38話 光子の翼風
油断は隙を生む。そして危機を招く。だからこそ『油断大敵』と言う四字熟語が生まれたのだろうが、四六時中そこら中に気を配るのも殆ど不可能な話だ。日々の生活の中で、人間は少なからず油断している瞬間がある。なにより無防備になる、その瞬間が。
大半はその油断も災いすることなくやり過ごされる。統治された街中でそうそう危機に直面することは、まず無いと言ってもいいだろう。
ただ彼女の場合、そのタイミングがいささか悪すぎた。
一般人の姿はない。戦闘しながら移動している間に、殆ど人が入り込まないような裏路地にまで来てしまっていたようだ。ある意味でいえば、それは好都合とも言える条件なのだが。
「っりゃぁ!」
ティリアのつま先がこめかみを抉る。脳に衝撃が走り、その勢いのまま石畳を荒々しく滑って行く。だがその勢いが止まると同時に、わざとらしくこめかみを擦りながらにやついて立ち上がった。余裕があることをアピールしているらしい。
「…はあ、ゴキブリみたいなやつらだなぁ」
「ずいぶんと頑丈なんですね…」
呆れ果てたように二人が呟く。今しがたのような攻撃ももう幾度となく叩きこんでいて、常人ならば気絶どころか頭部が変形しているだろう。
「…大丈夫…?」
二人の後ろからユリスが不安そうにしている。
「なに、問題ないって。もう少ししたら終わるから、ユリスはそこから動いちゃ駄目だよ!」
蹴とばしたばかりの足をティリアがぶらつかせる。多少は疲労がたまってきたのかもしれないが、重心を戻すと再び前を睨みつけた。
その向こうにいるのは―――二足歩行をする狼の群れ。
度重なる二人の攻撃でいずれも流血しているが、戦闘不能になっているものは一体もいない。どれも薄ら笑いを浮かべて余裕を見せつけている。ティリアも張り合うように笑みをこぼしているが、息がすっかり荒れていて仮にも余裕があるとは言えない状態だ。
一体が駆け出す。合わせてリメールが前に出ると、両手のナイフを交差させて構えた。
距離が一瞬で詰められると、狼の手が振りかぶられる。光沢のある爪がその先端で輝く。
「ぅくぅっ」
交差させたナイフでそれを受け流すと、続けざまにナイフを×字に振り下ろした。瞬時に後ろに下がられたため直撃はしなかったが、下がったそれの腹には赤い交差が確認できる。殆どただのかすり傷程度のもので、余裕の笑みは崩れていない。
他の狼はまとめてかかってくるようなことをせず、二人の抵抗する様を見て楽しんでいるかのようだ。駆け出す一体以外は絶対に手を出そうとしない。一体で十分と考えているわけではなさそうだが、あえて人海戦術をとらないでいるのは間違いない。
それは、弄ばれているかのようだった。
「……私も、手伝う」
ユリスが、一歩前に出た。
「…ユリス、下がってなって」
「ユリスさんは無理をしない方がいいですよ」
口をそろえてユリスを押し戻そうとするが、ユリスは頑として聞き入れない。さらに一歩を踏み出し、前方の狼たちと正面から向かい合った。
「ユリス……!?まさかっ」
彼女がこれからしようとしていることを予期し、ティリアが慌ててその肩を掴む。振り払われることはなく、いくらか堅くなった横顔が向けられる。
「…もう、私怖くないの。私の力だから、使いこなさないと」
わざとらしく笑って見せ、再び前方へ向き直ってしまう。近くにいるな、と無言で言われ、威圧とも違う逆らい難い力に促されたティリアは、その手を降ろして数歩離れた。
突然前に出てきたことで、狼たちも何事かと様子をうかがっているようだ。それが子供だったからだろう、油断というよりは単なる見世物を見るような表情だ。
「―――――っ」
意識を集中させる。自分の奥底へ飛び込んでいくようなイメージが浮かんでくる。深部の暗闇の中でその扉を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。
