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日本の資本主義と欧米の資本主義の違い ② ~日本の資本主義 1~

山本七平『日本資本主義の精神』、『日本人とは何か』、小室直樹『日本資本主義崩壊の論理』などからのまとめ。

日本独自の「資本主義の精神」を生むパイオニアとなった鈴木正三と石田梅岩という江戸時代の二人の人物とその思想についての解説。

日本の資本主義と欧米の資本主義の違い ②




◆ 日本の資本主義 ① ~江戸時代に生まれた日本独自の「資本主義の精神」~




● 他国にさきがけて「貨幣経済」が普及し、「経済的民族」(エコノミック・アニマル)として覚醒していた日本人


 カール・マルクスは、「生産力」が高まり、「資金」が十分に蓄積され、 「商業」が発達したところに「資本主義」は生まれると語ったが、マックス・ヴェーバーは、資本主義(近代資本主義)発生のためにはそれらの要素に加えて、「資本主義の精神」が必要だと説いた。


 日本では、長寛二年(1164年)に平清盛が宋銭の輸入を断行して以来、経済の発展に合わせて貨幣の流通が進み、それから約250年後の1420年代、足利義持から義景の時代には、日本に訪れた李氏朝鮮の使節が驚愕するくらい、金さえあれば、何も持たずに旅行ができるまで貨幣の流通が浸透した経済社会が形成された。


 貨幣の定着には、

「農業生産力の向上、商工業などの社会的分業の成立によって、社会的な生産力の全般的な拡大と、それを基礎にした交換生活の一般化、流通経済の発展があるかないかによって決まる」という。


 日本では和銅元年(708年)に初めて「和同開珎」を鋳造して以来、12種類の「皇朝銭」を造って銭貨の流通の促進を命じたが、そのときは失敗に終わった。

 しかし平清盛から足利義満の時代にかけて、日本では二毛作・三毛作の技術が開発されて農業生産力が飛躍的に向上するとともに、「無尽」や「土倉」といった金融業者が出現して、貨幣を媒介にした物と物の交換を活発に行う貨幣経済化が進展していった。

 平清盛は宋から「宋銭」を、足利義満は明から「明銭」を、それぞれ大量に輸入して日本で流通させた。

 日本で自前の貨幣を鋳造しなかったのは、一つには、日本で産出される銅のほとんどが硫化銅で、その硫化銅を銅を精錬する技術がなかったこと(1501年~1521年にかけて銅吹屋新左衛門によってその精錬技術が開発される)と、もう一つは、直接、海外のほうで流通している貨幣を用いることで、国際通貨としてそのまま使うことができる利便性を考えたから。


 日本人は、18世紀くらいまでなかなか貨幣経済の浸透しなかった当時の韓国やベトナムと比べて、より「経済的民族」(エコノミック・アニマル)としての感覚に鋭敏な民族だった。

 山本七平氏によれば、江戸時代の徳川家康は「国益至上主義」の人物だったといい、「宗教的」「政治的」性格の強い他の世界の民族と比べて、日本人は経済性を第一に考える「経済的」な民族だったという。

 それは例えば神様に対する意識一つでも、日本で神様や宗教が尊崇される理由は、自分たちに何らかの利益をもたらしてくれる「機能神」としての期待が第一で、何の役にも立たない神様や宗教には、日本人はなかなか"有効な"存在意義を見出せないといった特徴にも良く表れている。




● ヨーロッパの宗教改革によって生まれた「資本主義の精神」


 マックス・ヴェーバーは資本主義(近代資本主義)が発生するためには、「技術の進歩」「資金の蓄積」「商業の発達」だけでなく、それに加えて三つの「資本主義の精神」が必要だと説いた。


①、「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」

②、「目的合理的な精神」

③、「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」


 ヨーロッパでは「宗教改革」の時代、主としてカルヴァン派のプロテスタントたちによって、これら三つの「資本主義の精神」が醸成され、彼らがその三つの資本主義の精神によって行う経済活動を通じて、ヨーロッパに近代的な意味での「資本主義」が勃興するに至った。


