5話 蠢く夜
目が慣れてきていた。影だけとはいえ、天井がよく見える。ただ、それは何もない暗黒とも見て取れる。
いつもより高い天井。片付け終わった床の上に布を敷いて横になっていた。ベッドは一つしかないし、一緒のベッドに寝るわけにもいかないのだから仕方がない。
先ほどの短い会話はフィストに妙な感覚を残していた。
小さな声でフィストもほとんど聞き取れなかったのだが、ユリスは「これが嬉しいってことなんだ」と言ったのは聞こえている。更に決定的なのは「嬉しいって初めてだったから」というその後に続けた言葉だ。
内容から察するに、彼女は「嬉しい」という感情を今まで知らなかったのだと思われる。
今さっきの会話で初めてそれを知ったのだろうか。普通の人間が普通の生活をしていればそんなことはまずあり得ない。
よって、彼女の関わった「生物錬成」の実験が要因としてあがってくる。
「まさか、実験の代償で感情を…?」
そんなわけない、とフィストはすぐさま否定した。
錬成の実験がどんなものかはフィストの知るところではないが、人間の感情を奪って何ができると言えば、何もできるはずがない。
ならばなぜ、彼女の感情が欠落しているのか。
そんな考えがぐるぐるとフィストの頭をめぐっていた。当然ゴールには辿り着かない。
そして自身でも気付かないうちに、静かに、深い眠りへと落ちていった。
部屋には小さな寝息だけがよく響いていた。
恐らく誰も起きてはいないだろう深夜。そしてそれにかかわらずたった一つ光る窓。人の影が動く。
温かみのある絨毯の上に革靴が二足立っている。
一足は落ち着かない様子で右と左を行ったり来たりしている。絶え間なく継続するそれを、もう一足が溜息混じりに止めた。
「お前なあ、もう少し落ち着いて待てないか?」
「落ち着いていられるか!書類だけならまだしも、被験体まで損失したんだぞ!」
「だからってそう動きまわってれば事態が好転するわけでもないだろ」
そこでようやく動きが止まった。革靴は落ち着きを取り戻したように額の汗を拭き、スーツの乱れを直した。顔を見合せて、一瞬の殺気が交差する。
ちょうどそこで入口の扉が開いた。
もう一足…こちらの二人よりも遥かに体格のいい巨漢の革靴が入ってきた。つばの広いブラウンの帽子を深くかぶり、顔は分からない。
「待たせたな」
重みのある声だ。簡単に二人の顔を見た後、ゆっくりと窓の方へ歩いて行く。
「それで、盗難に遭った書類と脱走した被験体の件だが…」
巨漢が顔を二人に向けた。僅かに見えるごつごつの顎の輪郭線から威圧感を感じさせる。
「は、はい!えーっと・・・」
部屋の隅に立てかけてあった鞄から、一人が慌てて一枚のメモを引っ張り出した。
「まず現状ですが、実験は順調です。このままいけば、おそらくあと数週間で最終テストを完了できるかと」
再び額の汗を拭った。巨漢から放たれる威圧がより一層汗を噴き出させている。
「しかし先日何者かが研究所に侵入しまして、王室への報告書を盗まれました。更に今朝、例の実験の被験体が脱走しました。その都度追手を送り込みましたが、いずれも見失っています」
「なるほど」
「マスコミへの漏洩を危惧しまして各新聞社等に監視をつけていますが、今のところそのような報告は…」
「報告書を盗んだのは」
言葉をさえぎるように巨漢が喋りだしていた。
「フィストという少年。被験体も同時に彼の元にある」
抑揚を一切付けていない。おかげでますます震えあがりそうな声に感じられる。
二人揃って唖然とした顔をし、暫時は空間が固まったと錯覚するほど全てが停止した。それから片方が感づいたように返事をした。
「わ、分かりました!早速その少年の住居へ捜索員を送ります!」
「ああ、最後に」
逃げるように部屋を出ようとした二人を巨漢が止めた。そして「生死は問わない。漏洩の防止が最優先だからな」と付け加えた。
「分かりました。情報ありがとうございます!」
二人の姿は慌ただしく扉の向こうへ消えていった。
遠くなる足音を聞きながら、巨漢の視線は窓の外を向いた。
こぼれた黒い絵の具があらゆる物の形を分からなくさせている。息を吐くと、白い曇りがその様子を覆い隠す。
なんとなく、独り言が漏れた。
「ヴェクス…これで本当にいいのか?」
(ん…?)
気がつくと、真っ白だった。決して間違った表現ではなく、本当に真っ白以外何もないのだ。世界が白くなったのか、自分の目が白くなったのか、判断はつかない。とにかく彼は、その中に横になっている。
ああ、これは夢だ、とフィストは気づいた。体の感覚が変で、あまりにも現実離れしたその空間は夢以外の何物でもない。
可笑しくなったのか少し笑い、それから起き上がった。
立っているのに体の感覚は横になっている。それもまたフィストの笑いを誘った。
辺りは霧がかかったように白く、一メートル先はもう見えない。とはいっても、一メートル先がどこだか分からないのだから本当は見えているのかもしれないが。
そもそも、横だけでなく下まで真っ白いのは理由が不明だ。今にも下から手が出てきて引きずり込まれてしまいそうな感覚を覚える。
が、これは夢なのでフィストにとってもどうということは無い。
静かだったのだが、遠くから賛美歌が響いてきた。
初めは遠慮がちに、そしてだんだんはっきりと。
そしてそれとともに、何かが近づいてくる。
目を凝らしてそれをよく見てみた。
女性だった。腰まで伸ばしていた長い髪、二重の少し垂れた目、細い腕。優しげで清楚な顔が、大らかな視線をフィストに向けていた。
移動を止め、にっこり微笑む。それは、まだフィストの記憶にも鮮明に残る顔立ちだった。
母親、だった。六年前、この世を去った。
チュニックは着ていないが、お気に入りのブラウンのTシャツを着たままずっとそこから動かない。
フィストは、駆け寄って抱きつきたかった。しかし、足が何かに縛られたように動かない。呼ぼうとしたが、声が出ない。せめて夢だけでも、そう思っても、二人の間は縮まらなかった。
ただ彼女はずっと、こちらに笑いかけていた。
彼女の視線がフィストからずれた。夢の中でもそれははっきりと確認していた。
少し前を見ているようだ。その先を、目で夢中で追った。
ブラウンの服、ブロンドの髪、空色の目。
そこに立っているのは、ユリス。
母親に視線を戻す。それを聞くような顔をすると、母はにっこり笑った。
言葉こそないが、フィストは何を自分に言いたかったのかすぐに理解した。
フィストも何か言おうとしたが、唇が動いただけで何も音にならなかった。
そのまま、彼女の姿は消えた。白い中に霞み、そしてゆっくりと、見えなくなった。
たった一つと思われた暗闇の街の中の明り。しかし、街はずれの小屋…傾いた倉庫のようなそれの窓から、僅かな光が漏れていた。
揺らめくランプと、その光を受ける影。
刃物を研ぐ定期的な音が、不気味な雰囲気に更なる味わいを添えていた。
二十センチはあるナイフ。気がつくと、それはもう短剣のような鋭い色を見せていた。揺れるランプの光を鈍く反射し、その喉の渇きを表しているようだ。
研ぐのをやめ、刃をまじまじと見つめる。
「明日は…まあなんとかなるか」
落ち着いてそういう彼の顔は哀しそうでも楽しそうでもなく、無表情だった。その本心が外の闇に覆い隠されてしまったかのように。
ほんの小さかった風の流れたち。今にも一つになり、颶風となって地上を荒そうとしている。