51話 研究所『弐』
大量の椅子が引きずられるような音が振動となって伝わってくる。それにより、二十分というあまりにも長い僅かな時が過ぎたことが分かった。三人は顔を合せ、同時に頷く。
しばらくは何かを引きずったりするような音が聞こえていたが、すぐに耳から分かる程度の人の気配は消えた。
「よし、行こう」
久しぶりに聞いたアーミルの肉声はいやに重々しく、慎重さを醸し出している。そしてその雰囲気のまま、何かに恐れるようにゆっくりと扉を開けた。
自分の心拍数の大きさを、フィストはこの時とてつもなく強く感じていた。
廊下は何も変わっていない。相変わらず白く、そして長い。それでもやはり二十分前とは明らかに違っていて、得体の知れない何かがそこら中に蠢いている。逆に全てが変わってしまったかのように、その『何か』は確かに存在している。
「走るぞ!」
アーミルがそう言ったが、彼自身も含めてすでに走り出していた。
「……」
「フィスト、大丈夫か?あまり気張らないでいいぞ」
走りながらダルタが励ましの言葉をかけた。彼は特にフォームが崩れるでもなく余裕のある走りを見せている。それに比べ、フィストの余裕は皆無だ。前を行くアーミルの背中を追うのに精いっぱいで、足取りも不安定に走り続けている。
「…地図は頭に入れておいたつもりなんだが…」
先頭でアーミルが何かつぶやいたが、後ろの二人には聞き取れなかった。聞き返すつもりもなかったのだが、逆にアーミルから言葉が飛んできていた。
「対象は人間だ。特定の場所にいるとも限らない。一応そいつの部屋は抑えてあるからそこに向かっているんだが…そこにいなかった場合、この研究所のどこに行けばいいのかは分からないんだ」
「…まあ、大丈夫だよ。きっとなんとかなるよ」
聞いている側としては、もうその部屋にいるのを祈ることしかできない。曲がり角や扉は何の特徴もないため、後の二人が道を覚えることはほぼ不可能だ。
道標となっているのは前のアーミルだけなのだ。
後ろの方で誰かが叫ぶのが耳に届いた。流石にいい加減気付かれても仕方ない頃だろうと、半ば諦めに近い溜息が三人から何となく洩れる。一瞬後ろを見ただけでもこちらに向かってくる研究服の姿が確認できた。今はまだ一着だけのようだが、これから増えるのはまず間違いない。フィストの走りはふらついているのでその映像は乱れ、位置関係すら掴むことは出来なかったが。
「っあ…!」
「…フィスト!?」
前を向こうとして、足がもつれて見事に転んだ。二人はそれにすぐ気付いたが、全力で走っていたのだからすぐに止まれるはずもない。たちまち研究服が二人より先にフィストに追いついてしまった。
「動くな!」
銃口がフィストに向けられる。同時に残りの二人にももう一丁の銃で狙いを定めているので近づくことすら叶わない。隙がなく、ダルタもアーミルも完全に動きを封じられた。
「わざわざ戻ってくるなんて馬鹿なやつだ。こんな下衆に我々が振り回されていたとは情けない」
倒れたままの姿勢で銃を突き付けられ、フィストは身動きが取れなかった。伏せっているので目で確認はできないが、死が目の前に構えているはずだ。
しかし今のフィストには、恐怖という感情は不思議と存在しなかった。
奇妙な思いがフィストの中で交錯する。
―――この状況、『あの夜』の続きなんだろうな。本当ならあそこで捕まって殺されてただろうに、多くの人と出会って、助けられて…そんな人たちを犠牲にして、ここまで生きてしまった。殺されるのがその罰なのだとしたら、受け入れるのも悪くないかもしれないな。
ああ、今までアーミル達と過ごしてきたあの日々は僕にとって何の意味があったんだろう。一緒にいて楽しかったし、ずっと一緒にいたいと思った。けど、もう死んでしまうのにそんなものに意味があったんだろうか。あったとして、それがなんだというのだろう?
