愛シテル ~10年目の12月Christmas Eve
りく也41才 ユアン42才
クリスマスが近づくと、世間同様にマクレイン総合病院にも浮かれ気分が漂い始める。どの病棟に行ってもリースやオーナメントが飾られて華やかだ。
年中無休で忙しいE.R.にも、平等にクリスマスはやって来る。しかし飾りつけは他の病棟とは違い、二日前かイブの朝にようやくだ。一年間倉庫の隅に忘れられていた、クリスマス用と書かれたダンボールを、気が付いた誰かが持って来て飾り付ける。時には当日になることもあったが、誰も気にしない。世間の言うところのクリスマス休暇期間中、飾っておけば良いのだ。
「いい加減にこのモールも変えた方がいいんじゃないの?」
と、段ボールの中のくたびれた金モールを摘んで、チーフ・ドクターのカイン・バートリーが言ったが、言葉は空しく宙に消える。積雪による事故や流行り始めたインフルエンザで、いつも通りE.R.は忙しかった。ゆえに彼も箱を開けて見ただけで、すぐにお呼びがかかってモールを箱に戻すと、声の方に向かった。
「これ、どこに運ぶんすかね?」
搬入口で小奇麗な作業着姿の男が叫んだ。その後ろにはマットで厳重に覆われて台車に乗った、大きな荷物が見える。脇で二人の男が支えていた。
「ああ、突き当たり左奥のカフェテリアだ」
受付のメイスンが答えると、荷物は言われた方向に動いた。
ローテーションで来たばかりの医学生や、新参の看護師達が荷物を凝視する。独特のシルエットで分解されたグランドピアノだと知れた。
「あれはね、クリスマス・コンサート用のピアノだ。今夜、七時からカフェテリアで始まるんだよ。手が空いていたら聴きに行くといい。演奏者はユアン・グリフィスだから。まあ、行かなくても充分聴こえるけどね」
レジデンシィ四年目のロバート・ジャレットが説明した。
イブの午後七時よりE.R.のカフェテリアで、ピアノのミニ・コンサートが開かれるのが、ここ六年ほどの恒例だった。アメリカが誇る世界的ピアニストのユアン・グリフィスが、チャリティで演奏するのである。
その経緯は、やはりりく也絡みだった。十二月二十五日は彼の誕生日である。ユアンに有名レストランのディナーに招待されても、仕事を理由にりく也は断り続けた。誕生日だからと高級なプレゼントを贈られてもしかりである。で、ユアンが考えた末がこのコンサートだった。りく也の為の演奏は、結果的に患者やスタッフを慰め、また『黄金のグリフィン』が弾くとあって病院側は大歓迎だった。クリスマスに相応しい曲を演奏するという条件で、りく也もこのプレゼントを受け取ることにしたのである。
「ステキですねぇ、先生の為の演奏だなんて」
医学生のダイアン・クロスがうっとりと言った。
「だろう? なのにこの男ときたら、イブの日は一日機嫌悪いんだよ」
サブ・リーダーのジェフリーが、カルテを物色中のリクヤを指差した。
「イブは忙しいからだよ。だいたい祝われて喜ぶような年か」
りく也はお目当てのカルテを見つけ出した。何歳になったのかとダイアンが聞くので、ジェフリーが「四十二」と代わりに答える。
「いくつになっても誕生日を祝われるって嬉しいもんだけどな」
「俺は嫌なのさ」
そう言うとリクヤは患者の待つ診察室に向かった。
りく也の誕生日の記憶は八才で止まっている。母親と双子の兄と三人で祝った最後の誕生日。父に引き取られて以後、『誕生日』はなくなった。義母と異母姉妹達は、愛人の子供の誕生日になど興味がない。彼女達にとって十二月二十五日は、クリスマス以外の何物でもなかった。財閥主催のパーティーの陰にりく也の誕生日は忘れ去られていった。
「先生、今年のプログラムはなんですかね?」
患者の中にもこのコンサートの存在を知っている者がいる。たまたまイブに運ばれて聴いたことがあったり、常連だったり。口コミで広まって聴衆が増え、仕事に支障が出る前にE.R.の患者のみと限定されたので、わざとその時期を狙って怪我をする人間も出るくらいだ。これも忙しくなる要因になっている。
「私も知らないんですよ」
笑顔でやんわり答えはするが、会う人ごとにそれではいい加減疲れようと言うものだ。
担当する数人の患者を診察し、ようやく一息つけた頃、表の方が騒がしくなった。華やかな声も上がる。『黄金のグリフィン』の登場だろう。
(またうるさくなるな)
りく也は患者にそれと気づかれないようにため息をついた。
「センセイ」
