ミニトマトと炎症性
昔に書いた作品をリメイクしたものです。
「あー、これは、かるいバルン病ですね」
「はあ……?」
「または、風船病とも呼ばれたりします」
「風船、病、ですか」
診断を下したのは、いわゆる社会的に医者と区分される職業に就いている人間ではなかった。
その、青年期を通り過ぎたであろう車の整備士は、私に引き続き症状についてと思しき話を続ける。
ガレージ風の建造物の外は春の陽光がまぶしく、四角い窓ガラスを通過した日光が整備士と、そして彼と対面するかのような恰好で話を聞いている私の顔を照らしていた。
私は整備士の話を耳に受け止めながら、頭の中では目の前の人物を「医者」として認識するべきか、そうでないかについての判別をつけようとしていた。
確かに、目の前の人物は広く一般的に医者と区分される職業には就いていない。
彼はあくまでも整備士であり、そしてどこまでも整備士でしかないのだ。
だが、それでも診断を下して適切な治療方法を口にしているということを鑑みれば、やはり彼のことも医者として扱うべきなのではないか。
自らの体を治してくれる、つまりは車を主体として考えるとすれば、やはり目の前の人物は医者に等しい役割を担っている。
そんなことを私は考えている。
私が話を聞いている、ガレージ風の広々とした建物の中には私を含めた人間が少しだけいる。
そして赤色の車が一台、私たちのすぐそばにおとなしく、何かしらの御利益がありそうな神様のように鎮座している。
その車は私の車で、そして不調を治すために診察を受けにきた張本人、もとい、車そのものであった。
最初に異変に気付いたのは、たしか一昨日ぐらいの事のようだった気がする。
話を聞きながら、思考の裏側で別のこと、自分達のことを考える。
私は車を一台持っている。
その車は赤く、全体的に丸みが強いフォルムもあいまって、まるで新鮮なサラダに映える、ことさら瑞々しく美味なミニトマトをイメージさせる。と、いうのは私なりの持ち主的可愛がりにすぎないのだろうか。
その赤い車は私の両親、主に父親の方から車の買い替えの際に、古い方を処分するという名目のもとに譲りうけたものであった。
父親からの申し出は唐突であった、車を貰った時点ではまだ免許すらも持っていなかった私は、当然のことながらそれなりに戸惑った。
しかし、かと言って車を貰うことを断ろうとは思わなかった。
その車は、私に必要とされる要素を少なからず持っていた。
どのぐらい必要だったかと言えば、提案のすぐ後に急いで教習所に通いつめ、出来るだけ最短のコースで免許を取得することに成功したぐらい。
そのぐらいの欲求だった。
親が運転している姿をずっと見てきたから、ということも理由の一つにあげられる。
私は赤い車を運転したいと願っていた。
愛着と言えば、たしかにそう形容できる感情はあった。
すくなくとも両親が新しく買い入れた普遍的なデザインの車両よりかは、私の手元に訪れた少し奇抜なデザインの、駐車場でもすぐに見つけられる色を持った車の方が、私にとっては親しみやすいものには違いなかった。
そんな訳で私は赤い車を日常の一部として、ぬるくなった味噌汁の豆腐を噛み砕くようにして受け入れていたのであった。
…………
そして話は一昨日に進む、いや、戻ると言ったほうがいいか。
私は日用品の不足、例えばトイレットペーパーがもう少しできれそうだったり、歯磨き粉のチューブがしぼんでぺらぺらになったり、とにかく生活に必要な備品の不足を感じていたような気がする。
私は最寄りのドラッグストアへと外出をする必要性に駆られていた。
徒歩で向かうにはいくらか時間を必要とする、それは自転車を使用してもさしたる変化は望めそうにない。
ゆえに私は車を使おうとした、こういう時に車という移動手段は本当に便利である、などとそんなけなげな感謝の念は、さすがに抱いていなかったような気がする。
ともかく私は車を使おうとした。しかしすぐに使うことは出来なかった。
乗ろうとしていた車、私の赤い車が宙に浮かんでいたのである。
五ミリ程度、あるいはそれよりも高度は低かったような気がする。
定規できちんと計ったわけではないので正確なところは憶えていない。
そんなに高さがあった訳ではなかったような気がする。
それこそ私の片腕の腕力で押さえつけるだけで元通りになる位には、車は地面から離れてはいなかった。
しかし同時に、私の腕の力で簡単に浮力を操作できる程度には、赤い車は自分の重力を失ってもいた。
重くない、かと言って過度に軽さがあるというほどの事でもない。
少しだけ冷たい風が吹いていた。冬の終わりから春の始まりを予感させる温度に遊ばれながら、車はそこはかとなく揺れていた。
これはどういうことか?
