3話 遭遇
日が沈むと、月が輝く。物を形以外判別できないが、ユリスの心が何となく平穏でいられるのは、あの部屋と似ているからかもしれない。ふと懐かしそうにそこを思い出していた。
近くの壁に寄りかかり、そのまま床に座り込む。
上を見上げると、ちょうど落ちてきた落ち葉が鼻の頭に乗った。そっと振り払うと、街を溶かしこんだ空に銀色の月が浮かんで見えた。
今は冬、つまり「寒い」はずだが、ずいぶんと心地良い気温でシャツ一枚しかない彼女にとってもあまり居心地は悪くなかった。
しかし、昼の間は遠々歩き続けたために街に入ったところでとうとう動けなくなってしまった。疲労感、空腹感はユリスの知識の中にもあったが、これほど苦しいものとは想像していなかったらしい。
今のユリスにとって、あの狭いガラス管は一つの故郷でさえあった。
ただ生きるだけの日々が、どれだけ楽だったことか。
しかし、今さら戻ってももう居場所がないのは明らかだ。役立たずとまで言われ、処分という言葉があの男から漏れていた。
それにユリスは、未だにこの行動を後悔していない。
思考にノイズが走る。ガラスを破った時や瓦礫を作り出したときとは違う、体の中の防衛本能を奮い立たせるような、恐怖を誘う声が通り抜けた。もっともユリスは、その感覚を「嫌な気持ち」としか取れていないが。
足だけではうまく立てない。壁に手をつき、這うように立ち上がると、走ろうと足を出した。が、その足はもう体を支えられず、その場に倒れた。
もう一度立ち上がろうとするがもう腕にそんな力は無い。
言葉にできない胸騒ぎでいっぱいになり、「危険」を感じる方向を見ると、街も空も飲み込んだ空間が津波のように押し寄せてきていた。このままではいけないと分かっていても、体は思うように動かない。
自身の無力さを自覚した時、瞳から水滴が零れた。
体が浮いた。膝の裏と背中を軸にして、そして腹ばいから仰向けになって。
誰かが自身を抱えあげて運んでいるということは分かるが、暗くて何も見えない。見えるのは僅かばかりの壁の輪郭だが、訳の分からないままユリスの体はその隙間へと入り込んだ。
存在の確認ができる壁がすぐそこにあることで、闇よりも更に詰められる感覚になる。
ユリスの体は少し奥のほうで着地したが胸騒ぎは高鳴る一方で、まだ目の前に何かいるのに、その感覚からか口から悲鳴が出かけた。しかし、その口を塞がれた。
「声を上げないで」
やや幼めの、少年の声だった。その時に、自分の口を塞ぎつつ外の様子を窺う少年の姿が見て取れた。
そこから暫く、二人とも動かなかった。そして安全が確認できたからなのか、少年のほうから話しかけてきた。ユリスの胸騒ぎがゆっくりと消えていく。
「何で追われてたのか知らないけど、大丈夫?」
ユリスの心を気にする様子で、優しさを感じさせていた。少なくともお礼の必要があるとユリスは判断した。
「その…ありがとう」
やや棒読みだったため、少年はやや苦笑いをした。
「いや、気にしないで。君、名前は?」
「……名前」
ユリスは考えた。名前は、ユリスで間違いない。その名前を初めて呼んだのは、あの男。
名前を聞かれた時に思わずその顔が浮かんでしまい、ユリスは嫌悪感を顔に出した。
「……ユリス」
名前とともに不満そうな顔が現れたので、少年は再び苦笑した。
「…そっか。ユリス、か」
少年はユリスの顔をまじまじと見つめてきた。真剣な、少し驚いているような顔だ。
つられてユリスも少年の顔を見た。見知らぬ顔は当たり前だが、再びノイズが頭をよぎった。今度は少し長い。
「あなたの名前は…?」
ノイズの影響か、ユリスの口から出たのは全く考えてもいなかったことだった。人の名前に興味は無いのに、今はとにかくそれを知る必要を感じた。
「えっと…フィスト」
名前を聞きとるなり、ユリスはまた強烈なノイズを感じた。
苦しくは無い。むしろ、頭の中の毛玉の糸が全て解けたような開放感を覚えた。そして、頭の中である一つの予想が立っていた。
「ユリス…ごめん、迷惑かもしれないけど、ちょっとついてきてくれる?」
フィストが隙間から外へ出た。ユリスもボロボロの足で後を追う。
フィストはユリスのことを気にしつつ、ゆっくりと進んでいく。闇の中を、何も恐れていないかのように。
その後を追ううちにユリスは、何気ないうちにフィストに話しかけていた。
「フィスト、私に何か用?」
少し先を行くフィストに聞くと、振り向かないまま返事が来た。
「いや、なんて言うか…なんだろう?僕もよく…分からないんだけど」
「?」
「とりあえず、追われてるんだったら外を出歩かない方がいいだろうし…それに…」
そこで一度振り返り、ユリスの服装を確認してきた。
「裸足だし、シャツ一枚しか着てないし…それじゃ不便だと思ったから」
「…え、と」
「ん?」
「なんで、そこまで…」
初対面にもかかわらず、しかも追われていることに気付いていて、ここまで協力しようとしてくれる。ありがたいことなのだが、ユリスはフィストがそうしてくれる理由が理解できないでいた。
「…なんか、特別な感じがしたんだよ」
「…特別…?」
「…言ってて照れるなあ…ごめん、忘れて」
「……うん」
彼の家についたようで、フィストは隠れるように目の前の建物に入り込む。ユリスも追ってその扉をくぐった。
ユリスは確信した。
やはり、彼…フィストこそ、ノイズの伝えた「会うべき人」に他ならない。彼のユリスに対する態度も、それを裏付けていた。
銀色の月。輝いていたそれも、闇に潜んでいたものに覆い隠されてしまった。
輝きを失った世界に、小さな異変が浮かび上がりつつあった。