43話 親を奪う夢
それは、いつも耳を引き裂くような奇音から始まる。私の頭の中で、それはよほど衝撃的だったのだろう。
私は確かに幼かったが、迫る危機の存在は分かっていた。それを行動に結びつけることもできたのだろう…おそらく。
けれど私は何もできなかった。何が起こっているのか考える前に私は強く突き飛ばされていた。ほっそりとした白い腕と、太くはないが筋肉のある腕。二本の腕が私をそこから押し出していた。
鮮明に記憶に残っているのは、その直後からだ。
ドン、という音。
頬にかかる飛沫。
甲高いスリップの音。
「……っぅ…!」
私の目の前に現れたのは、さっきまで渡っていた白のラインの汚れ。横転した軽自動車。道路に斑に広がる赤い水たまり。…いくら私でも、それがいかに異常な光景であるかよく分かる。
辺りが騒がしくなる。けど、そんなものは気にならない。何処かにいるはずの、二本の腕。それだけはどうしても捜しておきたかった。
こんな状態で生きている訳が無いことは分かっている。それでも捜すことを止められない。その無事な姿を見たい、そう願って辺りを見回す。
「……お母さん…?」
歩道のあたりから真っ青な顔の通行人がこちらを見ている。そこから道路に視線をおとして白いワンピースを捜す。だが母親の姿はない。
「……お父さん…!」
軽自動車から一人の男が這い出てくる。私は歩いていたので、そこに他の車は無い。その自動車が横転しているのは避けようとして失敗したからなのだろう。青いレザーの上着を捜すが、父親の姿はない。
「ファル様、危険です!」
歩道からドルイズが駆け寄ってくるが、無視して辺りを探し回る。広がっている赤い汚れが収束する方向へ、足ががくがくしていて駆けることができず、ふらついたまま歩いて行く。
目に映った瞬間、私は何も考えられなくなった。
身につけていた純白のワンピースは、どうしてだろう、赤色に変わってしまっていた。
「ぁ……お母さん!」
転びそうになっても構わず駆け寄り、揺さぶる。大きな声で何度も呼び続ける。
目が僅かに開いた。私の顔を見た後、複雑な体から震える腕を持ち上げる。
「……ファル……」
その手が私の頬を撫でた。流れていた涙も拭い取ってくれた。いつもと同じ笑顔を見せてくれたので、私もぎこちなく笑みをつくった。
大丈夫なのか、と一瞬だけ思った。
「………」
口が動き、何かを言おうとする。すぐ近くにいるのに聞き取ることができない。
「…え…何…?」
返事はなく、母はもう一度にっこりと笑った。
そして、頬の感触が急に冷たくなったかと思うと―――
ことん、と道路に落ちた。
自動車の運転手を恨んではいない。私を独りにした父や母を恨んだりはしない。
これはきっと、私が悪かったのだと思う。私は父や母に、父母の財産に頼って生き、独りで何もしようとしなかった。だから罰として、神様が二人を連れていったのだ。
もう誰にも、何にも頼らない。私は私の力で生きていく。
どうしても頼らなければならなかった時はとても悔しかった。
私は出来る限りのことをしたつもりだ。もう私は自分の力でお金を稼ぎ、それで毎日の食事を取っている。あれほどいやだった遺産への依存ももう無い。
だから、もう、充分でしょう?私は自分の罪をしっかり受け止めたし、罰も受けた。もう罪を繰り返さないで済むようにもなった。
父を、母を、返して。もう大丈夫、私は独りでも生きていける。二人に頼る必要はもう無い筈。だから少し、ほんの少しでいい、二人に会いたい。二人に思い切り甘えたい。
もう嫌、独りは嫌、怖い…独りは…独りは―――――
「―――っ!」
裏返ったような自身の声でファルは目を覚ました。反射的に体は起き上がっている。息が荒れていて疲労感があり、体中に冷たい湿感が迸る。見ると、両腕が細かく震えていた。
どうやら本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。ゆっくりと揺れるロッキングチェアに座り、膝の上に開いた本を置いたままの姿勢になっている。外は地上との接触面からやや茜色を持ち始めていた。
またあの夢、と溜息が出る。体中の通常ではそうそうあり得ないような事態も、目が覚めてしまえばいつもの事だとあっさり納得がいく。
事故の日の断片的な記憶から構成される、過去の再生。何の前触れもなく夢枕に立ち、ファルにその時の事を嫌でも思い出させる。自分では納得がいっているつもりでも、どこかで釈然としない引っかかりがあるらしい。
ファルはもうすぐ、母の歳と並ぶ。
―――今の自分を見た時に母は何と言うのか。喜ぶのか、悲しむのか、それも全く分からない。生きていればもう五十前後になっているだろうが、あの時のような笑顔で見守ってくれているだろうか。