扉越しにでも感じる、強大な力。前に立つだけで圧倒されてしまいそうになる。
やはりまだ、どこかで恐怖を感じていた。その扉を開けた瞬間に自分を見失ってしまうのではないかという不安に駆られる。
全てを巻き込み、破壊活動にいそしむ自分の姿が想像される。悪寒を感じたユリスは、思わず足を止める。
(…フィスト…)
『大切な人』の顔が浮かぶ。同時に、彼から言われた一言が蘇る。
そして続けざまに思い出されるのは、自分を迎えてくれている人たちの顔。そのどれもが、今のユリスに笑いかけていた。それがどういった意味を持つのかは確認するまでもなかった。
一歩前に出る。そして、扉を思い切り押した。
それは以前にも経験のある感覚だった。
体中が火照るように熱くなる感覚。
感情的な何かが湧き上がってくる感覚。
血の巡りが異常に早くなる感覚。
寝起きのように、頭のぼんやりとする感覚。
深く考えることのできなくなるような感覚。
しかし、呪縛から解き放たれたような感覚。
無限の解放を具現化した感覚。
―――しかし、一つだけ違う点が。
前回は、力が氾濫して扉が押し破られるようだった。
今回はそうではなく、自らの意思を持って扉を開けようとしている。手には開くための鍵があった。
わずかな扉の隙間から力は押し流れてきている。体が反応し、次第にその流れの中に理性が飲み込まれていく。体中が温かな気に包まれ、そして体に流れ込む。だがその気には何とも言えない心地よさがあり、ユリスは抵抗することなく―――それを受け入れた。
まるで、別人。
着ている服、身長、髪の色…何も変わっていないはずの彼女の変貌ぶりは、狼たちの余裕をひっくり返すのには充分すぎるほど唐突で急激だった。
体から溢れかえる強大な力。それが彼女を取り巻き、巻き上げられた埃がその流れに乗って円を作っている。彼女のいる路地はそんな形の風など吹き得ないほど狭い。埃の円陣がそこで巻き起こるなど普通ではありえない話だ。
しかし、なによりもその存在を疑うべきであるのは『それ』だろう。
ゆっくりとその姿を出現させた、実体のない輝き。彼女の背中から生えているそれは、ただ単純に今の彼女の力を表し、解放の瞬間を待ちわびているかのように小さく開閉を繰り返している。例えるとすればそれは、竜が呼吸しているかの如く。
余裕を見せつけるわざとらしい笑み。この状況でそれをする者がいたら、それは『愚者』と呼ぶべきだろう。
「……ユリス…」
目の前で起きたユリスの『覚醒』。実際に見るのは二人とも初めてだが、フィストから聞いていたよりも穏やかな印象がある。破壊の限りを尽くさんとする威圧が印象的だったと言っていたフィストだが、今回のユリスはそのような荒々しさは持ち合わせていない。
「………」
狼たちを見ていたユリスが、首だけを二人に向けた。
完全に感情の欠落したような顔をし、瞳に生気が感じられない。全てを吸い込みそうなその瞳が、何かを訴えようと二人を見つめている。
「……ユリス…」
「ユリスさん…」
「………」
返事をしないままその首が前を向いてしまう。喋ることも表情を変えることも、今は思い通りにならないらしい。
それでも、二人は確信した。何も言わなくとも、表情を変えなくとも、間違いはなかった。
今のユリスは暴走しているわけではない。薄らぐ理性の中で、それでもその力を自力で制御しようとしているのだ。前回の覚醒とは確実に違う、そう言い切って全く問題はない。
タン、と地を蹴る。力を込めた様子はなく、スキップをしたのかと見える程度だ。
だがその直後、ユリスの姿は残像もなく消えた。
「……え?」
ティリアが間の抜けた声を上げた。
