帝国陸軍と同じく、暴走の末、崩壊する日本の資本主義
小室直樹『日本資本主義崩壊の原理』などからのまとめ。日本独自の資本主義に関して、その致命的欠陥を抱えた問題点についての解説。
マックス・ヴェーバーの指摘する「資本主義の精神」のうち、「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」については備わっているものの、その他、「目的合理的な精神」や「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」は全く持っておらず、また、それを「何のためにするのか」という大前提がなく(キリスト教徒のなら神のため)、そのため商売の結果とも関係なく労働行為それ自体が「自己目的化」してしまう日本資本主義の致命的欠陥について。
神の説く「隣人愛」の実践として働き、利潤や生産物を積み上げていく欧米人に対し、日本の資本主義ではその前提がないため、利潤や生産物を積み上げていくことなしに、得てして企業共同体の維持・存続のほうが優先されがちになってしまう。
例としては、膨大な赤字を生み出しつつも潰れることなく長きに渡って存続し続けたかつての旧国鉄や、その他、補助金漬けの日本の赤字産業など。
◆ 帝国陸軍と同じく、暴走の末、崩壊する日本の資本主義
● 西欧的資本主義と日本的資本主義の違い
・ 「神は、いかなる人を救済するのか?」という問いから生まれた、プロテスタントたちの「資本主義の精神」
これまで、資本主義発生のための条件は、「技術進歩」と「資本(資金)」の蓄積だと、英国古典経済学者(アダム・スミス、リカード、マルサス、ミルなど)や、社会主義者のマルクスやスターリンらは考えていた。
またあるいは、ドイツ経済学者のブレンターノやゾンバルトの言うように、商業の発達が資本主義を生んだと考えられていた。
まず商業が発達し、そして、その商業やその担い手である商人たちを内面から動かしている営利精神、営利原理といったものが社会の到るところへしだいに浸透していき、その結果として近代の資本主義が生まれてくる。
商業の発達によって、営利原理が社会のすみずみにまでしみこんでゆく。それが資本主義を生んだのだと。
が、マックス・ヴェーバーはそれらの説を否定する。
古代エジプト、古代メソポタミア、古代イドンド、古代中国、ヘレニズム世界、ローマ末期、サラセン帝国、中世イタリア都市、中世末の南ドイツなど、上述の意味において資本主義発生の諸条件がととのった社会は、世界市場、数かぎりなく発生した。
にもかかわらず、これらの諸社会から資本主義は発生することなく、空しく消えてしまった。
どころか資本主義発生の萌芽は、資本主義に徹底的に敵対的な経済学説が公然と支配する地域にかぎって発生した。
それらの国々とは、宗教改革後のイギリス(イングランド、スコットランド)、ネーデルランド(当時のオランダ、ベルギーなど)、北フランス、アメリカ合衆国のニューイングランドなど、禁欲的プロテスタントが支配していた地域の国々だった。
それら禁欲敵プロテスタントたちの支配する地域では、古代ギリシャやローマ、古代中国、古代インドなどといった、商業に対する倫理的規約などなく、利潤の獲得が積極的に奨励されていた国々と違って、その真反対に、商人たちの暴利を貪る行為が倫理的に最大の悪事であるかのように考えられ、きびしく取り締まられていた。
禁欲的プロテスタントたちは、暴利をむさぼる商業やその担い手である旧来の大商人たちを敵視し、商人たちの暴利を取り締まった。
しかし、資本主義にとって命となる「利子」や「利潤」を敵視する禁欲的プロテスタントたちの間から、結果として近代資本主義を誕生させた「資本主義の精神」は生まれた。
逆になぜか、営利(利潤の獲得)に寛大である地域では資本主義が発生することはなかった。
――神は、いかなる人を救済するのか?――それが、16世紀、中世末期に起こった宗教改革におけるプロテスタントたちにとっての最大のテーマだった。
当時のカトリック教会では、洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚といった7つの「聖礼典」が行われていて、キリスト教の信者たちは、教会が神にとりなしてくれるこれらの行為を通して救済されることになっていた。
