第一章 ストリート・ファイティング・キッズ 3
暗い廊下に出た。重いドアが閉まる。一緒にジムを出た仲間が、腕を広げて走り出した。
鍛えられていても、みんな子供だ。廊下が大騒ぎになった。誰にも気付かれないように気を付けて、冴紀は翔斗に近付いた。耳元にこっそりと訊いた。
「わざとだよね。サキのためなんでしょ。ケンカを始めたのは」
「知らねえよ、ケンカなんて、誰のためでもねえさ」
口を曲げて、翔斗が顔を逸らした。あからさまに頬が赤らむ。
「余計なお世話だよ。ショートの手出しがなければ、単独でポイント・アップできたのに」
「調子に乗るなよ。叩きのめされて、泣きベソをかいていたくせに」
腹を立てた翔斗が、大股になって立ち去った。
「ベソなんかかいていないよ。泣き虫じゃないもの」
振り返った翔斗が、中指を立てた。大きく口を開けて、バカにして笑う。日焼けした顔。ストリート生活が長かったせいだ。口をへの字に曲げている。いつもツッパッていて優しくない。だけど自分では、みんなの〝信頼できるお兄ちゃん〟のつもりでいるらしい。自分で思うのは勝手だが。
本格的な泣きベソが聞こえた。もちろん、冴紀ではない。翔斗が顔を顰めた。廊下の先を見ている。
「また虐められているんかよ」
翔斗があからさまに舌打ちをした。
廊下の暗がりに、女の子がうずくまっていた。冴紀より小さくて、かわいい巫女の格好をしていた。禱告美朱、二歳年下。今年の五月で四歳になる。丸めた小さな背中を震わせて、女の子らしくすすり泣いていた。
冴紀は小さな巫女に駆け寄った。背中を撫でながら話し懸ける。
「また、オバちゃんに怒られたの?」
洟を啜って、美朱が頷いた。激しくしゃくりあげる。震える背中が止まらない。
〈屋敷の中では、長く生き残れないに違いない〉
美朱だけが、か弱い女の子のままで育っていた。
「うん、でもミジュが悪いの」
〝ミジュは上手に巫女ができない〟翔斗に言わせると、美朱のおばちゃん、禱告麗良は降霊師と呼ばれる悪い魔女らしい。とても怖い魔女だから、美朱がいつも叱られて泣かされている。
「泣かないで。大丈夫だよ。サキが一緒にいてあげる」
頭を撫でながら、冴紀はやさしく美朱に声を懸けた。組長の孫だから、麗良は冴紀の前で美朱に手を上げない。経験的に冴紀にはわかっていた。
冴紀の前で手を上げられる大人は、ライオットだけだ。情熱的な南米の血とは反対に、中国人の血を継ぐ麗良は陰湿だ。手を上げない代わりに、麗良は冴紀を訝しがっていた。冷たい視線で、いつも冴紀の存在を蔑んでいる。
「へっ」
翔斗が馬鹿にして笑った。
麗良ほどあからさまでないが、翔斗も冴紀の立場を羨んでいる。麗良との違いは、翔斗が努力次第で冴紀と入れ替われると信じている点だ。誰もが馬鹿な妄想と嘲っている。それでも、冴紀は翔斗に取って替わられる脅威を覚えていた。
源龍ならば、予想だにしない展開を皆に押し付けてきても不思議はない。
「中途半端な同情をするなよ。男や女、弱いとか強いとか、まるで関係ないんだ」
「同情なんかじゃないもん。みんな同じだって知っているよ。だって大人は、誰だってボクたちの敵だもの」
知ったふりの翔斗に冴紀は反発した。
「そうだよ。金持ちでも貧乏でもさ、痛みはあるんだ。それぞれに、感じ方の違いがあるだけだ」
「だから、守ってあげるんだよ。ミジュはボクたちの中で、いちばん小さくて、いちばん弱い存在だから」
美朱の小さな身体を抱いて、冴紀は翔斗を睨んだ。せせら笑った翔斗が、大人びた口調になる。いつだって翔斗は鼻持ちならない存在だ。
「小さいだとか、弱いじゃない。勝つか負けるか、食うか食われるかだからな、ヤクザに限らず、そいつが究極の真理だ」
笑いながら翔斗が言い切った。たしかに、冴紀に比べれば翔斗は大人だ。闇の世界を一人で生きてきた。それなりに生き延びてきた気概がある。
何を言いたいのか、冴紀には、よく解らなかった。だけど、大人ならばわかるのだろう。
「バカみたい。みんな同じだよ。だから一緒に、ねえ、ショートも手伝って」
美朱の背後には閉じられたドアがあった。降霊が既に始まっていた。獣のように呻く声が聞こえてくる。
「〝みたまくだり〟だ。始まったんだ。サキもこっちに来いよ」
下卑た薄ら笑いを浮かべて、翔斗が扉に耳を押し付けた。
「やめて。叱られるよ」
泣きながら美朱が叫んだ。すっかり怯え切っていた。痛々しい腕の痣を押さえている。
冴紀は翔斗に向かって眉を顰めて見せた。
「やめようよ。ミジュが怖がっているよ」
「怖いもんか。お前たちにも、いずれわかる。中で何をしているか」
手招きする翔斗の顔が意地悪に歪んだ。怖いと冴紀は思った。翔斗の闇の部分は想像もできないほど深くて暗い。後ずさりをしながらも、どうしても逆らえなかった。言われた通りに、冴紀は扉に耳を寄せた。