日本語の幼い声に呼び止められて、カフェテリアの前を通り過ぎようとしていたりく也は立ち止まった。入りきらない人で溢れているカフェテリアの入り口に、吸入器を片手に持った少年が立っていた。
「やあ、君も聴きに来たのかい?」
五日前に運ばれて来た八才の子供である。父親のニューヨーク赴任で日本から着いてほどなく、環境の変化で喘息の発作を起こしてしまった。父親以外は日本語しか話せなかったので、担当したりく也に母親ともども懐いていたが、一昨日に小児病棟に移った。
「うん、すっごく有名な人なんだってね。ぜひ聴かなきゃってお母さんが」
両親は少し離れたところでカインと看護師長のエレン・ミレンと話していた。
「先生は聴かないの?」
「まだ患者さんが待っているからね、残念だけど」
「でも、この人、先生の恋人なんでしょう?」
ギョッとりく也が目を見開き、周囲を一瞬気にしたが、子供は日本語しか話せないので、誰も気づいていないようだった。
「えっと、それはどう言う意味かなぁ?」
「ピアニストの人と先生が恋人同士だって、お母さんがレイコおばちゃんと話してたよ」
(レイコおばちゃんて誰だよ)
「でね、お母さんは先生のこと絶対ウケだって言ったら、レイコおばちゃんはピアニストのおじさんの方がウケだって言って、言い合いになってたよ。先生に聞いたらいいのにって言ったら、お母さんたちには聞けないって言うんだ。先生はウケなの?」
どんな字を使うのか知らないが、りく也は聞いたことがない。
「知らないなぁ。何語なんだろう、日本語?」
「オタク用語だって、レイコおばちゃんが言ってた。お母さんとレイコおばちゃんはオタク友達なんだって」
オタクと言う言葉は知っている。アニメやら漫画やら何やら、とにかく一つのことに精通しているインドアな人間――と言うのがりく也のオタク考だった。しかしりく也には縁のない世界だったので、その解釈が正しいかどうか。
「おかあさんはもう一つ名前があって、『むろらん小町』って言うんだよ、あ、お母さん」
子供の言葉を適当に笑顔を浮かべて聞き流していると、両親がりく也を見止めて近づいてくる。子供の母親はおしゃべりだ。E.R.で加療中、英語圏でのストレスをりく也で解消しているのではと思うほどだった。E.R.で受けた治療の謝辞を彼女は一通り喋った。話が途切れたところで、『ウケ』の意味をりく也が尋ねようとした時、ワッと拍手が沸いた。まもなく演奏の始まる時間だ。
「あら、始まっちゃう。先生もお聴きになるでしょう?」
「いえ、私はまだ仕事がありますから、ほら、呼んでる」
サード・エリアから医学生がタイミングよくりく也を呼んだ。あきらかに母親の顔に落胆の表情が浮かぶ。りく也とユアンが恋人同士だと、八才の子供の前で話す彼女が、何かを期待しているのは明白だ。一般の患者にまで、楽しい話題を提供してやるつもりなんか毛頭ないりく也は、挨拶もそこそこにその場を離れた。
「終わった後で会いに行ったのに、どこに雲隠れしていたんだい?」
アパートに戻ったのは翌日の午前七時前。留守番電話が点滅していて、十二件のメッセージが入っていた。
ユアンのミニ・コンサートの直前に呼ばれたサード・エリアでは、医学生に宛がわれた脱肛の患者が、いきなり心筋梗塞を起こして大騒ぎだった。それからインフルエンザを移されたシニア・レジデントの代わりに、そのまま勤務を延長。とても演奏を聴きに行く時間はなかった。ミニ・コンサートが終わるとユアンがりく也に会いにくるのはいつものことだが、ちょうどその時分、りく也はICUへ移す患者について行ってE.R.にはいなかったのだ。
メッセージの最初十件は、ユアンのものだった。
「今日のプログラム、気に入ってくれたかな? 君は音楽に疎いから、毎年プログラムを考えるのが大変だよ」
(悪かったな)
どのエリアにいても、ピアノの音は聴こえてきた。マイクを通してあちこちのスピーカーから、流麗な曲が流れるのである。クラシックの難曲から慣れ親しんでいるキャロルまで。ユアンはどの曲をどんな気持ちで弾いたか、メッセージ八件に渡り語っていたが、「音楽に疎い」りく也は聞き流すだけだった。話の途中で録音時間が来て、あわててかけ直して続きを入れる様子は面白かった。
「出会ってから十度目の記念すべき誕生日だね。それを思うと感慨深かったよ」
(記念日とかイベントとか、女みたいなヤツだな)
りく也のこの感覚は、やはり日本で生まれ育った故だろう。アメリカでは恋人同士、夫婦間の記念日は大切にされていて、時には離婚の理由にされるほど価値を認められている。
