エピローグ1
「このまま戻らなくていいのか?」
耳に入ってくるのはブルーイーグルとは違う、別の列車のエンジン音だ。
出勤時間と重なっているので人の数が多く、それに伴ってかなり騒がしい。二人の会話はわざわざ聞き耳を立ている者でなければ聞こえないだろう。
「構わないさ。ユリスは俺のことまだ怖がってるみたいだしな。そんなに悪いこともしてないと思うんだが、あの怯えようは何だ?」
「ファースト・インプレッション…第一印象が悪すぎた。もともと大柄なのも一因だろう」
それに関しては誰がどうすることもできない。仕方無いか、とダルタもため息交じりに苦笑いした。
「…ところで、他の奴らは?」
「みんな外で待ってる。あんまり人が多くて入る気になれないんだそうだ。今回はいろいろあったし、疲れてるんだろうな」
それは二人にも言えることなのだが、まだまだやらなければならないことは多い。ダルタも休むことなく出発することにしたらしく、今はその出発間際の挨拶といったところだ。
「悪かったな、付き合わせて。殆ど俺とフィストの問題だったのにみんなまで巻き込んでしまったことは申し訳ないと思ってる。ダルタが何か困った時は相談してくれ、力になるよ」
「そりゃ助かる、じゃあ機会があれば頼らせてもらうとするか」
ダルタの頼みとなると何をさせられるか分かったものではないのだが、今回アーミルは完全に下手だ。断ることなどできるはずもなく、ただ苦笑いを返した。
「それじゃあな。ファルとガルバートさんによろしく」
「ああ」
差し出されたダルタの右手。アーミルも右手を交わらせ、しっかりと握りあった。
「あ…アーミル」
ティリアの声には張りがない。他の誰よりも疲労がたまっているのだろう、アーミルを待ちながら壁に寄りかかって立っている姿はまるで眠っているかのようだった。ひょっとしたら立ったまま眠れるほど疲れていて、実際に寝ていたのかもしれない。
その横の方から、やはり重い足取りでリメールがアーミルに近づいてきた。
「……」
一瞬だけ口が開き、そしてすぐ止まってしまう。
「何が言いたいかはなんとなく分かる。けどまあ、そんなに気にすることはないさ」
「…ですよね」
こういうところばかりはリメールも頑固だ。周りの説得を聞いても一人で悩みを抱え込もうとするところは彼女の成長しない点だ。まだ割り切って受け止めることができていないようだが、アーミルはそれでも構わないと考えていた。
「…とりあえず、ヴェクスももう研究はやめることを約束してくれたんだ。目的は達成できたじゃないか」
「ユリスの正体は分からなかったけど」
「……ああ、そうだな」
言った本人のティリアは眠たそうな顔をしているが、その内容は相変わらず的を得ている。確かにユリスの正体はあそこでは見つからなかった。探す時間が無かったというべきなのだろうが、一部はアーミルのせいでもあるので彼に何か言い返すことはできない。
だが、それはもう誰も気にしていないことだ。ユリス自身が別にかまわないと承諾していたのも事実なのだ。
「…今回は、みんなにもいろいろ迷惑かけたな」
ダルタにも言ったことをその二人に対しても呟く。それぞれの様子を見ればどうしても気になってしまうのだろう。もともとアーミルは三人だけで行くつもりだったのだから彼の責任は薄いだろうが、アーミル自身が感じている責任感はそれが理由で軽くなったりはしない。
「気にしなくてもいいって!私たち仲間でしょ!」
明らかな疲労を見せていたティリアもそれに気づき、落ち込んだ様子を隠すように笑ってみせたが、もう遅いだろう。その無理な様子が逆にアーミルの自責の念を煽っている。
「まあ、そう言ってくれると俺も助かるよ」
言葉だけでその行動を擁護する。やりきれない様子でティリアも笑うのをやめた。
「アーミルさん…一番疲れてるのはアーミルさんでしょう?」
「……そうかもな」
それについては言葉を濁した。あまり深く語ろうとしていないようだ。リメールは更に何かを問おうとしたが、アーミルは逃げるように彼女と目を合わせないようにしてしまった。リメールも申し訳なさを感じて黙り込んでしまった。
「さて、見送りも終わったし」
