アカシック・デジタル・レコード
ブロックチェーンが完全に浸透した経済圏で人はどんな生涯を送るだろうか?
第1話はいささか理屈っぽい話で読者は退屈したに違いない。次の話はもっと人間味のある物語を書きたい。
マイ・アドレス
秘密鍵を絶対に紛失しないためにはハードウエア・ウオレットというツールが出回っている。このツールをあたかも人生の鍵のように大事に管理して、定期的に技術革新による新機種に取り替えて行けば、個人が生まれた瞬間から死ぬ瞬間までの全ての取引は記録できるはずだ。もし筆者がそのような経済圏に生まれたなら、必ずや2つのアドレス・トライアングルを持つだろう。たとえば一つは実名公開するためのトライアングル、もう一つは匿名アドレス・トライアングルである。
ここに紹介するのは、人類が初めてBCを完全に理解して、安全性や危険性を習熟した経済圏だ。我々がかつて大金を払って自動車免許を取得したごとく、この経済圏では多くの市民が自ら望んでBCの利用免許を取得している。そして今まさにこの世に生まれ出でた正雄の両親はBCの利用免許を持って世界初のBC経済圏に住民登録を終えたばかりである。
正雄の父は生まれたばかりの我が子に歓喜すると同時に、何としても我が子を幸せで苦労のない人生を過ごさせたかっった。そのためには教育の充実も大事だし、健康管理も必要だ。しかし、経済力もなければ成人として生き延びるのは難しい。正雄の父は生まれたばかりの家族の一員に一つの記念品を準備した。それは、正雄が一生使うであろう一対のプライベート・アドレス(秘密鍵)とパブリック・アドレス(公開鍵)だった。
アドレスのトライアングルを思い出してほしい。ある頂点は秘密鍵であり、これは絶対に人に見せない番号、次の頂点は積極的と言わないまでも、完全に世間に公開されるべき番号、そして最後の頂点は自分じしんの固有名詞や物理的な住所、立場、肩書きである。
正雄は生まれてすぐ「正雄」という実名を両親から与えられた。正雄の名前は両親が住む経済圏の分散台帳に登録され、若干の同姓同名のリスクをくぐり抜けて正雄という人間のアイデンティティーの一つになった。しかし、この名前と父が正雄のために準備した秘密鍵と公開鍵との三角のつながりはまだ成立していない。公開アドレスに大金があるわけではない、ただの空っぽの容器がどこかのテーブルの上に置いてあるのとさほど変わりはしない。しかし、この公開鍵が正雄の経済圏のBCにしっかりと最初の1万分の1ユニットを収めた某年某月某日。この日は正雄が生まれた日に他ならない。そのことには大きな意味があった。正雄の人生がどうなろうと、この公開鍵は一度BCネットワークに組み込まれれば、絶対に消えてなくなることがないのだ。
幼少期
正雄が金銭価値を理解するまでには年月がかかる。それまでの間というものは正雄の両親は正雄のもう一つのアイデンティティーとも言えるアドレス番号をそれは大事に保管し続けた。秘密鍵は近くのスマホショップで購入したBCネットワーク用のハードウエア・ウオレット(HW)に埋め込み、金庫の鍵と同様に大切に保管し、公開鍵は人生設計のために活用する正雄のアドレスとしてBCネットワーク・エキサイト(仮名)の分散台帳で運用された。
もちろん、正雄の公開アドレスが、正雄のライブ・アカウント(取引可能な口座)であることは一般には発表されないから、正雄と公開鍵がアドレス・トライアングルで繋がっていることは正雄の両親だけが知っていた。そして正雄が2歳になり、3歳になると両親は誕生日を記念して1万分2ユニット(この暗号資産の場合は「エキサイト」という名称である)であったり1万分の3ユニットを正雄のアドレスに転送して少しずつ価値を貯めていった。そして両親が正雄に与えた微小な価値は正確なタイムスタンプとブロックチェーンの堅牢な分散台帳システムに守られて消えることなく取引記録として残されていった。
子供の浅知恵
