4話 母の面影
…違和感を覚えたのはいつごろからだろうか。自分が特別な能力を持っているわけではなかったのだが、街はずれの森からどす黒い人間の瘴気を感じるようになった。
ここ数カ月、日を重ねる度にその匂いが濃く、酷くなってきていた。そしてその匂いが闇を帯びたころ、頭の中に自分のものとは違う考えが刷り込まれていた。
その考えが背中を押し、それをしなければならないと悟った。それが刷り込まれなければこんな事にはならなかった筈だが、それは重要なことであるような気がしていたため後悔はしていない。
森の奥へ、頭の声が僕を引っ張っていた。日も沈みかけた赤い世界で影が長く延びる。
木が無くなり開けた草原に大きな影を見つけると、今までよりずっと嫌な匂い、そしてやらなければならない事とが強いイメージとなって僕の体を突き動かした。
明らかに部外者が入ってはいけない雰囲気があったのだが、そんなものは気にしなかった。声に従って行動していると、不思議とそこの人間に見つかることはなかった。
声の指示する所。そこに、小さな封筒が一枚置いてあった。何も書いていない白い封筒だが、それがとても重要で大変なものというイメージが声からもたらされた。
封筒を取ったところで研究服に見つかり、すっかり暗くなった街の中を逃げ、彼に助けられ……
そして、彼を殺された。
僕の日常を狂わせたこの封筒にはいったい何が入っているのか?何が僕の生活をこれほどまで捻じ曲げてしまったのか?
声の指示は、もう聞こえない。
自らの意思で、フィストは封筒を開いた。
書類が一枚…何かの報告書のようだ。「生物錬成」という聞き慣れない単語が題の部分に使われている。
難しい部分を飛ばすと、「被験体ユリスの実験から、錬成の条件は正しいことが証明」され、「状態良好のためユリスでの実験も続行する」といった文が記されていた。
その末尾にだれかのサインと、よく知っている人間のサインが書かれていた。それはずいぶんと身分の高い人間のようだ。
フィストが敵にまわした存在は、彼の予想をはるかに超えた強大なものだった。
事の重大さに気づいたフィストは、必要最低限の荷物をまとめて家を出る準備を進めていた。
同じ場所にとどまっていれば、確実に数日で発見される。一刻も早くそこから離れる必要があった。
無論、もう帰ることは叶わない。
気がついた時には彼は外を歩いていた。荷物を持っていなかったため、そのまま逃避行に移るにはあまりにも今後が不安が残った。
無駄な時間と言えば確かに相違ない。しかし、フィストはどうしても逃げ出す前にこの街を歩いておきたかったようだ。
長く暮らしてきたその街を目に焼き付けるためだったのかもしれない。
彼と出会った日と同じ深夜の闇。そして回想が現実になったように、彼女に出会った。
積み上げられた段ボールを動かすと、ボロボロの木箱が発見できた。フィストがそれを取り出すのは六年ぶりだ。
引っ張り出してふたを開けた。そこには衣類がいくらか詰め込んであった。フィストに懐かしさを感じさせる独特の香りがそこから広がっている。
記憶の中で僅かに輝く…母の遺品。
それらを見つめていると、フィストの脳裏に母の笑顔が浮かんで消えた。
ロッキングチェアの優しい揺れ。朝から続いた出来事による疲労もそれを手伝い、ユリスは夢と現実の間を彷徨っていた。
温かい声が遠くからユリスを呼んでいる。励ますような優しい声だ。
ユリスの意識が夢から離れていくのと同時に、その声もユリスの耳から遠ざかって行った。
はっと現実に舞い戻ると、奥の部屋からちょうどフィストが戻ってきていた。その手に女物らしい服を抱えている。そしてユリスに近寄ると、丁寧に畳まれていたそれを広げて彼女に確認させた。
「お母さんの古着で悪いけど…これが一番しっかりしてたよ」
ブラウンのTシャツとベージュのチュニックのセット、そして黒いスカート。飾りは殆どなく、平凡な服と言っても差支えは無い。
ただ、そのいずれにもちょっとした汚れや縫い合わせた跡があり、フィストの母親がどれだけこの服を大事にしていたかが分かる。
成人女性のサイズなのでユリスにはやや大きいようだが。
フィストはそれを椅子に揺られているユリスの膝の上にそっと置いた。
「その薄いシャツだけじゃこれから寒いでしょ?その服あげるからさ、着替えておいて。僕は隣の部屋に行っとくから」
「え…でも…」
「気にしなくていいよ。どうせ僕には着れないし、お母さんももう着ないし」
それ以上の追及を避けるように、フィストはそそくさと部屋を出て行き扉を閉めた。
聞こうとしていた事が何も聞けず、ふうとため息をついてから膝の上のシャツを手にとって広げた。
目の前がブラウンで染まる。その中に、一目では気がつかないほどたくさんの汚れや傷がついていた。
つまりはこのシャツの使用期間がそれ相応に長いということなのだが、そんな物をもらっていいのかユリスは疑問に思い、確認を取ろうとフィストの出ていった扉に近づいた。
足はまだふらふらしているがあまり気に留めていない。
「…フィスト」
「ユリス?もう着替えたの?」
扉越しにフィストの驚いた様子が伝わる。ユリスは気にせず、淡々と用件を述べる。