 小室直樹氏によれば、あらゆる啓典宗教で最も忌避すること、それは、「神を人間の召使いである」と考える考え方だという。

 つまり、人間のために神を利用するという考え方。

 それはイエスが同じユダヤ教徒に対して行った批判と同じで、また、宗教改革において、プロテスタントたちが腐敗したカトリック教会に対して行った批判(プロテスト:異議、抗議)と同じだった。

 中世のカトリック教会は免罪符の発行など、人間が己の救済のために逆に神を利用しようとする腐敗が進んだ。

 プロテスタントではイエスと同じく「信仰のみ」によってしか人は救済されないという原点に立ち返るとともに、宗教上における正邪の判断、善悪の判断というのは、人間ごときが判断できる代物ではなく、世の中の一切はすべて神の定めた意思によって支配されていてその通りに動くだけだという「予定説」を確立するに至った。


 プロテスタントの宗教改革以前のキリスト教徒たちにとって、労働生産することは、生きるためにするという以外に意味はなかったが、予定説の登場によって、人々の職業は神によって予め決められた「天職」ということになり、怠けることなどできなくなった。

 また、これによりプロテスタントたちにとって「労働」とは、「隣人愛」の実戦を説くキリスト教において、その隣人たちのために必要としているものを生産し、適正な価格で市場に供給するという隣人愛を実践した証明となり、労働という行為がイコール、自らを「救済サルベーション」するための手段と変化した。

宗教改革以降、プロテスタントの人たちは安息日以外、誰もが一心不乱、身を粉にして懸命に働くようになった。→「行動的禁欲」


 こうして、「労働」=「救済」となる①の「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」が養われ、と同時に積み上げた生産物や利益はすべて「神の栄光を増すため」の証しとされたため、彼らは積極的にどんどん、投資と再生産を繰り返していくようになり、それが「近代資本主義」を勃興させる契機となった。

 封建時代には、富といえば「土地」を持っていることだったが、それが「商品」や「貨幣」に置き換わった。


 また、そんな「神の栄光を増すため」の証しとなる商品や貨幣をより効率的にたくさん増やせるように、②の「目的合理的を追究する精神」が磨かれていった。


しかし、それまでのキリスト教の倫理では、人に金を貸して儲けることや、欲望のために富を貪るような行為は卑しい行為として嫌われていた。

 が、プロテスタントたちは、自分たちの労働行為によって積み上げた富によって欲に溺れないよう、徹底した倹約に努め、また、利潤をむさぼるのは罪悪だが、隣人が本当に必要としているモノを自らの労働によって生み出し「正直な価格」で市場に提供することで得た利潤は、貪欲どころか善行の結果になるとする③の「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」を確立し、これにより、プロテスタントたちはそれまでは卑しく思われていた経済活動に対する差別意識を払拭するという成果を収めた。


 資本主義の精神のないところに近代資本主義は生まれない。システムとして導入したとしても、長続きはしなくなる。

 現在のヨーロッパにおいて、経済的に繁栄を続けている国は、ドイツ、フランス、イギリスなどプロテスタントの割合が多い地域で、イタリア、スペイン、ポルトガルなどカクリックの割合の多い地域は停滞するような状況となっている。




● 日本で独自に生まれた日本版「資本主義の精神」


 日本は、明治時代と昭和の戦後のほとんど破産状態だった時代に奇跡の経済成長を成し遂げたが、日本にも、欧米のそれとは違うものの日本的な形での、独自の「資本主義の精神」が生まれていた。

 それは江戸時代に誕生した。




● 鈴木正三すずきしょうさん石田梅岩いしだばいがん


 山本七平氏によれば、日本で独自の「資本主義の精神」が誕生したのは江戸期を通じてで、その思想を確立したのが鈴木正三すずきしょうさん石田梅岩いしだばいがんの二人だと指摘する。

 梅岩や正三の著作を読んでいくと、なるほど日本は資本主義国家の先頭をいっても不思議でないと。

 ヴェーバーのいう「資本主義の精神」によって行われる近代資本主義における人々の労働・生産活動とは、決して単なる金儲けのための欲望で行われるものではなく、非常に倫理性の高い精神によって支えられている。

