47話 真実を胸に抱いて
気がつくと、机も床も、自分たちの顔も沈む夕日の色に同化していた。陰陽の差もはっきりと表れている。
話に聞きこんでいるうちにどれだけ時間が過ぎてしまったのだろうか、その周りの変化だけでもかなりの経過が見込まれる。
「長くなるって言っただろ」
気持ちを読んだかのようにアーミルが笑う。
「まだまだこれからだぞ」
「僕は大丈夫。続けて」
「…フィスト」
「?」
「…あーいや、なんでもない。さっきフィストに話しておこうと思ったことがあったんだが…今はとりあえずこっちの話が先だな」
「…うん、そうだね。後でまた話してくれればいいから」
アーミルが何を知っているのかは聞いてみなければ分からない。おそらくはこの一週間で分かったことなのだろうと考えてフィストはすぐ首を縦に振った。
「ありがとう。じゃ、続けようか」
長い通路。いつまでも続くそこを永遠と思えるほど走っていた。
どこへ向かっているのかは分からない。胸騒ぎの覚える方へとひた走る。
度重なる地響きに、不安が風船のように大きくなる。
次に足を止めるのは何が起こっているのかその目で確かめた時、アーミルはそう決めていた。
そして、足が止まった。
『それ』がそこにいたからだ。
―――怪物。子供心の第一印象は、その二文字。
身の丈は二メートル強ほど。人の形はとりあえず持っているが、異様に筋肉の隆起した上半身からは普通の人間を見取ることは絶対に出来ない。
体がある程度の水気を帯び、その足跡に水たまりを残してきている。一歩を踏み出す度に大きく飛散する水の音が心の余裕を打ち崩す。
背中から機械的なチューブが何本も生えていた。それがどこと繋がってどんな働きをしていたのかは分からないが、それがその圧倒的な力で引きちぎられたこと、そしてそれが常軌を逸脱した実験により生み出された存在であることは嫌というほど理解できた。
「…何なんだ、このバケモノ」
ティリアがいたからこそアーミルは冷静でいられたが、一人ならば確実に大声で叫んで逃げ出していただろう。
二人の姿をその目で捉え、じりじりと、あくまでゆっくりと近づいてくる。一歩一歩が地面を割りそうなほどの地揺れを引き起こしている。
「アーミル…」
ティリアがアーミルの服の背中をぎゅっと握りしめる。
「大丈夫、だ。俺がいるから、あまり慌て―――」
そこで、気付いてしまった。
怪物の、赤ワインに浸したような色の右手に。
何かを鷲掴みにしている。その『何か』が元『人』であるのが、指の隙間からはみ出す腕の存在で分かった。不規則に力無く揺れて、自身の存在を主張している。
それも二、三人分ではない。多くの人間が、まるで信じられない僅かなスペースに強引に納められているのだ。どうしても入り切らなかった腕がそうして外側に出たのだろう。
掌の中で握り込まれ、もう人らしい姿を残していないことはおおよそ察しがつく。
見えていた腕ボトリと床に落ちたことで、それは確定した。
「…アーミル…これ、夢だよね?悪い夢だよね?」
ティリアが壊れたような明るい声で問う。
「落ち着け、ティリア」
「そうだよ、これは夢だ。長い長い悪夢で、きっともうすぐ朝が来てお母さんが起こしてくれるんだ。だから大丈夫だよ、あはは…は、ははは……」
その狂った笑い声がアーミルの心に余計に重荷を増やし、耐えられずティリアの腹を肘で突く。う、と短い苦痛の音を漏らし、それによりようやく我に返ったようだ。
「しっかりしろ、これは現実だ」
「…ご、ごめん」
怒ったように言ったが、アーミルもその気持ちは痛いほどよく分かっていた。こんな状況であんなものを見せられてまともでいられる人間の方が少ないのだろう。そのくらい、目の前に突き出されたものは現実離れした惨劇だった。
怪物の『掴んだままの』右手が動いた。本能的に危険を感じたアーミルがティリアを突き飛ばす。それが振りかぶっている動作だと分かった時にはもうアーミルの体はさらわれ、掌で壁に押し付けられていた。
「アーミル!!」
「……ぐ…あ…」
声が出ない。体が潰れそうなほどの圧迫感。首から下がもう掌に挟まれていて、首以外を自由に動かすことすら叶わない。
それだけではなかった。
掌に捉えられた体に、同時に『それら』が押し付けられている。
アーミルの手には、やや温かみのある果物のような何かが触れている。
更に強く押しつけられた。と、その何かがアーミルの手の中で破裂した。
それが何なのか、想像もしたくない。
押しつけられる苦痛と、触覚からくる精神的苦痛。