アーミルの腕が真上に上がり、大きく伸びをしたことが分かる。
「そろそろ行こうか?」
「……」
二人とも頷いたが、見ていても分かるかどうかというほど僅かなものだった。
ベルトニアは要求を退け、頼みにしていたヴェクスは外部からの障害により失敗したという連絡が入った。つまりいよいよ、妹救出の道は閉ざされてしまったことになる。
それが分かることで、ハーゲンティは悲壮の渦に飲み込まれていた。彼はヴェクスを恨んでいるわけではなく、むしろ尽力していたことへの感謝の意を持っていた。仕方が無いという、ある意味仕方のありそうな言葉をハーゲンティはずっと自身に言い聞かせていた。
それで気が晴れるはずもないのだが。
妹の存在は、今はハーゲンティの生き甲斐と呼んでもいい。そして助け出す手段を見失ったことで、まるで生きる理由を奪われたに等しいほどの絶望感が彼に叩きこまれたのだ。
実験の失敗が分かって二日。最後まで頑張ってくれたヴェクスが王城に帰還し、数年ぶりの再会を果たした。そしてその時、ハーゲンティと会いたがっている人間が来ていることを教えられた。
そこは一国の王だ。どれだけ落ち込み、生きる理由を失っていようが、客の前で軟弱な様子を見せるわけにはいかない。ハーゲンティはすぐに接客用の服に着替え、自慢の銀髪に櫛を通した。会っているときに表情に何か表れないように気を引き締め、それから客間に入った。
背の低いテーブルと、それをはさんでソファが二脚向かい合う。観葉植物をいくらか置き、ここに入る者に爽やかなイメージを与えている。部屋に派手な装飾はなく、シックで落ち着いた配色が施されている。居心地がよく、ここに住んでも悪くないと思えてしまう。
椅子に着くと同時に、また溜息が出た。無意識に出たそれに気づき、慌てて気をしっかりさせようとした。
ふと、ハーゲンティの脳裏に最後に見た妹の笑顔がかすめる。
人懐っこく、素直で、人を疑うことを知らない性格だった。それが災いして攫われたのかもしれないが。
たとえ妹を攫われても、ハーゲンティは極力ベルトニアとの友好関係を保とうと尽力してきた。
研究の成功する前から、妹のためにベルトニアに強く詰め寄るという選択肢も彼には一応あった。それを選ばなかったのは、その後に発生するであろうベルトニアとの関係のヒビを懸念してのことだ。
ハーゲンティ個人としてはベルトニアへの怨恨は底を知らないほど深く、友好関係の放棄などリスクとも思わなかっただろう。しかし、一国の王として、そう簡単に他国との連携を断ち切ることがあってはならないのだ。彼にとってこれほど辛いものもなかったが、王の自覚がそれを同盟解除まででとどまらせた。
(お兄ちゃんのこと、大好きです―――)
妹の声の気配を感じ、孤独な兄の心からまた溜息が洩れた。今度はそれに気づくこともなく。
「…ああ…少しここで待っててくれ…すぐに呼ぶから」
扉の向こうに誰かいるらしい。二人…一人がもう一人に待つよう諭している。
「入ってどうぞ」
なかなか入ってこないので待ちかねたようにハーゲンティが呼んだ。それを聞き、すぐに一人の男が申し訳なさそうに扉を開けて入ってくる。
「どうも…すみません」
「はじめまして。私がハーゲンティ・エノクです」
この時のハーゲンティの表情はすでに雄大な王のそれだった。彼の憂鬱な感情を感じ取る余地はどこにもない。
「私との面会を御所望とか…」
「はい…はじめまして、アーミル・ローアンです」
アーミルはハーゲンティに話をしておかなければならなかった。それというのも、フィストとともに掲げていた目的を達成するためだ。
研究所の無力化は済んだ。第一人者であるヴェクスの説得も成功した。ユリスの正体も、すでに分かっている。これで『目的』の二つは達成したことになる。しかし『目的』は三つ。最後の一つ―――ある意味、最も大切な一つがまだ完了していない。
訣別だ。
どんなに単純な予想を立ててみても、ハーゲンティはいずれまた同じことに手を出す可能性も高い。理不尽に引き離された妹と再び会うためならば世の中の兄はきっとどんな無謀にもなるし、どんな悪事も率先して取り組むだろう。アーミル自身も、ティリアのことを考えればそれは決して堕落した人間ではなく、家族と会いたいと願う人間の起こし得ることなのかもしれないと思えた。