 それは修道院の僧侶たちが修道院の中で行っている修行と性質を同じくするもので、宗教改革後のプロテスタントたちが、自分たちの労働を、隣人愛を実践するための修業として行うようになったことで、一般の人々の労働・生産活動が、それまでの金儲けや、生きるためだけの行為というレベルから、「労働そのものが尊い」という新しい価値観を引き出す結果となった。


 修道僧たちは聖書の教えに従って禁欲に努めたが、それは全く何もしないという禁欲ではなく、何かただ一つのこと(労働)を一心不乱に邁進することによって他の欲心が入り込んでくる余地をシャットアウトするという「行動的禁欲」と呼ばれるものだった。

 そして、この行動的禁欲による修業としての労働が、宗教改革後のプロテスタントたちによって「世俗」の世界の内へと持ち出されたことで「世俗内的禁欲」として転換され、それが近代資本主義を発生させる原動力となった。


 日本では仏僧の鈴木正三が「何の事業も皆仏行なり」「何の事業も仏行なり」と説き、その後現われた商家出身の石田梅岩も同様の思想を広めたことで、日本においても江戸時代になって、世俗外的禁欲が「世俗内的禁欲」として一般の人々が行う労働行為にまで広がり、労働そのものが尊いという倫理観が普及していくようになった。


 山本七平氏は、どのような国であっても、「何の事業も皆仏行なり」という考え方をして、世俗の業務に宗教的意義を感じ、すべてを度外視してこれに専念し、同時に合理性の追求を人間の踏むべき「道=倫理」と考えて、これを実行することで良心を満足させ、さらに倹約について、大きな精神的安定を感ずるようになるなら、その国にはいや応なく資本が蓄積し、その「結果としての利潤」が世界最高になってしまっても、不思議ではないだろうと指摘する。




● 鈴木正三


 鈴木正三は父親の代から徳川家康に仕えていた武将で、正三も関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げ、200石の旗本となった。

 1615年に「元和偃武げんなえんぶ」が江戸幕府から出され、応仁の乱以来、150年余りに渡って続いた戦乱の時代が終焉し、天下の平定が完了したことが宣言されるが、鈴木正三は日本が平和を取り戻したあとの1619年に武士の身分を捨てて出家し、禅宗(曹洞宗中心に修業)の僧侶となる。

 その後、故郷の三河に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めたが、島原の乱後に天草の代官となった弟・重成の求めで天草に赴くと、『破切支丹』を執筆して徹底的に「切支丹」(カトリック・キリスト教)を批判するとともに、仏教に限らず神社まで含めた諸寺院を復興し、自らが確立した仏教の教えを庶民に説いて布教活動に邁進した。


 山本七平氏は、鈴木正三が生きた時代は、戦乱が終わって平和を取り戻したものの、同時に戦士としての武士が不用となっていった時代で、石田梅岩が生きた時代も同様に、それまでの町人の成長期が終わり停滞期へと向かう転換期にあったという。

 またこの問題は彼ら個人の問題にとどまらず、彼ら以外の者たちにも、ある程度、共通した問題として存在していて、ではその矛盾を自己の内にどう解決すればいいのか、ということの答えを、皆が探し求めているような時代だったと。

 正三や梅岩らの思想の中に、それを世俗の思想として活用しうる要素があったということで、この点は、カルヴァンと共通していることだという。

 中世ヨーロッパも、黒死病の発生などにより、人々が生きることを苦しいと思ったり辛いと思ったりするような時代だった。




● 鈴木正三の思想 ~『農業即仏道なり』『何の事業も皆仏行なり』に見られる日本版「資本主義の精神」の原点~


 鈴木正三はその自著『万民徳用』の中で、士農工商の生き方の基本となる考えについて、主として仏教の教えから、

「農業即仏道なり」

「何の事業も皆仏行なり。人々の所作において、成仏したまうべし。仏行のほか成る作業有るべからず」

と、説いた。


 鈴木正三は、宇宙の本質を「一仏」であるとした。そして、この「本質としての一仏」は、見ることも知ることもできないが、この仏には三つの「徳用」があり、それが人間に作用してくるが故に、人はこの存在を知ることができると考えた。

 この三つ徳用を、彼は、「月」(「月なる仏」)と内心の「仏」(「心なる仏」)と「大医王」(「医王なる仏」)と表現した。


 「月」とは、宇宙すなわち天然自然の秩序を意味し、月の心が一滴の水にもその影を宿すように、各人の心も、この「月」すなわち天然自然の秩序を宿していると。これが「心なる仏」。

 そして、その月の光を各人の心が宿しており、それが仏ならば戦乱で苦しむことはありえないし、この世に犯罪や不正や殺人などがあるはずはなく、全員が「ホトケ様」のようになるはずだと。


 ところが、現実にはそのようにはなっていない。では、なぜそうならないのか?


