天の岩戸の引きこもり
その昔、倭の国の太陽神である天照大御神は、弟・須佐之男命の乱暴ぶりにほとほと手を焼いていた。
ある日、須佐之男命の狼藉で遂に死者が出ると、天照大御神は天の岩戸に引きこもり、世界が暗闇に包まれた。困った八百万の神々はあの手この手を尽くし、ようやく天の岩戸から天照大御神を引きずり出すことができたのだった。
これがいわゆる、天照大御神の岩戸隠れである。
そして現在。
「姉さん、開けるよ」
弟の須佐の声が戸の向こうから聞こえてくる。
「開けないでよ、今いいとこなんだから」
「いいから。開けるよ」
私の制止など、まるで聞かずに須佐が部屋へと入ってくる。
「うわっ……」
部屋の惨状を目の当たりにし、呻きのような声を漏らし、須佐は絶句した。
無理もない。
部屋の中は足の踏み場もないほどにごみが散乱している。それどころか床すら見えないありさまだ。飲み干したジュースのペットボトルや空き缶、スナック菓子の袋、そこからこぼれた食べカスなんてのはまだマシな方。カップ麺や弁当の容器はごみ袋に入れられず、積み重ねられているか、申し訳程度に袋に片足を突っ込むような格好で部屋の至るところに放置されている。読みかけの漫画は無造作に積み重ねられ、雑誌はページを開いたままごみ袋に被さるように捨て置かれている。丸まったティッシュはそこかしこに転がっていて、新種の植物が群生しているかのようだ。
我が部屋ながらおぞましき様態である。
「天照姉さん、先週片づけたばっかりなのにもうこんなに散らかしちゃったの?」
須佐が心底呆れたと言いたげにため息をこぼした。
「うるさいわね。乙女の部屋に勝手に上がってきておいて、ずけずけ言わないでよ」
「乙女って。姉さん、今いくつなのさ」
「女性に年齢を聞くなんてデリカシーのないことしないの!」
私の憎まれ口など知らん顔で、須佐は部屋のごみを片づけていく。
私も私で、そんな須佐のことなど無視して、先ほどまでの作業に戻ることにする。
「またゲームしてるの?」
片づけの手を止めて須佐が私の前に置かれたテレビ画面をのぞき込む。
32インチの液晶画面の中で、二次元美男子が私と須佐に笑顔を振りまいている。
「そぉ! 先週発売したばっかりの新作! 三年前にやったゲームの続編でさ、前作のキャラがほとんど続投しているんだけど、新キャラもまた魅力的でさ。しかも新キャラのCVが梶●貴と花江●樹なのよ! もう約束された名作じゃない! しかも各キャラのエンディングがそれぞれまた泣けるのよ! まだ三人しかキャラ攻略できてないんだけど、どのルートも涙なしでは進められなくってさ。もうnoteに感想書き込んだり、twitterで呟いたりしてるけどまだまだ全然思いが溢れて止まらないのよ! このゲームの製作スタッフはマジで神ね!」
「神は姉さんの方でしょ。日ノ本の太陽神ともあろうものがいつまでも引きこもってゲームばっかりして」
小言を言いながら、須佐は部屋のごみを片づけていく。
「本当にうるさいわね。こんな風に引きこもり癖がついたのも、元はと言えば、あんたが原因じゃないの」
「うっ、それは……そうだ、けど……」
須佐は急に歯切れ悪く、言い淀む。
それは須佐にとっての黒歴史だった。
須佐はその昔、まだ日ノ本の人々が字も言葉も持たない頃、とんでもない暴れん坊だった。他の神々に迷惑を掛けるわ、言うのも憚られるような狼藉を働くわで、私はそんな須佐の尻拭いや弁解のために、神々の住む高天原を奔走する羽目になった。
ある日、とうとう須佐の乱暴で死者が出る事態になってしまった。
流石の須佐もまずいと思っていたようだけれど、こればかりは取り返しがつかなかった。
私は、許し難いこの蛮行に怒り、須佐の行いに腹が立ち、そして、悲しくなっていた。
私がどれほど頑張っても須佐の素行を改めることはできなかったのだ。そう思うとどんよりとした悲しみが胸を埋め尽くし、気づけば天の岩戸に閉じこもっていた。
その後、八百万の神々の活躍もあって、私が天の岩戸から出てきました、めでたしめでたし。
……とはまあ、人の子たちが言う神話の話だ。人の子が伝える話では、まるで私がすぐに天岩戸から出たかのように言うが、実際のところは話が違う。
神々の尺度で言えば確かにすぐと言えばすぐなのだが、実際のところ、私が天岩戸に篭ってから出てくるまでに軽く百年は掛かっていた。
その間、私はそこそこ冷静に状況を整理して、心を落ち着けるくらいはできていた。だから、岩戸の中でも結構快適に暮らしてはいたのだけれど、岩戸の外では他の神々が大混乱で私を外に出そうとしていた。
そんな状況だからというかなんと言うか、私も逆に出るタイミングを逸してしまったのである。早い話、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。
だからまあ、神々の頑張りも結構冷めた目で岩戸の中から見ていたのである。ぶっちゃけ何かやられればやられるほど、もうその辺でやめてと叫びたい気持ちだった。そんなわけで正直、神々の努力で引きこもりから脱却したと言うより、なんだかみんなが騒いでいるのにばつが悪くなったけど、意を決して出ざるを得なかった、と言う方が近い。
だけどそれ以来、年単位で引きこもるのが私の癖になってしまっていた。百年も引きこもっていれば引きこもり癖がつくのも仕方ないだろう。それに、自分だけの空間に引きこもっている生活というのは何とも言えない怠惰な魅惑があり、このままでいいのかという焦燥感を感じ、ダメなことをしているという背徳感がある。それがたまらないのだ。