結局は何も変わっていない自分に気づき、また溜息をつく。もう独りではない筈なのに、いつも孤独感に苛まれる。傍らには伴侶…いや、『家族』であるガルバートもいるというのに、何故だか心に空いた隙間を埋めることが出来ない。彼を『家族』として見られていない自身が、いちばん憎い。
ダルタとフィストは、もうじきファルの家を発つ。暗い森の道は危険だとファルは忠告したのだが、夜までには森を抜けるつもりだとダルタがあっさりはねのけた。強がりではないと判断したファルはそれ以上引き留めることはしなかった。
ダルタ。そしてフィスト。
彼らもまた、ファルにとって『家族』に似た立場となっていた。たとえ本当の家族でなく、ファルが無意識のうちに距離を置いてしまっていても、彼らは何の嘘もない笑顔でファルと接しようとしてくれるのだ。ファルはそれに対し、作ったような笑顔しか返すことができないのだが。
彼らはファルに対して『家族』のように振る舞おうとしてくれる。それを受け止められずに独りで勝手に苦しんでいる自身が、ファルには何より許せなかった。
「じゃあ、本当に世話になったな」
ダルタ、フィスト。ファル、ガルバート、ドルイズが並んでそれと向かい合っている。まだ外は明るいが、ここから暗くなるのはあっという間だ。もたもたしていると森を抜ける前に夜になってしまう。ファルが心配な様子だったのでダルタも早めに出発することにした。
「本当にたいしたこともできませんで」
「いえいえ、大助かりですよ。な、フィスト」
今回最も世話になっただろう少年が分かりやすく照れた。ダルタが背中を叩くと多少よろめき、それから苦笑いをにじませた。
これが『家族』か、とファルが羨望の眼差しを向けた。それもほんの一瞬だけで、すぐに人当たりの良い笑顔を取り戻す。
「ファルさん、ガルバートさん、ドルイズさん。お世話になりました」
フィストが頭を下げた。三人が三様に笑った後、思い出したようにファルがフィストに歩み寄った。頭を上げたフィストが不思議そうにファルを見上げると、腰から一つの包みを取り出してフィストに手渡した。
「フィストさん、これを」
「これは…?」
簡素な包装をそっと開き、中身を確認する。
それは銀色の輝きをもった拳銃だった。黒いフィストの物よりやや大きく、装填数もやや多い。持ってみると分かるが重量もかなり軽くなっていて使いやすそうだ。
「私の愛用している物です。フィストさんのものより多少は高性能ですし、何かあった時に役に立つかと思いまして」
ファルの嬉しそうな笑顔を見て、それから拳銃に視線を落とす。確かにその銃に新品らしい初々しさはなく、やや年季の入った印象を受ける。だがその使いやすさは持つだけでも良く分かり、これを使えばいざという時に少しでも有利になれるだろう。武器にうるさそうなファルが愛用するというのも頷ける代物だ。
しばらく考える。一瞬はそれを懐に納めようとするが、すぐにその手を止めた。それからファルの方に恐る恐る差し出した。
「ありがとうございます。でも、すみませんが受け取れません」
「…なぜ?」
笑顔が消えて不安そうな表情に変わっているが、それも当然と言えた。きっとファルはフィストが近々それを使用することになるのを会話から感じていたはずだ。
フィストもまた、それは分かっていた。ファルの心配も、そしてそれを受け取れない理由も。
「僕は、僕の過去にしてきた罪の清算に行くんです。人を殺しに行くわけじゃありませんから」
その言葉にファルははっと目を見開いた。
冷静な人間ならば、そんなものは子供の屁理屈にすぎないと聞き流されただろう。清算に行こうにも本人が死んでは元も子もないからだ。
それでもファルは、差し出された包みを慎重に受け取った。銃と一緒にフィストの志も受け取ったのだろう。
「…分かりました。そうですよね、あなたは私にそう言ってくれましたものね。すみません、そのことを忘れていましたわ」
再びファルに笑顔が戻ったが、それは単なる自嘲の笑みだ。
「はぁ…結局は私も、自己の満足のためにしか銃を持たない人間でしたのね」
「そんなこと…!」
「いいのです、分かっていた事ですから。フィストさんは何が大切なものかを分かっている、そうでしょう?」
子供をあやすような言い方に、フィストは何も言えなくなってしまう。
「さあ、もう出発しないと夜になってしまいますわ。せかす形になってすみませんが、お急ぎになった方が良いかもしれません」
見上げて見えた空は、確かに半分ほどがやや赤色をにじませたような紫色をしていた。冬の日没は速いため、ここから完全に夜になるまであまり時間はかからない。