二つの苦痛がアーミルを限界まで押しやった。声が出せたのならティリアのことも忘れて確実に大声でそれを口にしていただろう。
「ぐは!」
びちゃり、という濡れたものがぶつかるような音がしてアーミルが床に落ちた。彼の服は何種類ものワインを飲み干して顔中を真っ赤にしていた。アーミルと一緒に、いくらかの潰れた葡萄が床に広がっている。
掌が壁から離れていた。壁にも大量の赤いシミが残り、その威力は長く伸びる亀裂がよく表している。
何が起こったのか、そう考えた後に先刻の銃声の存在に気づいた。
怪物の体越しに、煙の流れ出るライフルがバスティールとともに目に映った。他の人間などそこにはいないのに、バスティールが撃ったのだと判断するのさえ困難なほどアーミルの頭は白く染まっていた。
「……ウゥ……」
体に貫通した穴を有しながらも、怪物はあまり深手を負ったような様子を見せない。それどころか、その掴んでいた塊の残りを横に叩きつけた後、ティリアのいる廊下の先を睨みつけて一気に走りだした。
見た目からは想像のつかないスピード。巨大な銃弾が頬を掠めたような感覚。
「きゃあ!」
すぐ横を巨体がすれ違いティリアはしりもちをついた。手は床についているが、その震えようでは簡単には立ち上がれそうもない。
走る怪物の地響きが二人の体に早すぎる鼓動を刻みこんでいった。それは恐怖そのものであり、二人の足にまとわりつく足枷でもある。姿が小さくなっていっても、二人が立ち上がることを決して許さなかった。
「まずい、あっちにはクレアさんが!」
バスティールが後を追おうと走り出す。アーミルを軽く飛び越して行こうとする彼に何か言わなければと、口だけが動いてすぐに遮られた。
「二人とも…ここで何してるんだ?」
焦っているようだったが、こちらの心配をしているのも二人には分かった。呼び起されたようにハッとして、アーミルだけはようやく立ち上がることが叶った。
「その…ごめん」
まずは謝った。結局自分たちが足手まといにしかならなかったことが分かっていたからだ。
「…とりあえず、彼の後を追うぞ!」
すぐに精一杯の表情に戻ったバスティールが巨大な弾丸の後を追う。遅れまいとアーミルも駆け出す。まだへたっているティリアを助け起こすことも忘れない。
ただ、バスティールへの疑念とも違う妙な違和感をアーミルは覚えていた。
彼…バスティールは、怪物のことを迷いもせずに『彼』と呼んでいた。
背中が見えた。体に生じている裂傷はおそらく誰がやったものでもなく、実験自体の無理の表れなのだろう。あのスピードの割には案外すぐに追いついた。
「グオオ……アア…オ…」
苦しげな、やっと人らしい声が聞きとれた。その裂傷は勿論、自分全てを蝕む毒にもがき苦しんでいるらしい。
その口から、さらに言葉が発生する。
「…オ…オレは……ヤクに、タつんだ……ダレかの…タメに…」
言葉は、まるで軋んだレコードのようにかすれている。言っている内容は二人にはさっぱり分からない。
バスティールがライフルを構えたまま近づく。二、三歩分間を置いて二人も続く。
他の研究員は誰一人姿を見せない。何をしているのかともどかしく思い、まさかあの『葡萄』で全滅しているのでは、とアーミルは不安ばかりを先走らせた。
怪物も彼らに気づき、ゆっくり向き直る。
怪物の荒い呼吸だけが廊下を吹き抜けていく。
「ギース!」
バスティールのその一言で空気が一斉にサアッと音を立てて引いた。
ギースとは怪物の名前だろう。彼らの関係がつかめていない二人には、口を挟むチャンスはまだない。バスティールの背中を見つめ、事の成り行きを確認するのがやっとだ。
「分かるか?俺だ!」
ギースに反応は見られない。こちらの隙を窺っているようにも見える。
「……オレの…イミ…ソンザイの……」
うわごとだけが羅列されていく。それもこのようすだと、バスティールの言葉に耳を貸しているとは思えない。いつ一撃が飛来するか、その危険な香りがどんどん増してきている。
「分かってくれ!…殺したくない!」
だいぶ切羽詰まっているようだ。
この『二人』の過去に何があったのか。彼、ギースには何があったのか。この部分に介入するには余りにもピースが足りない。
ハッとせざるを得なかった。一度受けたから分かる、その殺気。
考えるよりも先に、アーミルの体はバネのようにはじけとんだ。
「くうっ!」
掌を中心に床が砕ける。アーミルがバスティールを自分の方へ引っ張り倒したのとそれはほぼ同時だった。
「…だめだ、今のあいつから理性らしいものを感じられない」
