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日本の資本主義と欧米の資本主義の違い ① ~欧米の資本主義~

小室直樹氏の『憲法言論』、『宗教言論』、『経済学をめぐる巨匠たち』、『日本資本主義崩壊の論理―山本七平“日本学”の預言』、『日本教の社会学』などから、日本の資本主義と欧米の資本主義の違いについての解説。その①

日本の資本主義と欧米の資本主義の違い ①



◆ 欧米の資本主義




● 「近代資本主義」とは何か?


 「資本主義」とは、資本を蓄積して拡大再生産を繰り返していく一連のシステムの総称で、近代資本主義はひとたび整備されれば、自ら拡大再生産を繰り返し、成長し、発展を遂げていく。




● 「近代資本主義」発生のために必要な条件


 カール・マルクスは、「生産力」が高まり、「資金」が十分に蓄積され、 「商業」が発達したところに「資本主義」は生まれると語ったが、マックス・ヴェーバーは、資本主義(近代資本主義)発生のためにはそれらの要素に加えて、「資本主義の精神」が必要だと説いた。

 資金が蓄えられ、生産力が高まって商業が発達したとしてもそれだけではダメで、「資本主義の精神」がなければ、そこに資本主義は発生しないと。

 

 元手としての「資本」(前期的資本)は歴史が始まって以来、世界中のどこにでもあった。その意味では資本の歴史は、人類の歴史と同じくらい古い。

 マックス・ヴェーバーも、資本主義の条件は、既に産業革命よりかなり前から存在していたと分析している。

 例えば、大航海時代の英国。17世紀末には「バンク・オブ・イングランド」が設立され、18世紀には大航海時代へと突入したが、当時の英国では未だ産業革命が起こる前でありながら、既に馬では運び切れないほどの「生産力」があり、その馬に変わる流通網として運河を築くことのできる「資金」の蓄積もあり、運河に沿って活発な「商業」活動が行われていた。

 中国ではもっと早かった。中国では隋の時代から運河時代が始まり、宋代(日本の鎌倉時代)に最盛期を迎えた。中国の大運河時代における資金の蓄積は膨大で、元の時代にはもう紙の紙幣が流通していた。資金力も技術力も産業革命前の英国とは比べ物にならないほど高かった。


 ところが英国でも中国でも実際には、「生産力」「資金」「商業」の三つが揃っても、資本主義は発生しなかった。

 そこには何かが決定的に不足していた。そのことを唯一見抜いたのが、マックス・ヴェーバーだった




● 「資本主義」発生のために必要な「資本主義の精神」


 マックス・ヴェーバーが資本主義(近代資本主義)発生のために必要だと主張した「資本主義の精神」とは以下の3つ。


①、「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」


②、「目的合理的な精神」


③、「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」



 先ず、①の「労働そのもを目的とし、救済の手段として尊重する精神」とは、つまり報酬や昇進のために働いているのではない、ということ。

 だらかもし、金にもならなければ、あるいは出世にも名誉にもならなければ、働くこと自体が"無意味"だと考えるような社会では、資本主義は育たない。

 "働くこと自体"に、喜びや感謝、幸福が見出されなければならない。


 働く事自体に価値を見出し、喜びを感じる精神。自らの職業を「天職」と捉え、「行動的禁欲」をもって労働に邁進し、「伝統主義」を打ち破ろうとする精神こそが、近代資本主義の形成には不可欠だと、ヴェーバーは語った。

 「行動的禁欲」とは、あらゆる欲望をすべて押さえ込み、そのエネルギーを目的達成のために注ぎ込むという積極的(行動的)な生活態度、行動様式を指す。

 また、ここでいう「伝統主義」とは、単に良き伝統を重んじるというような精神のことではなく、ただ「今までやってきたから」という理由だけで、その是非・善悪を合理的に判断することなく正当化しようとする精神のことを指す。