正雄が小学生になることには、少しづつ金銭の使い方を学び始め、やがては自分で金銭価値を手にして駄菓子や玩具を買い始める。しかし、この経済圏はBCネットワークで機能しているから、正雄も他の子供たちと同様、自分の小さな子供用のスマホ鍵ハードウエア・ウオレット(HW)を使って、商品のQRコードと支払い端末を相手に、ササっと素早くかざす手捌きで購入していた。 HW自体はネットワークの端末ではなく、エキサイト・チェーンのネット環境から遮断されたアクセサリであり、コンビニで商品を購入するときにはまずWHを物品に翳してQRコードにあるアドレスをHW側に読み込む。そして、HWが電子署名を終えた複雑な暗号文を生成して今度はエキサイト・チェーンのネットワークに繋がっているコンビニの支払い端末に翳すのだ。すると正雄のHWで生成された1分間だけ有効な署名暗号が店の端末によって読み取られて、支払いが終わる。1分以内に取引が成立しなければその電子署名は失効してしまうので、もう一度やりなおすのだ。正雄は子供ながら1分という時間の経過を正確に把握できるようになった。
正雄の公開アドレスには両親から少しづついただいた正月のお年玉が暗号資産として貯蓄されているから、ある程度の物品を自由に購入できる予算があった。しかし、残高が足りない場合、当然ながら正雄のHWは(残念ながら資産が不足している故の)取引不成立の音声通知や振動通知を発信するのだった。
もう一つ重要なことは、このHWには指認証や網膜投影による認証システムが埋め込まれていることだ。正雄がこのウオレットを手にしている時だけ取引が成立するわけだ。正雄がうっかりして機械を道端に落としても、それを自分おHWとして正雄の資産を消費することはできなかった。しかし、HWに指輪認証を行なって財布を開けた状態にして他人に渡してしまうと、その瞬間に財布の中身は他人のものとなってしまう。この事は後述する。
さて、正雄が小学3年生の春に、近くのガキ大将に力ずくで服従させられ、無理やり指認証をさせられてマーケットにあったロボット人形を購入させられてしまったことがある。正雄が泣いて帰ると父は少し眉を上げたが、やがて冷静に息子を宥めて言った。
「正雄、エコシステムの仕組みをもっと勉強しないといかんな、その子が無理やりおもちゃを持っていったって、そのものは決してその子のものにはならないんだよ。この世界じゃあ人から物を盗んだ輩が一番損するように出来てるんだ。」
そのときに正雄がすぐに父が教える仕組みを理解することはなかった。しかし、親父の言葉は長く正雄の心に刻まれた。
やがてはガキ大将の親が訪ねてきて、玄関の床に頭を擦り付けんばかりに平謝りに謝って品物を返してきた。返されてきたロボット人形にはしっかりと商品QR(則ちその商品の公開アドレス)が埋め込まれていて、恐喝を働いたガキ大将のHWの端末がその人形のQRと交信をするたびに、正規の持ち主でないことを示すアラート信号が製造元に伝わった。そして製造元の広報担当が心配してその子の両親に自動メッセージを送って来たのだ。
BCは全ての取引の履歴と所有権の移転を時系列的に正確に分散台帳化する。その全ては公開アドレスを手掛かりに個人との関係も必然的に明らかにするのだ。正雄が住む経済圏で利用されているエキサイトチェーンは取引と時間だけではなく、取引が発生した際の電子署名が発信された端末の場所まても記録されていたのだ。
失敗
正雄lが中学生の頃、正雄のアドレスには数万円に相当するエキサイト資産が蓄積されていた。正雄は、その価値を使って電子書籍を買ってみたり、ゲームを手に入れたりしたものだ。あるとき、正雄はうっかりして自分のHWを紛失してしまった。どこに置いてきたか全く記憶がない。中身が盗まれることはないことは承知しているが、自分の秘密鍵については全くの無知まままで全てをHWの内蔵暗号機能に託していた。HWを手放してしまって初めて自分の資産を自分で管理しきれていなかったことに気づく経験だった。
正雄の両親は正雄の不注意と集中力の欠如に落胆し、しばらくは正雄を助けることはせず、しばらくは正雄にテレホンカードを渡して生活させたのだったが、正雄は2日も経たないうちに重い鬱症状になり、食事も喉を通らないほど憔悴してしまった。見かかねた母親が、箪笥の奥から正雄の秘密鍵の33バイト文字を書き記した古い団扇を出してきて正雄の前にポンと置いた。正雄がまだ幼少のころ近くの町の夏祭りを見物に出かけた時の団扇だ。