しかし中世のころには教会の腐敗が進んで、信者たちに免罪符を売りつけて、教会が勝手な判断で神の救済を保証するというマネを始めるまでになった。
しかし、人間の側の身勝手な行為によって、神が決めることを左右するようなことがあってはならない。そのため、それはすべて神の一存によって予め決められていることであり、神のなす決定に人間ごときが介入できる余地などないという「予定説」が、宗教改革後のプロテスタントたちによって唱えられるようになった。
「予定説」においては、この世の一切のことが神によって決められたことだと考えるため、今、キリスト教の信者たちが就いている職業も、それは神によってその人たちに与えられた「天職」だと考えられるようになり、以降、彼らにとって日々の労働は、神に召された使命である「召命」と変わらぬものとして、神聖視されるようになった。
ただ、彼らが自分たちの職業を「召命」として懸命に励めば励むほど、それは"金儲け"にもなった。
金儲けは聖書の教えに背く欲深な行為であり、当時のキリスト教社会では同じキリスト教徒の隣人に利子を取って儲ける金融業も禁止されていた。
そのため、自分たちの職業を「召命・天職」として神聖視するプロテスタントたちにより、彼ら自身の行う商行為について、徹底的な倫理批判が行われることとなった。
彼らにとって「利潤(の獲得)」「貨幣の獲得」は殆ど「金儲け」と同義のようにとらえられていた。
マックス・ヴェーバーによれば、中産的生産者に属するプロテスタントの人たちは、彼らが日々行っている労働・生産活動は、隣人たちが必要としている財貨を市場に提供する行為になるのだから、それは、神の説く「隣人愛」の実践になる行為ではないかという結論を出すに到った。
けれどもそれを、決して金儲けのための手段にしてはいけない。そこで、徹底的に利益を圧縮するように努める。「掛け値を言ったり値切ったりして儲ける」というやり方をせず、「1ペニーのものと1ペニーのものと交換」するというやり方で「正常価格」を決定して市場に提供する。そしてその結果、適正な利潤を手に入れる。
それならば食慾の罪どころではなく、論理的に善い行いとなると。
目的としての利潤追求は否定するが、「結果としての利潤」獲得ならば肯定する。
もし自分たちが、ほんとうに隣人たちが必要としているものを提供し、それが正しい隣人愛の実践になっているかどうかは、市場に出した商品が売れて、利潤が得られるかどうかでわかる。だから結局、儲かる仕事がよい仕事で、儲けがあるということが隣人愛を実践したことの判定の基準にもなった。
彼らプロテスタントたちはこうして、「隣人愛」の実践として、自分たちの仕事に献身するようになった。
マックス・ヴェーバーは、プロテスタントたちが生んだ、資本主義(近代資本主義)発生のために必要となる「資本主義の精神」とは、
①、「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」
②、「目的合理的な精神」
③、「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」
の3つだと指摘する。
先ず、「予定説」によって自分たちの仕事が「天職」となり、その労働に励むことは神の「隣人愛」の実践になることだと考えられるようになった。
そしてその労働は、まるで修道院の中で行われる禁欲的で修行のような行為へと変わっていった。それまで教会の中でしか行われていなかった「世俗外的禁欲」による神への奉仕のための労働が、一般の信徒たちが日々行う労働にも適用されて、「世俗内的禁欲」による労働と転換していった。
そして、神の隣人愛の実践としての利潤の獲得と商品や財貨の提供は、儲かれば儲かるほど、多ければ多いほど、良いことになるので、彼らはできるだけ効率よくその量を増やすことを考えるようになり、その結果、彼らは「経営」についての「目的合理性」を獲得するに到った。
けれども決して、その利潤追求を金儲けのためにしてはならないという必要性から、プロテスタントたちは商行為を通して生じる「利子・利潤」についても、徹底的な倫理批判を行って、そのあるべき正しい価値を追究していくようになった。
● 欧米人と異なる、日本版「資本主義の精神」の抱える欠陥
では、プロテスタントたちが獲得した「近代資本主義の精神」と比べて、日本人が確立するに到った資本主義の精神はどう違うのか?