 次に、②の「目的合理的な精神」とは、"計算可能な形で実現を図る合理性"のこと。利潤を最大化する計算ができるかどうか。

 つまり「複式簿記」によって経営がなされているかどうかが、近代資本主義における企業経営と、それより前の経営の最も大きな違い。

 近代資本主義より前の経営は「単式簿記(日本の大福帳など)」による経営だった。単式簿記では、お金の出入りは把握できるが、原価計算ができない。利潤を最大化しようにも、これでは儲かっているのかいないのか正確にはわからない。

 ちなみに、日本の国家財政ではずっと「単式簿記」で運営されていた。

 また「目的合理的な精神」とは、共産主義国においても不可欠なもので、共産主義下の経済は「計画経済」のため、利潤計算ができなければ肉的合理的な計画は立てられない。

 レーニンは、複式簿記は資本主義が共産主義に遺した最大の遺産だと語ったが、しかし結局それらの"遺産"が活用されることなく、ソ連は滅んでしまった。



 そして、③の「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」とは。

これは、現代人の感覚では、商売で利潤を追求するのは"当然"のことと考えられているが、実はそうではなかった。

 商売での利潤追求は現実的に許容されていたに過ぎず、近代資本主義より前の社会では、利子・利潤の追求が正当化されたことはなかった。

 利潤追求行為が正当化されていないと、どんなに一生懸命働いて稼いでも"後ろめたさ"が付きまとって離れない。

 

 中世ヨーロッパでは、利子を取って金を貸すことは犯罪とされていた。隣人愛よりも利子・利潤を優先させる行為は罪深き貪欲であり、キリストの教えに反するとしてカトリック教会が禁止していた。

例えば旧約聖書には、

 「あなたのところにいる貧しい者に金を貸すなら(中略)利息を取ってはならない」 (出エジプト記22:25)とか、

 「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」(申命記23:19)とか、

 「あなたの兄弟(中略)から利子も利息も取ってはならない」(レビ記25:35-37)などと記されている。

 これは聖書を共通の聖典とするユダヤ教やイスラム教においても同じだったが、ただユダヤ人だけは例外で、ユダヤ人の場合には、同じユダヤ教徒以外に金融業を営むのであれば戒律違反にはならないと考え、金融業を営むことを非としなかった。

 だだそのため、彼らは他の民族から激しく嫌われることとなった。


 ところが実際には、金貸しを禁止しているはずのカトリック教会自身が真っ先に律を破り、様々な抜け道を講じて富を蓄えていた。

 こうしたご都合主義はカトリック教会の得意とするところだったが、そこにプロテスタントが登場した。 

 プロテスタント教会は規律に対して非常に厳しい。そしてこの禁欲的プロテスタンティズムの中でも飛び切り厳格なのが「カルヴァン派(カルヴァンの説く予定説を奉じた宗派)」だったが、ところがこのカルヴィニズムこそが利潤追求の正当化、そして「資本主義の精神」の核となる「行動的禁欲」誕生に奇跡の道を拓いたのだった。

 彼らは、隣人たちが本当に必要としているものを生産し、適正な価格で市場に供給することによって得た利潤は、貪欲の罪どころか、隣人愛を実践したことの証明である、との解釈を示した。

 労働は、この隣人愛を実践するための行為、即ち自らの「救済サルベーション」の手段であり、その結果として利潤を獲得する。そして利潤の最大化を追求することは、むしろ倫理的義務であり、正義を遂行するためにも目的合理的に行動し、利潤の最大化に務めなければならないとした。


 しかしこれこそがまさに「資本主義の精神」そのものだった。


 ヴェーバーは、

「資本主義は、生産力と資金を背景に営利を追求してきた商業活動の延長線上に生まれたわけではない。むしろ、営利を追求する人々を徹底的に敵視したプロテスタンティズム、特にカルヴィニズムの反営利的倫理観の中にこそ、近代資本主義の原動力となる『資本主義の精神』は誕生し、育まれたのだ」