しかし、アーミルには義務がある。ハーゲンティにその行為の無駄を説き、連鎖を断ち切ること。もはやその必要がないと教えてやること。
つまりは、それがフィストの望んだ決別という名の終焉。
ヴェクスには口止めをお願いした。それはヴェクスに言ってほしくなかったからであり、自身で伝えなければならなかったからでもあり。
ハーゲンティはすぐに会ってくれるとのことだ。どんな顔をしているのか若干恐れたが、最初に目を合わせた時からまるで何の変哲もない雄大さを見せつけていた。そこは流石国王だ、とアーミルは一人感心していた。
「失礼します」
作り上げたような笑顔のままアーミルはハーゲンティの向かいに座る。ハーゲンティも人の良さそうなただの笑顔で返す。
「では…アーミルさん、早速ですが用件をお聞きしてもよろしいですか?」
心の中を隅々まであさるような瞳がアーミルに向けられる。国王という仕事がどんな人間を相手にどんなことをするのか、それだけでアーミルには何となく察しがついた。アーミルも職業の関係上そういった視線を浴びることには慣れているので気にしていない。
「それを話す前に…こちらから一つ確認しておきたいのですが」
ハーゲンティは無言でそれを待つ。
「あなたがセントヘイムで何を…いや、どんな研究をさせていたのかを」
「…」
笑顔のまま黙る。アーミルはあからさまに驚くことを予想していたのだが、ハーゲンティはそこまで分かりやすい生き方をしてはいないようだ。
「…あなたがそれを御存知であるということは、外部から入った邪魔というのは…」
アーミルは黙ってそれを肯定した。
「そうですか…」
「恨みますか?」
「個人的にはそれなりに、ですね。他人から見ればそれは止めるべきことだったのでしょうし…あなたを恨むのは筋違いというものでしょう」
ハーゲンティは予想をはるかに超えてあっさりとしていた。ひょっとしたら、どこかで自分の過ちに気づいて後悔していたのではないかと思えてくる。いずれにしても殆ど変化のない笑顔からは何も見て取れない。
「それは…妹さんのため?」
「…ええ」
妹という単語に反応したのは明らかだ。人の心の傷を抉る趣味はアーミルには無いのだが、ここは言ってやらなければならない。
「その妹さんは…」
「そこまで分かっているのなら御存知なんじゃないですか?ベルトニアに拉致されていると」
流石に少し怒っているようだ。それも仕方のないことだろう。
しかし、アーミルがここに赴いたのはそこから先が大きな理由となる。
「本当にベルトニアの仕業でしょうか?」
「え?」
聞き返す声はなかなか大きい。
「つまり、妹さんのいなくなられた原因はベルトニアではないかもしれないということです」
「…そんなことが?」
これにはハーゲンティも表情を変えて驚いた。それはつまり、今まで恨み続けていた相手が無実かもしれないということなのだから。
アーミルは矢継ぎ早に言葉を並べていく。
「ここははっきりさせてください。何故あなたはベルトニアが関係していると確信したのか」
「…父に、そう言われたからです」
母はどうにも話の聞ける状態ではない。知っていそうなのは、あとは父親だ。
「父上!」
ハーゲンティが来るなり父親―――フェラートは何かに脅えていたかのように体をびくりとさせた。
「…ハーゲンティか。どうした?」
「妹が見当たらないのです。知りませんか?」
「…それは…」
明らかに挙動不審だ。何か知っているとみて間違いはなさそうだ。
「父上、知っているんですね!?教えてください!」
揺さぶった。フェラートは目をそらしていたが、少し俯いた後に口を開いた。
「あの子は―――攫われた、そう、攫われたんだ―――ベルトニアに」
「……!!」
言葉を失った、では表しきれない衝撃だった。
何をどうしたらいいのか分からない。どうしてそうなったのかが分からない。
時間を置いて、その内容が彼の理性に沁みわたっていく。
「…なら、すぐに助けに…」
「ハーゲンティ」
慌てているハーゲンティに向けられた父親の一言は、彼の中の何かを打ち崩した。
