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プロローグ

 剃刀みたいにエッジを効かせた風が、河川敷の闘犬場を吹き抜けた。襲い掛かる砂埃に、小犬は目を細める。小さな竜巻が空に昇った。

 ロング・コートの男が、開いた携帯電話のキーを親指で押した。

 荒ぶる呼吸を押さえて、小犬は男を睨んだ。噛み殺さなければ、殺される。男の存在は恐怖そのものだった。

 低い音で唸り声を上げた。

 威嚇しようと隆起させた背中が、恐怖を孕んで大きく上下した。

 生まれて一年半のピットブルだ。チビ助だが、獰猛な闘犬の血が流れている。

 首輪に付けられたプレートに派手なベロのマークと〝MJ〟の文字。

 あどけない顔が、本能のままに醜く歪んだ。全身の筋肉が邪鬼のように盛り上がった。瞳孔を狭めて、白目を剥いた。口唇を端まで捲り上げ、鋭い犬歯が剥き出しになった。

 虚勢を張った小犬を男が嘲笑った。

 ポケットを弄った。握ったドッグフードを地面にバラ蒔いた。

 乾いた粒餌が飛び散った。

 警戒しながら、小犬は鼻を寄せる。視線は男を睨んだままだ。

 腹が空いていた。三日も餌を取り上げられていた。腹の虫が大きな音を立てた。生存する欲求に負けた。小犬は餌を貪り食った。

 我慢が出来なかった。食い物に夢中になる。

「ふん」と、男が鼻で笑った。

 足を踏み出し、蹴り足を大きく後に振り上げた。

 反動を百パーセント、蹴り出す力に加える。

 コートの男が、全力で小犬の腹を蹴った。

 冷徹な動きだった。手加減など微塵もなかった。一撃必殺の勢いだ。

 鉄板を仕込んだ爪先が、小犬の熱くて柔らかな腹に食い込んだ。

 甲高く悲鳴を上げた。ブーツの先端に巻き付くようにして、蹴られた小犬の身体が宙高く飛んだ。

 地面に落ちた。ブザマに転がった。怯まずに、小犬は飛び起きた。ジャンプした。身体を丸め、斜めになりながら、全力で駆け出した。

 疾駆する小犬を男が目で追った。

 背後に回り込もうと、小犬は全力で走った。

 男の隙を探っていた。今迄に何度も対戦を繰り返していた。男の手口は解っていた。

 男の携帯電話が着メロを鳴らした。視線が小犬から逸れた。

 小犬の知らない音楽という存在。ロック・ミュージック〝ストリート・ファイティング・マン〟

 キース・リチャーズの掻き鳴らすギターが、何も知らない幼い闘争心を煽り立てた。

 小犬は方向を変えた。腰を低く落とし、大地を手繰るように足で蹴った。四肢が地を離れる時間が長くなる。

 男の存在が、着実に目前に近付いた。逞しい走りを見せた。鋭い牙は剥き出しのままだ。息が激しくなる。

 後足で地面を踏み切った。無駄のないジャンプだった。

  男の喉をめがけて、小犬は一直線に宙を飛んだ。喉仏を食い千切ろうと、鋭い牙を剥いていた。

男が携帯電話を折り畳んで仕舞った。薄笑いを浮かべている。コートの袖を握って持ち上げた。狙われた首を腕全体でガードした。

 小犬はコートの腕に噛みついた。一度喰いついたら離さない。離せるわけがなかった。下手に身体が離れたら、金具を仕込んだ爪先が再び襲ってくる。

 小犬は必死だった。上顎と下顎に力を籠めた。尖った牙をグイグイと腕に食い込ませた。錆びた鉄の味がした。歯を食い縛ったままで、小犬は唸りを止めない。

「くそっ」男が口走った。小さく舌打ちをする。振り払おうと男が激しく腕を振った。

 大きな手が襲ってくる。首筋を攫んで引き離そうとした。何度も繰り返して首が引っ張られた。

 力も限界だった。衝撃のために僅かに口が開いた。食い縛った歯牙が外れそうになる。コートに引っ掛かって強く首が曲がった。小さな牙が折れそうだ。

 男の腕から引き剥がされた。身体が頭上高く振り上げられ、勢いをつけて地面に叩き付けられた。背骨に強い衝撃を受けた。軋んだ肋骨が悲鳴を上げた。

 怯んでいるわけにはいかない。即座に反動を利用してジャンプした。今度は男の足に噛み付いた。

 ダメージを残したままでは、充分な攻撃ができない。数回の殴打で簡単に引き剥がされた。落下する身体を蹴り上げられて、回転しながら宙高く身体が舞った。

〈安全な距離を確保しろ。着地したらすぐに飛び退け。左斜め前方が死角だ〉

 本能が伝えるままに、身体が動いた。予測を裏切るように、男が少しずつ動きを変える。完全に一手先を読まれていた。

 ボタンを外したコートの襟から中に、男が腕を突っ込んでいた。未知の危険を小犬は覚えた。

〈怯むな。飛び掛かれ。頸動脈を喰い千切るんだ〉

 ジャンプした。正面から吹き付けてくる突風に顔の皮膚が波打った。剥き出しにした牙歯が凍てつく風に研ぎ澄まされて、危険な凶器になった。

「遊びは、終わりだ」

 コートの襟から男が腕を出した。黒鉄(くろがね)の塊が握られていた。先端に開いた空虚な穴を向けられた。小犬は、本能で命の危機を知った。

 激しい勢いで炎が噴き出した。紅蓮のフリルを纏った銃弾が一直線に小犬の眉間を貫いた。力なく、単なる肉塊になった小犬の身体が地面に落下した。機能を失った小犬の網膜が、仇敵の姿を映していた。

 男がポケットから携帯電話を取り出した。画面を開いた。表示された数字を覗いて舌打ちした。苦笑しながら、男が首を横に振る。

「二分五十三秒、まだまだだな」

 携帯電話をポケットに仕舞って、男が煙草を咥えた。ライターの炎が顔に刻まれた古傷を浮かび上がらせた。口を曲げて、短く息を吐く。頭を振った。

 男がライターの火を消した。火を点けていない煙草を抓んで、男が握り潰した。


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