と語ったが、彼は資本主義萌芽の源を宗教の合理化、呪術・魔術からの解放に見出した。


 プロテスタントの予定説の真髄は「すべては神の栄光を増すため」で、プロテスタンティズムにおいては一心不乱に働いて利潤を皆で積み上げていくことが、この究極の目的達成のために必要な手段とされたため、だから彼らは懸命に働いて生産活動に励み、利益を積み上げていくようになり、そしてこの「行動的禁欲」に基づく「資本主義の精神」が、近代資本主義を生み出す原動力となった。




● 近代資本主義の精神を生んだカルヴァン派プロテスタント


 マックス・ヴェーバーが、近代資本主義を興すのに必要だと説いた「資本主義の精神」は、中世ヨーロッパにおける「宗教改革」の運動を通して生まれたカルヴァン派のプロテスタントたちによってつくり上げられていった。


 カルヴァンは、神にしかできない人の救済を、免罪符の販売などによって私したカトリック教会の腐敗を徹底的に批判し、その上で彼らは、一人の人間が救済に予定されているか、滅亡に予定されているか、それは全能者である神のみが決められることで、人間がいくらお賽銭をあげようとお祈りをしようと、そんなことで変わるわけはないという「予定説」を生み出した。

 神は絶対である以上、人間は何をしてもこの絶対性を動かすことはできず、人間が何かをしたことで神が動かされるのなら、神が人間の僕になってしまう。




● 教会での修業とは関係のない庶民の行う労働作業(「行動的禁欲」による労働)が、そのまま「神の教え」を忠実に実践した行動だとみなされるようになる


 ヴェーバーのいう「資本主義の精神」とは、懐を豊かにしたいと思う人々の貪欲さや営利主義から生まれたわけではない。

 「資本主義」は利潤追求の営みだが「資本主義の精神」は、おもしろいことに、利潤の追求をとことん敵視したプロテスタンティズム、中でも特に厳格な反営利的倫理観によって、意図せず生み出され、育まれた。

 というのも、キリスト教ではもともと利潤の追求は聖書で禁じられていたため、プロテスタントの宗教改革においても、個人の利潤追求や贅沢は徹底的に排除され、彼らはひたすら倹約に努めた。


 が、その一方で、プロテスタントの「予定説」では、すべての人間の人生はあらかじめ神が定めたもうたことで、自分たちの職業もまた、神が自ら選んでくださったものに違いないと考えたため、懸命に労働に励むようになった。

 その以前では、カネというものは自分の生活を支えるのに必要な分だけ、週のうちせいぜい一日か二日働いて日銭を稼ぐだけで、あとは家でゴロゴロしているのが普通だった。

 むしろ当時のキリスト教の倫理観では、必要以上にカネを稼ぐほうが悪徳のように思われていた。

 ところが「予定説」を信じる人たちは、神に休めと定められた安息日以外、猛烈に働くようになった。いや、働かずにはいられなくなった。


 旧約聖書を実際に見てみても、その『箴言しんげん』には、「なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる」などと、一生懸命働いて、その成果によって人は生活すべきであって、他を搾取して生活すべきではないということがたくさん書かれている。

 そこから、働き(労働)の成果を受けていることは、神の教えを守り、その恵みを受け、祝福されている証拠だという考えにつながっていった。

(カトリック教会は一般の信者には聖書の原典も見せないようにして、教義を独占していた。そのため宗教改革以後のプロテスタントたちは、教会ではなく、個人が直接聖書を見て信仰するスタイルへと変わっていった)


 「予定説」では、神によって定められた自らの職業を「天職」あるいは「召命」と呼び、神によって与えられた自分の仕事をよもや怠けるわけにはいかないと、人びとは一心不乱に労働生産に邁進するようになり、そうして「行動的禁欲」を獲得するに至った。