「悪いことは言わん、妹の存在は…忘れろ。初めからそんな者はいなかった、そういうことにするべきだ」
「―――!?」
父親の言うことが理解できなかった。したくもなかったのだ。
怒り。それは確かな怒り。父親にぶつけるにしてもどこか筋違いだ。
ならば、何にぶつければいいのか?そんなもの、ここには無い。
「……」
そのあたりにある物に八つ当たりもできただろう。だが王家の血筋たる自分がそんなことをしていいのか。そう考えるとその感情を暴力に変えることもできず、彼の中には受けただけのストレス・絶望が凝縮されていた。
どこへ向かっていたのかは彼自身にも分からないが、大広間の中央階段の半ばあたりに来たところで、不意にそこに座り込んでしまった。脱力感と比喩した方がいいかもしれない。むしろそれは、何もすることのできない自身に対して。
「…なんで……なんで…!」
彼は何も悪いことをしていない。妹に関しては更に自身を持ってそう言える。なのになぜ、こんな目に遭わなければならないのか。
この世は理不尽だ。そしてそれを、自分は黙って受け入れなければならない。ハーゲンティにはそれがたまらなく悔しかった。
「どうしました?」
「……?」
先日の火曜日に聞いたような、そんな声だ。
顔をあげて見えたその人間は、自分の掛けている眼鏡を中指で掛け直していた。
「なるほど」
その話を聞き、アーミルは確信した。
「何がなるほどなんですか?」
「先王フェラートは…嘘をついたんですよ」
「…嘘、ですか?」
「何故嘘をついたのかはご当人が亡くなった今は分かりません。跡継ぎ争いを防ごうとしていたのかもしれません」
オルディアでは必ずしも男児に王位が譲られる訳ではない。最年長の子に歳の差が五つ以内の弟あるいは妹がいた場合、下の子の十の誕生日を持ってその子供全員に平等に王位継承権が発生するという、あまり賢いとも言えないシステムだ。
過去には同じように兄妹のどちらを次期国王とするかで大規模な抗争になったこともあるらしい。フェラートはそれを知っていて阻止しようとしていたのかもしれない、ということだ。
「そんな…馬鹿なことが…」
ハーゲンティの足は震えていた。何かとてつもなく大きな間違いにようやく気付いたような、得体のしれない恐怖におびえているような様子だ。そして暫くしてからはっとして顔を上げた。本当に明らかにすべきことが分かったようだ。
「それならば、妹はどこに…今はどうしているのでしょうか…」
最初の落ち着きは完全に姿を消し、貪欲に妹の行方を求める兄の顔になっていた。アーミルは自身の冷静さでそれを諌める。
「それですが…その日出かけたテッドフォースのどこかに捨てられたのだと思います。十五年近く前なので誰かに拾われているとは思いますが、この国から出てはいませんね」
「…そうですか…」
いつの間にか興奮したことで立ってしまっていたハーゲンティが、しっかりとそのソファに座り直した。
「アーミルさん…ありがとうございます、その話をしてくれて、そして私を止めてくれて」
その笑顔は本物だと、アーミルは分かっていた。
「アーミルさんは、わざわざそれを伝えに?」
「いえ…もう一つ大事なことが」
そう言うと、「ちょっと失礼」と断ってからアーミルは立ちあがって扉に歩み寄った。少し開いて外に首を出し、誰かを呼んでいるようだ。どうやらそれは最初に待たせていた人間らしい。
「し…失礼します」
入ってきたのは女性だった。銀色のやや癖のある髪はポニーテールにまとめられ、肩のあたりまで垂らされている。頭の頂点はアーミルの肩までしかないが、俯いていて正確な身長は分からない。
俯いていた顔が上がり、その赤い瞳と目が合った。やや悲しみを帯びている。
「妹さんの名前は何というのですか?」
「…名前、ですか?」
その質問の意図をハーゲンティは考えた。そしてすぐに分かった。
彼が何を言いたいのか。
「紹介します」
アーミルが答え合わせを始める。
「彼女の名前はリメールといいます」
「リメール…!」
「つまり―――あなたの実の妹に当たる人です」
それはアレムが事務所を出て行った直後のこと。
