第二章 小犬たちのダンス 3
制服警官が、バリケード・テープを持ち上げた。宮北署刑事課主任森下利喜男は、腰を屈めて黄色いテープを潜った。
背中に侮蔑に満ちた視線を感じる。いつものことだ。上層部からの圧力で非違事案を揉み消した男。こっそりと囁かれる森下をざっくりと分類した言葉。
『気にしなくてもいいよ。所詮は〝トゥー・マッチ・ブラッド〟なんだから』
本来、森下は監察係として非違事案を調査する立場にいた。警察職員の不祥事を非違事案と呼ぶ。本来ならば調査対象だった白坂真砂が警察組織を追われて、すべてが解決した案件だ。
森下は県警本部警務部から所轄署の刑事課に左遷された。不適切な関係を調査しながら、油揚げを浚った男。警察庁の幹部を舅に持ち、威光を最大限に利用して警官の立場を保ったクズ。陰で聞こえるように囁かれる誹謗を聴きながら日々の大半を過ごしてきた。
そもそも希望をもって刑事になったわけではない。血と死に塗れて始まった最悪の人生を清算するための選択だった。〝トゥー・マッチ・ブラッド〟ローリング・ストーンズ好きの真砂がアルバム・タイトル〝アンダー・カバー(秘匿捜査)〟を暗喩するために使った言葉。痛烈な皮肉だった。
事件現場になった部屋を覗いて、森下は思わず呟いた。
「これは、すごいな。ずいぶん派手にやってくれたもんだ」
久しぶりに目にした凄惨な殺人現場だった。事故や自殺を除くと、他殺による死者は全国で一日平均一人を下回る。警察官人生で一度も殺人現場を経験しないケースが殆どだ。まして、ここまで悪意に満ちた惨状は更に稀だ。管理部門の警務部に所属していたなら、ほぼ確実に目にすることができなかった光景だ。
〈これは戦場だ。誰もが遠ざけてきた隠された現実がここにある〉
森下は血塗られた現場に踏み込んで行った。封印した過去の記憶が堰を切って流れ込んできた。森下の思考を搔き乱す。呼吸が苦しくなった。破壊され尽くした部屋の中。壁が割れ、床に様々な破片が散乱していた。ちょっとした廃墟が出来上がっている。
飛び散った血飛沫が床や壁に残されていた。浮遊する血肉と屍骸の臭いが鼻中の粘膜を刺激した。惨殺された小犬の姿を思い起こす。凄惨な状況から森下は目が離せなくなった。
同じだ、子供の頃のあの時と。甘い香りがした。緩みかけた口元に森下は気付いた。精神崩壊の危機に、身体がバリケードを張っている。
慌てて口を閉じた。涎が零れていないか心配だった。下を向いてこっそりと手で口を拭う。離れた場所にいる部下の見崎を探した。気付かれていない。森下は胸を撫で下ろした。
「かなりショックを受けたみたいですね主任殿。胸が詰まって言葉も出ないですか」
惨状に目を背けていた見崎が、見当違いの言葉を懸けてきた。
「たしかに、すごいと思うよ。こんな現場は初めて見た」
「監察上がりの主任殿だから仕方がないですけどね。自分らは、ずっとこんな汚れ仕事ばかりしてきたんですよ。理解できないですよね、すべてが順調だった主任殿ですからね」
本音で答えると、見当違いした見崎が嫌味な口調で話を完結させた。
〈勝手に想像していろよ。見当違いしてくれたほうが、こっちには都合がいいんだからな〉
綻びから散見した森下の本質には気付かれなかった。森下は何食わぬ顔で本心を隠した。
「遺体は二つか。ほかに、負傷者が多数……」
「無理しなくていいですよ主任殿。いずれ本部が到着する。一通り報告して。所轄の自分たちは下働きに徹するだけです。しかも今回は組織犯罪対策部の管轄ですから」
掛けられたブルーシートの下に血溜まりが出来ていた。森下は胸が高まった。すぐに剥がして中身を確かめたかった。人の死に興味があった。幼少期に、避けられない現実に直面して、森下は頭がおかしくなっていた。
犯罪被害者の森下が警察組織に入職した理由の根底には、過去に巻き込まれた事件に近付く期待があった。記憶には血と死に覆われた部分が、かなりの比率を占めている。無意識に足を踏み出した。目の前にあるリアルな死を手に入れようと、ポケットからスマホを取り出した。レンズを向けて、ブルーシートに手を伸ばす。
「バカやろう。何やっているんだ、このド素人が。現場を荒らすんじゃねえ。出ろ。出ていろ。まだ鑑識作業が終わっちゃいねえんだからな」
いきなり罵倒された。鑑識課員の桂木だった。森下は、生まれつき熱血漢が苦手だ。そもそもの人種が森下とは大きく異なる。
「悪いな。ダメだったか」
森下は形ばかりに頭を下げた。見崎が脇腹をド突く。後頭部を押された。視界いっぱいに膝が近付いた。
「許してやってくださいよ。主任殿は階級こそ上ですが、現場が初めてなんですから」