突き出されたユリスの手。ほんの一瞬前にはそこに狼が一体いたのだが、その手と入れ替わったかのように音もなく姿を消してしまった。何があったのかだれも理解が追い付いていない。おそらくユリス自身も、よく分かっていないだろう。
「………」
余韻を持たせる間もなく、逆の手を突きだす。そこに他の狼がいるわけではないが、その延長線上に複数の狼を捉えている。
その掌から細長い光の筋が走ったかと思うと、数体の狼を貫通していった。手から出たレーザー、と形容できるような光線が幾つもの風穴を作り出す。現実のものとは到底思えない、非科学的なものだ。
笑顔の消えた狼たちが布陣を整え始める。余裕はすでになく、集団でユリスに攻撃する魂胆のようだ。目を血走らせた狼たちに気づき、呆けていた二人がハッとして駆け出し、ユリスの横に並んだ。
「あいつらが全員でくるって言うんなら、こっちだって総力戦だ。ユリス一人に任せたりしないよ」
「微力ながら、お手伝いします」
二人に多少思考の差はあるようだが、戦う意思を持って敵と対峙している。
「………」
二人のことは見ず、にこりとも笑わない。だが二人の意思は伝わったようで、背中の輝きが二人をよける形で広がった。
塊と化した狼が突進を始める。脇の二人は身構え、ユリスはゆっくりと手を前に突き出した。
「このっ!」
ティリアの踵が後頭部を直撃する。それによって、最後の一体も戦闘不能となった。
「…全滅しましたか?」
ナイフをしまい、リメールが辺りを見回す。
散乱する獣。多少流血の後もあるが、何も知らない人が見れば多少乱闘があったとしか思わない程度にとどまっている。それはある意味で言って奇跡だろう。
ユリスが僅かでも理性を持っていたからでもあるだろうが、二人が協力して戦ったことで必要以上に暴れまわる必要がなかったことも一因に挙げられる。ティリアは額の汗をぬぐい、戦闘中に見たユリスを思い出していた。
フィストの言うとおり、普段のユリスはおろか普通の人間でもできるはずのない身体能力を彼女は発揮していた。だが、明らかに二人のことを意識し、二人の及ばない部分の敵を優先して相手にしていたような印象があった。ユリスが二人に干渉したのは、多数が一度に襲い掛かり押され気味だった時くらいだろう。
ふとユリスを見ると、ちょうどその輝きが収まっていくところだった。背中に入り込むように収縮していき、完全にその姿が消えると同時に瞳に生気が戻った。
「………あ…?」
驚いたような表情をし、自分を見る二人と目を合わせる。
「ユリス!」
「ユリスさん!」
二人が駆け寄る。自らの意思で力を行使したためか、気絶することはなかったようだ。
「…大丈夫?」
「…私……うん…何となく…覚えてる…」
ユリスが記憶の糸をたどると、以前よりはっきりと自分のことが思い出された。暴走という印象はなく、力のもたらす高揚感の中でするべきことをこなした、それだけがユリスの印象に残っている。
ただ、以前のような感情的なものは全く無かった。高揚感の中といっても、多少冷静になれる部分もあったのだ。なので二人が協力した分は力の抑制もでき、極度の疲労を感じることもなかった。
「……二人とも、ありがとう…手伝ってくれて」
二人が自分と並んで敵と向かい合ってくれたことも、ユリスははっきりと覚えていた。嬉しいという感情を感じていたのだが、それを表現することが全くできずにいたのだ。
「い、いやぁ気にしないでよ。ホントに助けになったのか微妙だったし」
「助けてもらってばかりだった気がします…」
「…そんなことない。私…すごく嬉しかったよ…」
ユリスが頬を赤らめると、二人は照れくさそうに笑った。
「…じゃ、そろそろ帰ろうか」
言うが早いか、ティリアが歩き出す。
「もう一人でどっか行っちゃ駄目だよ」
「……ごめん…」
ユリスが申し訳なさそうに呟いた。買い物の途中に僅かながら気を緩めてしまい、一人で路地裏に入り込んでしまったことが思い出されていた。