48話 葛藤
朝は―――いつも快く、人に勇気と希望を与える。
名の知れた哲学者がそんなことを言っていたなと、フィストは思い出していた。
いま彼の目の前に姿を現したそれは、はたして勇気と希望を与えてくれるのだろうか?今の彼にふさわしい何かを見つけさせてくれるのだろうか?
決して落ち込んでいるわけではない。フィストはただ混乱しているだけだ。昨夜アーミルと話したことがその原因になっていることは間違いない。今までそれを知らずにいたという事実をすぐに受け止めることができなかった。
まっすぐにのびた光がフィストの目を細めさせる。まだ静かな街の細く暗い通りから、胡麻のような粒がその間を縫うように飛び去っていった。
まだ他の誰もこの光の中に起きだしてこない。後ろを向くと、また夢の中に浸かりきっている面々が映った。
ユリス、アーミル、ティリア、ダルタ…リメールがいないが、もう起きて給湯室にでも行ったのだろう。残りの人間はそこで深く眠りにつき、それを羨ましく思う自分にフィストはようやく気付き、昨晩は殆ど寝付けなかったことを思い出した。
結局一晩中考えてもそれらしい答えは見つからなかったなと、フィストは自分の世界が未だ狭いことを痛感していた。
「あ」
給湯室から姿を現したリメールと目があった。大してやましいこともないはずだが、何故だか気まずい。小難しそうな表情を隠しきれなかった。
「…おはようございます、フィストさん」
どこかフィストを労わっているような挨拶だが、フィストにいつも通りの返事をする余裕はない。しどろもどろになっているのがリメールにも筒抜けになっている。
「…う、うん、おはよう」
「……」
「……」
言葉が消える。リメールは昨晩、話を聞き終わった直後の気持ちが錯乱したフィストを見ているのだ。気遣っているのか彼女もまた何を言っていいか分からずにいるようだ。だが、会話を終わりにするには今の間はあまりにも悪い。
「あ、あのぅ…大丈夫でした?昨日は…」
「う、うん…ごめん、驚かせちゃったかな」
「そ…そうですか。大丈夫ならいいんですけど」
フィストには、それが口先だけの言葉であるように聞こえた。彼女としても何があったのか知らなければ気がすまないのだろう、それは表情にもよく表れている。話がややこしくなるのでそれを口に出して言うことはなかったが。
そこでフィストは無理に笑顔を見せた。リメールが次にどんなことを聞いてくるのか、何となく分かっていたからこその行動だ。
「フィストさんは昨日…アーミルさんと何を話していたんですか?」
予想通りの質問だった。
昨夜リメールが給湯室から戻ってきたのはアーミルの話が終わった後だ。なので、アーミルの話の内容をリメールは知らない。
笑顔を崩さず、数秒の間を置く。
「ごめん、話したくないんだ」
フィストはそうやってかわした。無理な笑顔が正確に真意を伝えるだろうという思いからだ。そのおかげか、リメールはすぐにしまったというような顔をした。
「あの…ごめんなさい」
リメールが謝ってくるのも早かった。
話したくないのはフィストの本心だ。教える必要をなくすために今、彼は無理矢理笑った。本当はとても笑えないほど混乱しているにもかかわらず、だ。
あの時、他の人間には教えようとしなかったアーミルに感謝していた。彼の話はあまりに単純で、しかしこの上なく難解な渦を巻いていたからだ。
フィストにはまだその渦を抜け出す力は無い。
じっくり考える時間が必要と思われた。
「フィスト?」
リメールと違う自分を呼ぶ声にハッとした。
「え?」
「ボーっとしてたけど…大丈夫?」
いつ起きたのか、ユリスが後ろからフィストを見つめていた。
「あ、ああ、うん、大丈夫。なんでもないよ」
とっさに目をそらしてしまう。ユリスの無垢な瞳がフィストを不思議そうに捉えている。
いつものように対応しなければ、そう心がけるほどますます意識が例の話に傾いてしまい、まともに声も出せなくなっていた。
「…ホントに大丈夫?フィスト、なんか変だよ」
「……」
声も出せず、否定もできなかった。
答えの出る日は来るのか、フィストが訊いても答える者はいない。
昼も過ぎただろうか、フィストは相変わらず外を見続けていた。
今日は仕事がなく、朝からずっと今の姿勢を保ち続けている。誰も何も言ってこないのはそれで別に問題がないからだ。何をすることもなく、柔らかい日光の下に晒されていた。
冬の日光は有難いほどに暖かく、普通なら睡魔に襲われてもおかしくないだろう。だが、フィストが眠気を感じることは無かった。
フィストは悩み続けていた。迷うことなくそれを受け入れられず、答えを模索しているうちに時間はあっという間に過ぎてしまった。
出発は今日の夜と言われた。迷いを残したまま向かうのは危険であるのはもちろんなので、今は何もかも忘れて結論を出そうと必死になっていた。時間はまだあるのだ。
しかし、その葛藤はメビウスの輪の如く果てのないものだった。気がつけばいつも振り出しに戻っている。そしてまた、同じ道を歩き出す。
一体メビウスの輪を何周したのか分からなくなったころ、ついにフィストの頭がダウンした。
精神面からの疲労で頭痛が発生し始めていた。どうしてもその先を無意識に考えてしまうが、頭痛はそれにさえ勝った。何も見ていなかった視線が、ふらふらと部屋の中を徘徊する。
何か足りない。その理由は、今のフィストにはすぐ分かった。
「…ユリスがいない」
「ああ…さっきおつかいに行ったよ。ダルタが一緒だから大丈夫」
