銀の小鳥 ぼくは婚約破棄なんて望まないIF
ヴィーとの出会いはメイベリー侯爵家でのお茶会だった。
隣に座ってほんの少し、当たり障りのない話をした。それだけ。
それだけなのに、すぐに婚約の申し込みが来た。
噂よりも怖い子じゃなかったし、母がこんなにいいお話きっともうないわ、と言うので了承した。
それからアンジェラの嫌がらせが始まった。
ジュスト伯爵家のアンジェラはひとつ年下の従姉妹だ。
私たちの年代に公爵家の子息はいない。
ヴィルヘルムが同年代の男性で一番家格が高いのだ。
そして侯爵家、公爵家の姫は同年代に王太子殿下がいるため、婚約者の座は空けている。
伯爵家で、容姿に優れた自分がヴィルヘルムの婚約者に一番近い、と思っていたのに子爵家の、しかも従姉妹のレティが婚約者に決まったのだ。
顔を合わせれば嫌味を言われたり紅茶に塩を入れられたり、ネチネチとうっとうしい。
婚約しなきゃよかったなぁ、と思い始めていた。
ある日、自宅の庭を散歩していると、目の前にアンジェラが現れた。
アンジェラは我が家に勝手に出入りしている。
とても迷惑だが母の苦情は伯爵家には聞き入れられない。
「レティーシア、その髪飾りよくしてるわね。素敵ね。」
アンジェラはレティーシアの編み込んだ前髪を留める、銀の小鳥を見て言った。
昨年の誕生日に、お父様が贈ってくださった宝物だ。
「あ、ありがとう。お父様がくださったの。」
「ふぅん、おじさまがね。大切なものなのね。」
「そ…きゃあ!」
答えるより早く、アンジェラは銀の小鳥をむしり取って地面に叩きつけ、鋭いヒールで踏みつけた。
「アンジェラ!なにをするの!」
「アンジェラ様と呼びなさい!ヴィルヘルム様の婚約者を降りなさいよこの無礼者!じゃないとあんたの大切なものをこんなふうに壊してやるんだから!」
ぐりぐりと執拗に踏みにじって、アンジェラは去っていった。
拾い上げた小鳥は金具が壊れて傷だらけのぼろぼろになっていた。
なぜ、こんな目に合わなければいけないのだ。
うずくまって泣いていると、ヴィルヘルムの声がした。
今日はヴィルヘルムの訪問の日だった。
そうだ、婚約破棄してくださいって、言おう!
「レティ、ここにいたの。…泣いていたの?」
ヴィルヘルムはレティーシアを見て、悲しそうに青の瞳を揺らした。
輝く金の髪にメイベリーの青の瞳。
ヴィルヘルムは気性が荒く怖い子だと噂だったが、その容姿の美しさで人気は絶えなかった。
私が婚約破棄しても、すぐに誰か…きっとアンジェラがその座につく。
もういいのではないか。
「どうしたの?かわいそうに。」
婚約破棄したい、と口を開きかけたレティーシアの涙で濡れた頬を、指で優しく拭ってくれた。
「きゃ…!あ、あの、大切な髪飾りが…。」
「髪飾り?銀の小鳥?」
「そう!ど、どうしてわかったの?」
「レティ、いつもつけてるじゃないか。わかるよ。」
レティーシアはますます涙がこみあげた。
わんわん泣くレティーシアを、ヴィルヘルムは優しく撫でて話を聞いてくれた。
いつも領地にいる忙しいお父様が贈ってくださったの。
お父様になかなか会えないから、とても大切していたの。
握りしめた手の中にぼろぼろの小鳥がいるのだと言うのはすっかり忘れた。
次の週、またヴィルヘルムが会いにきた。
先日は言えなかったが婚約破棄のことを伝えなければ。
庭のテーブルにお茶のしたくをして待っていると、ヴィルヘルムが駆け寄ってきて、レティーシアのてのひらに何かを載せた。
「うちの庭に遊びに来ていたみたいだよ。」
レティーシアのてのひらには、きらきらと輝く銀の小鳥がいた。
「どうして…。」
見た目はまったく同じだ。
ヴィルヘルム様、わざわざ同じものを探して買ってくれたの?
「ありがとう、ヴィルヘルム様…。」
「よかった、笑ってくれた。」
ほっと息をついて不器用に笑うヴィルヘルムに、レティーシアは心をぎゅうっと掴まれた。
やっぱり婚約破棄なんてしない。
私、この人の隣にいたいわ。
それからアンジェラの嫌がらせには立ち向かってやった。
大切なものはしっかりと隠し結界を張り、嫌味には正論で返してやった。
淑女の嗜み、紅茶をかけられたら反射する魔法も習得した。
しかしさすがに伯父があんなふうにレティーシアの大切なものを奪うとまでは、思わなかった。
*
出産を終えたばかりのレティーシアは、気が昂ってほとんど眠れなかった。
明け方、泣き声が聞こえて赤ちゃんのいる部屋を覗いた。
メイドたちが哺乳瓶を口元によせても、うまく咥えられないで弱々しく泣いている。
「お乳をあげてもいいかしら。」
「まぁ、若奥様。お休みになられましたか?お体は大丈夫ですか?」
赤ちゃんを抱いて揺れながら、母ほどの年のメイドが言う。
「ええ、なんだか眠れなくて。それに胸も張って痛いの。赤ちゃんに飲んでほしいわ。」
「では若奥様にお願いしましょうか。赤ちゃんは母上様のお乳が一番ですからねぇ。こちらへ掛けてくださいませ。」
布張りの椅子に座り、ネグリジェの胸元を開いて赤ちゃんを受け取ると、痛いほどに乳に吸い付いてきた。
ぐびぐびと音を立てて乳を飲み、ごぼっと勢いよく吐いた。
「だ、大丈夫なのかしら!?」
「あらあら、大丈夫ですよ、赤んぼうにはよくありますよ。メアリは若奥様のお着替えをお持ちして。」
年嵩のメイドが若いメイドに指示を出す。
少しだけお待ちくださいませ、と言って彼女も壁際の箪笥に向かった。
赤ちゃんの着替えを出すのだろうか。
あんなに吐いて、またおなかが減ったのではないかしら?