真剣な表情で対峙するアーミルとリメール。事前に脅しをかけすぎたせいか、もうその表情は怯えに似たものを感じ取っているようだ。
「リメール…ハーゲンティって知ってるか?」
「…ハーゲンティ?現国王のことですか?」
出てきた質問があまりに軽かったためか、リメールは急に安心しきったような表情になった。そしてその質問が間違いでないのか確認をしてくる。そして間違いないと確認すると、すぐにせっせと答え始めた。
「ハーゲンティ・エノク。言わずと知れた現国王で、今年二十五歳になるという若年王です。抜群の洞察力と行動力で安定した政治を続け、今なお支持率が七十パーセントを超えていますね。あまり目立った新政策などはありませんが、長年続いていたベルトニアとの同盟関係を解除しました。ちなみに、銀のロングヘアーと重厚な赤い瞳で若奥様方からの絶大な人気を誇っているそうですよ」
「…くだらないことまでよく知ってるなぁ…」
少し感心したようにアーミルが笑う。
「それで、その王様がどうかしましたか?」
「…リメールは、ハーゲンティの兄弟姉妹について何か知ってるか?」
「…そう言われても…私は一人っ子だと聞いてますけど」
未だに質問の本意が掴めないらしい。だがリメールを置いていかんばかりの速さでアーミルは続けた。
「一人、妹がいたらしい。そしてその存在は公には明かされず、裏の方でも六歳くらいまでの記録しかなかった」
「亡くなられたのでしょうか…でも、そんなに隠す必要もない気がしますけど」
「隠したかったんだ。たぶん、跡継ぎ争いの元になり得るから。だから一般の目には触れさせず、しかも六歳程の時に捨てたんだろう」
「捨てたんですか?」
「ああ。妹を捨てるのはフェラートの命令だったらしいんだが、もともとは殺す予定だったらしい。それを妃のホムリが何とか食いさがって捨てるまでにとどめさせたんだそうだ。ホムリはショックのせいで病気にかかってすぐに亡くなってしまったようだが…。で、肝心なのは、ハーゲンティがベルトニアとの交渉に乗り出したのがこの時、妹が姿を消した直後だってことなんだ。この妹のためにハーゲンティはユリスの関わってた実験を始めたのだとしたら、止める方法もそこにあるってことだ」
「…なるほど」
リメールもその意味を十分に理解し、更に自身の感想をまとめて述べた。
「つまりその妹さんが捨てられなかったとしたら、ユリスさんはその研究の実験体にならなかったし、それに関わった多くの人も死なずに済んだ…ということですか?なんだか悲しい話ですね」
この何気ない発言でアーミルは硬直していた。
「でも、その妹さんを見つけ出せば研究をやめさせられるかもしれないんですね!」
「…鈍いというか何というか…自覚は無いんだろうけど、すごくここから先が言いにくくなったな…」
「え?どういう意味ですか、それ?」
聞き返したがアーミルは答えない。リメールを若干無視しながら自身の話を再開させる。
「その妹も…兄と同じ銀髪の赤い瞳をしている。ただし、左肩の裏に月の形のあざがあるらしい」
「え…?」
アーミルの単調な言葉にそれほど刺激のある単語は無い。が、リメールは明らかに動揺を表に出していた。
そんなリメールに、無情にもアーミルが頼み込む。
「リメール、もしよかったら左肩を見せてはくれないか?」
「……」
リメールは黙っている。アーミルの心配するような顔を見ると俯いて何か考え込み始めた。
数秒ののち、後ろを向いて上着をそっとはだけさせ、その左肩を静かに晒した。
その曲線は、あまりに滑らかで、僅かで、そして残忍だった。
「捨てられたらしい日とリメールに会った日が一致するんで、もしやとは思ったんだ」
アーミルも伝えるのが辛そうだが、一番はやはりリメールのようだ。
突然リメールの両膝が床についた。泣きそう、というより唖然としているのに近いものだ。
アーミルが焦って助けに入る。
「リメール、大丈夫か?」
「…どうすれば、いいんでしょう」
声が震えていた。
「喜んでいいんですか……?私が捨てられなければ…いえ、私という存在が無かったら、たくさんの人が死ぬこともなかったんじゃないでしょうか…」
涙は素早くその瞳から零れ落ちていく。リメールの頬に月光を反射する細い筋が二本走っていた。