 ヴェーバーによれば、「天職」という言葉は、プロテスタント以前のヨーロッパには存在しなかったという。

 また、「労働することが修業につながる」という、このキリスト教独特の考えを、ヴェーバーは「行動的禁欲」と名づけた。

 ヴェーバーによれば、この行動的禁欲の考えは、パウロあたりから生まれてくるという。

 パウロはキリスト教の伝道をするために各地を渡り歩いたが、そんな自分の姿を古代オリンピックの陸上ランナーにたとえた。

 陸上ランナーは一等賞を得るために、すべての喜びを犠牲にして、ただただ走る。時分もまた、すべてをなげうって伝道するのだと。

 つまり、パウロにとっては伝道という天職をまっとうするために、あらゆることを禁欲していて、これこそが「行動的禁欲」というべきものだった。


 しかし、パウロのような行動的禁欲は、キリスト教全体でもプロテスタントが出てくるまでは、一部、修道院の中にいる僧だけに見られるものでしかなかった。

 彼ら修道僧たちは、毎日毎日、労働することによって行動的禁欲を行っていた。キリスト教の修道院では、修道僧たちがワインを作ったり、バターを作ったりしていたが、これはなにも自給自足のためだけではなく、「祈り、かつ働け」というのがキリスト教の教えで、働くことがそのまま救済になると、彼らの間では考えられていたのだ。


 が、この教会の外部(世俗外)で修道院の修道僧たちによって行われていた行動的禁欲行為が、プロテスタントたちによって世俗の内部へと持ち出されたことで、以後、信者たちは教会にいる時のみ禁欲的になるのではなく、実際の生活の場においても禁欲的な生活を心がけるようになった。

 また、修道院内で行っていた労働と同様、一般の信者たちが世俗の世界で行う労働が、そのまま神の教えの実践となる「行動的禁欲」へと変貌を遂げ、この、世俗外の教会で行われる行動的禁欲行動に対して、プロテスタントたちの行う修行的労働は「世俗内的禁欲」と呼ばれるものとなった。


 宗教改革以前では、例えば仏教で在家の信者たちが行う生活のための労働が修業になることはないように、キリスト教においても一般信者のただの毎日の労働が修業とみなされるような習慣は存在しなかった。

 カルヴァン派において初めて「労働=救済」とみなされる考えが出現した。それからは大工も鍛冶屋も農民も、自分に与えられた天職を一所懸命に行い、他の喜びをすべて禁欲するようになり、それこそが神の御心に沿うことだと信じられるようになった。


 人々が厳しく倹約に努める一方で、誰もが「行動的禁欲」により一心不乱に労働生産に励むのだから、彼らのもとには膨大な富が積み上げられていくようになり、やがてそれが「近代資本主義」へと発展していくこととなった。




● プロテスタンティズムが宗教を合理化し、資本主義の精神に「目的合理性」の精神を与えた


 また、プロテスタンティズムは宗教を合理化し、人々を呪術・魔術から解放した。

 この「呪術からの解放」こそ、「資本主義の精神」にとって不可欠なものだとヴェーバーは指摘する。呪術から解放されたことによって、初めて労働そのものを「救済」の手段として尊重する精神が生まれた。

 

 古今東西の宗教を見渡せば、いずれの宗教も呪術の開発にせっせと精を出してきたことがわかる。

 仏教も例外ではなく、仏教では労働も経営も厳禁でお金を稼ぐことができないので、生活の糧は信者からの布施に頼るしかない。

 そもそも仏教の教えでは、悟りを開くためにはひたすら厳しい修業に励むことが必要で、その他の行いは、生活のための労働活動でさえ認められなかった。

 だが、たくさんの布施を集めるためには、布施をすれば救われるということを示さなければならなかった。そうでもないと、誰もお金なんて出してくれないので。

 そのため、いつの間にか仏教では、家内安全、無病息災、商売繁盛に立身出世などなど。望めばなんでもパッと叶えるとアピールするようになった。本来は非常に合理的で、呪術など否定していた仏教も、そのような生臭い事情によって呪術を開発せざるを得なくなってしまったのだった。