「正雄、これでわかったろ、秘密鍵を無くしたら何も出来なくなるんだよ!」
「この団扇に書いてあるのがお前の秘密鍵だよ。番号を移したらすぐ焼いて捨てなさいね」
正雄は、自分が暮らしてきた毎日がいかに危うく無責任なものであったか痛感すると共に、自分が失敗することを予見して件の団扇を隠していてくれた母に頭が上がらなかった。
すると今度は父親がいっぺんのカードを正雄の前に置いて言った
「もういいだろう、これはBCの使用免許推薦カードだ。いままで正雄が持っていたエキサイト資産は学童向けの少額資産だ。大人として資金を持つためには親の推薦と暗号資産の使用免許が必要なのは知ってるな。」
「このカードを持って教習所に行けば利用免許を発行してもらえる。もちろん面接があるので、ある程度BCの知識がないと合格しない。お前も免許を取る年齢になった。勉強して教習所に行きなさい。免許があれば取引資産額の上限が大幅にアップされる。」
正雄は猛勉強した上、ひと月後には免許を取得した。
PKクラブ
BCの経済圏では、通常の経済圏とはことなる一風変わった文化が浮き沈みする。正雄が高校に進学すると、当然のごとくBCのこぼれ話が学生同士で話題になる。課外活動のサークスにもBC研究会が出来る。正規のサークル活動とは別に仲の良い高校生同士は少し常識はずれの行動をとる。高校レベルであると、既にBCの使用免許を持っている生徒が殆どであるから、常識をはずれる行動に走ると厄介なことが起きる。
特に高校レベルでは、まだ成人ではないながら世の中のあれこれを直接目にして背伸びをするきらいがある。そして正雄が済むBC経済圏での高校ではPKクラブが社会問題となった。
「PKクラブ」とは仲の良い学生が集まってその結束の証として自分の公開アドレスであるライブ・アカウントを開示しあう集団のことだ。PKというのはパブリック・キー(公開アドレス)のフラット略語である。個人の公開鍵とそのアドレスが一般からアクセス可能なのは既知の事実だが、所有者は実名を明かさないので、現実世界で誰の公開鍵なのかは見えないのがBCの運用常識だ。しかし、このPKクラブではアドレストライアングルのB点とC点、すなわち公開アドレスとその秘密鍵の所有者である本人の実名の両方をセットで情報提供しあう集まりである。お互いを信用するなら公開鍵は明らかにして当然というコンセプトだ。秘密鍵は一切見せないのだから一見問題なさそうであるが、しかしこのPKクラブが思いもよらぬ社会問題を引き起こしたのだ。
まず、このPKクラブは、しばらくは学生だけのひそかな秘密行動であったが、次第に学生の保護者に知れることとなる。ある保護者は激怒して学校側に即時活動禁止を要求した。ある保護者は失笑して子供の公開アドレスに与えていた個人の暗号資産を別のアカウントに移させたりした。親と子の関係においても、ある家庭では子供である学生の秘密鍵を親も管理していて、異常時にはアドレスの内容を操作できたが、ある家庭では子供の人権を認めて全面的に秘密鍵を子供に託していたので、子供がトラブルに巻き込まれても助けることはしなかった。
高校生といてもまだ人生経験が充分とは言えない。PKクラブは次第に資産を多く持つものと持たないものの間での差別的発言や衝突を引き落とした。暗号資産を一定以上もたない学生はいじめにあう場合もあり、また、自分のアカウントが他人に比してあまりに少額なのでショックを受けて自殺する学生もいた。
正雄はといえばBCには極めて冷静な視点をもっていたから、このPKクラブには組せず、ごくごく近しい友人に一時的に自分の公開アドレスの話をしたり、この地域でもっとも汎用的に共有されているエキサイト・チェーンの取引方法やスマートコントラクトの運用ノウハウの情報交換をする程度で、あまり自分の暗号資産を人に話したり見せたりはしなかった。これはBCの無い経済圏でも同じであり、通常はどの学生も自分の預金通帳を瞳みせたりはしないものだ、この経済圏の場合は特にBCという目新しい文化が長い歴史のなかで一時期だけ特殊な学生文化を流行らせたのだろう。