「落ち着け、リメール」
アーミルがリメールの頭を撫でる。顔を上げないまま、リメールはアーミルに抱きついた。
「うっ…うわぁぁぁぁぁ…アーミルさぁん…」
リメールはその腕の中で震え続けていた。ずっと昔に忘れてしまった子供の頃のように。しかしそれを笑う者は誰一人としておらず、逆に労わりの意を持つ彼女の仲間がその様を見守っていた。
アーミルは独り、帰路についていた。他の仲間は先に帰しておいたし、リメールは本人の承諾を得たうえでハーゲンティの下に置いてきたのだ。
これからどうするか、時間を掛けて考えたいということだった。
それにあの二人は実の兄妹なのだ。十五年のブランクもあり、話したいことだって山のようにあるだろう。リメールにとってそれは幸せ以外の何であるのか。
そう考えれば、以前彼女に自分は必要かと聞かれた時、アーミルは必要だと答えるべきではなかったのかもしれない。『必要ない』と言えば多少は傷ついてしまうだろうが、代わりに後ろ髪を引かれることなく彼の下に戻れるのだから。
たとえ『必要ない』のが嘘だったとしても。
帰りのバスの中、アーミルは心に空いた穴を吹き抜けていく風の冷たさを感じていた。
リメールとアーミル、ティリアは、殆ど兄妹のように育てられてきた。リメールを拾った時からずっとだ。なので、リメールのいなくなった自らの事務所を想像するとどうしても切なさが込み上げてきた。
無駄に大きく首を振り、その思いを振り切ろうとした。
どうすればリメールが幸せなのか、それが重要なのだ。
(こればかりは考えても駄目だ…リメールが自分の意思で決めることなんだから―――)
ますます暗くなった心境でいつもの扉をくぐる。
「ただいま」
返事がない。ティリアが突っ伏して寝ているのは見える。溜息をつき、荷物を置きに自分の机に向かった。
ふと、横の机にいかにも大事そうに置かれている女物のブローチに目が行った。彫られていたという菊の絵が見た目から全く分からないのは、それが中心部分から大きくひしゃげているからだ。そうやって大きくひしゃげたということは、そこにかなり大きな力が加わったことになる。そこまで頑丈そうには見えないが、あの衝撃を受けて耐えきったのはその様子からも確かだ。
よく割れなかったなと、アーミルにはそちらの方が驚きだった。割れていたならこれほど冷静にもなれていないだろうが。
「…寝ちゃったのかな?」
荷物を降ろすと、すぐに隣の寝室をのぞきに行く。人数が多くなり、寝床をちゃんとした数まで増やしたのでそちらの部屋には全員分のベッドが並んでいる。
すぐ目の前のシーツがもそもそと動いた。髪の毛が乱れてシーツと絡まりながら広がっている。どうやら、そこに女の子が寝ているらしい。どんな寝顔なのかと覗き込んでみる。
「…リュナって案外寝相が悪いんだな」
その顔は、やはり無表情に近いものに見えた。
溜息を一つ。それからどんな姿勢で寝ているのか確認し、ひょいと抱きあげてベッドに真っ直ぐ寝かせ直してシーツをそっと掛けた。手を離した途端に勢いよくシーツを跳ね飛ばしたが。
「やれやれ…やってやるだけ無駄らしい」
アーミルはそれ以上世話してやるのを諦め、他のベッドを見回した。
明かりをつけていないので殆ど真っ暗だ。シーツの中に人が潜り込んでいるかくらいしか判断がつかない。
もう少し奥に、盛りあがったシーツが見えた。そこにも人が寝ているようだ。
「あ…やっぱりな」
『それ』を確認すると、アーミルは音をたてないようにそっとそれに近寄る。
ベッドは他にも沢山あるのに、わざわざ一つに集まって。
あからさまに仲良く。
「…あーあ、ほんとに羨ましいな」
ユリスと、フィスト。
二人並んで、笑顔で寝息を立てていた。
お疲れ様、とアーミルの放った小さな一言も、二人にはおそらく聞こえていない。
更新が遅れて申し訳ありません。
残すところエピローグ2のみとなりました。長かったような短かったような、いろいろ好きなようにやらせてもらってとても楽しんで書いていたような気がします。
読んでいて好きなキャラなどがいれば、教えていただけるととても嬉しいです。あと一話なので、最後までお付き合いお願いします。