 しかしこれでは、仏教から「資本主義の精神」は生まれない。


 また中国の儒教でも、儒教の呪術化によって「資本主義の精神」が生まれなかった。

 古代中国の宗教である「儒教」は、『論語』に「子、怪力乱神を語らず」とあるように、中世カトリックと比べても遥かに合理的な宗教だったのだが、ただ、中国では儒教学者が官僚になって国を治めていたものの、庶民が信じていたのは儒教ではなく「道教」だった。

 「道教」は、不老長寿の仙人を目指す神仙思想を備えており合理的な宗教だとはいえない。儒教は「怪力乱神」を語らないだけあって、死後の世界については一切教えない。

 ところが、普通の中国人の迷信には来世の世界がある。来世は現世とよく似ていて、現世の「科挙」の制度と同じような試験制度と階級がある。こうした死後の研究については圧倒的に道教が勝っていたため、儒教は手出しをすることができず、儒教を信じる高級官僚もこの道教を徹底的に排撃することはしなかった。

 儒教の精神は合理的だが、呪術的で合理的ではない道教の影響を受けたことにより、「行動的禁欲」を生み出すような徹底的な宗教の合理化をすることができなかった。


 一方、キリスト教のほうでも、キリスト教ではもともと神に仕える身の上の者でも労働することは認められていたため、そもそも信者からの寄付・寄進に頼る必要はなく、よって、呪術を開発する必要もなかったのだが、ところがカトリック教会は、世界中で呪術を最も盛んに使った宗教集団だといって過言ではないほどの、実に多様な呪術を編み出した。

 中世カトリック教会では、知識を独占するため信者たちに聖書を読むことを禁じていたため、本来の「教義ドグマ」ではなく、呪術によって大衆の心を掴むという道を選ぶしかなかったのだ。彼らは聖体拝領、聖遺物崇拝から悪魔祓いの儀式まで、彼らは何でもやった。

 そして、教会が「秘蹟サクラメント」という儀式(これも呪術)を行えば救済される、と説いた。中でも特に人気が高かったのが「懺悔ざんげ」だが、「包み隠さず告白すれば救われる!」などとは、なんともお手軽な呪術だった。

 労働こそが救済の手段であるという「行動的禁欲の精神」自体は、実は、カトリック盛んなりし時代にも修道院の中に存在していたが、これを修道院の外に、つまり俗世に広げたのがプロテスタンティズムであり、特にカルヴァン最大の業績だった。

 カトリック教会の宗教支配下では懺悔さえすれば救われたが、これに取って代わった禁欲的なプロテスタント教会による宗教支配は、中世カトリック教会の呪術性を排除し、宗教の合理化を果たした。




● プロテスタンティズムが資本主義における「利子・利潤を倫理的に正当化する精神」を確立した


 カルヴァンはこう考えた。

 利潤をむさぼるのは罪悪である。だが、隣人が本当に必要としているモノを自らの労働によって生み出し、「正直な価格」で市場に提供することで得た利潤は、貪欲どころか善行の結果だと。この場合の労働は救済はの手段であり、利子・利潤は隣人愛を実践したことの証であり、これを目的合理的な精神に基づいて最大化することは「倫理的義務」であると。


 これぞ「資本主義の精神」であり、営利を徹底的に排した強靭な倫理観こそが、利子・利潤に対する罪悪感を一掃し、であればこそ、資本主義がエンジン全開で動き出すことを可能にしたのだった。

 プロテスタント教会による宗教支配はおそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものであったにもかかわらず、その教えは当時興隆しつつあった中産的生産者階級(後に資本主義の精神の担い手となる人々)を中心にヨーロッパの隅々にまで広がっていくこととなった。











手直ししながら書き足していきます。

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