①、「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」 →△
②、「目的合理的な精神」→×
③、「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」→×
● 「労働は尊い」という倫理観うを持ち、強欲を憎む勤勉と倹約の精神も持つが、それ自体が「自己目的化」してしまう日本人
もともと日本人は農耕民族で、農耕民族とは勤勉にならざるをえない生き物だという。それと、「剣禅一如」「剣禅一致」(臨済宗の禅僧・沢庵和尚の言葉)などという言葉で表されるように、日本人は一つの行為を「道」として、雑念を排し、無想無念の境地を求める体質を好んだ。
「本心」とか「まごころ」といった言葉が、日本人が古くから大好きな言葉。
禅僧の鈴木正三は「何の事業も皆仏行なり」と説き、商人の石田梅岩は朱子学(儒教)のロジックを用いて、それまでは欲深で卑しいとされていた商行為を「(商人)道」として定義し、その倫理性の向上を図った。
こうして日本人にとって個々の労働は、欲心を排除して人格形成を目指す一つの修業のようなものとして、感覚的にとらえられるような土壌が醸成されていった。
本来の仏教や儒教の思想でいえば、仏教では、在家の人たちの日々の労働は、悟りをひらくための修業にならないとして、労働も止めて出家し専門の修業生活に入らなければならないとされていた。
だから鈴木正三の主張した、一般の労働がそのまま仏業の修業になるというのは、小室氏によれば「コペルニクス的大転換」となるオリジナルの発想だった。しかしそれによって庶民の労働が「世俗内的禁欲」行為として転換された。
儒教においても、労働は小人のすることだと非常に蔑視されていた。江戸時代に米沢藩主・上杉鷹山が藩政改革を行った際、鷹山は自ら泥田に入って農作業をしたが、これを見かねた家族から「国の棟梁としてかかる卑しき体は恥じだ」と非難されたという。実際、このようなことはとても厳格な儒教圏ではとても考えられないことだった。
なので儒教圏や仏教圏の国であっても、日本人には、プロテスタントのような「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」は濃厚に存在する。
が、日本人の場合、彼らと違って「神の栄光を示すため」とか「神の隣人愛の実践として」それをするといった、「~のため」という大前提が欠落していた。
そのため日本人にとってその労働や企業活動は、それ自体が「自己目的化」してしまうという致命的な欠陥を抱えることとなった。
同じ目的化でも、赤字になっしまうと意味がなくなるプロテスタントたちの仕事と違って、日本人の場合は赤字だろうが構わなくなってしまうというのが大きな違い。
・ 神でも法律でもなく「唯自身を信ずペし」というのが日本教の最大の教義
鈴木正三は、
「唯自身を信ずペし。自身を信するといふは、自身則仏なれば、仏の心を信ずべし」と語ったが、日本人においては、神様より世の法律などより、何よりも「自分の気持ち・感情」こそが、究極的には最優先される。
石田梅岩も「本心」こそが何よりも大事なのだと主張したが、ここにも「本心」や「まごころ」といった自分の心の純粋さを求めて止まない日本人の性質が顕著に現れている。
石田梅岩は朱子学の論理で考えてそのような結論に到ったが、朱子学では自分の中に存在する性の動きと天の理は「性即理」の原理に従って同じものだと考えるため、自分の身体の中に正しさを求めるという態度が取られていた。
また、朱子学からさらに派生した陽明学では「性即理」から「心即理」と発展して、ダイレクトに自分の純粋な心にこそ、正しさが存在するのだと考えられるようになり、この陽明学は明治後に、大きな隆盛を見せたという。
また仏教においても、釈迦は「南伝大蔵経」において、「法を見る者はわれを見、われを見る者は法を見る」と言っている。つまり、人間の自分の身体の中に、正しい「法(真理)」が存在するということ。
仏教では「法前仏後」といって、キリスト教などの一神教の神様と違って、釈迦は宇宙の原理の創造者ではなく、その発見者に過ぎず、その原理である「法」に従うことが、解脱への道だと説かれた。
そして、その原理は自分を動かす原理とも変わらないため、そこから空海らに見られるような「即身成仏」という発想も生まれた。
それは鈴木正三と同じ、「自身則仏なれば」、すなわち「唯自身を信ずペし」ということで、やはり、自分の中に正しい答えが存在するという考えに行き着く。
またあるいは、儒教や仏教においては倫理的に不純で、真理への到達の妨げになると批判的にとられられていた恋愛感情が、国学においては「もののあはれ」として肯定的に受け止められるなど、自分の純粋な心の中にこそ、正しい答えは存在しているのだとする性向が、日本人には存在する。
偽りのない正直で純真な心情にこだわって、不純で誠実でない感情を嫌う。
