
「じゃあ捨てて来いよ。着てるんじゃねえよ。捨てろと仰られてなかったか?」
「それは……はい」
「だろ?」
言い終わらない内に2人がかりでシャツを掴み、左右に引き裂いた。
「あ、ああああ!」
つい先程まで宝物だったシャツは、一瞬でただの布切れとなってしまった。ダラリと体から垂れ下がるそれを呆けた様にただ見つめる。
「あああ、じゃねえよ。早く消えろ痣野郎。2度とこの町に来るんじゃねえぞ?」
それぞれ捨て台詞を吐くと彼らは1人ずつノルトを殴り、去っていった。
手を地面につき、血が出る程唇を噛み締めた。
(どうして……どうして……)
行き場の無い怒りと悔しさ、そして悲しみが襲う。
不意に込み上げてきた涙は後から後から湧き出て、遂に耐えきれず堰を切って溢れ出した。
泣くのは久し振りの事だった。
声を押し殺し、そのまま暫くの間嗚咽を上げ続けた。
◆◇
引き裂かれた服を握りしめ、どれだけ泣いたか分からない。
ふと近くに人の気配を感じる。それとほぼ同時に、
「ちょっと……大丈夫ですか?」
頭上から女性の声がした。声の主はそのままノルトの近くにしゃがみ込んだようで、今度はもっと顔の近くから、
「え……えええ!? ズズズズタボロじゃないですか。ななな何があったんですかっ?」
大仰にも思える驚きの声が響く。
頭を上げようとしたが痛みで動けない。自覚するよりもかなり手酷くやられていたようだった。
「痛っ、つ……」
「大丈夫。動かないで下さい。『治癒』」
その声自体に癒しの効果があると思える程の透き通る様な心地良い響きがノルトの耳に入ってくる。
治癒、の言葉を彼が認識した時には既に体の痛みは綺麗に消え去っていた。