おもあれ、この地域の学生はPKクラブ問題を通して、公開鍵はクラウトファンディングや共同募金などに活用する場合以外は、むやみに実名を公開すべきでないことを学んだのである。
青春とエキサイト資産
青年になって恋人ができるころ、正雄はそれまでの自分と全く違う自分に出会う。人は恋愛をして傷つくことで成長するといわれるが、これはまた、人間の自我と独占欲の表れでもあり、成人になりつつある人間の個体ができうる限りの夢と欲望に身をまかせる体験でもある。詳しい経緯は割愛しよう。正雄は久子という女性に恋愛感情を強く抱くようになり、自分の全てを犠牲にしてもこの女性と「今」を過ごしたいと思うようになった。
非常に丁寧に親の干渉を避け、相手の両親にも悪印象を持たれないようできうる限りの知恵を絞り、自重して親切心を絶やさない人間を心がけた。この正雄のひたむきな姿勢はだれでも青年期には感じる本能的な善人の行動であろう。思考や行動の内側にある強い独占欲に気づくことはない。若さとはそういうものだ。
正雄が19の齢に久子と郊外に気晴らしにでかけた際、たまたま帰りが遅くなり、久子の実家に送り届けるころには日も暮れていた。目的地の家まであと10分というところで正雄たちは一群の輩にとりかこまれた。この経済圏でも有名な若い札付きの悪党グループである。
彼らはまたたくまに、久子の体をとりあげて羽交い絞めにすると正雄への恐喝が始まった。
「残念だったな、この子はもうどうなるかわからんよ。ただし俺たちはバカじゃねえからな。金で解決することについては相談にのるよ。この子を返してほしければお前のHWを渡してもらおうかな。いくら入ってるか知らねえが」
正雄は格闘家でも力のあるアスリートでもなかったので、この悪党グループに暴力で勝てる見込みは無かった。久子は泣きながら抵抗しつづけたが、正雄はその状況をどうすることもできなかった。
懐からHWを出すと、その画面にふれて自分の指認証を行って何時でも支払い操作ができる状態にして犯人グループに引き渡した。無論、この瞬間に久子は自力で犯人グループの腕からすりぬけると正雄の両肩のうしろに回り込むことが出来た。
「もういいだろ、全部渡した!」
正雄はあまりおびえた顔もせず、あたかも久子の無事と引き換えに自分の暗号資産の全額
を明け渡した事実を誇らしげにさえ思いながら言い放った。
「勇ましいよなー兄さん。おい、こいつ3万エキサイト以上持っるぜ、じゃ行こうか」
悪党グループが去ると2人は無言で最寄りの工番に行き、被害届を済ませた。悪党グループは最近では頻繁に若いカップルから恐喝を働く常習犯で、暴力はふるわないが、被害者のウオレットを奪って資産を自分のアドレスに取り込むことを繰り返しており、まもなく個人との繋がりが明確になって逮捕されるだろうとの情報であった。
「最初から金銭目当てだったのか・・・」
正雄はあの場で直ぐにHWを引き渡したことを好判断だったと思いはじめていた。彼の頭には子供時代に親からら教えられたひとことが在る
「この世界は、人から物を盗んだ輩が一番損するように出来てるんだ。」
正雄は久子が「必要ない」と強く拒絶したにもかかわらず家まで送ることに固執した。警官が大人しく、「ここは送ってもらってください。」といったのを合図に、久子は家にむかって歩き出した。家の玄関口に着くと久子はひとことも言わずに逃げるように玄関のドアを開けるとひとこと「ありがとう」と言って家の中に入っていった。正雄はすこしうなずいてから躊躇なく踵を返して自宅にむかって足早に立ち去った。
当時の暗号資産であるエキサイトは1万エキサイトとあたり日本円の10万円程度の価値があった。3万エキサイトということは30万円である。正雄は長い間倹約してアルバイトもしてこの資産を貯めてきた、今思えばもう一つ二つのアドレスを準備して資産を分散させておくべきだったかもしれない。しかしBCの経済圏では誰もが複数のアドレスを欲しがるので、手数料が高い。手数料を払ってまで複数のアドレスを持つことは積極的には慣れないほど高い手数料なのだ。
