第一章 ストリート・ファイティング・キッズ 4
「中に入るぞ」唐突に翔斗が言い出して、降霊室の扉に近付いた。ノブに手を掛けて、音を立てないように回す。
「やっぱりだめだよ。入っちゃいけないって、言われているもん」
冴紀は必死で止めた。からかうように振り返って翔斗が笑う。
「言うと思ったぜ。冴紀はジイさんの言うなりだからな」
言葉に詰まった。やるかたなく冴紀は翔斗を睨んだ。こいつは、他人の操り方を知っている。最悪の気持ちで、冴紀は反発する心に抗えなくなった。
「知らないからね。怒られたって」
「ガキかよ。怒られたら怖いぃぃ、ってか」
腹が立った。うるさい、大人ぶるな。翔斗だってガキのくせに。意地になって冴紀は翔斗に続いた。
「行かないで。恐いものに取り憑かれて死ぬんだって」
泣き声を出して、美朱が冴紀の袖を引いた。振り返って、冴紀は美朱に笑顔を見せた。
「大丈夫だから。ミジュは小さいから外で待っていていいよ」
小さな顔を顰めて、美朱が冴紀を睨んだ。
「ミジュも行く。小さくなんかないもの」
いつの間にか冴紀も翔斗の卑怯なやり方をまねていた。反発心から、美朱が振りたくない首を縦に動かした。美朱に向かって手招きした。先に入り込んだ翔斗を追って、冴紀は美朱の手を引いた。
暗がりの中に入った。小さくラッチの音を立てて扉が閉まる。気付かれる恐怖で、背筋が凍った。戦慄が走って、必死で息を整えた。もう戻れない。美朱を連れ込んだ以上は弱音を吐いてはいられない。
暗がりに隠れた翔斗が、手を振って冴紀を急がせた。美朱と一緒に壁に凭れて身を隠した。赤い光が闇を揺らしていた。護摩壇で御神火が焚かれていた。炎が激しく燃え上がる。護摩木を投げ込む音がした。
甘い香りが漂った。
祝詞が続いた。麗良の声だった。普段聞いていた声とどこか違う。壁に張り付きながら、冴紀は聞き耳を立てた。
拍子木が打ち鳴らされ、焚火が爆ぜる音がした。鉦と太鼓を叩く音が絶え間なく響いている。
興奮状態になった麗良の声に雑じって、獣のような男の唸り声が聞こえた。
祖父の声だ。聴いてはいけない。幼心にもわかっていた。だが、妖しげな響きに冴紀は強く誘われた。
「見ろよ。面白いぜ」
壁から顔を出して、翔斗が覗き見をしている。
「ダメだよ。取り憑かれるよ」
泣き声を出して、美朱が止めさせようとした。
「ねえ、やめよう。見つかったら大変だから」
「逃げればいいだろう。自信がないのか?」
必要以上に翔斗が煽ってくる。優位に立ったと誇らしげだ。
「逃げ切れるよ、ボク一人なら。でもミジュがいるから」
「それじゃ、近くに行くか。ミジュは俺がみる」
突っ張った心と裏腹に、不安が大きくなって冴紀は動けなかった。
炎が燃え盛る。激しい音が闇を支配していた。嵐に似た激しさだ。護摩木が含んだ水分を滾らせる。甲高い音を立てて木が爆ぜた。火の粉が広がる匂いがした。一種独特な香り。頭の中から力が抜けてくる。
妖しげな声の掛け合いが激しくなった。
〈悪魔の声だ〉冴紀は思った。
恐怖に囚われて息が止まる。耳を塞ごうとしたが、できなかった。
「できないよ。ボクたちが行く場所じゃない」
意地悪な顔で翔斗が嘲り笑った。
「なんだよ。臆病だな。いつまでも子供のままか」
〈六歳は子供だよ。どこが悪いの〉
反発する心に反して、身体が動いた。嫌がって逃げようとする美朱が泣き出した。
「ダメ。やめよう。ママが許してくれない」
「バカだな。許されないから、こうやって隠れて覗くんだろうが」
翔斗が美朱の腕を力任せに引っ張った。嫌がって暴れる小さな身体を引き摺った。
「やめて。かわいそうだよ。こんなに嫌がっているのに」
翔斗を美朱から離そうとした。反対に冴紀は突き飛ばされた。声を出して美朱が泣き出した。顔を真っ赤にして、大泣きになった。
護摩壇の前で、音が止まった。気付かれた。美朱の泣き声が聞こえて当然だ。
顔を上げて、冴紀は祈祷台を確認した。
飛び込んできた怪しい光景に、視線が凍り付いた。褐色の肌が見えた。男の背中だった。盛り上がった筋肉が、炎の赤い光を受けて血の色に染まっていた。大きな刀傷が、生きている大蛇のように浮かび上がっていた。
