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目覚める竜  作者: 半導体
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33話 疑心暗鬼

 真っ白に思えていた空も、日が沈んで殆ど闇と化していた。塗りつぶされたそこからは白い結晶が相変わらず遠慮がちに降り注いでくる。街全体に等しくやってくるそれは、外にいる人々の頭や肩も若干の白色を含ませる。傘をさす程の雪ではないということなのか、雪から身を守ろうとする人間はあまりいない。


 足を一歩前に出す。さく、と心地よいほどの音がして白味がかった地面に足跡がつく。その上から更に白が重なり、次第にその跡が薄らいでいく。

 嬉しかったはずのその雪は、今はただ淋しさを助長させる負の輝きと成り果てていた。

 頭に冷たさを感じて首をふると、ポニーテールに積もっていた白い塊がべしゃりと下に落ちた。シャーベット状になったそれは、薄く積もっている雪の上ですぐに溶けようとせずくすぶっている。溶けるまで見つめていれば、頭には再び同じ量の雪がかぶさってくるだろう。

 母はもう帰ってこない…幼いリメールの頭でもそれは確信を持つことができた。

 同時に、涙をこぼしていた。



 暗い。闇の中から悪魔が手をのばしてくるのではないかと思うほどだ。


 寒い。靴にしみ込む水は冷たく、足先の感覚は既に殆ど残っていない。


 空腹。母と別れたのは朝の事で、それからずっと何も口にしていない。


 怖い。未知の土地に独りきりというのは、この上ない不安に駆られる。


 淋しい。もう一度母に会いたい、それが彼女の初めてのわがままだった。


 ゆっくりと歩き出す。リメールがいるのは人の気配のしない路地裏であり、不気味に静まり返っている。このあたりに母親はいないし、来ることもない…それは確かだ。

 少しずつ、人のいる方へ。どこに何があるか分からない彼女は、わずかに耳に入る雑踏の騒音を頼りに進んでいった。

 歩いている間、何度も目を袖で拭った。心が折れそうになる度に、泣き言を言いそうになる度に、決して諦めてはいけないと自身に言い聞かせていた。

 自分が『悪い子』だから捨てられたのだ、もう嫌われることはしない―――そう考えて。



 建物の間から盛んに人の行きかう様子が見えた。大通りに出た、ようだ。

 喜びは全く無い。知らない人ばかりのそれが見えたところで、安心などという言葉は遥か遠くで響く。

 そこに出るなり、何より先に母の姿を探した。自分が悪かった、いい子になるからと謝ってまた一緒になれる事を望んで。

 右の道は、どうやら大きな駅に続いているようだ。多くの人間が奥に向かって歩いていき、その姿が他の人間に隠されて見えなくなる。その一つ一つを慎重に確認していくが、母の姿はない。

 左を見ると、郊外に続く石畳が真っ直ぐに進んでいるのが分かる。こちら側にあまり人はおらず、脇の建物に人が出入りするのがいくらか確認できる程度だ。

 母の姿は、やはり無かった。



 視界がぼやける。いくらふき取っても世界はぼやけたままで、しばらくしてリメールは拭うのをやめた。


 頬が何かを伝っていく。それが溶けた雪だろうとそうでなかろうとリメールにはどうでもよかった。




 首筋に温かい感触が走る。露出していた首に、人肌程度の温度を持つマフラーが巻かれていた。鼠色の、ややゴワゴワしたマフラーだ。

「大丈夫か?」

 男の子の声。振り返ると、ブラウンの髪に大量の雪をのせて鼻を赤くする少年の姿があった。

「……」

 何も言いだせない。首のマフラーを急いで返そうとしたが、少年はそれを無理矢理止めた。

「いいよ、それあげる。使い古しで悪いが、そんな軽装じゃ寒いだろ?俺は別に寒くないから、気にするなって」

 少年の服装もリメールに負けず劣らず薄着だったが、彼は平気そうに笑って見せた。寒いのだろう、その体は小刻みに震えている。罪悪感が生まれ、リメールは再び首からそれを外そうと試みる。

「おいおい、別にいいってば!」

「わっ…悪いです、そんなの!あなただって震えてるじゃないですか!」

 これ以上『悪い子』になりたくない。人に嫌われる行為は、彼女にとってはまさしくそれに当てはまる。

 誰かに嫌われることが、彼女にはたまらなく恐ろしいのだ。

「あなたの物なのにあなたが我慢してまで私が使うなんて、なんか失礼な気がします!」

「渡されたものを使おうとしないのも失礼なんじゃないのか?」

「……!」

 言葉に詰まった。少年の言うことももっともだとリメールには思えた。

 黙り込む。マフラーを外そうとしていた手が止まった。

「……じゃあ、ありがたく…」

 首元がすっかり隠されるそれに顔をうずませる。まだ申し訳ない気持ちがあり、頬が赤くなっていた。少年の顔を見上げると、寒さで顔を赤くしながら平気そうに振る舞っている様子が見える。ここで無理にマフラーを突き返そうとしても、おそらく彼は受け取らないだろう。