が、それは得てして、自分が間違いではないと思えば、独りよがりにどんな行為でも正当化されるといった弊害も生み出すこととなった。
昭和にテロを巻き起こした軍の若手将校たちは皆、自分たちの絶対の正義を信じて疑わなかった。ニ・二六事件の首謀者・磯部浅一なども事件後、青年将校たちの決起を叛逆として鎮圧を命じた天皇に対し、
「今の私は怒髪天を衝く怒りに燃えています。私は今は、陛下をお叱り申し上げるところまで、精神が高まりました、だから毎日朝から晩まで、陛下をお叱りして居ります。
天皇陛下 何という御失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりまされませ」と、獄中から天皇を呪詛したが、これが、昭和の軍人たちが、天皇の意向も無視して大東亜戦争、太平洋戦争に向かって突き進んだ真の理由だった。
彼らにしてみれば、たとえ軍の統率を犯しや軍人勅諭の理念に背こうとも、自分たちこそが最も天皇のためを思う、誠実な行動を取っているということだった。
「天皇陛下は十五名の忠義者を殺されたのであろうか、そして、陛下の周囲には国民が最もきらっている国奸らを近づけて、彼らの言いなり放題におまかせになっているのだろうか。陛下、吾々同志ほど、国を思い陛下に事を思う者は、日本中どこをさがしても居りません。その忠義者を、なぜいじめるのですか、朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、仮にも十五名の将校を銃殺するのです、殺すのであります、殺すなということはかんたんな問題ではないのであります・・・・・・」(磯部浅一の言葉)
自分の心が正しいと思えれば、そちらのほうが優先されてしまう。
プロテスタントたちにとっては、たとえ儲けを出しても、それが神の隣人愛の実践になっていなければ意味がなく、また、いくら稼いでもそれが金儲けになってしまっては意味がない。
しかし日本人にはその大前提が存在しないため、容易に「金儲け主義」や「結果至上主義」に堕していってしまう危険性が出てくる。
● 日本人の経営には「目的合理性」がない
大日本帝国時代の帝国陸軍がまさにその典型。たとえば国力の懸絶するアメリカと戦争するにあたって、彼らはアメリカに勝つためにはどうすればいいかということを逆算で計算していったが、その結果、ありえないくらい確立の低い戦いを遂行していく結果となった。
それならば普通は、もうそんな戦争はできないという結論に到るだけだが、帝国陸軍軍人たちは違った。
戦争判断については有名な総力戦研究所を始め、いろいろなところから報告は軍の上層部や内閣の閣僚たちに上げられていたが、たとえば首相官邸で開催された総力戦研究所の行った『第一回総力戦机上演習総合研究会』にて、その報告を聞いた陸相の東條英機の回答は、
「これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります」というものだった。
小室直樹氏は、大東亜戦争時における日本の増産目標は、あまりに理想的な高い目標を勝手に決めすぎて、達成できず破綻したと指摘する。
経済学者の森島通夫教授は、「なんだか自然法則にさからって動いているみたいであった」と感じたという。
戦争は勝つためにするというのが当たり前の話だが、大日本帝国陸軍では戦争の継続そのものが「自己目的化」した結果、その戦い方が目的合理性からかけ離れた、不合理で支離滅裂なものとなった。
・ "頑張ったのであれば・・・"、"一生懸命やったのなら・・・"、結果はダメでもいいと考えてしまう日本人の悪癖
合理性を無視しても本人が頑張ったなら、結果を責めるのはかわいそうだと考える姿勢や態度は現代日本人にも変わらない性質で、山本七平氏も、
「いわば、経済性を無視して『ひたすら働く』ことに一種の宗教的意義を感じ、それが精神的充足感となって、それで満足してしまうという傾向は、確かに日本にある」と指摘する。
「戦争に負けても動機が間違っていないのだから悪くない」などと考える日本人の思考の根源がそこにある。
それは現代の会社でも同じ。たとえば農業もまた製造業の一つ、すなわち「農産物製造業」と考えれば、経済の原則を無視してはならないが、と言った瞬間に、日本の農民たちは農業する意欲を失ってしまう。
山本七平氏は、鈴木正三的な「農業則仏行なり」といった思考がここでは日本の農業のガンとなり、この発想法がその近代化と合理化を妨げ、逆にわが農民を不幸にしている、と指摘する。
他に、小室直樹氏も、膨大な赤字を生み出しながら合理化をせずにそのままの経営をずっと続けた旧国鉄なども同様だと指摘する。
「~のために」という大前提がなく、行為そのものが「自己目的化」してしまうことが、日本人が抱える致命的な欠陥。
● 日本人には「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」がない