私は天に向かって、いるかどうかさえもわからない神さまに祈りたくなる。
おお神よ! この哀れなミニトマトをお救い給え。
あとついでに石油王と友達になりたいです。
夢物語が膨らみそうになる。
が、その前に思い当たる節を頭の中に浮かべていた。
これは病気であること、そしてこう言った症例は私の大して長くも無い、二十と数年の月日の内でもすでに何回かは直面した事象であること。
それらの事実を思い出し、見知った出来事であると判断した途端に、私の中で生まれつつあった恐怖心はその鮮度を失っていた。
そして次に考えていたのは、はたしてこの状態で車が運転できるかどうかという問題についてだった。
私は車のキーを片手に少し悩んだ。
車はその日から数えてちょうど六日ほど前に降った雨のせいで、全体に点々とした染みが無数に付着していた。
それに関してはただ単に拭き掃除を怠っていただけであった。
しかし状況もあいまって、私は赤い車にまるで水疱瘡を発症したおさなごのような哀れさ、悲しさを抱きそうになっていた。
感極まって涙を流す、とまではいかずとも、このままで感傷にひたっている場合ではないと、私は意を決するような心持ちで車のキーを握りしめた。
車の扉にそっと触れ、操縦席に乗るために扉を開けようとする。
だが地面と触れ合っていない車体は、やはり私の指の力程度で簡単にズレそうになる。
不安定に揺れる車体にあくせくしながらも、私は通常よりも長い時間をかけて乗車に成功した。
尻を座席に落ち着かせる、人間一人、つまり私ひとり分の重さを得た車は、それとなく無事に地面との再会を果たしていたらしい。
タイヤが地面を噛みしめている感覚を尻の表面に感じながら、私は症状がさらに悪化する前に、急いで車のエンジンをかけた。
「人間で言うところの、いわゆる鼻風邪みたいなもんですね」
私がつい最近の出来事を思い返していると、そこへ整備士のきびきびとした声音が耳元に響いてきていた。
「初期症状だと地面から五ミリほど浮かぶ程度で、通常の生活、つまりは運転作業にはなんら問題は起きないんですよね。なんてったって、大人一人の体重で元通り、普通とほぼ同じになりますから」
整備士は今までの経験から語れるだけの内容を、車の持ち主である私に向けて軽快に説明している。
「これは自分の勝手な予測なんですけども、雨に濡れたりして車体の温度が下がると、こういった軽い病気に罹ることが多くなるんですよー」
私は整備士にそれとない同意を送りながら、ああそういえばあの日も、春先にしてみれば寒い日が続いていたなと、そんな事を思い出していた。
たしか、空は晴れていなかったような気がする。
ぶるるん、ぶるるん。
エンジンが震え、排気ガスがマフラーから吐き出される。
震動する車の上空は曇っていた。
水蒸気の密集によって生み出される灰色の色合いは、私が車で道を走り始めた時点で急速にその濃度を高めたような気がしていた。
私は緊張の面持ちでアクセルを踏み、ハンドルを切る。
今にも、もしもこの車に向かって突風が吹き荒れれば、車は私ごとどこか遠くの彼方に飛ばされてしまうのではないか。
不安の中で、私は手のひらにじっとりと汗をかいていた。
思い出される緊張感に、私は少しだけ顔面から血の気が引いていくのを感じていた。
しかしそんな変化を整備士が気付くはずも無かった、何といってもこの人は車の治療を専門としているのであり、人間は対象外なのである。
「軽症だからといってあなどることは禁物ですよ、たとえ最初は地面すれすれをただよっているだけだとしても、ちゃんとした対処をしなかったばっかりに、あっという間にアパートの三階ほどの高さまで浮かんでしまった症例もありますから」
真剣な顔つきで話す整備士から嘘いつわりの気配は感じられない。
「人間でも、風邪を放置してもっとヤバい病気を併発することだって、そう大して珍しいことでもないでしょうしね」
私はそれとなく同意をしながら、頭の中では回想の場面がより鮮明さを取り戻そうとしていた。
冷や汗が止めどなく溢れる皮膚に私は煩わしさをつのらせていた。
しかし私の不安の度合いなどまるでお構いなしといった風に、車はいたって普通に、安全な走行を健気に実行していた。
