45話 兄妹はそこへ向かう
「俺が実験台になる」
ギースのその一言は嫌に威勢がよく、バスティールの不安を煽った。
「…お前、自分が何を言っているのか分かって言ってるのか?」
「ああ、まともな考えじゃないことは分かってる。お前にも理解してくれとは言わない。ただ、俺は…何か一つでいい、一生のうちに誰かの役に立ちたいんだ」
ギースの暴走癖はバスティールもよく知っている。まずは一通り話を聞かなければ、こちらの話もまるで聞かない。黙って次を聞いた。
「今、フェラート王は実験台を捜してる。どんなに狂気に満ちたものであっても、それは俺が誰かのために貢献できる最後のチャンスなんだ」
「…お前がそれを正しいと思うのなら俺はもう何も言わない」
「…ありがとう」
このとき体を張ってでも止めるべきだったと、彼は生涯後悔していた。
それは十三年前…王妃ホムリが亡くなった翌年の、セントヘイムのある研究所の一室。白い研究服を着た男二人の会話だった。
カモメが騒ぐ。彼らの狙いはついさっき帰ってきたイカ漁船のおこぼれらしく、隣接する漁港の上空を集団でぐるぐる飛び回っている。
青い空、そして青い海。爆発しているような太陽が照りつけるそれらの境界線は混じり合い、どこが海でどこが空なのかをうやむやにしていた。時が積めば積むだけ増殖する綿のような雲だけが、少なくともそこだけは空だと図々しく主張していた。それは、無限の解放を求めるアーミルにとっては邪魔なものでしかない。
終わりのない海と空へ向き直り、縛られ続けている自分自身に溜息をついた。
服の袖が引っ張られた。頭一つ低い所に見慣れた茶色の長髪が映る。口うるさい彼の妹だ。
「アーミル、もう行くってさ。海なんか見つめてどうしたの?」
疑問符で結んではいるが、返答を聞く気はなさそうだ。ティリアの顔はもう行くべき先をずっと見つめていた。
「…はいはい、分かりましたよ」
聞く耳を持っている筈はないが、うんざりしたような返事を返す。そこでそのやりとりを済ませ、くるりと向きを変えた。
彼はまだ、一商業事務所の所長ではない。所長の息子、いわゆる『後継ぎ』に位置する子供だ。
父親の仕事についてセントヘイムに向かう兄妹、すなわちアーミルとティリア。
語るべきことはそこから始まる。
セントヘイム郊外にある国立研究所。アーミルの父親が興した商業事務所に、そこから時折物資の注文が入る。この時はその注文品の在庫が切れていたので早朝から仕入れのために港に来ていた。しかし、まだ幼さの残る兄妹には特に出来ることもなくすぐにそこを離れた。
「お父さん、明日行く研究所ってどんなところ?」
街の中心に戻るバスの中だ。ティリアが父親に向かって何かを聞いているが、睡魔により意識がはっきりしないアーミルにそれは聞き取れなかった。今はとりあえず、バスの中を流れる穏やかな時間に抱かれてゆっくりと眠りたかった。
バスが『講堂前』に着いたら下車し、一度事務所に戻って身支度を整える。それからテッドフォース駅に向かい、ブルーイーグルに乗れば一日でセントヘイムに到着する。彼らのこれからの日程は、だいたいこんなものだ。
夢の中かどうかも判断がつかない。アーミルの頭の中はこれから自分に関係する固有名詞で詰まりきっていた。次第に、それらが何なのかすら分からなくなっていく。
自分でも気付かないうちに視界が黒くなる。
「……」
「…!」
「…ル!」
「ん…?」
「アーミル!」
体が大きく揺さぶられた。ティリアが半ば怒ったような表情で眠っているアーミルを起こそうとしていた。
「もう講堂前に着くよ!降りる準備して!」
返事をする気になれず、窓の外を見た。
