第伍章 夜中(1)
フロイト曰く「忘れるのは、忘れたいからである。」
一
「小鳥遊さん。あとでお話があります」
みなが怖々と部屋に戻る中、小鳥遊の背中をつついて小声でそう言ったのはインカイだった。
それから二人は使用人が使う場所から少し離れたところで合流した。近くには犬小屋があり、主人が戻ってきたと犬は嬉しそうに尻尾を振っている。
「鳴いていたのはこいつか」
小鳥遊は安堵して小屋の中にいる犬を見る。
「クロはそうそう遠吠えなんてしませんよ」
インカイはそう言って網から手を伸ばしてクロの頭を撫でる。
「吠えるたびに奥方に打たれてしまい、鳴けなくなってるのです」
奥方、と聞いて小鳥遊は昼間のことを思い出す。たしか、ここの奥方は三年前に犬のようになって呪い死んだ。
「昼に、イヌコと言いましたね。あれは犬でもあるのです」
「コドモと言っていたけれど……」
「はい。コドモであり犬なのです。この土地一帯に住む祟りですよ」
インカイは手を引っ込めた。
「稲田は昔から稲を作るのが優秀だった。だから稲に関わる苗字を与えられ、土地が広く得ることができた。そして、その収穫量からここらの村長に上り詰めた。犬に飼われるうちとは違う」
その声には少しばかり感情がこもっている。
「稲田はね、悪いことをしたんですよ。本当に」
「どうして?」
「害獣や害鳥、日照りや大雨それらをどうにかするにも稲田が関わっていた。……あの家には行きましたか?」
問われて小鳥遊は今日ひどい目にあった家のことを思い出した。
「散々な目にあったよ」
「そうでしょうとも」
インカイはそう言って何度も頷いた。
「鳥や犬でさえ近づきません」
たしかにあそこに行った時、周囲は静まり返っていて不気味に思った。
「それは鬼門だからかえ?」
それを聞いたインカイははっとした表情で小鳥遊を見つめ、そしてどこか遠くを見るような目で頷いた。
「そういった事に詳しいのですか?」
「そういった仕事を受け持つ時があるんでね。とても嫌ですが」
小鳥遊はそう言って責めるようにインカイを見る。しかし、彼はどこか怯えながらも小鳥遊から逃げるような姿勢は見せなかった。
「小鳥遊様、いや小鳥遊先生」
インカイはすがるような目で小鳥遊を見る。
「そこまで知っているなら、全てを知っているのでしょう? 稲田が何をしたのかも」
「まだ一部しか知らん」
「ですが、ここの当主だけではなくここの住人に怒るには理由がおいりのはずですよ」
「あんなのを見たら誰だって不愉快になる」
なりませんよ。とインカイは吐き捨てるようにそう言った。
「なりえませんよ。ここの連中はみんながみんな、狂っているのですよ。長男も、次男もその嫁も。だからここの奥方は……」
「祟られた?」
「そうです」
どこか不気味にインカイは微笑んで言う。それがあまりにも薄気味悪く、小鳥遊は眉をひそめた。
「待て。どいてそこまで教えてくれるのやか? あまりにもここの人間にとって悪い話をしすぎちょる。おまんはここの使用人のくせにどういてそがに……」
小鳥遊がそう言うと、インカイは初めてニンマリと笑った。
笑い慣れていない、もしくはそうとうおかしな心境にいるのかそれはあまりにも歪んだ笑みだった。
「あなたは信じてくれて家まで行った。それだけじゃない、親切にしてくれた。それに、初めてあの男に歯向かってくれた」
ただただ嬉しかったんですよ。と笑うインカイはとても寂しそうに影が落ちている。
不意に遠くの方で女の悲鳴が上がった。