「これ、ホントにもらっていいの?」
これほど大事にしている物をあっさりあげていいのか。ユリスの最も気にしている点だ。
「え?うん、もちろん」
フィストの返答には、なぜわざわざ聞くのかというような意志が込められている。
「お母さんに聞かなくていいの?」
「ああ…」
フィストのトーンが、その一瞬明らかに下がった。
「いいんだ。お母さん、六年前にもう死んでるから」
「…」
ユリスは部屋の中を見渡した。
必要な家具以外はあまり装飾品は無く、余分な物は一切が省かれている。若干女性の暮らしていた痕跡も見つけられるが、無理に忘れようとしたかのように隠されていた。
母親がいないというのも説得力がある。
「じゃあ、この服ってお母さんの形見?…大丈夫?」
服の汚れや傷が目に入り、意図せずその疑問が口に出ていた。
「そこは気にしなくていいよ。形見って言っても服は他にたくさんあるし、それに着てもらった方がお母さんも喜ぶと思う」
「…分かった」
それ以上は特に抵抗する理由もなかったので、ユリスは扉の向こうに軽くお礼を言ったあと椅子に戻っていった。
椅子に置いてあるチュニックを見つめた。しばらく考え込むように固まっていたが、持っていたTシャツを背もたれにかけ、着ていた真っ白なシャツを脱いだ。
椅子に座ったフィストは、何をするでもなくただぼんやりと奥の壁を見つめていた。
ユリスがまだ衰弱してしまっている以上、少なからず休息する必要がある。まさかまだ追手の徘徊しているかもしれない外に出すわけにもいかないし、彼女一人を残してここを出るわけにもいかない。いずれにしろ、ここで彼女と別れるという選択肢は選ばないだろう。
書類にあった「生物錬成」という言葉、そして書類の内容がフィストの頭から離れないでいた。
あの声の指示には従う方がいい…フィストは根拠のないままそう確信していた。なので、まだ後悔は微塵も感じていない。だが、まるで導かれるように助け出した彼女は、どんな内容のものなのかすら分からない「生物錬成」の関係者、厳密にいえば被験者なのだ。たまたま名前が一緒という可能性もなくもないが、それにしては辻褄が合わない。
そして現在に至るまでのあらゆる出来事から、まるで全ては敵の大きさを表しているかのようだった。
ユリスのかかわっていた「生物錬成」の実験とは一体何なのか。まさか本人に聞くわけにもいかないだろう、と一人で考えていたが、それに関する知識があまりに乏しい。結論も答えも出るはずはなかった。それでもフィストは、考えることを止めることが出来ない。
閉めていた扉の開く音がした。ユリスがフィストのいる部屋に入ってきたようだ。
「着替え終わったよ、一応」
無表情なユリスの声に、フィストは考えるのを一旦やめて振り返ってみた。
やはり母より体が小さいので、服はサイズが合わず袖から手が出ていないのだが、奇跡的にスカートは膝あたりまでで収まっている。
しかしユリスは、まるで持ち主のようにその服を着こなしていた。
チュニックのベージュと、その下から覗くブラウン。そこにやや被さっている、腰まで伸びた髪のブロンド。その中に浮かぶ瞳の濃い空色がよく引き立たれている。
つまりは、よく似合っているのだ。
服のせいだろうか、フィストはその姿の中に母親の面影が重なって見えた。似合っていると伝えようとしたフィストの口は、違う言葉を発していた。
「お母さん、みたい…」
口にした直後、フィストの顔が赤くなった。
「お、母、さん…?」
ユリスの顔も赤みがかった。どちらかというと困惑に近い顔をしている。
「あ、いや!変な意味じゃなくて!褒めてるんだよ、似合ってるって!」
「褒めてる…似合ってる…」
ユリスの口元でいくらか言葉が繰り返された。ユリスはまだ恥ずかしそうに立ったまま固まっているが、すっきりしないような顔でフィストを見てきた。
「なんか、変な感じ…隠れたいような、でも明るくなってくる気持ち…」
「?」
「こんな気持ち…何て言えば…?」
少し小さい声でこんなことを聞いてきた。まさかこんなことを聞かれるなど、予想できるわけがない。フィストも例外ではなかった。
「え…?んーと、それは…。嬉しいんだよ、うん」
「嬉しい…これが、嬉しいってことなんだ…」
「うん……多分…」
言っているうちにフィストの方も自信を無くしてきた。遠まわしに自分のことも褒めているような気になってしまったようだ。ますます顔が赤くなったのを本人も気づいたらしく、とっさに別の話に変えようと試みた。
「今日はもう疲れたでしょ。外は真っ暗だし、そこに僕のベッドがあるから使って」
ユリスは小さく頷き、それからすぐそのベッドに潜り込んだ。
今夜は床寝だ。今しがたのことを瞬時に忘れ、フィストは横になったユリスの後頭部を見て溜息をついた。
と、ユリスがフィストを見つめていた。
「私、『嬉しい』って初めてだったから…ありがとう」
すぐにまた後頭部がフィストを向いた。
また紅潮した顔がどんな様子なのか、鏡を見なくともフィストはよく分かった。その気持ちを紛らわすかのようにせかせかと歩いて行って明かりのスイッチを切った。