小室直樹氏は、ソ連が崩壊した最大の原因の一つに「ゼロ金利」を挙げる。ソ連が金利をゼロにしてしまったのは「金利は悪」であるという考えを彼らが持っていたからだったが、しかし、利子は経済活動の生命線なのだと小室氏は指摘する。
利子が発生しないから、未払いが蔓延する。モノは作られず、仮に作られたとしてもまともに流通しない。作るのが面倒なら買った原料は積んでおけば良い、売るのが面倒なら商品は倉庫に眠らせておけば良いと、こういうふうになっていってしまうと。
別に利子がつくわけでもないし、給料が減るわけでもない。このゼロ金利によって、ソ連経済は全く機能しなくなってしまった。
金利がゼロになってしまえば投資に金が回らず、資本主義にとって命となる、拡大再生産による経済の発展と成長もなくなる。
● 「タイム・イズ・マネー」の観念が無い日本人
「時間」という概念が、近代資本主義の精神において、いかに重大な意味を持つのか。ヴェーバーはアメリカ資本主義の代表的主唱者であるベンジャミン・フランクリンの主張を引用して、時間の重要さを説明している。
「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けていて半日を過ごすとすれば、娯楽や懶惰のためにはたとえ6ペンスしか払っていないとしても、それを勘定に入れるだけではいけない。ほんとうは、そのほかに5シリングの貨幣を払っているか、むしろ捨てているのだ。(中略)すべての取り引きで時間を守り法に違わぬことほど、青年が世の中で成功するために役立つものはない」
・ 「時間労働」の概念を持たない日本人
資本主義における労働者は、「時間」を単位として雇われる。
現代人なら当たり前のように思われることだが、ところが、日本人には歴史的に、この感覚がない。実は今でもわからないままなのだ。
たとえば、小室氏は、日本の近世以前の「丁稚」奉公を挙げる。丁稚は、時間とは関係なく、店主の支配下に置かれた。丁稚の「労働」は、子守りにでも、肩揉みにでも何でも、時間とは関係なしに使用されていた。
封建社会における武士と大名の関係もそうで、それは現代社会でも、従業員の残業代が正確に付けられることはなく、一括の月給の中に盛り込まれて雇用されて働かせられる関係にも通ずる。
そして、時間が貨幣価値に換算されるという感覚があればこそ、利子に価値が発生するという概念も生まれてくる。
● 日本が真の意味で、近代資本主義国とは言えない理由
・ 資本主義にとって重罪となる経済犯罪が、日本では微罪で済まされてしまう
小室直樹氏によれば、日本では当たり前に行われている「単身赴任」が、欧米の資本主義国では絶対にありえない現象だという。
他にも、「行政指導」、「金融犯罪スキャンダル」、「インサイダー取引」、「株式の補填」、「サービス残業」といった現象は、まともな資本主義国でなら絶対にありえないことだという。
今アメリカでは、人殺しでも強姦魔でも、なかなか牢屋に入れられることはないが、株価操作やインサイダー取引、汚職、脱税、独占禁止法違反などといった金融犯罪、経済犯罪者に対しては、確実に刑務所送りにされるという。
それは、それらの金融犯罪、経済犯罪が、資本主義のテーマに真っ向から挑戦しているからだという。
資本主義国であるから、それら健全な資本主義社会の維持に危機を及ぼすような犯罪行為に対して、とことん厳しく取り締まりにあたる。
「主義」に対する罪は、それほどに重罪。ところが、日本においては、そうした資本主義に対する根源的な罪が、ことごとく微罪で済まされてしまう。
小室氏によればこれは、日本がまだまだ真の資本主義国とはいえず、資本主義の精神が未熟で育っていないからだという。
では、そんな日本で一番重い罪は何かといえば、それは企業に対する裏切り行為だという。
つまり、中身は封建社会のまま。いわば昔の幕藩組織がそのまま現代の会社を経営しているような感じの形態になっているのが、日本の資本主義の実態。
● 「機能集団」が「共同体」になってしまう日本の弊害
・ 会社だけが共同体になる、日本社会の大問題
「共同体」とは ・・・
人間が共同生活を行っているところにできる特定の社会をいう。利益,目的を同一にする人々の結合体。家族や村落など、血縁や地縁に基づいて自然的に発生した閉鎖的な社会関係、または社会集団。協同体。
「機能集団」とは・・・
派生的集団,目的集団とも呼ばれる。特定の機能を果すために人為的に形成された集団で,合理的,機能的に運営され,明確な組織をもつという特徴がある。自生的な基礎的集団 (家族,村落,民族など) から派生・分化したもの。
小室直樹氏によれば、本来、資本主義社会における企業とは「機能集団」であって、「機能集団」は同時に共同体とはなりえず、「資本主義は共同体を解体するところに生成され発達をする」というのが原則で、これもマックス・ヴェーバーが発見したことの一つだという。
資本主義社会において、その担い手となる労働者は主に農村の二男や三男から送り込まれてくるが、それによって旧来の地方の村落共同体が破壊されて、都市において個人はバラバラに会社に所属し取り込まれることとなる。