むしろいつもよりも操作感が滑らかに感じられたのは、やはり私だけが無駄に緊張をしているために、他の違和感に気付けなくなっているだけにすぎなかったのか。
まばたきするのを忘れていた私は、素早くまぶたを閉じて開くを繰り返す。
そのとき、前方を走る車両のブレーキランプが赤く光るのが見えた。
おそらく信号が赤色に変わろうとしているのだろう、私はすぐさまブレーキをできるだけ丁寧に踏んだ。
動きが止まったのを確認して、私はしばしの制止状態で体を少しだけ脱力させる。
溜め息を若干はでに吐きだし、私は気分を落ちつかせるために周辺へと視線をめぐらせてみた。
私、そして私の車の周りでは数台の車が信号機の前で一時的な停止を命じられていた。
車両に関してそれほど専門的な知識を有していない私にしてみれば、どの車もみな一様に艶やかで通常の状態を保てているように見える。
実際、私自身も日頃は車について、普通の状態について、健康な状態について考えたことなどほとんどなかった。
まるでその状態が永遠に続くことを約束されているかのように、何も考えないで日々を過ごしていたに違いない。
だがその日の私はそうではなかった、普通ではない状態におちいりながら、健康ではない場合に想像を巡らせていた。
例えば、
今ちょうど隣接している緑色の車、平然と運行をしているように見えて実はとんでもない難病を抱えているのかもしれない。
表面へ定期的にクリームを塗らないとパン生地の様に膨らんでしまったり、艶出し用のスプレーは成分に気を付けて使わないといけなかったり。
あるいは、前方で止まっているトラック。
あれも一見頑丈そうに見えて実は排気系にアレルギーを持っていて、猫の毛なんかを吸い込んだらあっという間に炎症を起こしてしまうだとか。
想像は止まりそうにない、考えだしたらきりが無かった。
どの車も、どんな時でも苦しさと辛さにまみれた秘密を隠しているのではないか。
そんな想像をして、私はもう一度自分の赤い車について考えようとした。
悲しかったような気がする、もしかしたら涙を流そうとしていたかもしれない。
だが、しずくが頬を濡らす前に、それよりも先に信号の色が青へと変わっていた。
「もしもし」
あの後はどうしただろうか、私は私が起こしたはずの出来事を思い出そうとした。
「もしもし?」
しかし記憶はそれ以上続かない、私は続きを上手く思い出せないでいた。
「あの、聞いてます?」
それに、もうそろそろ整備士が私の放心ぶりを怪しむ頃合いであった。
私は急いで追憶の世界へ別れを告げ、適当な会釈をしながら意識を目の前にいる整備士の方へと戻していた。
整備士は少しだけ怪しむような目線を向けていながらも、それよりも手の中にある風邪薬入りの小指ほどの大きさのプラスチック製のスポイトについての説明を優先していた。
「それでは、この薬剤を給油の際に一緒に注入してください。二日ほど経過を観察して、問題が無ければ元通りの健康な、普通の健康なお車に戻りますよ」
整備士はそう言いながら、私の手のひらに薬剤を手渡した。
医者と形容してみたものの、やはり医者とは異なり、整備士はあくまでも整備士として車の治療ないし修理を行うだけであった。
「ありがとうございます」
私は整備士に簡単な礼を、そして治療代……もとい修理代を支払った。
冬の終わり、春の始まりを想像させる柔らかな日差しに照らされて、赤い車は温室のトマトの様にホカホカと熱を帯びていた。
処方されている薬が効いたか効いていないか、専門的なことは分からない。
分からないくらいには、車はいたって普通に健康そうに乾いたアスファルトの上を走る。
私は考える。
いまこの車のなかにには、病気という出来事をやり過ごす手段が流れている。
私は願う。
願わくば、助けたいと思うこの気持ちが、赤い車に少しでも多くの普通をもたらしてくれることを願う。
さて、この近くにガソリンスタンドはあっただろうか?
風邪を引いたときは思いっきり甘やかしてもらうのが我が家のルールなのだ。
この機会にピカピカになるまで洗車してもらおう。
早く元気になりますように。
私は唇を閉じたまま、赤い車にそう願った。
実在の病気とは何の関係もありません。