第肆章 夕餉(3)
四
「どういてじゃ」
呟く小鳥遊に誰も答えるものはいない。しかし、沈黙を先に破ったのはあいかわらずの一郎だった。
彼はインカイを呼びつけると「お前だろう?」とせせら笑った。
「そ、そんな滅相もない。本当です、本当です」
インカイは頭をさげるがそんな彼に対して誰も庇う者はいない。あまりにも哀れに思えた小鳥遊が助けに回るよりも先に一郎の意識が変わった。
「子供がうるせぇんだよ」
その怒鳴り声の先はこの異様な空気を察知して泣き出した清に対してだ。その母親はすぐさま謝罪をしながら隣の部屋へ引っ込もうとする。
「そうして一人になって誰かを殺すのか? え?」
一郎はそう言いながら明子の肩をぐいと掴んだ。
「乳やりを理由に部屋から抜けることもできるからよ。誰かが監視しねぇとな。女はいけねぇ、共犯になりやすいから」
「ほたえなや」
我慢しきれなくなったのは小鳥遊だった。
「さすが都会に出てる奴は違うよなあ。英雄気取りかい? え?」
「やったら、どうするがよ」
低い声で小鳥遊は答える。
この時代、平均身長がまだ百六十センチしかない中で百七十センチ近い小鳥遊は大男であった。
また厚いメガネの奥から殺気だつ黒い瞳に気圧されたのかもしれない。一郎は一瞬たじろぎ、そしてすぐに面白くなさそうにインカイを足蹴にするとさっさと部屋から出て行ってしまった。
「どいて誰も言い返さないがか!」
小鳥遊はそう吠えて黙って下を向く人間を見た。
二郎、三郎、そして使用人たちは誰もが答えられずただただ気まずそうにしている。聞こえるのは清の泣き声と、明子が泣くのを堪える声だろう。
「小鳥遊さん、気持ちはわかります。とても感謝しています」
そう言ったのは三郎だ。彼はとても疲れた調子で小鳥遊を見る。
「けれど、私たちはそれが普通の中で育ってしまったのです。兄は幼少から変わらない。犬猫をいじめ、人をいじめ、そしてあの年まで誰も寄り付かなくなってしまいました」
「それだけやない。どいて誰もが黙っちゅーのやか。警察を呼ぶべきやろうが。人が死んじゅうのにどいておまんらはそれ以上動かんのか? 夫なのやろう?」
「小鳥遊さん」
冷静に、諭すように三郎に呼ばれて小鳥遊は初めて我に帰り、そして怯える女たちにようやく気がついた。
勝美、一郎と続いて自身も激昂したと知り羞恥に赤面し、首を垂れる。
「ごめんなさい。つい、どうしても……」
「いえ、気持ちはわかります。私も怒っているのです」
三郎は優しく言い、そして横たわりもう動かない妻を見た。
「ですが、父と兄がこの場を離れてから初めて怒りが出てきたのです。どうかわかってください」
それは幼い頃から抱いた怯えによるものだろう。
父の言いつけは絶対だと、あの一郎ですら怯えて彼に従っている。使用人たちなら尚更だ。
「警察を呼びたいと思います。あなたたちに罪はありません。判断したのは私ですから」
二郎はそう言ってもう一度深く深く息をつく。
「だから、今日は……」
といった時、遠くの方で遠吠えが聞こえて皆がはっと顔をあげた。誰もが顔色を変え、今度はあきらかに動揺を示している。
「どうしたんですか?」
「な、なにも」
答えるのは顔を蒼くした三郎だ。
「今度こそ部屋に戻ろう」
とだけいい、それに反対する者はいなかった。