ところが日本では、その機能集団であるはずの会社・企業が、同時に「共同体」になるという、非常に特殊なケースになっているのだという。
共同体には、中国ような「血縁共同体」や、欧米の宗教によるつながりである「宗教共同体」など色々あるが、日本はこの共同体の種類が非常に乏しいという。
小室氏によれば、中国とも欧米諸国とも違って、日本に血縁共同体はないという(父系社会でも、母系社会でもないという点で。血筋にこだわらない)。
そして地縁共同体もなく、宗教共同体もない。
日本の共同体は全て「"協働"共同体」だと。
日本では古来より、血縁関係でもなく宗教関係でもなく、ただ「一緒に仕事をする」という関係によって「共同体」が築かれていた。
だから従来の「村落共同体」にしても、その村の中で、村の人々が生活していくうえでの大切な仕事を、みんなで集まって分担してこなしくていくという、高度な「自給自足システム」がベースとなっていて、その働く場が、まるごと「会社」の中へと持ち込まれることによって、日本の会社は同じ会社内での"一体感"や"連帯意識"の強い、「共同体」へと変貌を遂げることとなったのだと。
しかしその分、日本の会社は、厳密には「機能集団」というより「ムラ集団」という共同体になってしまい、そのため、経営上の「機能性、合理性」において劣るという弊害も生じてくることとなってしまった。
日本では明治時代以降、農村人口の都市部への大移動によって縮小・消滅した村落共同体に代わって、会社が新たな、人間集団の「共働共同体」になった。
本来であれば、会社は機能集団となって、利潤の獲得を最優先に目指す組織となる。そこに共同体の原理は持ち込まれない。
ところが日本では、会社がそのまま共同体になってしまうため、共同体の原理・原則がダイレクトに会社の中に持ち込まれて、機能集団としての機能を殺すようになる。
小室氏は、それがよくわかる例として、日本の公害騒動を挙げる。アメリカでは一株株主運動による企業内からの告発が非常に高く評価されるが、日本ではそんなことは全然できない。
それは、日本の企業が共同体だから。企業内の規範のほうが外の規範よりはるかに重く、企業外の人間が死のうが狂おうが、それよりも企業の利益のほうが優先されてしまう。
かつてのロッキード事件もその一例だという。当時は、企業のトップや、企業そのものが告発される事件が多かったが、それで捕えられた会社の子分たちは、親分をかばったり、会社をかばったりして、中には自殺を遂げた者までいた。
それは、企業が共同体であり、共同体の要請が一般的規範(法律)よりも優先されたためだった。
しかし、日本人は、会社の存続のためには社会の法律まで踏みにじって守ろうとするのに、その一方で、株式インサイダーをやった人たちに、ほとんど罪じゃないという認識さえ持ってしまう。
小室氏は、株で損をした人に対して会社が補填する、これほど資本主義社会にとって重大な犯罪はないという。
株というのは、損をする可能性があってこそ、株取り引きなのであって、絶対に損をしたくないのであれば、定期預金でもするしかない。
株で損をした人に補填するなど、豊田商事事件よりも遥かに重罪だと小室氏は指摘する。なぜなら後者のほうは資本主義の原理原則とは関係がないからだと。
日本では、資本主義が育っていないから、資本主義に対する反逆がどんなに大きな罪か誰もわかっていない。
そのため、公害騒ぎのときも、ロッキードのときも、佐川急便のときも、みんな行動様式が同じになってしまうのだと。
・ 今や「会社共同体」さえ消滅しつつある日本の未来
しかも、これまでは「会社」のみが日本に残された唯一の「共同体」だったのだが、それが今やその会社共同体さえ、現在では終身雇用制の廃止などによって、その役割を失いつつある。
共同体が崩壊すると、そこに「アノミー」が発生する。小室氏は、ソ連が崩壊を遂げた今一つの原因として、その「アノミー」の発生を挙げる。
アノミーは第二次世界大戦時に、ドイツやイタリアで「ファシズム」を発生させた要因でもあり、また、戦後の日本で急進的な左翼運動を引き起こした要因にもなったという。あるいはオウム真理教事件の発生なども。
アノミー発生下において、人間はより「狂的」で、破壊的になるという。作家の司馬遼太郎氏は、敗戦末期の日本人を「集団政治発狂」状態にあったと表現したが、普通であればとてもできないようなことを日本人に可能にさせたのは、アノミー状態であったればこそだったと言えるかもしれない。
それは明治の草創期や戦後の復興においては、奇跡の工業化と経済発展をもたらしたが、一方で大東亜戦争時においては反対に、日本の国そのものを滅ぼすことともなった。
● 帝国陸軍と同じく、日本資本主義は暴走の末、崩壊する
小室直樹氏は、いまの日本では、企業はみな巨大な共同体と化し、またこれに対する歯止めが日本の社会のどこを探してもないということを危険視する。
もし日本がこのまま暴走を続ければどうなるのか?