「……ありがとうございます」

「気にするなって。そんな律儀にならなくても」

 少年は笑った。リメールの不安が、その瞬間だけ和らいだ。

「迷子か?まだ目が赤いぞ」

 少年がハンカチを取り出し、リメールの目じりを拭った。まだ涙が出ていたらしい。

「迷子といいますか、なんと言うか…」

 説明することは、リメールは気がひけた。まるで人の同情を誘っているような、そんなことをしている気になってしまうのだ。

「…訳ありっぽいな。まあまずは、どこかで落ち着いて座ろう」

「え?あ、あの」

 困惑するリメールを差し置き、少年はリメールの手を掴んで歩きだしていた。


 しっかりと掴まれている手首は、首よりも更に温かかった。







 目の前に広がる白は、おそらく雪ではなくシーツの色だ。真っ白いシーツで体を丸ませているその姿勢はあまり人に見せられるものではない。先ほどまで見ていた夢に気持ちを持っていかれたまま、もそもそとベッドから体を引きずり下ろす。シーツから出ると、身を貫く猛烈な寒気に襲われた。

「…寒いですね…」

 独り言を漏らし、給湯室へ移動する。この習慣ももう手慣れたものだ。

 戸棚から茶葉の袋を取り出して数人分を摘まみ取ると、水と一緒にポットに入れて火にかけた。どのくらいでちょうど良い温度になるのか、リメールは熟知している。


 ここに来ることになったあの日の夢。ユリスに話したのがきっかけなのか、それは久しぶりに見る鮮明な記憶の再生だった。その時の感情から温度の感覚まで、細かく再現されていた。

 事情を彼―――アーミルに話すと、彼は彼女を受け入れてくれた。全て承知した上で、共に暮らすことを許してくれたのだ。その日の感動を、リメールは忘れたことがない。

 その日から今まで、ずっと何事もなく―――いざこざがなかったわけではないが―――『兄妹』として暮らしてきた。それは彼女にとっても疑いようのない『幸せ』そのものだった。

 だからこそ、いつかこの日常が崩れ去ってしまうのではないか、とリメールは不安になる。自分が必要とされていないのではないか、そんな恐怖に似た感情が常に思考にまとわりついてくるのだ。

 不要の烙印を押されないように。彼女はその一心で、あらゆる事柄を器用にこなした。料理や紅茶の知識も、彼らの役に立てるようにと手際よく覚えてきた。実用経験こそ殆どないが、例えば武器の使用方法も知識の中にはある。それがなければ、本屋でフィストとユリスを助けることはできなかっただろう。それらは誰かに強制されたわけではなく、全て自分から進んで身につけていた。言われたことだけをこなしていては必要な存在にはなれない、そう考えて。

 だが物事を覚えれば覚えるほど、ますます疑心暗鬼に陥ってしまう。まだ足りないのではないか、もっと何かを身につけるべきではないのか、そんな不安が離れることなく彼女を握りしめているのだ。いつ握りつぶされるか分からないほど、強く。


 リメールは、恐れている。


 自分が必要とされなくなることを。


 自分の居場所が無くなることを。



「そろそろですね」

 ポットの火を止めた。すでに紅茶の香りが給湯室に溢れかえっている。カップを複数取り出し、お盆の上に並べた。ポットから一つずつ注いでいくと、香りの深みは倍増した。

「リメール、おはよう」

 アーミルが給湯室に入ってきていた。

「あ、アーミルさん。おはようございます」

 その姿を確認するなり、リメールは満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見る限りでは心に抱く恐怖は全く感じない。

「毎朝ごくろうさま。いつも悪いな」

「いえ、そんなことないです。私が好きでやってることなんで」

「…まあ、そうだけど」

 アーミルはリメールに朝の紅茶を頼んだことはない。あくまでリメールが自発的に、誰よりも早起きして紅茶を準備するようになったのだ。アーミルはそんなリメールのために、茶葉をそこに買い溜めをしている。

「……あの、アーミルさん」

 夢の影響か、ふとアーミルを呼び止めていた。

「ん、どうかしたか?」

「あの……私って…」

 ここに必要なのか。アーミルに直接聞きたいが、それは卑しいのではないかという葛藤に襲われる。あと一言なのだが、リメールはどうしてもそれを聞くことが出来なかった。

「……なんでもないです!すみません、呼びとめてしまって」

「いや、いいけど」

 きっとアーミルは自分を必要と思っている。リメールはそう信じることしか出来なかった。

「そういえば、今日は三人で出かけるんだって?」

「ええ、そうです。ユリスさんにもいろいろ買ってあげたいと思いまして」

「俺に声をかけなかったのは…」

「ダメですよっ。神聖な女の子の集いなんですからっ」

「…そうか。ま、楽しんで来てくれ」

 苦笑いを浮かべながら、アーミルは給湯室を出ていった。気分を害したわけではないのは、長い付き合いのリメールにはよく分かっている。


 始めのうち、リメールは冗談の一つも言うことはなかった。常に他人行儀でアーミルやティリアと接し、絶対に気分を害さないように精神をすり減らしていた。

 先程のような茶化しが言えるようになっているのは、アーミルの人柄がそれなりに良かったからだろう。いつの間にかリメールは周りの人間と気軽に話し合うようになり、そこに打ち解けていた。それがリメールには、嬉しかった。

 だがなお、恐怖は払拭されない。どこかで邪魔に思っていないか、本当に『兄妹』になれているのか、それは不安でたまらなくなる。

「アーミルさん…私、ここに必要ですか…?」

 小声で言ったが、隣の部屋にいるアーミルには聞こえるはずもない。


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