第弐章 屋敷(1)
阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。 ――……芥川龍之介
一
稲田の家は小鳥遊が思ったよりも立派だった。
庭はもちろん、離れもあれば田も大きい。聞けば周囲にある田はほとんど稲田の所有のものらしい。
「さぁさ。着きましたよ」
着くなり、いそいそと二人の年増の女中が出てきた。そうして、小鳥遊から荷物を受け取ると、さっさと家に戻って行ってしまう。
慣れているのか、それとも小鳥遊になど荷物を任せられないと思ったのかそれはあまりにも感情のない動きだった。
「豪邸、ですね」
「あはは、まぁそうですね。ですが、やっぱり田舎ですよ。ボクは父に挨拶をして来ます。小鳥遊さんはどうぞそこらで涼んでいてください。用がありましたら呼びますので」
「わかりました。その時はどうぞ呼んでください」
三郎夫婦は揃って家に向かう。
「あの、あのう」
さて、どこで暇を潰そうかと考えていると、ふと横からひどくしわがれた声が聞こえた。
慌てて振り返るとそこには体を丸めた男がいる。
眉は八の字に下がり、目は常に忙しなく動いている。小鳥遊よりはいくつも年上だろう。だというのにどこか子供のようにも感じられるのは、自信のなさそうなどこかそわそわした動きからだろう。
「ど、どうかしましたか?」
「運荷物はおありでしょうか?」
「いいや。ボクはないです」
「ですが、その傘ぁ荷物じゃないですか? 今は雲ひとつありませんよ」
「奥さんの日傘に使うかもしれませんので」
と言えば、男は大袈裟までに「そうですか。かしこまりました」と頭を下げた。
「お名前を伺ってもいいですか?」
小鳥遊がそう問いかけると、男はさらに頭を何度もさげた。その出立から女中と同じ使用人らしいが、彼はさらに低い立場にいるのだろう。汚損激しい服の裾には泥が付着し、獣くさい体臭が鼻をついた。
「インカイと言います」
「インカイ? 変わった名前ですね」
「元はイヌカイからきています。それが鈍ってインカイと……」
「では、インカイと言っても犬を飼うと書くんですか?」
小鳥遊が問うとインカイは少し呆気に囚われているようだった。そしてそこからややあって「へえ、まあ、そんなものです」と曖昧に返事をする。
「どうも自分には学がありませんで。字がぱっと出てこないんですわ」
恥ずかしそうに、しかしへらへらと笑いながらインカイは言う。
小鳥遊はなんとも媚びた笑みだと思ったが、それは自分も対して変わらないのできわめて顔に出さないように気を付ける。
「ボクは小鳥遊といいます。といっても小鳥が遊ぶと書くんですよ」
「それでタカナシと呼ぶのですか」
「鷹がいないから小鳥が遊べる、とね」
と、先生のように言うと相手はひゃあと阿呆のように声をあげた。
「なんとも粋な名前ですね。して、あなたは使用人でありながら学もあると」