それは、戦前の陸軍と同じ結果になるだけだという。戦前の日本の敗因も、それは旧日本軍が、現代の日本の会社と同様に、機能集団であるべき組織が共同体になってしまったことが原因だという。
機能集団が共同体と化してしまったために、目的合理性を失った組織になって、メチャクチャな戦争をやった。
・ 「軍国主義」などではなかった日本
小室氏によれば、よく昔の日本は軍国主義だったと言われるが、それはとんでもない間違いだという。
「軍国主義」とは、戦争に勝利するという目的のために国家の全ての機能を目的合理的に統合してゆくことをいう。
では、当時の日本人がそんなことをやったのかといえば、そんなことはちっともやらなかった。
それをやったのはアメリカのほうだった。人類学者から天文学者まで動員して、戦争を勝つ目的のためにすべてを集中した。
ところが、日本ではそんな人、ぜんぜん動員しなかった。
一面において、日本の軍人はべらぼうに勇敢で、命なんかちっとも惜しまず、その点では、かつてのイギリス・クロムウェルに率いられた鉄騎兵と同じく勇敢な兵隊たちばかりだった。
しかし、そのような軍隊が強かったというのは、中世まで。前近代的軍隊では、戦闘とは、個人的武勇の積み重ねだったが、近代においては、軍隊は任務の集合体となった。
日本では遥か昔に織田信長が、その考えを打破したが、大日本帝国陸軍では装備が近代化されただけで、中身は中世の戦国時代に逆戻りしてしまっていた。
そんな軍隊ではとても近代戦はやれない。
小室氏は、日本の軍隊と西洋の軍隊と決定的に違う点は、軍隊が機能集団ではなく、「共同体」になってしまっている点だという。
陸軍が共同体になってしまったために、戦争をするということ自体が「自己目的化」してしまった。
戦前の日本は、支那事変も大東亜戦争も、なんのために戦うのか?という戦争の目的が存在しなかった。
これは現代において、「世俗内的禁欲」、つまり一生懸命働いてさえいればというそのこと自体が、商売の売り上げとも関係なしに自己目的化してしまう日本の会社と同じ状態だと小室氏は指摘する。
さらに、現代の日本社会においては、企業側からの要請が、日本全体の要請よりも、社会全体の要請よりも、世の法律も無視して圧倒的に優先されてしまう。
小室氏は、この二つの要素が組み合わさると、最悪の状態になると警告する。
「世俗内的禁欲、つまり労働しれ自体が自己目的となる日本企業。そして、日本全体の要請よりも、社会全体の要請よりも、圧倒的に優先するという事実。
この二つのことは本来は関係ないのだけれど、いっしょになるとエライことになる。
しかも、資本主義の中にそれをチェックする機能があるべきなのに、全然ない。全く見当たらない。かかる理由から、資本主義者なんて、日本にはいない。
したがって、暴走する陸軍を止める手立てがなかったように、暴走する企業を止める手立ても全くない。
その結果、大日本帝国が大東亜戦争に突入し、崩壊したように、日本資本主義も無制限デスマッチの企業戦争に突入し、必ずや崩壊することになるのである。
ここに山本七平氏の預言、さらにはマックス・ヴェーバーの論理が帰着する。
南無阿弥陀仏、なむあみだ仏」(小室直樹『日本資本主義崩壊の原理』p.197)
文章を見直しながら、修正していきます。