 正三は、その理由を、心が病いに冒されているからだと考えた。人間の体が病むように心も病む。病み苦しむのは病毒のためであるが、それは「貪欲」、「瞋恚(しんい〔怒り〕)」、「愚痴」の「三毒」であるとした。


 ではこの「三毒」によって病んだ心を癒すにはどうすればよいのか?

 正三は、この病いを癒やしてくれるのも、また仏で、これがすなわち「医王なる仏」だと説き、この仏に癒やしを願うのが人間の宗教心であると考えた。

 そして、人が癒やされて「心なる仏」どおりに生きるようになれば、戦乱も起こらず社会の諸問題も解決され、人の集合である「衆生もまた仏」という形で、理想的な社会ができると考えた。


 しかしこれら、「月」(「月なる仏」)と内心の「仏」(「心なる仏」)と「大医王」(「医王なる仏」)という三つの仏は、三種類の仏があるという意味ではなく、基本は一仏であり、一仏に三つの徳用があるということ。


 鈴木正三は、たとえ出家しても「世捨て人」にはならず、彼は「仏法をもって世を治めたい」という意欲を持っていた。

 それがため、彼の思想は、いわば「禅宗社会倫理」として、現実の世俗世界の中に、様々な影響を与えることとなった。

 正三は以上のような世界観・人間観のもとに社会秩序をうち立てるべく、人々がいかに生きるべきかの具体的指針を打ち立てたのだった。




● 鈴木正三が説く、「成仏」するための方法


 正三は、いい社会をつくるためには、まず、「心なる仏」が三毒に冒されないことが必要で、そのためには「成仏」しなければならないと説く。


 彼の言う「成仏」とは「死ぬ」という意味でなく、字義どおりに「仏に成る」こと、すなわち「内なる仏どおりに生きる」ことを意味する。

 そのためには当然、修行すなわち仏行にはげまねばならぬ、ということになるが、一般の社会人にはそれはできない。


 正三は、四民、即ち士農工商が、それぞれ、どのようにしたら成仏できるかを、『四民日用』で説いた。後に『三宝徳用』と合わせて一本となり、『万民徳用』とされた。

 「日用」というのは「日常に役立つような法話」のこと。



・「農人日用」


 正三は「農人日用」の中で、農民たちに成仏の方法を説き明かした。

 当時の農人たちは、「後生一大事、疎ならずといへども、農業時をおいひまなし、あさましき渡世の業をなし、今生むなくして、未来の苦をうくべき事、無念のいたりなり。何として仏果にいたるべきや。」という嘆きを抱いていた。

 「仏行にはげめ」などと言われても、そんな余暇はまったくないという農民たちに対し、正三は、

「農業則仏行なり」と答えた。

 いわば農業を修行と考え、「極寒極熱の辛苦の業をなし、鋤鍬すきくわ鎌を用得もちいえて、煩悩のくさむらしげきこの身心を敵となし、すきかへし、かり取と、心を着てひたぜめせめて耕作すべし」と教えた。

 正三は、「身に隙を得時えしときは煩悩のくさむら増長す、辛苦の業をなして、身心を責時せむるときは、此心に煩なし。如此かくのごとく四時ともに仏行をなす、農人何とて別の仏行をこのむべきや」 といい、無心で畑仕事に打ち込んでいれば心に隙が生まれることはなく、それが一番の修業になるのだとした。だから他に仏教の修業をする必要などはないといった。


 正三の考えでは、成仏するための条件は「心に有りてわざになし」で、だから例えば座禅をするとか滝行をするとか、その「業」にあるのではなく、何をしようが、それは本人の心の問題だとした。