港を出た辺りは建物が少なく、トウモロコシ畑が風で波を作っていた。深緑にざわめくそこには、空をゆったり進む雲の影が端から端へと駆け抜けていった。
今の外はもう中心部まで入ってしまったらしい。
空が狭い。誰があんなに建てろと言ったのか、道の両脇に犇めく灰色のビルが青空を四角くくり抜いていて見通しが悪い。相当大きいのだろう、綿毛のような雲の頭だけがちょこんと出ていた。
「アーミル!」
さらに語勢のきつくなったティリアの呼びかけで完全に意識が連れ戻された。
降りる準備と言っても、特に荷物は持っていない。あえてあるとしたら、半ば眠っているこの体を叩き起すことくらいだろうか。
バスのスピードが落ちた。ようやく、重々しく体を持ち上げた。
「…」
開いたドアに向かうにつれて、外で日の光を反射する銀色の髪がよく確認できるようになる。それももう見慣れたもので、そこにある笑顔は見ずとも分かった。
「おかえりなさい!」
「リメール、むかえに来てくれたのか」
「行けなくて寂しかったものですから、帰りが待ちきれなくて」
相変わらずの笑顔だ。アーミルより六つも年下なのだが、ここまで誰にでも敬語を使うのはやはり珍しいものだった。二人とも最近は慣れたが。
「リメールはセントヘイムにはいかないんだっけ」
「…ええ、そうです。行きたかったんですけど、アーミルさんのお母様に止められてしまいました」
「そっか。なんか悪いな」
「そんなことないですよ!」
リメールが笑うのにつられてアーミルも小さく笑ったが、急に後ろから押されてのけぞった。
「アーミル、後ろ!つかえてるよ!」
ティリアが呆れたような顔をしてアーミルの背中を膝で押していた。
それは、あまりにも無味乾燥なものだった。ブルーイーグルに乗るとあれば、鉄道好きでなくとも子供なら走りまわって喜ぶものだ。実際ティリアは走りまわって全身でその感動を表現し、知らない人とぶつかって父親に怒られた。あまりしょげている様子ではなかったが、嬉しそうにはしても走り回ることはなくなった。
アーミルにそんな感動はなかった。その様子にさしたる変化はなく、乗車時間の大半を寝て過ごした。再び意識がはっきりした時には、彼らはもうセントヘイムの土地を踏んでいた。一日を過ごしたのは事実のはずだが、アーミルにとってはバスと同じ睡眠時間であることに変わりはなかったようだ。
日差しが実際以上に強く感じられ、思わず目を細めた。初夏の日差しは寝起きの人間にはこの上なく酷だ。アーミルの視界は、今は普段の半分もない。
「うう…頭がガンガンする…」
テーブルで突っ伏して寝た代償だろう、アーミルの頭にはまるで何か刺さったような痛みがあった。
「ずっと寝てるからだよ。外の景色でも見てればよかったのに」
半分は馬鹿にしているが、もう半分は本気で心配している言い方だった。とりあえず大丈夫であることをアピールし、それから近くの日陰に逃げた。
「そういえば、お父さんがいないな」
ようやく目が慣れたころ、アーミルが辺りを見回して父親の姿がないことに気づいた。
「今荷物の検査を受けてるところだよ。しばらくかかるって言ってたよ?」
アーミルも日差しの下に戻るにはもう暫くかかりそうなので、それはちょうどいい時間稼ぎの理由になった。
ブルーイーグルに関連した人間の流れもかなりのものだが、普通列車の利用者の方が遥かに多いはずだ。
セントヘイムは産業発展時代に鉱業で豊かになった街だ。今はその資源が尽きているので、人通りが少なくなってもおかしくない。
だが、ここの駅を保有する鉄道会社は、蜘蛛の手のように貪欲にレールをあちこちに延ばし、セントヘイムを無理矢理移動の中継点としていた。そのおかげかセントヘイムの総人口はかつてと同じように大都市らしい数字を示していた。それにより、駅前ともなると並々ならぬ人間の充填率でそこにいる者の気を滅入らせる。