「そうだな。じゃあ、また会う日まで!」
ダルタが右手を軽く上げると、軽い足取りで走りだした。後れを取ったフィストも「失礼しますっ!」と急いで会釈をし、追って駆け出した。
そのスピードは速く、ものの数十秒で音も聞こえなくなった。
「いやはや、相変わらず元気な方ですな。フィスト様も昔のダルタ様とよく似ていらっしゃる」
まずドルイズが口を開いた。
「きっとたくましい男性になるでしょうね。その時は常連さんになってくださるとうれしいのですけど」
ファルがいつの間にかいつもの調子に戻っていた。コレクションを思い出したのか、頬に両手を添えて顔を赤くしている。
「……ほら、そろそろ入るぞ」
呆れかえったガルバートがさっさと玄関を開く。それでも含み笑いをしているのがバレバレだ。
「ふふふ、ガルバートもフィストさんのこと気に入ったようですわね」
「……」
ガルバートを追って家に入ったファルが彼と並んだ。顔を覗き込むと、見られるのを嫌がるようにガルバートの顔が反対を向いた。
「また次に会ったときは…いえ、なんでもありません」
「……それはどういう意味だ?」
思わせぶりな発言に振り返った時には、ファルはガルバートの遥か先を歩いていた。
「私もあの方たちが羨ましいです。とても仲がよさそうでした」
「……ああ、そうだな」
「私も同感でございます」
最後に入ってきたドルイズが廊下の明かりをつけた。窓からその明かりが外に漏れる。
年末という厳しい冬の時季だが、そこの薔薇は相変わらず力強く咲き誇っていた。
アーミルとリメール。それぞれが自身の席についている。あとの二人はすでに夢の中だ。
別に二人で約束したわけでもなく、気がついたら二人だけが未だに起きているといった状況になっていた。
「…なあ、リメール」
耐えられなくなったアーミルが口を開いていた。
「何でしょう」
「……なんか、ずいぶん平気そうだなって」
前日の買い出しの際も、リメールは『それ』を感じさせる素振りは全く見せなかった。表情にこそ出さなかったがアーミルの驚愕は相当なものだったのだ。
「…だって……」
言葉を濁らせる。さすがに直接聞きすぎたか、とアーミルも眉をひそめた。
「…だって、いつまでも気にしてても仕方ないじゃありませんか。どうにかできるものでもありませんし。それにきっと、ユリスさんやフィストさんの方が辛いと思うんです。私があれっぽっちのことでくよくよしてちゃいけないんだって、そう思いました」
「……強いな、リメールは」
返答はなかった。それはアーミルにとってはあまりあってほしくなかった反応であり、焦燥を誤魔化すように頬の内側を噛んだ。
「…アーミルさん、やっぱり聞かせてください」
「…何を?」
リメールが急に真剣なまなざしを向けてきたので、つられてアーミルの姿勢を正す。
「私は……ここに必要な存在ですか?」
リメールの顔が赤くなっている。どちらかというと、恥ずかしいのではなくて泣きそうな時のそれだ。
「先日のこともそうです…私がここにいて邪魔だったりしませんか?私のこと、いらなかったりしますか?」
「……」
分かりきっている質問、というわけではないのはリメールの表情から窺えた。どうやら真剣にそのことで悩んでいるらしい。
「なるほど、だから最近様子がおかしかったのか」
「…そうでしたか?」
赤い顔のままそわそわしている。
アーミルの返答が、よほど気になっているのだろう。
机に肘を突き、リメールの顔を見つめる。
くりっとした赤い瞳。そこから湧き出す僅かな雫が確認できる。初めて見たわけではないのだが、心をくすぐられるような感覚に襲われる。期待半分、不安半分といった顔でアーミルを真っ直ぐに見据えているのだ。
「分かりきってるだろ?」
アーミルはそれほど悩むこととは思えなかったが、その質問にリメールは首を横に振る。つまり全く分からない、だから聞いているんだ…そう言うように。
「…口に出して言うのも恥ずかしいが…」
「……私は…」
お互いの呼吸が一瞬止まる。
「もちろん、欠かすことのできない存在だ。それははっきり宣言しよう」
「………っ!」
顔が伏せられた。感極まったのか、とアーミルが詮索する間もなく寝室に駆け出してしまった。
追いかけようとしたアーミルだが、すぐに席に座り直す。それから口元だけで笑って溜息をついた。
「…これでよかったのか…分からないな…」
いらないと言うべきだったのか、アーミルにすぐ判断することはできなかった。
それは、彼女の為か自分たちの為か、そんな判断なのだから。
窓の外に目をやる。大きな上弦の月が出ていた。