偉そうに、バカにした見崎が、謝る振りをして森下に現実を思い知らせようとした。間違いなく、見崎も森下の置かれた非違事案の実態を知っている。悪意のままに、森下の弱みを突いてくる。優位に立って義憤という名の自分正義を押し付けてきた。
〈こいつ、何様のつもりだ〉
警察は階級社会だ。自分の立場を理解せずに、自己本位で正義が行使できると信じている見崎の神経に呆れた。
何があろうと巡査長巡査と警部補には歴然とした地位の差がある。目を剥いて、森下は礼儀知らずの部下を睨みつけようとした。持ち上げようとした頭を力づくで見崎が押さえ込んだ。何年も昇格試験に通らないバカに限って力が強い。
〈警務部に戻ったら、思い切り査定を落としてやるからな〉
腹を立てた後で、ありえない設定に呆れて森下は自嘲した。配転の目的は懲戒だ。もっとも向かない職種に敢えて配属して、自主退職に持ち込もうと目論んでいる。
それにしても島嶼署の地域課に送られて当然、と噂された処罰が回避された。舅の威光が働いたからだ。
「どうもすみません、だろうが。礼儀正しくしろよ。くれぐれも、鑑識の主任殿に嫌われないでくれよ。後で捜査が遣り難くなる」
皮肉を込めて見崎が森下を罵った。案外、こんなバカが部下に割り当てられた事実だって巧妙な嫌がらせかもしれないのだ。
「好き嫌いで、鑑識の結果なんか変わりませんよ」
背後から若い女の声がした。森下は振り返った。一眼レフを首から下げていた。鑑識課二係主任藤村紫苑、階級は森下と同じ警部補だ。活動服に作業帽を目深に被り、ヘアキャップ、マスクで顔の露出を最小限に抑えていた。
鋭い眼差しが、生真面目な性格を強調していた。冷たい口調が、森下の好みだ。
「解っていますよ、そんなこと。冗談ですってば」
見崎が誤魔化し笑いをした。
「万が一、足痕を残したら除外処置が必要になるからね。結果的には捜査に影響が出るからそのつもりで」
女鑑識主任の説明を聞き流した。森下は首を伸ばして部屋の中を覗き込む。
「しっかし凄惨だなあ。ここまで血塗れになるには、どれほど殴り付けたんだろうかね」
「カチコミですからね。手加減はナシですよ。対抗する組を圧倒するためには、どれだけ凶悪かに意味があるんだから」
見崎がこっそりと森下に告げた。
「こら、予断を軽々しく口にするなよ」桂木にどやされる。
刑事上がりの桂木は、捜査姿勢にも一家言を持っていた。
「死因は撲殺か……」
「一人は、な。で、もう一人が、射殺だ。こちらは誤射だな。身内の未成年が発射した銃弾が頸動脈を貫いた」
「未成年……。部屋住みのチンピラか」
見崎が意地悪な笑みを浮かべて、面白がって答えた。
「ところがチンピラではないんだ。撲殺されたガイシャの孫だ。高校生らしい」
言い終わると、廊下の隅に視線を向けた。聡明そうな未成年者の被疑者がいた。きれいな顔立ちだ。髪が長くて、目力が強い。
「本当なのか。か細い腕で、よく拳銃が撃てたな。しかも、誤射にしたって、ヤクザを射殺したんだぞ。元々、狙った相手だって、本当はカチコミの鉄砲玉だろうが。恐くないのか」
殺人に抵抗がなかった。いやむしろ、殺人を欲していた。本能的に捻じ曲げられて育ったのではないか。闘犬? 穿った考えが頭に浮かぶ。
「度胸が据わっているんだろうな。組長の孫だからな」
にわかに信じることは難しかった。だが森下は興味が湧いた。子供っぽい表情の陰に隠された破壊と血と死に対する嗅覚の鋭さを感じ取った。漂う甘い香り。少なくとも嫌悪感は抱いていない。
〝MJ〟の文字が頭に浮かぶ。同じ血を感じた。生来の性質か、訓練されて身に付いたものかは判らない。だが、確実に一般的には持ち合わせない感覚だった。
森下は見崎に訊いた。
「聴き取りしたい。興味がある」
「未成年ですからね。気を付けたほうがいいですよ。生安に任せるべきです。取扱注意だ。餅は餅屋にですよ」
俯いて口を閉ざした被疑者に寄り添って、少年係の捜査員が聴き取りを始めていた。近付こうとすると桂木に止められた。
「組対が到着したぞ。でしゃばるなよ。所轄の刑事課ができる範囲を弁えるべきだからな」
ガタイの良い組織犯罪対策部の捜査員が続々と現れた。剃りの効いた角刈りにスキンヘッド、ポマードで固めたツヨメのリーゼント。髪型一つとっても、本職のヤクザと遜色はなかった。
「諦めることです。今回の事件には自分たちに入り込める余地はない」
見崎に言い含められて、森下は唇を噛んだ。隙を見て、なんとか話を訊きたい。化け物の正体を確かめたい、見世物小屋みたいな感覚だった。腕を攫まれて足は停めたが、思いだけは強くなった。