 正三は、日常の労働行為をそのまま仏教の修業とさせることによって、本人が仏果を得るだけでなく、社会につくし、社会をも浄化する結果になることを望んだ。


 正三は、「一念の中に農業をなさば大解脱、大自在の人となって、成仏できる」と説いた。


 空海は「即身成仏」を説いたが、正三の思想では、農業に一心に励めば、成仏できるというものだった。



・「商人日用」


 正三は、「商人日用」の中で、商人たちにも成仏の方法を説いた。

 商人蔑視はいずれの国にも存在するが、徳川時代の日本にも「封建」社会特有の商人差別が存在していた。

 当時の商人たちは、「つたなき売買の業をなし、得利とくり思念おもいねんじ休時やすむときなく、菩提にすすむ事不叶かなわず、無念のいたりなり。方便を垂給たれたまえ」といって正三に助けを求めた。


 正三は、元は同じ農民でありながら労働を小人の行為として卑しむという儒教の教えによって自ら田畑を耕すことなく農民に徒食するようになった武士階級に対し、自分の食べた以上を世に返している百姓こそが最も偉大な存在で、自分も生まれ変わったら百姓になりたいと語るほどだったが、彼は商人たちに対しても、彼らの商行為が決して差別されるようなものではないという商行為の倫理性を確立し、商人を蔑視されるような立場から解放する思想を打ち立てた。


 まず、彼は「売買の作業は、国中の自由をなさしむべき役人に、天道よりあたへたまふ所也」と言い、商人たちによって行われる「売買、流通」は、社会の不便さ・不自由さを解消し、社会に自由をもたらす大切な役割を持った営みであると説いた。

 そして、商人たちは「売買の作業」によって「国中の自由をなさしむ」べく、「天道から命じられた役人」であると言った。

 「心にあってわざになし」という正三の思想の原則は、封建差別から人々を解放し、四民平等をもたらす効果をも持っていた。


 正三はまた、ズル賢いと思われがちな商人たちの「得利(営利)」追究の行為についても、それを否定することはなく、商人たちがその得利を求めるにあたってまず、徹底した「正直さ」を求めた。

 正三は「まず得利のますべき心づかひを修行すべし」と説き、そして 「一筋に正直の道を学べし」 と説いた。


 正三は、「此身を世界になげうちて、一筋に国土のため万民のためと思ひいりて、自国の物を他国に移、他国の物を我国に持来て、遠国遠里に入渡し、諸人の心に叶べしと誓願をなして…此身を捨てて念仏し、一生は唯、浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨、欲をはなれあきないせんには諸天是を守護し、神明利生を施て、得利もすぐれ、福徳充満の人となり、大福長者をいやしみて、ついに勇猛堅固の大信心発て、行住座臥、則禅定と成て」ごく自然に成仏できる、と説いた。

 つまり、農民たちの行う農作業と同様、商人たちの商業活動も、余計な欲を持たず、正直さをもって一心不乱に仕事に打ち込めば、それによってやはり「成仏」ができると説いたのだった。



・「職人日用」


 職人たちも正三に、「後世ごせ菩提大切の事なりといへども、家業を営むにひまなし、日夜渡世(とせい)をかせぐばかりなり。何としてか仏果に到るべきや」といって救いを求めた。

 それに対し正三は、「鍛治番匠(ばんじょう)をはじめて、諸職人なくしては、世界の用所、調ととのふべからず」といって職人たちの仕事の必要性を説く。

 職人が一心に働けば、品々が限りなく出て世のためとなるが、これも一仏の徳用であり、それを行なっている者はありがたき仏性を具足しているのだとした。

 そして、「何の事業ことわざも皆仏行(ぶつぎょう)なり。人々《にんにん》の所作の上にをひて、成仏したまふべし。仏行のほか成る作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以ってしるべし」といって、やはり職人たちが日常行う労働が、そのまま成仏への道だと説いた。


