42話 雪の首飾り
壁に掛けてある日めくりカレンダーを見ると、もうクリスマスが近いことを数字から実感できる。未だ何も準備をしていないのだが、彼らは今それどころではない程忙しい。あとはフィストとダルタの帰りを待つだけだとアーミルは分かっているのだが、はっきりしない現状のせいでアーミル自体の限界が近くなってきていた。
ユリスの正体。それを調べる過程で、あまりにも『余計でない』余計なことが分かりすぎてしまったのだ。仲間内だとしても、まさか大声で教えて回るのも良い判断とは言えない。それこそ、まずはフィストだけに伝えるべきだとアーミルは考えている。
「……」
「……」
おそるおそるといった様子でカレンダーがめくられる。その日付は翌日のものだ。
「……」
「……」
もう一日めくられる。日付は更に翌日…彼らの帰ってくる日だ。そこで彼女の手が止まっている。
これほど分かりやすい行動というのも珍しいだろう。
「……」
「……あのさ、ユリス」
急に声をかけられたからか、手が離れてカレンダーが今日に帰ってくる。
「そんなことをしてても時間は進まないぞ」
「……うん」
分かっていても我慢できないのか、カレンダーの前から張り付いたように動かない。他にやることもないらしく、ただ虚ろ気に進まない日付を見つめていた。
「…あのさぁ、ユリス」
「…?」
気が気でないのか、返事すら来ない。耳の注意だけがアーミルに向き、意識はカレンダーに釘付けだ。
「ユリス、今ヒマ?…だよな、その様子じゃ」
誰がそうさせているんだ、と言うような視線がアーミルに向けられる。憎々しげなものではないが、それを向けられてもあまりいい気分にはならない。
「じゃあ…仕方ない、ちょっと外を歩こうか。あんまり引き籠ってても体に悪いからな」
「え…」
顔だけしか向けられていなかったが、今の一言で全身がアーミルに向かい合った。それほどに意外だったのだろう、それによりようやくアーミルの位置からも日付が確認できるようになった。
「まあ、身の安全から言えばあまり良いとも言えないんだけど。明後日までそうされ続けるのも困るし、遠くまで行かなければ何とかなるだろう」
そう言って席を立つ。そしてリメールを呼ぶためだろう、寝室に向かっていった。
「……」
刺さるようなユリスの視線がアーミルの背中に向けられる。アーミルもその理由を分かっているので、申し訳なさそうな表情をして頭を伏せた。苦笑いしか見せていないリメールは気づいていたのかもしれない。
大量の塩、胡椒、砂糖。アーミル、リメール、ユリスがそれぞれの詰まった鞄を手に持って歩いている。市場に入った時のアーミルの一言は『もうあんまり残ってなかったんだった』だ。
この行動は一般では『買い出し』という名称を持っているのだろう。とすれば、さしずめあとの二人は『荷物持ち』だろうか。
手に持っている鞄の中を歩きながら覗き込んだ。店員が華奢なユリスを心配して瓶から入れ替えてくれた紙袋…その中には大量の砂糖が入っている。鞄の容量限界まで入れているので、紙か瓶かの差はもはや助けとなっていない。歩行速度が遅くならないようにしているが、両手で持たなければ支えきれない。その両手も痺れを訴えてきて、事務所まで持ちこたえてはくれなさそうだ。
「…ちょっと休ませて」
前方のアーミルにそう言うと、返事を待たずに鞄を壁に寄りかけて下に置いた。
鈍く重い音がして重量が大地に移る。それにより自身への負荷がなくなると、ユリスはふうと溜息が出た。つかの間の休息に、疲労感も手伝って視線が遠くにいく。
「大丈夫ですか?」
リメールが気遣ってきたが、そのリメールも大量の胡椒の入った鞄を下に置いてその場に座り込んでしまっている。人の心配をするべき状態ではないだろう。
「…リメールも、少し休もう」
アーミルも二人の元に戻ってきて、ばつの悪そうな苦笑いをしながら自身の荷物も下に置いた。ユリスはその場でふっと空を仰ぎ、やや雲のある空の青を虚ろ気に見つめた。音はなく、通りを静寂が包む。
近くに人の姿はない。この通りにいる人間は、今はどうやら三人だけのようだ。遠くから騒がしい声が聞こえてくるが、それはこの通りとはまるで別の世界ともとれるほどごく微量のものだった。
静かに目を閉じた。より鮮明で、より遠くまで、世界の細かな様子が聴覚からユリスに流れ込んでくる。
子供の笑い声は二、三人分重なり、ふざけ合いながら遠くへと走り去っていく。石畳の上を遊びながら駆け抜ける様子が浮かび上がる。少し羨ましいと思いながらも、今が『買い出し』の途中になってしまっていることは忘れていない。
鳥が飛び立った。子供に驚いたのか、車でも走ってきたのか。一羽ではわずかな羽音も、五、六羽一斉に羽ばたけば案外大きな音を出す。鳩なのか、カラスなのか。そのせわしなさはスズメかもしれない。そこに興味がわき、更に耳に神経を集中させ始めた。
「…わっ」
