26話 緑の夢
そこは、針のない時計盤。ローマ数字たちがそこから浮かび上がり、ゆっくりと回っている。全ての針の集まる場所であろうそれの中心に、彼は立っていた。
風の流れる音が聞こえる。逆にいえば、それ以外は何も聞こえない。やっと気づいたのは、風が下から吹き抜けていること。そしてその風が、柔らかい緑をまとっている事。
時計が彼に問いかける。
「あなたは、何なのですか?」
「…僕は…」
「風?木?石?水?そもそもあなたはものなのですか?」
彼の中に答えは無い。ただ黙って、緑の背中を見上げる。
「探しなさい、あなた自身を。この小さくも大きな世界で、あなたを知る者を探しなさい」
声が切れた。
一体、僕とは何なのか?
人。それは間違いない…はずだ。
男。これも当たっているだろう。
子供。それは分からない。子供かどうかは判断する者によって変わる。ある人は子供といい、ある人は大人といった。そもそも、これは僕だけで結論を出すべきではないのではないか…?
善。それはおそらく、違う。では悪か?それも違う。善でも悪でもない、それは何であるのか。
たった一つ、思い当たる言葉があった。
偽善。
そうだ、僕は偽善者だ。善でも悪でもない中途半端な存在。それが一番しっくりくる。
思い返してみると、確かに僕の生き方はどっちつかずの半端な人生、半端の集合体のようなものだった気がする。僕のせいでどれだけの人間が無意味な死を遂げたか。そしてそれにもかかわらず、僕は今ものうのうと生きている。
―――ああ、これは偽善じゃなく、立派な悪ではないか。
僕の目の前でバスティールが殺されている。彼は何もしていない、ただ僕と出会っただけだ。つまり、彼は完全に巻き添えを食った形になる。これは僕の責任ではないかもしれないが、少なくとも僕の時間はそこで足を止めてしまって動かない。
そして同時に、もう動くことはないだろう。針が動かないのではない、針がないのだ。それこそ、この足元の時計盤のような。
…そうか、これは僕の心か。
言いようのない脱力感に襲われ、目を閉じ、下を向いた。この時計にあった針は、全てあの日に落としてきた。拾いに戻ることはできないということは、彼自身が一番よく分かっていた。
「あなたの時計は止まりました。動くことはありません。ですが、あなたのすべきことは決しました。下を見ないで、周りを見て。あなたの出来る事、あなたのすべき事、時間を落としたあなただからこそ、それが見えるのです」
時計盤の言葉は何より重く彼にのしかかった。だがそれ以上の加重は無く、あとは独りにされた。
しばらくは下を向いていたが、緑の中の僅かな気配に顔を上げ、辺りを見た。
上っていく緑。そこに新しい何かは無かったが、新しい何かが見えた。いや、それは新しいのではなく、ずっとあったのに彼が気付かなかっただけだ。
時計は、一つではない。いくつもの不可思議な時計がすぐ周りに存在していた。
一番近くにあるひと際小さな時計を見て、そして気づいた。その時計にも針がついていないのだ。
それが誰なのかはすぐに分かった。同時に、自身のするべきことにも気づいた。
彼は自分自身の針は拾いに行けないが、その時計はどこにあるのか知っていて、かつ取りに行けるかもしれない状態なのだ。それは勿論、彼が拾おうとすればの話だが。
彼は暫く考えた。あまり時間はかからず、結論はすぐに出た。右手を持ち上げ、そしてその掌を見た。
そこには何も無い。彼はてっきりそこにあるものだと思っていた。あるはずなのに。
「…そうか、そうだったんだ」
一人、呟いた。そして右手を固く握る。全ての答えはそこにあった。
「僕は針なんだ。…僕が、針なんだ」
