39話 自身を変えるために
「あのね…いろいろ考えたんだけど」
ユリスが自分から話しかけていた。そこにいる全員の耳に届くような大きめの声だ。
「私…自分が何であったとしても、もう逃げない。人とかそうじゃないとか、そんなことで迷わない」
リメールとティリアは彼女の意志をすぐさま理解して力強く頷く。アーミルもまた、彼女の言わんとしていることを汲み取って真剣な顔つきでその話に耳を傾けている。
「…でね、それで私…お願いがあるんだけど」
一瞬の間を置く。その空欄は、後の言葉をよりはっきりと強調した。
「逃げないっていう意味で…自分の正体が知りたい。だから、みんなに、手伝ってほしい」
「……」
「自分が何なのか…それを知って、それが何であったとしても、私のこととして受け入れたいから…」
迷い。そんなものは、彼女からはとっくに消え去っている。自身を恐れ、自身に怯えていたかつての姿はその様子からでは全く連想できない。
リメールが感動したらしく、喜びに満ちた表情で立ち上がっていた。
「すごいです、ユリスさん。自分が人でないと思った時って、それを知ろうと思える人はなかなかいませんよ」
「…フィストのおかげ」
「フィストの?」
そう聞き返したティリアに、言葉にはせず小さく頷いて肯定する。乗り気ではないのだろうが、その場の全員が詳しい説明を求めていることに気づいたようで、とぎれとぎれに話し始めた。
「…この間、フィストと二人きりで話をしたの」
「あの襲われた日だな」
「…あの時は、本当に怖かった…自分が化け物なんじゃないかって、すごく不安だった。いつか自分を見失って、大好きな人達に手を出しちゃうかも、って…」
目覚めたユリスが泣いたところは全員が確認しているし、その後の心の中での苦悩もティリアは気づいていた。だが、彼女がそれを必死に隠そうとしていたのは、フィストと屋上に行った後に感じることはなかった。見込んだ通りだったな、とティリアは内心で安心していたのだ。
「フィストは…何があっても私は私だって言ってくれたの。ティリアとリメールにも似たようなこと言ってもらったけど…」
二人は名前を出され、ルフィーネの前での会話を思い出す。相談の内容の割にユリスがあまり思い詰めた様子ではなかったのは、フィストとの会話である程度の決心がついていたからのようだ。その上で二人に相談を持ちかけたのは、より多くの意見を聞いておきたかったからなのだろう。
「今日、はっきりした。みんなと一緒にいる私も、一人でいる私も、私の中にある力も、全部含めて『私』なんだ、って」
曇っていた空に光が射してきたように、ユリスの表情は一気に明るくなった。暗く沈んだ曇天は自ら払拭することに成功したようだ。
「…もう、私が何であっても怖くない。本当の自分の姿、それを知りたい」
空間が一つになる。あらゆるものが同調し、一つの生き物のようにまとまる。
「協力するぞ」
「きっと見つかるよ」
「頑張りましょう」
三者三様の励ましに、ユリスは力強く頷いて答えた。
自分は人間でないかもしれない。不可解な実験で生み出された化け物かも知れない。
それがどうしたというのだろう。
彼らの絆の前に、そんな事実は何の問題にもならない。
「…何かあったのか?」
アーミルがリメールにそう切り出したのは、夜。ユリスが眠ったことを確認してからのことだった。起こさないように声をひそめている辺り、気を遣っているらしい。
「…ユリスさんのこと、ですよね」
勢いよく走っていたペンが、ぴたりと止まっていた。顔もあげず、リメールは目を合わせないようにしているようだ。
「あれだけの決意を持ったんだ、余程のことがあったんだろう?」
アーミルはすでに分かっている。買い物に行った時、ユリスに何があったのか―――正確には、ユリスが何をしたのか、を。あえて聞かないでいたようだが、自分から話しに来なかったことに対して嫌悪のようなものを示している。
「…嘘、つけませんね」
聞き取れるかどうか怪しいほど小さな声だったが、アーミルは間をおかずに頷く。
「お前は嘘つけるような人間じゃないだろ」
「…それは…」
皮肉のようにも聞こえる言い回しだ。リメールはそれを純粋に褒賞として受け取りたかったようだ。今以外で聞いたのなら彼女は確実に喜んでいただろう。
「…今日も、襲われたんです。コートではなくて、二足歩行する狼みたいな姿でしたけど」
「ほお、そんなことが」
表向きには、アーミルは何があったか知らないのだ。あえて棒読みでアーミルが驚いて見せる。
「情けない話ですけど、私もティリアさんも苦戦してました。数もありましたし、一体一体の実力も高かったんです」
「二人の怪我の具合を見ればそれはなんとなく分かるが…まあ、大事に至らなくて良かったよ」
「…見ていられなかったんでしょうか…ユリスさんが前に出てきて『手伝う』と言ったんです。それからしばらく黙って、意識を集中させて…それからすぐに、大きな翼が背中に生えてきました。光でできた半透明のものでしたけど」