 また、正三は、「後世ごせを願ふといふは、我が身を信ずるを本意とす。誠に成仏じょうぶつを願ふ人ならば、唯自身を信ずべし。自身を信ずるといふは、自身則ち仏なれば、仏の心を信ずべし。仏に欲心なし、仏の心に瞋恚しんいなし、仏の心に愚痴ぐちなし、仏の心に生死しょうじなし、仏の心に是非ぜひなし、仏の心に煩悩ぼんのうなし、仏の心に悪事なし」といい、「まず自己を信ずることが信仰の第一要件である」と説いた。



・「武士日用」

 「武士日用」では、為政者の立場から見た、仏教の必要性について論じられる。

 ある武士からの「武士問云。仏法世法、車の両輪のごとしといへり。雖レ然仏法なくとも、世間に闕べからず、何そ車の両輪に譬たるや」という問いに、正三は、

「仏法世法二にあらず、仏語に、世間に入得すれば、出世余なしといへり、仏法も、世法も、理を正し、義を行て、正直の道を用の外なし」と答え、「仏法則世法也」と説いた。

 正三は、仏法も世法も違うように見えても同じもので、道理を正し、道義を行い、正直の道を用いるために用いられるが、華厳経に、世法で成仏できるなら仏道に入る必要はないと説かれているように、仏法は人々が成仏するためのものとして必要だと説いた。


 また、正三は、「士農工商」の身分の違いについて、「鍛治番匠(ばんじょう)をはじめて、諸職人なくしては、世界の用所、調ととのふべからず。武士なくして世治まるべからず。農人のうにんなくして世界の食物あるべからず。商人なくして、世界の自由成るべからず。此の外所有事業ほかあらゆることわざ出来いできて、世のためとなる」といい、それぞれの身分を儒教(朱子学)的な上下・格差の差別意識で分けることなく、単なる職能上の役割の違いにすぎない(「職分仏行説」)ものだと定義した。


 山本七平氏によれば、正三自身に、聖職者否定とも受け取れる言葉がたくさんあるといい、そしてこれがおそらく現代にも通じ、われわれも世俗の人の中の宗教性には敬意を払うが、聖職者という職業人を、つねに少々うさん臭い対象として見る習慣になっているのではないかと指摘する。

 正三の言うように「世俗の行為は、それを修行とすることによって、宗教的行為になりうる」のであれば、これは、ある意味では聖職者の否定となる。農業が仏行なら、坊さんは不要になる。

 現代日本人の思考癖がみれば、正三の聖職者否定の感覚は、その後の日本人に実に大きな影響を及ぼしたように感じられると。




● 鈴木正三の思想のまとめ


・人間の内心の秩序と、社会の秩序と、天然自然の秩序は、一致しなければならない。そしてそれを完成するには、皆が内心の仏、即ち自らの内なる宇宙の秩序どおりにならねばならない。また、その障害となるのは三毒であり、この病いから身を守るには、医王である仏に従って、定められた健康法を守る事が必要。


・その健康法とは、各人が自らの業務を仏行と信じて、ひたすらそれを行なうことである。


・そして、それを行なうにあたっての基本的態度は「正直」であり、各人がその心構えに従って、世俗の業務という仏行にはげめば、その各人の集合である社会もまた仏となり、同時に、それによって造り出したものは社会を益し、巡礼のごとくに働いてそれを流通さすことによって各人を自由にする。


・そして最終的には、これによって各人の内心の秩序と社会の秩序と宇宙の秩序は一致し、各人は精神的充足を保って、同時に戦国のような混乱がなくなって、社会秩序が確立する。






● 石田梅岩


 石田梅岩は丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれ、元禄時代の1695年に11歳で呉服屋に丁稚奉公に出ると、その後の人生を商人として身を立てる。

 45歳のとき、商家を退職した梅岩は、自宅の一室で、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説きはじめるようになり、石門心学はやがて、弟子たちの手を通じ、京都、大坂、江戸という当時の三大都市はもとより、広く日本国中に広がり、武家・公家社会にまで浸透していった。




● 石田梅岩の思想


 山本七平氏によれば、梅岩の思想の世界観は、基本的には、世界観は正三と同じだが、「学問とは心を尽くし性を知る」という彼の発想、すなわち 宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させねばならないという発想は、梅岩の場合はむしろ、朱子学からきているという。