彼の体が大きく傾き、そして時計盤に倒れかかった。時計盤はそれを全く受けとめようとせず、彼の体は時計盤の下へとすり抜けた。しかしその表情にはある種の喜びすら存在していた。
落ち行く先からは、緑の風が上に向かって無数に吹き去っていく。風よりもずっと深く濃い緑色が、どこまでもそれを埋め尽くして無限の広がりを彼に味わわせた。
それは、まるで海。
「知りなさい、自身の力を。感じなさい、自身の使命を。たとえあなたの時が止まっていても、あなたは独りではないのですから」
今朝は今年一番の冷え込みだったと、テレビの中の眼鏡が単調な説明をしている。確かにフィスト自身、目覚めた時に自分が布にくるまって震えているのに気づいた。リメールの出した紅茶を飲みながら気象情報を見ている今も、体の解凍はまるで進んでいない。カップを置くと、くしゃみが飛び出した。
「風邪でも引いたか?」とアーミルが笑って見せた。逆にリメールは「大丈夫ですか?体調管理には気を付けてくださいね」と心配そうにし、ダルタは何も言わずにひたすら紅茶を口に運んでいる。
フィストは自分自身不思議でならなかった。そこまで冷え込んだにもかかわらず、寝ながら掻いたのであろう大量の汗が体を濡らしている。
ぼんやりとしか覚えていないのだが、朝の夢を思い出そうとすると体が震えた。何があったのか思い出したいのだが、体が思い出すことを拒絶している。決して恐怖などではないのだが、フィストはひとまず忘れることにした。わだかまった思いも混ぜ込み、もう一度紅茶を流しこむ。
「あ…おはよう」
ユリスが起きてきた。引きずるようにテーブルに歩いてくる。フィストの座っている椅子のすぐ横で止まり、まだ眠そうに目をこすった。
「ユリスさん、こちらで紅茶をどうぞ。今朝は冷えたでしょう」
まず一番にリメールが声を掛け、新しいカップに紅茶を注ぎ始めた。
「うん、ありがとう」
ユリスはフィストの向かいの椅子に座るとカップを受け取った。
そこで紅茶をすするユリスは、フィストの目には何も変わっていないように映った。結局昨晩の話し合いは何の意味も持たなかったのか、やはり自分は何もしてやれなかったのかと、フィストは諦めに似た寂寥感に苛まれた。
それを悟ったのか、カップを置いたユリスがフィストと視線を合わせてきた。
「あ…ユリス」
「フィスト、あのね…」
言いだそうとした言葉が重なり、お互いにしばらく固まる。
ゆっくりと時間が流れていく中で、ユリスから話を始めた。
「…フィスト、ありがとう。それから、ごめん」
ユリスは申し訳なさそうに苦笑いをした。
「え、何で謝るの?」
フィストがその謝罪の意味を理解できずにいると、ユリスは少し息を深く吸って一気に話し始めた。
「だって…昨日だってそうでしょ?フィストは私のこと心配して声をかけてくれたんだよね。そうやっていつも気にかけてくれるのはすごくう嬉しい。だけど、もしかしたら私のせいでフィストが辛い思いしてるんじゃないかなって思って…昨日も思わず辛く当たっちゃったし、悪いなって…。ずっとお礼が言いたいって思ってたし、謝りたいと思ってたから…」
ユリスは片言で、しかし今までになく言葉を大量に並べた。それほど言いたいことがたくさんあるのか、まだフィストへの語りかけは止むことなく続いている。
「…でもやっぱり、フィストには私のこといつも気に掛けていてほしいの…私ってわがままだよね。本当にごめん」
これまであまり喋らなかったことも含め、ユリスはずいぶんと言いにくそうに話していた。そして言い切ったことに安心したのか、ぎこちなく笑って見せた。その笑顔の中に、フィストは少しずつ元の元気なユリスを見出していた。
「ユリス」
フィストが呼ぶと、ユリスは頬を赤くしてフィストを見つめ返した。