その後の正雄と久子の関係といえば、どちらからというわけもなく、徐々に火が消えるように静かになっていった。久子は正雄が命懸けで久子と正雄自身の試算の両方を守ろうとしなかったことに違和感を禁じえなかった。もし将来同じことが起きて、正雄が充分な携帯資産を持っていなかったらどうなるだろうと考えてしまうのだった。正雄もまた、あの場面で大金の入ったHWを惜しげもなく相手に渡すと同時にある意味では、他の人間より金持ちであるかのごとく金銭的ステータスをひけらかした自分への嫌悪感に苛まれた。自分より大事な人を守ると言うのはどういうことか? 正雄も久子もそれを考えていた。
それから半年たったころ、正雄が久子が体格の大きい強そうな若者と腕を組んで歩いているのを見かけた。久子は全く変わってしまっていた。清楚な印象は来えて、いまは少し派手な色のセータを着こなしており、髪を赤茶色に染めて長いブーツを履いていた。
正雄はもう久子のことは考えまいと思うのだったが、久子を忘れるまでにはやはり1年以上の歳月が必要だった。件の3万エキサイトは正雄が入会していたBC共済会の恐喝保険で全額求償できていた。犯人グループは警察の捜査網により謙虚され、全ての恐喝額と不正な取引内容は被害者を匿名にとどめた形で100%公開されていた。正雄が求償できた恐喝保険のファンドにも正雄が恐喝された3万エキサイトがきちんとリファンドされた。
この場合、警察が犯人グループを検挙するとともに司法取引のひとつとして、犯人が使った公開アドレスと犯人の実名を開示させるとともに、そのアドレスを介する取引を全てリスト化することで、容易に犯人グループの悪行を証明したのである。もともと暗号資産を取り上げるだけで人を殺めたり障害事件を起こしたわけではなかったのが幸いして、かれら犯人グループは他の経済圏への移住を条件に執行猶予付きで常人の生活に戻っていった。犯人グループの秘密鍵はこの経済圏の条例に基づいて没収され、関係するアドレス・トライアングルは恐喝額を移動した後に永遠に凍結された。凍結はされたが、これらの悪行の記録は当地のエキサイトチェーンのP2Pサービスが現存するかぎり、何時でも誰でも閲覧可能なのである。
この頃から正雄の脳裏に「知恵の限りをつくして、正業について、正当な方法で人より遥かに大きな資産を持つ人間になってやる」という強い信念が芽生えるようになった。
【 社会人としての正雄はまた別の機会に紹介する 】
最後の仕掛け
正雄が倒れたのは秋深まりつつある9月だった。もう60歳を超えていた正雄は仕事帰りにJR東海道に揺られていた。そして突然気が遠くなるのを感じた。
身の危険を感じた正雄は、座席から立ち上がり反歩前に進もうとした。そしてその瞬間に意識を失った。正雄は家族に知られることもなく、心配そうに声をかける一群の旅客に看取られながら眠るように生涯を終えた。正雄が車両から搬出されて最寄りの医療施設に搬送される中、彼の腕に巻かれていた端末が午後7時を知らせる定時振動を伝えていた。
正雄が医療施設で死亡を確認され、驚いた家族が駆け付けるまで数時間であった。もとより自宅に向かっていたので車内でなくなった時点である程度実家に近い場所にいた。
それから1週間程度の間の葬儀にかかわる記事はここでは不要であろう。正雄の時代には既に葬式のような儀式は廃止されてるかもしれない。しかし、ここで話題にすべきは彼のアドレスにある暗号資産である。果たして正雄のアドレスにある暗号資産は正雄の死によって永久に凍結されただろうか?彼の秘密鍵情報は誰も知らない。
ところが正雄が亡くなった日の翌日の深夜に不思議な取引がエキサイト・チェーンに刻まれていた。正雄のアドレスから一定額が正雄の息子のアドレスに、そして一定額が税務署の相続税指定アドレスに支払われたのだ。突然の父親の死に直面した息子の心情やいかばかりかは測り知るすべはない。しかし息子は間もなく自分のアドレスの残高が急増していることに気づいただろう。