下半身が後ろから押され、思わずよろめいてしまった。急に心がこの世界に引っ張り戻されたような感覚と同時に、あらゆる音が耳からさあっと引いていってしまった。
何事かと振り向く。そしてすぐに、自分よりも更に背の低い一人の女の子を見つけた。ユリスのすぐ前で、じっと彼女を見つめている。
それは、紅葉と見違えるほどの鮮やかな紅色だった。一片の曇りもない輝きを誇り、肩甲骨のあたりまで真っ直ぐに伸ばされている。瞳は新緑の色をして、その輝きの中で存在感を際立たせていた。
可愛らしい、と一言で片づけるには勿体ないほど、その顔立ちは愛らしいものだ。しかし、着ている服だけは真っ白いシャツ―――以前のユリスと同じようなシンプルなシャツ―――というあまりに簡素なもので済まされている。
そしてその子は、決して表情に変化を見せなかった。ぶつかったことに対して謝ろうとしているのか、ユリスを一直線に見つめて立ち尽くしているのだが、その表情には感情というものが全く含まれていない。
ただ見ている。それだけなのだ。
「…あの」
声はかけてみたが、何を言うべきなのか思いつかない。何を考えていて、どうしてほしいのかが全く伝わってこない。
「えっと…」
困惑した声が漏れる。今は相手の反応を待っていることになるのだが、女の子が反応しようとしているのかも表情からは汲み取れなかった。
「……」
「ごめん」
それは棒読みで、あまりにも小さな声だった。そして聞き返す間もなく、女の子はユリスの横を走り抜けて行ってしまった。
「…無口な子だなぁ…あれ?」
カツン、といって何かが石畳の上を滑った。足がぶつかったのだと気づき、慌てて拾い上げる。
それは、雪の結晶を模った首飾りだった。紐が丁度半分程の所で切れてしまっていた。
さっきはこんなものは落ちていなかったはずだ。この通りは相変わらず他の人間が行き来した様子はない。ならば、その首飾りは必然的にあの女の子のものということになる。
見ると、女の子はまだ視界の及ぶ範囲にいる。すぐに渡してあげなければと、ユリスは首飾りをしっかり掴んでその背中を追い始めた。
「二人とも、ごめん。ちょっと待ってて」
「ん、落し物?あんまり遠くに行くなよ」
その返答が得られると、すぐに全力で女の子に向かって走り始めた。だが、今まさに角を曲がった女の子はもう視界の外へ出てしまいそうだ。
二人の視界の外に出ることは避けるべき。以前の狼のこともあり、ユリスもそれはよく分かっている。
「待って!」
そう叫ぶと、女の子の足が止まった。何事かと問うようにユリスの方を向いたその表情は、先ほどと全く変わらない限りのない『無表情』だ。
女の子にようやく追いつく。僅かな距離だが、それでもユリスは若干息が切れていた。女の子はそんなユリスをなんでもなさそうに見つめている。
「これ…あなたの?」
首飾りを差し出した。女の子の視線がそちらに移る。
女の子は動かない。じっと首飾りを見つめたまま固まっている。
「…あれ…?違った…?」
不安になってそう聞くと、女の子はひったくるようにその首飾りを取り、首の後ろで紐を結び始めた。首飾りのはずだが女の子には少し大きいらしく、その飾りが胸から腹の辺りまで下がっている。
「ありがとう」
それもまたずいぶん小さく、感情もまるでこもっていないように感じた。だが女の子は更に言葉を続ける。
「あなたいい人。名前知りたい。教えて」
淡々とそれは述べられた。意外な質問だったが、ユリスも女の子の名前を聞きたいと思っていたので拒絶はしなかった。
「私はユリス。あなたは?」
言いながらユリスは以前にも似たようなことを人に聞いた事を思い出し、その子がその人と同じ雰囲気を持っていることにも同時に気づいた。
「リュナ」
「…リュナ。良い名前だね」
「……」
「じゃあ、もう落とさないようにね」
声は出さず、こっくりと頷いた。
「…リュナ、また会えるといいね」
時間をおき、ゆっくり頷く。
「…さよなら」
そう言って背中を向けるまで、リュナの表情は結局変化が見られなかった。それ以降はユリスの方へ振り返りもせず、通りの果てまで走っていった。
そして、角を曲がって見えなくなった。
独りになり、ユリスはその会話を頭で再生する。そして自分の発言が彼女と重なっていたことに気づいた。
「…そうだ、ルフィーネも…また会おうって言ってくれたんだっけ…」
あの笑顔が浮かんでくる。空を仰ぐと、その笑顔は青色の中に吸い込まれて消えた。
得体のしれない寂寥感。もう泣かないと誓ったのに、またしても涙があふれ出そうになった。
ユリスを現実に連れ戻したのは、手提げ鞄の倒れる音と慌てた様子のリメールだった。
「あー!アーミルさんどうしましょう!中身がこぼれて…!」
ユリスよりも泣きそうな顔をし、アーミルが苦笑しながらそれを見ている。助けようともしているのだが、アーミルの鞄も倒れかけていてうまく離れられないようだ。
「…そっか、買い出しの途中だった」
涙を押し込み、ユリスは四苦八苦しているリメールへと駆け寄った。