別にどうでもいいか。もう死ぬんだから。
ファルさんに鍛えてもらったけど、あんまり活かせなかったなあ。
…そういえば、ユリスに絶対死なないって約束したんだっけ。
ごめんユリス。約束、守れそうにないや。
フィストは一瞬、寂しそうに笑った。
誰かが研究服の肩をたたく。
「じゃあ、ひとつ聞いていい?」
ぎょっとして振り向く。
「そんな下衆にやられる気分って…」
刹那。
「どんな感じ?」
「なっ…がぁっ!」
鋭い拳が言葉を潰し、頬を深く抉った。口から血が洩れ、空中で半回転した後倒れた。すぐに立ち上がろうとしたが、体を起こそうとしたところで別の銃口が彼へと向けられて動きを止めた。
「声はあげないでくださいね」
悪魔のように優しい笑顔はある種の恐怖を植え付ける。研究員が自分の置かれている状況をようやく理解するのと同時に、縄を持った小さな影が現れて縛りあげ始めた。
他に研究服の姿はなく、固まっている二人を尻目に場は落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
研究服を殴り飛ばした長い茶色の髪がアーミルにゆっくり振りかえる。
「ふふん、大丈夫だった?」
ティリアが自慢げに笑った。顎をゆっくりと撫でるその様は救世主としてはあまり見栄えのいいものではなかったが。
「テッ…バカ、お前待ってろって言ったろ!」
「私たちが来なかったら今危なかったよね?」
「う…」
つい先刻何も出来なかった自分が思い返され、アーミルは反論のしようがなくなってしまう。リメールがそれにさらに追い打ちをかける。
「それに、様子を見てくるって言って何十分も戻ってこなかったのは誰でしたっけ?」
「ぐぅ……」
「アーミル」
「…すまん」
それが精一杯の一言だった。
「ま、これでおあいこってとこかな」
「ん…あ、ありがと…」
ティリアに助けられながらフィストはようやく立ち上がり礼を述べたが、ふと自分に向けられている視線に気づいた。
一通り縛り終わったユリスが今にも泣きそうな顔をしてフィストを見つめている。そしてフィストと目が合うとその顔から一変して怒りを露わにし、フィストに詰め寄った。
「……」
「…ユリス…」
「……」
不機嫌な表情がフィストには何より痛い。
「……」
「…心配したよ」
怒鳴るでもなくそう言い、すぐに下を向いてしまった。
「…ごめん」
俯くユリスにフィストは何を言っていいのか分からなかった。ついさっきまで死を受け入れる心境だったフィストに何か言う権利は無いのかもしれない。
「約束を破りそうになってたからな、平謝りだろ」
「ダルタも何も出来てなかったじゃない」
ティリアに睨まれ、ダルタもやりにくそうに苦笑いした。
何故かしんみりしたその場の空気を、遠くからの足音が引き裂く。
「…おっと、こんなことしてる場合じゃなかったな。…三人も早く」
「最初からそう言ってればよかったんだよ」
そのやり取りを最後にふざけ合いをやめ、それぞれの表情が一気に引き締まった。そして全員がまとまると、風のように駆け出していた。
突き当りにある一つの扉の前で先頭のアーミルが足を止めた。その扉はこれといった特徴もないが、扉の斜め上に珍しくプレートが掲げられていて『資料庫』とされていた。アーミルが後ろに振り返り、指で合図を送る。
「ユリス、調べ物ならここだ」
ユリスがあからさまに嬉しそうな表情になった。それも、後ろに姿の確認できる研究服を思い出してすぐに引き締まったそれに戻る。
「…仕方ねえ、俺があいつらの気を引いてるから、その間にややこしいこと決めといてくれ」
人数が多くなっているため、あまり機動力はよくない。ダルタの腕を知っているらしいアーミルやティリアはそれに反論せず、「すまない、頼む」とだけアーミルが言った。あくまで撹乱するだけのつもりらしく、持っているはずのナイフは取り出さない。両手のこぶしを握りしめ、数の増えた研究服の方へ飛び出していった。
「さて、早急に今後のことを決めよう」
彼の言う『ややこしいこと』とは、すなわち人員の分配。
誰が何をするのか、計画なしに大人数が動いていればすぐに破滅の道をたどることになる。