レティは腕の中の赤ちゃんの顔を覗き込んだ。
するとぱちりとまぶたが開き、朝日の差し込む中で見たその瞳は、おぞましく鮮やかな赤だった。
おまえなど、幸せにさせるものか。
大切なものは壊してやる。
アンジェラの、伯父の、嘲笑う声が聞こえたような気がした。
レティーシアからは赤の瞳の子は生まれない。
ヴィルヘルムの子だと言い張るのは無理だ。
穢された身で、幸せになろうなどとやはり無理だったのだ。
レティーシアの全身に、伯父に与えられた屈辱、恐怖、苦痛が一気に蘇った。
死だけが救いだ、となにかがあまやかに囁いた。
「若奥様?!」
叩きつけるように窓を開け放ち、ベランダから身を乗り出した、レティの腹にぎり、とたくましい腕が回った。
「レティ、あぶないよ。」
「ヴィー!離して!無理なの!無理だったのよ!」
暴れるレティーシアを宥め、ヴィルヘルムはメイドに赤ちゃんを託した。
レティーシアは今夜は出産をした客室で休んでいたのだが、いつも一緒に過ごす夫婦の寝室へ連れて行かれた。
そしてヴィルヘルム自らレティーシアの着替えを手伝い、汚れを拭き清めてくれた。
「レティ、大丈夫だよ。瞳の色を偽装する魔道具があるんだ。」
体を拭きながらレティーシアの話を聞いたヴィルヘルムは、とんでもないことを言った。
「え?そんなもの…危険だわ。」
瞳を継ぐ家が偽装した後継ぎを立ててしまえば…固有魔法は失われ王都の守護は緩む。
「危険だから、王家の秘伝なんだ。…ぼくと寮で同室のやつ、わかる?」
「ええ。茶色の髪の…遠方から来ている方、よね?」
「それ嘘なんだ。あいつ王太子なんだよ。瞳の色変えてるんだ。あいつからもらってくるから、安心して。」
「え、えええ?!」
それ、安心していいの?!
ヴィルヘルムの胸に頬をつけさせられ、背中を優しく叩かれて、レティーシアは考えがまとまるより先に眠りに落ちた。
数日後、ヴィルヘルムは小さな銀細工のピアスを持って来た。
瞳が魔力を込めた人間と同じ色に変わるという。
レティーシアが魔力を込め、ヴィルヘルムがぷつりと耳に刺す。
ふにゃあと泣いた赤ちゃんは、レティーシアと、お父様と同じ緑の瞳だった。
「ありがとう、ありがとう、ヴィー。」
レティーシアはわんわん泣いた。
これで、赤ちゃんを愛せる。
これで、ヴィーといっしょにいられる。
「名前を考えてたんだ。ルリーシア。ルゥって呼びたいな。レティ、どうかな?」
なんてかわいい名前なんだろう。
なんて優しい声で呼ぶのだろう。
ヴィルヘルムの言葉でさらに泣いた。
ヴィルヘルムは学園を卒業し、王城で王太子の側近として勤め始めた。
軍にも熱烈にスカウトされたが、遠征とか行かされたらイヤだから、と断ったらしい。
ジュスト伯爵家をネチネチつついてるよ。
不審なことがあったら叩き潰すね、とヴィルヘルムは微笑んだ。
そんなことしなくていい、とは言えなかった。
アンジェラは学園を退学し、戒律の厳しい修道院に入った。
学園で複数の男子生徒と関係を持っていたらしい。
アンジェラは最後までしたことはない、と否定したそうだが伯父は速やかに送り出した。
来月、ヴィルヘルムとレティーシアはささやかな結婚式を挙げる。
ささやかだけど王太子殿下は来てくださるそうだ。
もうしまい込む必要はない。
レティーシアは久しぶりに、銀の小鳥でゆるく編んだ前髪を留めた。
「レティの、父上にいただいた宝物だね。」
つん、と小鳥をつついて笑うヴィーに愛しさが込み上げた。
この銀の小鳥は、ヴィーからの初めての贈り物だから、私の宝物なのよ。
足を止めて、隣を歩くヴィーの肩に頭をのせると、ヴィーがぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
「ちょっとヴィー!ルゥが潰れちゃうわ!」
ヴィーが宝物にしてくれた小さなルゥが、腕の中でふにゃあと泣いた。
本編では、レティの出産後、ヴィーは男子寮に戻っていました。
このお話ではわがままを通して侯爵邸にお泊りしました。
ヴィーが屋敷にいるかいないかが運命の分かれ目でした。
レティはお父様が大好きだとヴィーは知っていたので、本編のヴィーは頼りにならなかったジュスト子爵を貶めたいとは思いませんでした。