BCの取引設定においては取引期日を予約することも可能ではある。しかし、自らの死期を知らずして死亡当日の深夜に実行する設定が出来るものでは無い。エキサイト・チェーンのスマートコントラクトを利用すると言っても、流石に本人の死亡の事実をスマートコントラクトが認知できるわけもなかった。
正雄は事前にこのことを研究していた。そして彼の死と、スマートコントラクトの微妙な連携を以下に実現するか既に結論を得ていた。それは次のとおりである。
まず、正雄は自分の腕に巻かれた電子ウオッチや自分の携帯電話に、1時間ごとに時報を知らせる微振動や発信音を伝える設定をしていた。この設定は市販の端末には必ず具備されているオプション設定だから、何らユニークなものではない。但し正雄はこの時報設定に特殊なゲートを設けていた。それは「時報について3回連続して応答動作(画面にタッチするか声で応答する)が無ければ特定のスマートコントラクトを実行すること」である。そのスマートコントラクトは事前に設定した支払い処理を一定の条件で実行するというもので、正雄は秘密鍵を開示しないDH法(ディフィー・ヘルマン法)によるの暗号署名を埋め込んだ支払い処理をエキサイトチェーンに設定していたのだ。
その条件は、まず件の時報への応答動作(正雄本人の反応同左)が3回連続発生しなかった(つまり正雄が反応しなかった)場合にグリーンアラートのコントラクトに進む。グリーンアラートにおいては正雄の脈拍や体温を5分以上検知するか、或いは正雄へのアラートメッセージが発信されそれへの応答をチェックする仕組みになっていた。脈拍や体温が検知できた場合やメッセージへの応答があった場合はアラートは解除されるする。
グリーンアラート中の正雄へのメッセージへの応答についても仕掛けがあった。これにはは決められたキーワードが含まれているかどうかが問題であり。そのワードは「眼鏡を落とした」というテキストであった、本人以外はこのことを知らない。グリーンアラート状態は24時間続き、正雄宛のメッセージも6時間ごとに発信される。他人がウオッチを正雄の手首から外している場合、メッセージへの応答が「眼鏡を落とした」でなければグリーンアラートは解除されない。グリーンアラートが持続して、24時間を経過した瞬間に、スマートコントラクトは「レッド・アラート」となる。レッド・アラートに移行した日の深夜になれば正雄が事前に設定したどおりの支払いが実行されというのだ。従って正雄が死亡すれば、翌日の深夜には支払いが実行される。そして、就寝中にグリーンアラートになっていても翌朝までにきちんと時計を腕に付けるかキーワードの返事をすればアラートが解除された。毎朝起きてグリーンアラートが始動していることを確認することは正雄にとってはこの特殊なスマートコントラクトの定期点検であったのだ。
正雄は電子ウオッチが微振動で時報を知らせると、必ず3回に1回はウオッチや携帯の画面をタップしてアラート不要の動作をする。そしてその動作にはもう1つの大事なチェック機能があり、そのチェック機能は彼のアドレスの暗号資産の残高のチェックだ。つまり死亡時の支払い金額の設定である。これで正雄は普段暗号資産を使って支払いをするたびに最後のスマートコントラクトの再設定をしていたのだ。急死した場合に息子と税務署に支払われる金額が常に最新の残高になるよう設定を変えていたのである。
正雄が最後に息子に宛てた支払いを果たしたトランザクションデータには次の文章が埋め込まれていた。
「誰でも知っていることだ。価値は天下のまわりものである。」
正雄のアドレスをキーとしてエキサイトチェーンを検索すれば、正雄が生まれてから死ぬまで、そして最後の遺産相続までの全ての取引をたどることが出来る。タイムスタンプ付きのトランザクションの記録は、まさにこの正雄と言う人間の全てを記憶した電子データなのだ。そのデータの全ては確実にハッシュ化されていて、エキサイトチェーンが消滅しないかぎり未来永劫、一片の改竄もおこなわれずに記憶されつづけるのだ。いつからかこの経済圏の人々は個人の一生の取引データの集積をアカシック・アドレス・レコードと呼ぶようになったのだ。
第2話 おわり
続く