37話 アローン・ガール
薔薇というものはなかなかデリケートで、与える水や肥料の分量を僅かに間違えただけでも可憐な花を咲かせない。見栄えが良いからと言って半端な知識で育てようとすると、かえって見栄えが悪くなることすらある。その点でいえば、この屋敷の薔薇が鮮やかな色の花を咲かせていることは簡単なことではないのだろう。
ダルタが庭に出ると、ドルイズの薔薇の剪定をしている様子を目にすることができた。屋敷の主である二人はフィストの特訓に付き合っているので、今日はあまり仕事がないようだ。屋敷の掃除や買い出しといった日常的な雑務は既に済ませているらしい。
「流石だな。これだけの薔薇を管理するのは並大抵なことじゃないだろ」
ダルタが近づくと、その手を休めないままドルイズが会釈をした。彼の手によって昨日まで飛び出していた枝が切りそろえられ、見た目もだいぶ落ち着いている。
「おや、ダルタ様。私などまだまだ…」
「教えたのは俺だけどよ、数年でここまで作り上げて面倒もちゃんと見るってのは俺でもできる自信がない」
近くに咲いていた一輪の薔薇を見つめる。黄色い薔薇―――ペルシャン・イエローのようだ。
昨今出回っている黄色系統の品種の原種とされている。つまりは品種改良がされておらず、人の手による耐性付与は一切ない筈なのだ。
温度の変化に敏感で夏・冬に弱い。特に耐寒性は他の薔薇に比べても無いので、この冬に咲き誇っているというのは普通では不可能だ。また病気にも弱く、黒点病にとてもかかりやすいので株の維持自体が高難易度とされている。植えてあるにしても、大抵は黒い斑点を持つ葉が見え隠れしているものなのだが、この株に限ってはそれがない。
「…ドルイズ、才能あるな。というか、才能でどうにかなるものなのか?」
「ははは、まあそれの維持は確かに大変ですよ。おかげで私は病気する暇もありません」
「そっか。それはなにより」
目の前の老執事に心配は必要ないことが分かり、もう一度庭一面の薔薇を見回して溜息をついた。彼がどれだけこの花々を慈しんで育てているかは、それを見れば充分伝わった。
「あらダルタさん、それにドルイズも」
その声に振り向くと、すぐに金色の瞳が目に入った。次いで雪色の髪、黒のジャンパースカートと続いて映る。
「ファル様。これからお出かけですか?」
「ええ、少し散歩に行こうかと思いまして」
お互いに敬語を使っているとどちらが主人か分からなくなる。やはりファルの服装がややこしくしているのだろう。
「そうですか。それではお気をつけて、いってらっしゃいませ」
「ドルイズも、薔薇の手入れを頑張ってください」
一度頭を下げるとにこやかに歩いていった。蔓薔薇をからませたオベリスクが立ち並んでいて、その姿もすぐに見えなくなる。対象を失った視線は自然とその薔薇に行ってしまう。
「ファルは元気だなぁ。なんかこう、金持ちっぽくないって言うか」
「…まあ、お金以外はあまり恵まれない環境でしたので」
剪定バサミを動かしたままドルイズが呟く。それでダルタが思い出したのは、初めてファルと会った時のことだ。
知人から聞いた、武器を扱う商人の存在。それは富裕層が暮らしているフォルクコートに住んで取引をしているという、とにかく変わった印象しか受けない人物像だった。だが実際に会ってみると何ということはない、物腰の低い若い女性が老執事を一人連れてダルタを迎えたのだ。
屋敷の前で立っている一人の女性。初めてそれを目にしたダルタには、彼女がひどく寂しそうに見えた。豪邸に執事一人だけを連れ、他の家族の姿もない。ちょっとやそっとのことではそのような事態にはならないだろう。
「ファルは、いつからここに暮らしてるんだ?」
口にする前から、ダルタにも若干の罪悪感があった。―――それは、やや言いにくそうにしたドルイズが一層助長した。
「…ずっとです。ファル様はこの家で生まれ、現在に至るまで住居を移したことはありません」
「…ドルイズもか」