そう答えたのは半分目の閉じているティリアだ。机に伏せていた頭を重々しく持ち上げている。
「…ダルタだけで行けばよかったんじゃないかな。無理にユリスに行かせるのは、危なくないかな」
「ダルタはすぐもめ事起こすからなぁ…彼だけに行かせるのはちょっと、ね」
そう言うと、ティリアはまたすぐに伏せてしまった。その様子を見ると、フィストにもようやく苦笑するほどの余裕が生まれていた。
「―――そっか」
それによってようやく思い出す。
彼女がそれを知らないということを。
この、単純でややこしい真実を。
やはり彼女に伝えるべきだろう…フィストのメビウスの輪に、そんな方向の終わりが見えつつあった。
ユリスに直接伝えなかったアーミルの考えが、今になってフィストにも分かってきていた。
先日は大量の調味料が詰め込まれていた鞄に、今回は何種類もの野菜が入れてある。重いものはダルタが持っているのだが、量が多いためユリスの分もなかなかの重量を誇っている。前回よりはだいぶましになっているので手の痺れなどは無いが、無論長時間耐えられるような姿勢ではない。
「……ふぅっ…」
交差点で信号を待つ際に荷物を下ろし、誰にも聞こえないように溜息をついていた。あまり長くはないが、それでも無いよりはましといったところだ。
ユリスにはどうにも腑に落ちないことがあった。今朝のフィストだ。
昨日までに比べて様子がおかしいのは誰の目にも明らかだった。大丈夫だといったその言葉が全く大丈夫そうではなかったのだ。その直後はユリスも、嘘をつくのが下手だなと隠れて笑っていたのを思い出していた。
もうじき信号が変わるようだ。荷物を持ち上げたユリスは、ふと交差している歩道に視線を沿わせた。
ふわ、と吹いた風にモミジ色の髪の毛がたなびいていた。
「あ…」
信号が青になる。他に待っていた人々が渡っていくが、ユリスは横を見たまま渡ろうとしない。渡ろうとしていたダルタもそれに気づいて足を止めた。
「…おい、ユリス?」
ダルタが声をかけるが視線を戻そうとしない。何かあったのかと同じ方を向くが、いるのは赤髪の女の子…十にも満たなさそうな容姿の子だけだ。
「…ごめん、ちょっとだけ」
「そうか?ま、俺は別にかまわねぇが」
荷物の重量も忘れ、ユリスはいつの間にか駆け出していた。
どうやらそこの建物で誰かを待っているらしい。駆け寄ってくるユリスには気づかず、背中を向けてただ立ちすくんでいる。
「リュナ」
声をかけるとようやく振り向いた。依然として何の進歩もない様子だがユリスのことは覚えているようで、警戒心を持った様子はない。
「また会ったね」
「……」
無言で頷く。
「今…誰か待ってるの?」
「……」
建物の方に視線をやった。扉のガラスからは黒っぽいスーツを身にまとった男二人が老人と何か話している様子が見える。おそらくはその二人組の方を待っているのだろうが、仮にも『家族』のような間柄ではなさそうだ。
「…リュナのお父さんとお母さんは?」
「知らない」
返答はそっけないのだが、それは決して気軽に肯定していいものではない。とはいえ、ユリスもまた自身の両親については何も知らないのだからどうしようもない。
「…そっか。私も、お父さんとお母さんのことは何も知らないの。ずっと知らない白服の人たちに囲まれて生きてきたから…」
「……」
それを聞いて何を思っているのか、そもそも何か考えているのかは全く伝わらない。
「…でもね、今は違うよ。お父さんとお母さんはいないけど、同じくらい大切な人たちが回りにたくさんいるの。リュナにはそんな人、いないの?」
しばらく黙る。それがリュナ独特の会話の間合いだというのをユリスは理解しているので、せかすことなく返答を待つ。
「一人だけ」
「…一人?」
「これ」
そう言うとリュナは、首にかけている首飾りを少し持ち上げた。よく見ると、一部欠けていたり錆びていたりと損傷が激しい。
「今は会ってない。けど、ずっと一緒にいる」
「…そっか」
遠くにいる大切な人、と連想したところでルフィーネの顔が浮かんだ。ユリスにとっては彼女もまた『家族』に匹敵する大切な存在であることに相違ない。
「…そういえば私にも一人いるなぁ…もう会えない大切な人」
「……」
「…ルフィーネっていうんだけど、その人、少し前に死んじゃった…だからもう、会いたくても会えないの」
「…ルフィーネ…?」
そこで初めて、リュナの表情に変化が現れた。
目を見開き、あからさまに驚いている。
「…どうしたの?」
何を言うよりも先に、リュナは再び首飾りを持ち上げた。
「…これ、ルフィーネ」
「…!?」
「…ルフィーネ…死んだ?本当に?」
「……うん」
自分の発言が思いがけない方向に転がり、ユリスもはっきりと驚愕の表情を浮かべていた。たまたま街中で知り合った子がルフィーネの知り合いだとは予想のしようもないだろう。
「…あっ」
一瞬気がそれた瞬間、リュナは走り出していた。ユリスは荷物を持っているので追いかけることもできず、その姿はすぐに建物に隠れて見えなくなった。
「……リュナ…」
自分がどれだけ軽はずみな発言をしてしまったのか、ユリスは後悔していた。知らないのならわざわざ伝えることもなかっただろうに、彼女のたった一人という大切な人がこの世にいないことを教えてしまったのだ。そう考えると、自身がたまらなく憎くなった。
「…ユリス、どうしたんだ?あの子はどっか行っちまったみたいだが」
遠くから様子を見ていたのだろうダルタがやってきたのはそれから少ししてからだった。