翼。力の象徴。それを初めて目にしたリメールが今思い返して浮かんでくるのは、荘厳で神々しいという印象を持つ光の結晶だ。その当時は溢れ返る力を肌で感じていたのだが、記憶の中のそれに威圧感は感じられない。
「今日のユリスさんは、自分で力を制御できてるみたいでしたよ。多分、フィストさんの言ったことが大きかったんだと思います」
ソファで眠っているユリスに視線をやると、警戒心を全くもっていないような安らかな様子で寝息を立てている。その笑顔の中には、自らの進歩に対する喜びも含まれているのだろうか。
「…きっとそれだけじゃないさ。ティリアとリメールの言ったことも、フィストと同じくらいユリスの支えになったはずだ。確かにフィストはユリスへの影響力が大きいだろうけど、ユリスを支えてるのはティリアもリメールも一緒だろ?ユリスも分かってるはずだよ」
「……」
黙ったままリメールが席を立つ。書きかけていた書類もそのままに、その姿が寝室へと向かう。
「…リメール?」
足が止まる。
「…あの、アーミルさん」
「ん?」
「…私って本当に……」
「?」
「…いえ、やっぱりいいです」
「…そうか」
リメールは振り向こうとしない。見れない理由があるのか、アーミルには判断がつかない。
二人とも沈黙する。この状況でうまく方向転換できるほどの話術は、あいにく二人とも持ち合わせていないのだ。
「…先に失礼しますね」
「ああ、おやすみ」
寝室に入っていくリメールはややうつむいているようだ。結局一度もアーミルの方を見ることはなかった。
「…いつも悪いな、リメール」
ぼそりと呟いたため、それが聞こえたわけはない。
ユリスがそこに立つのも何度目だろうか。ただ今回が特別だったのは、ユリスの思うままに体が動き、声も出せることだ。
無限に広大な白の世界。自分が何の束縛も受けていないことを確認すると、ユリスはゆっくりと歩きだしていた。
目的は一つ。あの女性と、会話をすることだ。
親近感の湧いてくる不思議な女性だった。いつもユリスの夢枕に立ち、声の出ないユリスに何かを伝えようとしている。何を言っているのか、何を伝えようとしているのか。それはユリスに届くことのないまま夢が終了する。
少し見まわしてみる。ハイライトもハイダークも存在しないその世界では空間認識があやふやになる。
その中に、いつも女性は立っている。今日もまた、どこかに立っているのだ。
「……あ…」
それもまた、いつもと変わらない姿だった。
赤ん坊を抱いた女性。惜しみなく与えられる笑顔の抱擁に、ユリスも安堵を覚えた。
「……」
どう声をかけていいのかが分からず、女性の言葉を待つ。山のようにあった言いたいことを思い出すことが出来ないのだ。そこだけが夢である欠点だとユリスは苦笑いする。
「ユリス」
「…」
女性がユリスの名を呼んでいた。しとやかで、それでいて芯のある声だ。返事をすることも忘れるほど、ユリスはその声に心を奪われていた。
自分の名前を呼んだだけなのだが、その声がユリスには神格化されて響いた。単なる人のものとは思えないほど濁りがなく、透き通っているのだ。
「ユリス…今、幸せ?」
「……」
またしても聞き入ってしまったが、その質問を頭で理解すると慌てて返事を考える。
「…えっと…うん、幸せ…」
「どうして幸せなの?」
女性の抱く赤ん坊は眠っているのか、全く声を上げない。いちいち気がそがれながらも、すぐに返事を探す。
「…私の周りには、たくさん人がいるの。みんな、私のことを認めてくれてる…それが、すごくうれしい」
「じゃあ…あなたは皆のこと好きなのね?」
自分のまわりの人たちを思い出す。そして頬を赤く染め、小さく頷く。声で返事をすることが躊躇われた。
女性も黙る。赤ん坊を抱えているので手は自由になっていないが、何かを考え込んでいるようだ。
「…フィストのことも?」
「…!」
ユリスにとってはあまり聞いてほしくない質問だ。だがこの女性に嘘を言うことも黙り込むことも、ユリス自身することを躊躇っていた。
「……フィストは、ちょっと違う。でも、フィストのこともすごく大切」
「…そう」
女性は隠すように微笑み、そして頷いた。
「フィストのこと、もっと分かってあげて」
「…え…?」
ますます訳が分からず思わず聞き返す。それに女性は答えず、その姿が白の中に薄らいでいく。霞んでいく中で、ユリスに向かって笑顔を見せていた。
「あ…待って…!あなた一体…」
その声が、虚しく白の中に吸い込まれていった。
またこんな理不尽な形で夢が終わるのかと、隠しもせずに溜息をつく。彼女と話をした以外はいつもと変わらない結果となったことが、ユリスには残念でならなかった。
ふいに耳に入ってきたのは、赤ん坊の泣き声。
聞き覚えのある泣き声。
おそらくはあの女性の抱えていた子供だろう。
その姿は、どこにも見えない。