「分かったようなことを言うな」
そう言ってはいるが、バスティール自身が最もそれを分かっているはずなのだ。
その証拠に、音もなく腰からボール状のものを取り出していた。やや楕円形をしていて、頂点には引き抜けそうな金具が付いている。
迷っているのは二人にも伝わっていた。だがそうしている間にも、床に広がった手がゆっくりと体の方へと戻っていく。
時間は無い。
「バスティール、俺は…」
「アーミル…ティリアも、下がってろ」
後押しにはなったようだ。ティリアの横まで下がると、改めて脱力感に苛まれて溜息が出た。
「アーミル…」
「…あとはバスティールに任せよう」
向かい合うバスティールとギース。
背中を向けたバスティールが何を考えているのかは察しがつかない。
「…俺は」
そんな声がかろうじて聞こえた。
「俺の信じる……」
金具が思い切り引き抜かれた。
「正義に生きる!」
腕を思い切り振りかぶった。
ボールが放物線を描く。
急に振り返ったバスティールが巻き込むようにして二人を押し倒し、一緒に床に伏せた。それにより二人の目の前はバスティールで塞がれてしまう。
視界から情報は入らない。その分まで神経のいきわたった聴覚に、見る以上に鮮明な情景が映り込んできた。
すさまじい爆音。その音にふさわしいほどの強烈な風がバスティール越しでもよく伝わってくる。
一緒に、ギースの悲鳴に近い声も。
あまりに痛々しい叫び。
断末魔にも匹敵するそれの理由が、聴覚からすぐに伝わってきた。
べちゃ、べちゃと、肉片が床やら壁やらに無数に飛び散ってへばりつく音がした。風と一緒に人間の肉の生臭い臭いが押し寄せてきて思わず鼻を覆う。
その瞬間は永遠にも思えた。
轟音が無限の如くいつまでも耳に焦げ付いていた。
アーミルが確かに感じていた、バスティールの圧力が軽くなった。それによりゆっくり体を起こしたが、体を突き抜けていった衝撃のせいでまだめまいが抜けない。
揺らぐ廊下に、規模の大きな赤い斑点が見える。それぞれがある一点を中心として花を咲かせているように広がり、その花びらを演じていた。
バスティールが立ち上がり、倒れているギースに歩み寄る。アーミルも近くに行こうとしたが、体を起こすことがやっとで立ち上がるのは難しそうだ。
ギースの右手のあたりを調べているようだ。ずっと葡萄を握りしめていたそこは、色の濃さも死臭の強さも相当なはずだが、バスティールは気にもしていない。ただ無心に右手を見つめたまま、釘を立てられたように動かない。
二人がようやく立ち上がると、バスティールも立ち上がった。しかし向こうを向いたまま二人を見ようとはしない。今、どんな心境なのか。それを考えると、むしろ二人の方が顔を見ることを拒んだ。
「アーミル、ティリア」
バスティールの声だけが届く。
「二人はすぐに帰るんだ。しばらくはここに近づくな」
「……」
何とも言えない。それに反対する理由は特になかったが、素直に従うべきだともすぐには断言できなかった。
「俺はクレアさんとフィストを連れてここを離れる。どうやら、フィストの関わる実験は最悪の部類だったらしい。…幸いまだ他の誰も二人がここにいることを知らない。見つかると厄介なことになる、早く行くんだ」
「……」
「この廊下をそっちに真っ直ぐ行けば出口がある。さあ、早く」
アーミルはすぐにでも走り出したかったのだが、それはこの場からではない。自身で道を切り開くこともなく、ただ言うとおりに動くしかない自分から逃げ去りたかっただけだ。
「バスティール、私たちだって…むぐ」
アーミルはティリアの発言を封じながら後ろを向いた。走りだす態勢だ。
「もし機会があれば…また」
「…ああ、必ず連絡する」
それが最後の会話。妹の手を無理やり引っ張って走っていくアーミルを、バスティールはずっと見送っていた。
僅かながらの涙は、誰に向けてのものだろうか。
「……」
フィストはどう返答すべきか詰まった。たくさん聞きたいことがあるはずなのに。自分の過去のスケールの大きさに呆気にとられている、というのがもっともそれらしい理由だ。
「…え、と…んーっと…」
「釈然としないか?」
単なる思い出話をしたかのように、アーミルは少し寂しそうな笑いを作った。その手にはいつの間にかガラス製のサイコロがつままれている。
「…その後、僕とお母さんは…」
「そうだな、バスティールからすぐに連絡がきた。フィストは自分が預かって、クレアさんは研究所に戻ったそうだ」
「戻った?」