「まあ確かに姉さんをこんなにしちゃったのは俺のせいだけどさ……」
須佐がため息交じりにうなだれながら言う。「こんな」とは失礼な。
天の岩戸の一件以降、高天原を追放された須佐は、私のあまりの怒り様に反省し、以来人が、もとい、神が変わったように大人しい性格になった。生来は愚直かつ正義感の強い神格の神ではあったので、今となっては姉の私より真面目なくらいである。昔ヤンチャしていたヤンキーが教師になる、くらいの変わり身だった。
「私に部屋から出ろ、って言うけど今は下界では引きこもってた方がいいって言うらしいじゃない? いわば私は日ノ本のテレワークとステイホームのパイオニアってわけだから」
「姉さん、働かないならテレワークとは言わないよ」
須佐が呆れがちに訂正する。
「それに姉さんが引きこもることで、日ノ本に起こる悪影響を考えてもみてよ。姉さんが引きこもるたびに日ノ本で必ず災厄が起こるんだから。平安の頃から疫病や戦、江戸にあっても飢饉、近代でもアマ姉が引きこもったタイミングで世界大戦が勃発したし。今だって、姉さんが引きこもってるせいで日ノ本は新型の流行り病とそれに伴う不況で大変なんだよ」
耳の痛いことを容赦なく須佐は言ってくる。
「うるさいわね! あんたは私の親なの?」
「父さんと母さんが何も言わないから俺が言うしかないんじゃないか。月読兄さんだってもう諦め半分で、一柱で何とか日ノ本の経済が崩壊しないように頑張ってるよ。でも、兄さんは元々、月神だから悪状況をそれ以上悪くならないようにするくらいしかできないよ。やっぱり太陽神である天照大御神が出てこないと日ノ本は明るくならないんだから」
今度は私がため息を吐く番だった。
「あんまり期待されても困るのよね。流石に私の力も全盛期に比べると衰えてるし」
「でも、姉さんが引きこもりをやめると必ず日ノ本に日が差すじゃないか。姉さんが部屋から出てきた瞬間に世界大戦は終了したし、その後、「ちょっと仕事しよっかな」って言ったと思ったら大戦後最長の好況になって」
「あの時は徹夜明けで妙にハイなテンションになっちゃってたのよね……」
むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。
「それで『いざなぎ景気』なんて呼ばれるようになったんだよね」
「私が頑張って働いたのに父さんの名前が付いたから心底やる気なくなったわ」
あの時は父さんもばつが悪そうな顔をしていた。黄泉の国で母さんの姿を見た時でももっと平然としていたに違いない。
「それがきっかけで平成のタイミングで部屋に戻っちゃったからバブル弾けたりしちゃったけど、その後もまた出てきたら好景気をもたらして」
「そしたら今度は『いざなみ景気』なんて言われちゃったのよね」
私としては「母さん、お前もか」と言いたくなるような気分だった。
それきっかけでまた引きこもったことで、リーマンショックによる不況や度重なる大災害、伝染病の流行などを経て、今に至る。
「でも、姉さん由来で、「岩戸景気」ってのもあったでしょ?」
「なんで私だけ名前じゃなくてエピソード由来なのよ!? 私の印象はやっぱり引きこもりってことじゃない!」
私は深く嘆息を吐いた。
「私が頑張ってもどうせ引きこもりの印象しか残ってないし。それなら頑張る意味全然ないし。日ノ本の人の仔たちはみんな私を崇めないし。クリスマスとかハロウィンとか伴天連の行事ばかりするし。初詣の時くらいしか私を崇めてくれないもん。第一、お参りで願いごと叶えようなんて虫がいいのよ。自力で叶えられない願いなら神通力で叶えればいいのに」
「神から目線でものを言うのはやめよう、姉さん」
「そんな人の仔たちの祈願を聞くくらいなら、部屋でゲームキャラの美声を聞く方がいいし。私は諏訪部●一様や津田●次郎様の神ボイスを聞いてる方が気楽なんだもん」
「だから神は姉さんの方でしょ」
須佐が呆れたように返す。
「姉さん。もう引きこもりなんてやめようよ。太陽神がいつまでも引きこもってちゃ日ノ本はお先真っ暗だよ。姉さんの力なら、この国を何度だって輝かせることができるんだから」
「さっきも言ったけど、そんなに期待されても困るの。私だってもういい年だし、昔ほど力はなくなっているんだから。今私が外に出たって台風一つ消せやしないわよ」
我ながら情けない話だ。
「どうしても部屋から出る気はないの?」
「神に二言はない」
働きたくないでござる。
「そっか。この手は使いたくなかったけど仕方ない」
須佐は懐から一枚の札を取り出して私に見せつけた。
「そ、それは!」
短冊ほどのその札に、私は言葉を失ってしまった。
「姉さんが今やっている、そのゲームのキャストトークショーのチケット。日ノ本で手に入れてきたんだ。部屋から出ないなら、こんなものいらないよね」
須佐が私の目の前でチケットを破ろうとする。
「ちょっと待って!」
それを すてるなんて とんでもない!
「誰が部屋から出ないなんて言ったのよ! 見てなさい! 今すぐにでも出ていくわよ!」
私は飛び跳ねるように部屋から転がり出て下界を目指すことにした。
須佐が憎たらしくほくそ笑んでいるけどそんなの関係ない!
待ってなさいよ、神谷●史! 杉田●和! 中村●一! 安元●貴! 小野●輔!
あなたたちに会いに行けるのなら、私の目の前はいつだって明るく輝くわ!
数年後、日ノ本に戦後最大級の好景気が訪れ、それが『アマテラス大好況』と呼ばれることになるのだけれど、それはまた、別の話。
〈了〉