男の肩から女の顔が覗いていた。我を失った表情だった。ソバージュを掛けた髪は、激しく乱れ、汗に塗れていた。今までに見たことのない麗良の表情だった。身体は男に隠されていたが、はみ出した腕と脚が、全裸であると想像させた。
何をしていたかは知らない。だが、知れば怒られると本能が警告していた。
虚ろだった麗良の眼差しに光が戻った。冴紀と視線を合わせて、眉が吊り上がった。怒号を上げる。男の耳元に、麗良が何かを囁いた。
「ヤバッ、逃げるぞ!」
冴紀の手を引いて、翔斗が駆け出した。
冴紀は美朱に手を伸ばした。差し出し返した美朱の指に届かない。口を開けて、美朱が救いを求めた。翔斗に引っ張られて、距離が空いていく。美朱が慌てて駆け出したが、小さな脚では追いつけなかった。
「ミジュを連れて行かなくちゃ、一人だけ叱られたらかわいそうだよ」
何度も美朱を振り返りながら、冴紀は翔斗を止めようとした。
「いいじゃねえか。一人で叱られてくれれば、こっちにトバッチリが回ってこねえ」
廊下に飛び出した。階段の下に二人で隠れた。
身を潜めていると扉を開ける音がした。叱られて大泣きする美朱の泣き声が聞こえた。
「何をしているんだよ。廊下で待っていろ、と言っただろうが」
ひどい剣幕で麗良が怒鳴った。頬を叩く甲高い音が何度も続いた。泣きじゃくる声が激しくなった。階段の下で冴紀は震えていた。
「ミジュを助けなきゃ」
「バカやろう。俺たちが逃げるのが先だろう」
飛び出そうとする冴紀を、翔斗が全力で止めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」泣きながら謝る美朱の声がいつまでも続いた。
やがて、しゃくりあげる小さな音だけになる。
廊下に忍び出た。冴紀の手を引いて翔斗が駆け出した。振り返りながら、冴紀は引かれるままに走った。翔斗には逆らえなかった。
『覗き見をしていたのか?』と源龍に詰問されるのも恐かった。結局、幼い美朱を置き去りにした。冴紀は心の中で謝り続けた。振り返っていると、翔斗が急に足を停めた。
「何を慌てているんだ。まるで化け物にでもあったみたいだぞ」
翔斗の襟首を掴んでライオットが宙に吊り上げた。首が締まった。翔斗が見る見る顔を赤くする。
「何もしていないです。早く寝ないと叱られるから」
珍しく、翔斗が敬語を使う。わざわざ嘘を吐いていると教えたいのか。冴紀は呆れた。
「本当か。もう一度訊く、本当に本当だろうな」
甚振るように、問い懸けるたびにライオットが翔斗の頬を叩いた。唇が切れ、鼻水混じりの血が顔中に飛び散った。
「クソ餓鬼が、ぶっ殺されたいのか。調子に乗るんじゃないよ」
薄物を纏った麗良が、美朱の手を引いて廊下を近付いてきた。乱れた裾の様子を一瞥してライオットがすべてを察した。眉根を上げ、呆れた顔で短く笑った。
冴紀に向かって麗良が拳を振り上げた。持ち上げたままで動きが止まる。
「どうした。そいつは殴らないのか」
からかうように、ライオットが声を懸けた。
唇を噛み、怒りを堪えた麗良が、翔斗の襟首を捕まえた。後ろ向きに突き倒すと、麗良が翔斗の顔と腹を蹴りつけた。
それでいいと言わんばかりに、ライオットが麗良と目配せを交わした。置き去りにされた冴紀は納得がいかなかった。どうして自分だけが特別扱いなのか。
両腕で顔をガードしながら、翔斗が媚びた声を出す。
「許してくれよ。よろしくやっているのを見逃してやったじゃないか」
「黙れ、この餓鬼。何様のつもりだ」
血塗れになりながら薄ら笑いを絶やさない翔斗に麗良がキレた。容赦ない攻撃が続いた。翔斗の意識が絶え絶えになった。
「やめて、やめてよ。翔斗が死んじゃう」
泣きじゃくる美朱を見ながら、冴紀は自分が残虐な笑みを浮かべていると気付いた。
〈どうして? ボクは、何を面白がっているの〉
全てが他人事だ。冴紀は思いたかった。すべてが無関係だと、夢中で心に言い聞かせた。心が冷めていった。