「今回は救急車の出入りも少なかったから、録音状態も悪くない。CDの出来が楽しみだ」
毎年、イブのコンサートはライブ録音されプレスされる。『Your birthday』と名づけられたそのアルバムは、今まで五作を数え、リリースされるやビル・ボードのクラシック部門に春先まで君臨した。
どのCDもシリアル・ナンバーの一番はもちろんりく也の手元にあった。特別仕様にパッケージされたままだったが、何でもすぐに失くなる魔窟のようなリビングの一角に、不思議と身の置き所が確保されていた。それはユアンを喜ばせているようで、時々、嬉しげに見つめている。その様子は癪に障るが、音楽に罪はないので、毎回、素直に受け取り、その場所に並べるりく也であった。
「あまり働きすぎは良くないよ。君は少々ワーカー・ホリック気味だから。僕の言葉は聞かないことはわかっているけど、そこがまた良いところだ。愛してるよ。Happy birthday」
最後のメッセージは、一層に甘い声音でキザだった。女性、あるいはその手の男には、さぞかし魅力的に聞こえるだろう。しかしりく也は、何の感動もなかった。それにユアンには、モデルの恋人がいる。今ごろは多分、クリスマスの朝を二人で過ごしているだろう。電話で済ませているのがいい証拠だ。独り身の時は必ず、押しかけてくるので。
りく也を追いかけ回すわりには、ユアンにはいつも相手がいる。それが不快と思わないのは、彼が恋愛対象外だからだとりく也は確信している。。
(いい加減、それに気がついて、とっとと諦めてくれればいいものを)
きっと友人としてなら上手くやっていける。「愛してる」と言う言葉は自分には重過ぎる――甘く優しい声音で告げられるたびに、りく也の心に影が過った。彼を「愛してる」と言い続け、死んで行った女=母の影。
次のメッセージが流れ、聞き逃したりく也はテープを巻き戻した。
あれから十何年も経っていると言うのに。
(まだ俺を縛るのか)
自嘲の笑みで口元が歪んだ。
後の二件はマクレインからで、例によって患者の様態変化や、投薬指示の確認だった。返事の電話を入れ、PCの電源を入れた。
メール・ボックスに数件入っている。その中でサクヤ・ナカハラの文字を見つけると、まずそれをクリックした。
『誕生日、おめでとう。寝んでいるかも知れないから、メールにした。六月に仕事でニューヨークに行く。忙しくなければ、会いに行ってもいいかな?』
りく也の誕生日は、同じ日に十五分違いで生まれた兄・さく也の誕生日でもある。過った影は消え去り、兄の顔に変わった。ふんわりと、温かいものが胸に広がる。
時計を確認すると、七時を十分ほど過ぎていた。日本との時差は十四時間ほど、向うは午後九時を回ったくらいだろう。急がないと二十五日が終わってしまう。電話をと思ったが、クリスマス・コンサートか、もしくは加納悦嗣と出かけているかも知れない。
『誕生日、おめでとう。四十二才になってしまった。日本で言うところの厄年だけど、アメリカに居ても関係あるのかな? 六月の日程が決まったら教えてくれ。必ず空ける。お互いにとって幸せな一年でありますように。愛を込めて』
文面を読み返して、〆の「愛をこめて」を削った。これではユアンと一緒ではないか。
それでももう一度読み返した時、やはりその言葉は入れた。この世でたった一人の肉親。愛という言葉を贈る唯一の人間。愛を大盤振る舞いするユアンのそれとは違う。違うとりく也は思っている。
「さ、風呂でも入るか」
メール・ボックスを閉じてバス・ルームに向かった。また数時間後にはマクレインだ。万年人手不足のE.R.では、スタッフ・ドクターと言えどレジデントばりにこき使われる。貴重なオフは睡眠に充てねば。セックスも最近はご無沙汰で、勇名を馳せた頃は遠い過去になってしまった。性欲よりも睡眠を優先するところに、りく也は寄る年波を感じた。
蛇口を捻ってバスタブに湯が落ち始めると、りく也は思い出したようにPCの前に戻った。
インターネットを繋いで、日本の検索サイトを呼び出した。そして「オタク用語 ウケ」と日本語で打ち込む。昨夜、アパートに戻ったら調べようと思っていたことだ。検索にワードが引っ掛かって、いくつかのサイトが表示される。辞書と表記されたのを開けて、ア行に『ウケ』を見つけた。
「攻の対義語。セックス(男同士)の際に挿入される側。つまり女役」
簡潔な説明のその一文を読んで、りく也がフリーズしたのは言うまでもない。