「そうですね…どうしましょうか」
リメールが呟く。時間が無いのもそうだが、簡単に決めにくいのもまた事実だ。少なくとも女性三人はそう考えているようだ。
「まず、勢力は二つ。ここでユリスのことを調べる班と、敵の親玉を探す班」
早口にアーミルが状況を整理する。だがあまり考えた様子もなく、矢継ぎ早に結論を述べ始めた。
「親玉とぶつかるのは、俺とフィストは絶対だ。…俺たちはいろいろと借りがあるからな。それから、ユリスは勿論自分のことを調べたいんじゃないのか?」
フィストと一緒にいたいという気持ちもあったのか、ユリスは一瞬悩む仕草をした。それでも彼らの状況や気持ちを察したらしく、小さめに首を縦に振った。
「あとは…分かってるな?まあ敵が来ないとも限らない。いざとなったらユリスを守ってほしいんだ」
残った二人と目を合わせる。合流したばかりとはいえ、これ以上危険なところを任せたくないという気持ちが二人にもよく伝わっていた。またしてもアーミルに与えられた待機のような扱いに対しても、二人は異論を唱えようとしなかった。
「…早めに見つかったら、加勢に行くよ。まあ余裕があればの話だけど」
「…ありがとう」
アーミルが頭を下げた。時間がないことを焦っているのか、言葉での返事をしないままティリアがすぐに扉を開く。中に誰かいたとしても不意さえ突かれなければティリアの敵ではないだろう。
「…失礼します。お二人とも、頑張ってくださいね」
続けざまにリメールも中に入る。残されたのは、あとはユリスだけ。
「……」
何か言いたそうにフィストを見ている。
フィストは何も言えない。先刻のことをまだ怒っているのかもしれないし、フィストの身を案じているのかもしれない。出会った当初のような感情のない顔をしていて、フィストにその心境をくみ取ることはできなかった。
そして黙ったまま、ユリスも扉の内側に消えた。
「…ユリス…ごめん…」
扉に向かって言っても、彼女に届くわけではない。
「謝るのはいつでもできる、もう行くぞ」
廊下の先の方には、『気を引き付ける』の域を逸脱した暴れようのダルタが確認できる。彼を戦闘班にするか調査班にするか、彼に聞いた時にどう答えるかは目に見えている。
「敵の目もなるべくここから外したいし、適当に目立つ必要もあるな。もう十分目立っている気もするが」
「大丈夫かな、大将を見つける前にやられないといいけど」
「その意味でもダルタは戦闘班に連れて行くべき、だと思う」
「僕も」
意見がまとまったのを確認すると、未だ奮闘しているダルタの方へ走り出す。二人の目にはとても彼には心配する必要があるようには見えなかったが。
「ダルタ」
アーミルの声に、動きを鈍らせないまま顔がそちらへ向いた。
「お、決まったかい?ま、聞くまでもなさそうだがな」
「ああ、敵将を叩くのは変わらず、俺たち三人だ」
「……そうか」
一部の研究服がアーミルとフィストに気づき、二人にも銃口を向けようとしてくる。ダルタがそれらを残らず叩き伏せているので銃弾は飛んできそうにない。
「敵の気を引きつけつつ奴を探す。時間との勝負だ」
どこに向かえばいいのか、知っているとしたらこの三人ではアーミルだけだ。彼がどこまでこの研究所の情報を得ているのか、頼れるのはそれだけなのだ。標的が思い通りの場所にいるとも考え難いので、そうそうすぐに見つかるとは思えない。
それでも、退くことはない。ただひたすら前進するだけ。
何があろうとも、彼らがその場所に縛られることはもうあってはならないのだから。
彼ら自身がそれを望んでいないから。
「…ねえ、私気になったんだけど」
「ユリス?どうかした?」
「アーミルは…私たちを連れていく気が無かったんなら、どうやって私のことを調べるつもりだったんだろう…」
「…んー、決着付けてからにしようと思ったんじゃない?」
「そうかな…」
「何にしても、私たちがいま調べられるんだからいいじゃないですか」
「……うん」
お久しぶりです。でも、まだテスト終わってません。諦めた…?のかもしれませんが、とりあえずまた投稿再開させていただきます。