「ああ。バスティールと二人で姿を消すと怪しまれるから自分はそれらしい理由をでっちあげる、と言ったらしい。俺は何度もバスティールに会いに行ったが、その時一緒にクレアさんに会えたのはその三年後だ」
アーミルの顔はフィストからはよく見えない。だいぶ暗くなって顔に光が当たらなくなったせいだろう。それでも、笑っているのか、悲しんでいるのか、その程度は何となく見てとれる。
今はどちらかと言うと、笑っている。
「三年の間に何があったのかはバスティールも知らなかった。ただ、少しやつれて、疲れ切った様子だったと聞いたな。クレアさんが自分から語ろうとしなかったから分からないが、一言だけ『何か大切なもの』を失ったと…クレアさんは、フィストと二人きりで暮らしたいと言ってバスティールのもとを離れていった…まあ、そんな所か」
それから二人は黙る。
部屋の中に聞こえてくるのは、やや小さめの寝息。
「……え?」
寝息だ。
「話は終わりましたか」
心を現実に引き戻す優しげな声。
「ティリアさんはもう寝ちゃいましたよ。二人なんか待ってられるかって」
リメールが呆れたような表情で歩いてきた。
「寝た?夕飯も食わずにか?」
「食べました!お二人の分も用意してたんですけど、私もユリスさんもダルタさんも待ちきれなくなって先に済ませちゃいましたよ」
リメールは軽く拗ねているようだ。さんざん人を待たせた、小さな罰のつもりなのだろう。
しかし元々の性格か、すぐに苦笑いして言葉を付け加えた。
「大丈夫ですよ、すぐに何か作りますから」
「…ああ、じゃあお願いしようかな」
承ったとお辞儀をすると、軽い足取りで給湯室へ消えていった。換気扇の音が聞こえてきたので火を使い始めたのが分かる。
「……あ、そう言えば…僕に話したかったことって何?」
先刻―――といっても何時間も前のことだが―――のアーミルの言葉を思い出したのか、フィストが顔を上げた。ああ、とアーミルが頷く。
「ま、それこそ山のようにあるんだけど…せっかく二人だけなんだ、みんなには聞かれたくないことだけを言っておこう」
「うん」
前置きが重々しいのでフィストも多少たじろぐ。
二人して辺りを見回す。他に誰か聞いているものがいないか目配りを利かせたが、視界にはだれも映らない。
「誰もいないみたいだね」
フィストが安心したように言う。
「……はたしてそうかな?」
「なに?」
割って入ってきた低い声に振りかえると、いつ現れたのかソファに座っていたダルタが見えた。意地悪そうににやけているところを見ると、これから始めようとしていることがばれてしまったようだ。
「…まあ、俺のことは気にすんな。あちこちに言いふらすようなことはしないし」
「…だ、そうだ。フィスト、構わないか?」
「内容が分からないから何とも言えないけど…別にいいよ」
フィストが承諾したことでダルタも胸を張って二人に近づいてきた。近くにあった椅子を引き寄せて逆向きに座っている。
「まず一つ。急で悪いんだが、明日の夕方くらいにここを出発してあそこに向かおうと思ってる。フィストがもう少し休みたいならそうするが、少しでも早い方がいいだろうしな」
「……僕は大丈夫」
「…そうか」
アーミルが特大の溜息をついた。フィストのその返答をどこかで分かっていたのか、その溜息は別のものに向けられているようだ。
「二人でどこか行くのか?」
「…正直に言うが、ちょっと危険なことになるのは間違いない。だからあまり大勢で行きたくなかったんだが…」
ダルタについてはあまり心配していないのかアーミルはもう一度辺りを見回した。やはり他の人間が心配なのだろう。そしてリメールがまだ料理に取り掛かっていることを確かめ、すでに疲労感をにじませている。
「まったく…神経がすり減るな」
軽く笑い、また溜息をつく。
まだ話すのを躊躇っているらしい。アーミルにしては珍しく優柔不断だが、それ相応の内容なのだろうとフィストも覚悟している。
「……よし」
決意の一息が噴き出された。
「…じゃあ、話そうか」
何かを紛らわすかのように、アーミルはガラスのサイコロをいじりながら、それでもしっかりと話し始めた。
三人の耳には、楽しげなリメールの鼻歌だけが聞こえ続けた。
夜は、更けていく。
過去話はさっさと終わらせようと無理に詰め込んだら中身がボロボロになりました。ちょっと後悔してます。
ここからは慎重に話を進めなければ、と意気込んでいますが、なにぶん勝手の分からない未熟者ですのでどこか話に矛盾が生じるかもしれません。その時は鼻で笑ってやってください。