「今から見た過去」・「過去である今」
エミリー・ブロンテ「嵐が丘」を読んでいる。他の訳では挫折していたのだが、小野寺健の訳が最近出ていて、これは読みやすい。他の訳で挫折したという人にも、おすすめできる。
「嵐が丘」という作品は、指摘のある通り、未熟な感じの作品だが、作品を流れる情熱の火柱が太いので、さすがに古典になる小説と思わせる。ところでこの作品は語り口に、変わった方法が使われている。
話自体はキャサリンとヒースクリフという二人の悲恋ないし、ヒースクリフの復讐劇なのだが、これに対して傍観者の二人の人物が自分の口で語っていくというスタイルになっている。
通常の観点からすれば、三人称で書けば語りやすいだろうが、なぜかエミリー・ブロンテは凝った手法を採用している。エミリー・ブロンテに関する資料は乏しいので、どうしてそういう風に、語り手を作品内に置いたのかはよくわからない。強いて思いつくのは、伊藤計劃と同じようにエミリーが、「誰」が語ったかの「誰」がはっきりしていないと気が済まない性分だったのかもしれないというぐらいで、これも単なる推測に過ぎない。
小説というジャンルを考えてみると、結局は「語り」の技術であるという風に思う。三人称でも一人称でも、その視点から「語る」というのが問題となる。
ところで、語るというのは一体どういう事なのだろう? 三人称の場合、作品内部で起こっている事柄をある程度把握している必要がある。事件の渦中では、事件の断片しかわからない。その断片がつながり、一つのまとまった意味として見えてくる、そういう場所に立って始めて「語る」事ができる。「昔々、ある所に〇〇という子がおってな…」と語り始められるのは、語り手が事件を過去のものとして一望できる場合に限っている。
今言った場合では、語り手は全貌を知っている。ところが、語り手は同時に事件の渦中に飛び込む必要がある。語り手は、一人称でも三人称でも、その内部に飛び込んで、今この時、どんな心理が、どんな行為が起こっているか実況中継しなければならない。事件の渦中にいる語り手、それから事件の外部から事件を眺めている語り手、二つの語り手に分裂するというのが、自分などは小説を書いていて一番難しい事に思える。
これはもっと面倒な問題につながっていくかもしれない。シェイクスピアやドストエフスキーの作品内部で、予め、作中に作品全体の成り行きを予告する効果を与えている場合がある。ラスコーリニコフは事件後「こうなる事はわかっていた!」と叫び、「マクベス」では魔女が予知者として作品を導いてゆく。ここではどうやら、時間は過去→現在→未来と単純に続いているわけではなさそうだ。それというのはそもそも作者は、作品全体を予知していなくてはならないからであり、その作者の機能も彼らは作品内に埋め込んだと言えるかもしれない。
もっと考えてみよう。主人公が恋をしているとして、恋の行方は本当に未知なのか。それが未知だというのは、どういうわけか。…こうして書いていて自分で感じるのは、僕が、物語作品の作者にもとめているものは、作者の人生観であって、それは、時間を順に辿る効果を無化する要素がある。どういう事かと言うと、「人生観」というのは、人生そのものを外から眺めた視点であって、人生の只中にあって、未知のものにわくわくしたり期待したりする心性とは違う。人生観とは、人生をその外部から眺めるものだ。
だが、ここで問いが起こる。果たして人は人生の外側に出る事はできるだろうか? そんな事は可能だろうか?
ここに一つの矛盾が現れてきて、それ自体も人生観として作品内には織り込まれる事になるだろう。それは「悟りを開くのは無理だと悟る」のようなもので、結局は「悟り」である事に違いはない。ただ、話がややこしくなるので、元に戻ろう。
作者は作品全体の性格を知っていなければらない。主人公の運命を知っていなければらない。だが同時に、主人公だって、作者に対して抵抗する権利を持っている。主人公が自分は自由であり、あらゆる必然から逃れられる!と主張したらどうだろう。作者も主人公を縛る鎖にほかならない。そうすると整然としたストーリーは混乱し、物語は主人公の自由に委ねられる事になる。だが、全く自由なものを作者が統御しつつ、ストーリーを作るのは無理だろう。こうして物語は解体し、断片の連なりや、自己意識の煉獄のような、現代的な作品が現れてくる事になる。
さて、こうしてこの文章を書いてみて、自分でもなるほどと思ってしまったわけだが、これらは次のようにまとめられそうだ。
①作者は作品全体を統御しなければならない
②統御しすぎるとキャラクターが自由を奪われてただの駒になってしまう
③キャラクターの自由が行き過ぎると、作品を統一して一つの筋が与えられない
こうして三つに分解すると、良い方法はないかのように見えるが、書き出してみると、自分としては結構スッキリした。問題は、作者は物語全体を俯瞰で眺める必要があるのだが、キャラクターには未来は知らされていないという二点をどう統一するかという事にある。
いわゆる「どんでん返し」と呼ばれるものは、次に何が待ち受けているかという期待や不安、裏切りに寄りかかっている。「どんでん返し」は、全体を俯瞰する「人生観」とは無関係である。
今、自分が言っておきたいのは、時間というものの只中にある視点と、時間そのものを眺める無時間的な視点とがうまく交差し融合した作品が良い作品ではないかという事だ。人間は今を生きていて、未来はわかっていないが、同時により巨視的な視点からは人間というものの存在が浮かび上がってくる。カントは「理性の限界」を発見したが、これは今を生きる理性にとっては無限の未来からの視点として感じられるだろう。
それでも、限界があるとしても人は今というこの時間を生きるのをやめる事はできない。仮に神が人間の運命を決めていても、人は神になれず、人として未知の未来に向かって進んでいくしかない。その点に人間の悲しさがあるのだが、この悲しさを描き出す視点は神の視点に近い。このようにして偉大な物語作品は、神の視点と神になりきれない人としての視点をそれぞれの方法で融合している。その中を作品の中のキャラクターは生きる。
だが、そうした偉大な物語を現在に生きる我々は「今」の地点から振り返ってみる。その瞬間においてすべてだったものを過去として見る「今」が今この瞬間から始まる。この時に、「今」しか生きられぬ人間の悲しい物語が、あくまでも「我々の物語」として再び始まる。