 正三も梅岩も「神・儒・仏」を「三教一致」の立場にたって互いに対立させることなく「断章取義」でそれぞれの世界観を構築したが、仏教を基本とした正三に対し、梅岩は儒教(朱子学)を基本とし、また「仏法をもって世法を治めんとするは、馬、駕籠にて海川をわたるに同じ」 として、この点では梅岩は、正三の考え方をはっきり否定していたという。



・商行為を「道」として定義し、倫理性の向上に努める


 石田梅岩が生きた時代は、元禄期に貨幣経済が発達して商業が大いに発展した時代から一転、停滞期へと突入した時期で、農民や武士たちの生活の困窮が進む一方、「外見には日本中武家の所領なれども、其の内実は商家の所領なり」 というほど富裕層と化した商人たちに対する道徳批判が強まっていた時代だった。

 商家は、当時の社会の秩序の中で一種、反社会的な存在と見られていて、梅岩は、これを当時の社会の中で、正当に位置づけようとして、その基本となる思想を求めた。


 梅岩は、商人たちの行う商業活動を、一つの「道」だとして、それは他の士・農・工と比べて何も変わるところはないと主張した。

 「商人ノ道卜云いえトモ何ソ士農エノ道ニかわるコト有ランヤ。孟子モ道ハ一ナリトノ玉フ。士農工商トモ天ノ一物ナリ。天ニ二ツノ道有ランヤ」


 「道」とは道家や儒家によって用いられる言葉だが、儒教における道とは、「人として踏まなければならないとされる行動の筋道。道徳、規範」の意味で用いられる。


 梅岩は、世間から受ける商人たち対する批判に耐えられるように、商行為の正当性と倫理性の確立を目指した。

 梅岩は、「商人ノ売買スルハ天下ノたすけナリ。 細工人二作料ヲたまわルハ工ノ禄ナリ。 農人ニ作間さくあいヲ下サルヽコトハ是モ士ノ禄ニ同ジ。 天下万民産業ナクシテ何ヲ以テ立ツベキヤ。 商人ノ買利モ天下御免おんゆるシノ禄ナリ」といって、商行為は人々の生活の助けになる必要不可欠な大切な行いであると主張するとともに、

それ汝独ひとり売買ノ利バカリヲ欲心ニテ道ナシト云ヒ、商人ヲにくンデ断絶セントス。なんぞ以テ商人計ばかリヲいやしメ嫌フコトゾヤ。汝今ニテモ売買ノ利ハ渡サズト云テ利ヲ引テ渡サバ、天下ノ法破リトナルベシ」といって、商人が得る利潤は正当なものであると訴えた。


 梅岩は、商人たちが商業活動を通じて獲得する利潤・利益・富について、それは決して不当なものではなく、武士が役目に応じて得る禄と同じく、商品を必要とする買い物客の求めに応じることによって得られたもので、欲心によって得たものではないと反論した。

 「わが禄ハ売買ノ利ナルユエニ買人アレバ受ルナリ。ヨブニ従テクハ、役目ニ応ジテ往クガ如シ。欲心ニアラズ」



・「道」の完成のため、「誠実・倹約・勤勉」さを追究する

 

 梅岩は、商行為の正当性や倫理性向上のため、商行為を一つの「道」と定める。

 欲のために商売をしていると思われないようにするには、「誠実」さが必要だという。武士が主君に忠誠を尽くすように、商人もまた「売り先」への誠実がなければ商人とはいえない、という。

 梅岩は、「すべて世の有様を見来るに、町家ほど衰へ安きものはなし。其の根源を尋れば、愚痴といふ病なり。其の愚痴がたちまち変じて奢となる。愚痴と奢と二なれどわかちがたきことを語るべし」と戒める。

 ここでいう奢りとは、いわば虚栄心のことで、例えば、町人がまるで武家のように「嫁を後室の奥のととなえ」させて、それで神社へ参ったりするとか、このような虚栄心はたちまちその者を破産させるであろうと説く。


 そして次に、消費者を第一とし、客に対して誠意を示すためには「倹約」が大事だと説く。倹約して原価を抑え、その分、売価(利益)を減らすような工夫に努め、それが客に対する「誠実」さとなる。