アーミルもまた、気力の欠片も見せないままそんな人の流れを見つめていた。
不意にティリアが立ち上がったかと思うと、日陰から外へ歩き始めた。それだけならアーミルの知ったところではないのだが、アーミルの手もつかんで一緒に連れて行こうとしてくる。
「ん…?うわ、やめろ!」
「違うの!ほら、あそこ…」
ティリアが指さしたのは人混みの中だ。スーツがいくつも重なってよく見えないが、確かにその中に何かいる。
「人がうずくまってるみたいだよ。助けてあげようよ」
ティリアに引っ張られて近づくにつれて、次第にその状態がより細かく把握できた。
女性だった。茶色に近いふわふわした金髪をゆったりと結わえ、ブラウンのTシャツにベージュのチュニック、そして黒いスカートを着ている。腹部が大きく膨らんでいて、そこを摩るようにしながら膝をついて少し苦しそうな表情をしていた。
もうすぐ予定日なのだろう。アーミルにはまるで想像がつかないが、その表情からはかなりの激痛が見て取れた。最初は引っ張られていたアーミルだったが、気がついた時にはティリアを追い越していた。
「大丈夫ですか?」
女性の前でしゃがみ込む。辛そうにしていた女性も、こちらに気を掛けている二人の子供に気づくと無理矢理笑って見せた。
「…ええ、大丈夫…ありがとう…っ!」
そこでまた痛みが生じたのだろう、笑った顔がまた歪んだ。
「全然大丈夫じゃないですよ。一旦日陰で休みましょう」
「…ごめんなさい、お願いできるかしら」
「もちろんです」
アーミルが肩を貸し、ティリアが腹部に気を掛けながら、先ほど休んでいた日陰まで連れていった。残念なことに椅子は置いてなかったので、木にもたれ掛けるようにして慎重に座らせた。
「…ふう、だいぶ楽になったわ。どうもありがとう」
ようやく落ち着きを取り戻したようで、人当たりの良さそうな笑顔で二人に笑いかけた。それでもお腹をさすっていたわるのは忘れない。
「もうすぐ産まれるんですか?」
そのお腹に興味を抱いたのか、ティリアが笑顔で聞いた。
「ええ、そろそろ予定日なの。元気な子になってほしいわね…あなたたちは、二人で旅行?」
「いえ、父の仕事にくっついて来てるだけです。卸売業をしているんですが、この近くの研究所から注文が来ているので」
何気ない会話の中の一文だったが、その分に女性が敏感に反応した。
「近くの研究所?じゃあ、ひょっとしてあなたたちがアーミルくんとティリアちゃん?」
「は?…はい」
いつの間に自分たちはそんなに有名人になったのか。知らない人が自分の名を知っていればアーミルでなくとも驚くだろう。それを何とか隠し通そうとしたが、十歳とそこそこのアーミルはまだそれほど器用ではない。その反応で彼女のくすくすという笑いを誘ってしまった。
「そう。連絡は受けているわ。今回は子供二人を一緒に連れてくるって」
「…そう、なんですか。じゃああなたも、そこで働いてるんですか?」
返事の代わりに彼女はまた優しそうに笑った。とても『研究員』といった印象は受けないが、それは母であるが故だろう。
アーミルの肩を、誰かがトントンとたたいた。
父親だった。待たせたな、と言うような顔で二人と顔を見合わせた後、お腹をさすり続ける彼女と挨拶を交わす。
「私もこれから研究所に戻るところなの。一緒に行こうか」
立ち上がった彼女が二人に手を伸ばす。その手を掴んでティリアが立ち上がり、アーミルはその手を借りずに重々しく立ち上がった。
「あの…あなたの名前は?」
ティリアが手をつないだまま聞いた。
「私?私はクレア。よろしくね」
その笑顔は、自分の母親と間違えそうなほど優しく二人を撫でた。