「そんなに謝らないで。僕は今まで一度だってユリスのせいで辛い目に遭ったことは無いし、むしろいろいろ楽しいことがあったと思う。ユリスが思ってるほど僕は無理もしてないし、心配しなくていいよ」
フィストもぎこちなく笑ってみせる。ユリスは笑顔が解けていて、フィストの言葉を一字一句逃すまいと耳を傾けていた。
「…あのさ、もっと笑ってよ。ユリスが幸せなら僕はそれでいいんだ。それに僕の方こそユリスから元気をもらってたんだと思う。…だから、改めて言わせてほしい」
少し間を開ける。フィストはユリスの表情を確認せず、はっきりと言った。
「ユリス…ありがとう」
ユリスは一瞬、驚いた表情をした。
それから、照れくさそうに笑った。
「それからさ、僕も…」
「?」
「僕の方こそ、謝らなきゃいけない。…僕さ、いい気になってたのかもしれない。ユリスとずっと一緒にいて、ユリスのことは何でも分かってるような気でいたんだ。ユリスは僕の考えてるより何倍も苦しんでたのに…ごめん、ユリス」
一気に言い終わり、それから俯いた。
だがユリスは、哀しげな表情でうつむくフィストに恥ずかしそうなな笑顔のまま一言、
「何で謝るの?」
完全に二人の世界に入っている。割って入る余地はどこにもない。
「実際、若いっていいなって思うよ」
淋しそうにアーミルがつぶやく。
「大丈夫だ。俺らだってまだ二十代だろ」
励ますようにその肩にダルタが手を置いた。
「これからどうなっていくかな?」
「楽しみですね!」
ティリアとリメールがそんな談話に花を咲かせている。
置いてある紅茶から出る湯気は、いつの間にか姿を消していた。
「楽しみって、あの二人は別に…聞いちゃいないか」
アーミルは何か言おうとしたが、盛り上がっている二人の耳には到底届かないだろう。ふう、と溜息をついた。
「仲良いじゃねえか、あの二人」
「…ああ、本当にな」
明らかに分断された二つの部屋。ブルーイーグルの運航再開を告げるキャスターの声が、いささか場違いに空気を取り巻いていた。
「やっ…やめてくれえぇぇ!頼む!もう失敗はしない!」
体を震わせる男。年甲斐もなく涙を目いっぱいににじませ、小さく両手を上げている。
その額に押し付けれられる、銀色の銃口。
「私は…憂いているんだ。仲のいい兄妹が会えなくなってしまったなんて現実を。この研究はそれを解決する唯一の方法。お前はそれを妨害しようとしたのか?」
「ちが、違う!」
「あれほど『兵士』を使わせたにもかかわらず処分に失敗、逆にあれの力を目覚めさせた。それのどこが妨害でないと?」
「…く、狂ってる…!」
本来ならあまり逆上させるような言葉を発するべきではないのだが、その男の目に彼はまさしく狂って見えた。
「完成が遅れれば遅れるだけあの方が悲しむ。私は…それが辛い」
男の言葉に別段怒る様子もなく、銃口は冷静に標準を合わせ続けている。
「…まあ、チャンスをやろう」
チャンス、という言葉に男の目に若干生気が戻る。
「この銃の装填数は六、しかし今は一発しか入っていない。確率六分の五…これで不発なら許してやってもいい」
それは決して良い賭けとは言えない狂気に満ちた提案だった。男の震えは止まらない。
もういちどしっかりと銃口が額に押し付けられ、ひい、と小さな悲鳴を上げる。そして目を堅くつぶった。
大丈夫、六分の五なんだから、絶対大丈夫、大丈夫、大丈夫…
祈った。
祈った。
祈り続けた。
―――そして、踏みにじられた。
「私は…この研究を邪魔する者は許さない。誰であろうと…」
煙を吐く銃を下ろし、シリンダーを開く。
今撃って飛び出した薬莢に、未使用の五発の弾がこぼれ落ちてぶつかった。
しかし、その男の眼にははっきりと悲しみの色が浮かんでいた。