 そしてさらにその上で、梅岩は、ひたすら消費者に奉仕することを心掛けて、欲心を出すことなく、客への誠実さに努めたあとは、「奉仕に明けて、奉仕に暮れる」だけだと、彼もまた鈴木正三と同様、プロテスタントたちとまったく同じに、「行動的禁欲」に邁進するだけだということを強調した。

 そうすれば必ず栄えると説き、貪欲になると道をはずれるから、必ず倒産することになると戒めた。



・四民対等の教え


 梅岩は、「上より下に至り、職分は異なれど理は一なり」といい、彼は士農工商を一種の職分と見、その基本倫理は一つであると説いた。

 そして、「身を修るに何んぞ、士農工商のかはりあらん、身をおさむあるじとなるは如何。これ心なり」として、道を修めるために必要な条件は何をするかにあるのではなく、何をするにしても各人の「心」の持ち方に左右されるものだと説いた。


 山本七平氏は、梅岩のいう倹約とは、いわば自制の倫理であり、同時にそれが斉家、すなわち商家という企業体の秩序の基本になる考え方だと指摘する。

 利潤追求という欲心を自制して、ひたすら消費者に奉仕するという発想は対外的自制だが、それはいや応なく合理性の追求となり、その追求は対内的自制すなわち倹約になっていくと。

 そして、この倹約の姿勢は、鈴木正三の『四民日用』にも登場していない「消費の倫理」だという。

 当時、梅岩の倹約励行には多くの反対があったという。それは、倹約とはつまり吝薔ケチで、ケチで倹約するなら、それは欲心から出ているものではないか、という反対だった。

 しかし梅岩のいう倹約とは、「必要以外のものは身につけない」というピューリタンの倫理と大変似た発想で、決して欲心から出るものではなかった。

 梅岩にとって倹約とはむしろ、人の純粋な「本心」を曇らせる「愚痴」や「奢」(虚栄心)を抑えるために必要なもので、また、それが引いては国家・社会の安定につながる「大道」だと説いた。


 また、山本七平氏は、こうした梅岩の倹約に対する考えは、現代日本人にも強く影響を及ぼし、日本人に「浪費、贅沢は罪悪なり」という感覚が浸透し、「財界天皇」といわれるような人が質素な生活をしていれば、それだけでその人は社会的信用を得るといった状況を生むとともに、逆に、贅沢とみなされれば「池の鯉」まで非難されるといった風潮を生む原因にもなったと指摘する。




● 梅岩の教えのまとめ


・商行為は「天下ノたすけ」になる行為で、商人が商売をして得る利益は、武士が主家に奉公して得る禄と変わらず、商人のみが欲まみれで賎しいとされるいわれなどない。


・商行為を一つの「道」として確立する。


・宇宙の根源たる「道(理)」は万人に均しく天与されており、その天与されたものを「性」と言い、「性」は心の根本で、「性」に従い活動して止まぬ、素直な心「本心」に従うのが商人の道、人の道である。それを知るには「心」を尽くして「性」を知らねばならない。→「尽心知性」

 それには宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序を一致させることが必要。「愚痴」や「驕り(虚栄心)」や「私案する心(作為する心)」などの感情に左右されない「素直・善なる本心」にこそ、宇宙の真理が存在するのだから、自己の「本心」こそが最も大事になる。


・「道」の実現のため、「正直・倹約・勤勉」に努める。

 「正直」(誠実さ、まごころ)な心で客と接して欲心を持たず、「倹約」(合理化)に励んで利益の最適化を図り、あとは一心不乱に「勤勉」(行動的禁欲)に励む。そうすれば必ず栄えるようになる。


・身を修め、倹約に努めれば家がととのい、家がととのえば国家が治まる。「尽心知性」→「修身斉家治国平天下」


・「上より下に至り、職分は異なれど理は一なり」で、士農工商の身分の違いは職分の違いに過ぎず、また「身を修るに何んぞ、士農工商のかはりあらん、身をおさむあるじとなるは如何。これ心なり」で、道を修めるために必要な条件は何をするかにあるのではなく、何をするにしても、それは各人の「心」の持ち方次第によって変わる。












文章を見直しながら、修正していきます。

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