「はい。ファル様のご両親の代からお仕えさせていただいています」
「ファルは…いつから一人になったんだ?」
ハサミが止まる。
あまりに分かりやすい反応だった。
「あ…いや、聞いちゃまずかったかな」
「…私の口から申して良いものかどうか…」
それでも話し出したのは、どのような考えによってなのか分からない。ただ、自らの主人を想う彼の強い意志の存在は確かなものだった。
「ファル様がご両親と死別されたのは、わずか五歳の時―――交通事故でした。倒れているお母様にすがって泣くファル様の姿を思い返すと、今でも胸が締め付けられる思いです」
何があったのかは詳しく話そうとしない。他人の踏み入れない領域であることを悟り、ダルタもそこを聞きこむようなことはしなかった。
「それによってファル様は、家族で暮らしていたこの屋敷に独りきりで暮らすようになりました。私も執事として付き添っておりましたが…執事は執事、ご両親の代わりになることはできません」
「ああ…子供には親が必要だしな。五歳っていったら甘え盛りだろう」
道で見かける、親と並んで歩く子供の姿。ファルには、それがすべて苦痛に映っているのだろうか。思いがけない過去にダルタは口が重くなる。
「多くの方がファル様を気遣い、そして励まして下さいました。特に近所に住む方々は私の及ばない部分までファル様の生活を援助して下さり、ファル様も皆さんに笑顔を振りまいて心配をかけないようにしておりました。…しかし、どれほど多くの方がファル様と接しようと、誰もファル様の『家族』になることはできないのです。どれほど仲良くなろうと、『他人』であることに変わりはありません」
ある意味当たり前のようなことだが、それがひどく残酷な現実に聞こえてしまう。『家族』という存在がどれほど大きなものかが再確認された。
「十七歳になった頃…ファル様は、自ら生業となる道を見つけてお金を稼ぐようになりました。ご両親の遺産はありましたが、ファル様はそれに頼らず自力で生計を立てようとしていました。誰の力も借りず、一人努力を重ねていったのです。もちろん、それを褒めてくださるご両親はおりませんし、『他人』の褒詞は、ファル様は望んでおりません」
ドルイズの足元に剪定した枝が広がる。ファルが出かけた時と比べると、その量は二倍ほどに増えてしまっていた。
「頑張れば頑張るほどに親が恋しくなるのでしょうか、時折そのような仕草をお伺いすることもありました。そんなとき、私は何もして差し上げられなかったのです」
それは後悔の念なのだろうか、ハサミを持つドルイズの手が小刻みに震えた。
「ドルイズが悔やむことはねぇだろ。出来ることはしてきたんだから」
「…ファル様がなにより欲していたものは『家族』だったのです。もっとも欲していることを、私はかなえられなかったのです。仕方がなかったとしても、それでは私は納得できませんからね」
パチンと音がして、かがんでいたドルイズが立ち上がった。ハサミをしまうと屋敷に向かって歩き出す。
「ガルバート様とご結婚なされた時は、私も本当に安心いたしました。ファル様に『家族』ができたことは、幼少のころから見てきた私にとって何より喜ばしいことですから」
僅かに笑って見せたドルイズの表情は、確かにその喜びがよく表れている。彼のファルに対する敬意が窺えた。
「ファルは…もう一人じゃないんだよな」
「私もそろそろ…お役御免といったところでしょうか」
ドルイズが髭を撫でる。その視線は、心なしか遥か遠くを見つめているようだ。
「おいおい、今のドルイズにはこの薔薇もあるだろ。それに、ファルはきっとドルイズの事必要にしてると思うぜ」
明るく言うと、ドルイズは足を止めてダルタと目を合わせた。
その老輩の心境がどのようなものなのか、一瞬見ただけの眼からは汲み取ることができなかった。
テストも無事(?)終了しましたので、またちょくちょく更新していこうと思います。まあ、焦って内容を進めたりはせずにのんびりと。