24話 『その日』 屋上
今日は雲が無い。都会のまぶしさにかすれてはいるが、それでも星がよく見える。消えかかった月が、かろうじて単調な空にアクセントを添えていた。
「空気が抜けるみたいに、か。お前らしい表現だなぁ」
手すりに手を掛け、アーミルが言った。わざとらしく笑ってみせる。
「見たままを伝えただけだよ。間違いじゃないし」
手すりに顎を乗せてフィストは遠くを見ていた。疲れきったような声だ。
二人ともそれからしばらくは口を開かなかった。はっきりしない意識で、ただ街を見て無言の時間を保っている。その景色はどんなに煌めいても、二人には届かない。
それでも、闇よりはましだ。
始まりを告げたのは、アーミルだった。
「……お前、襲われた理由に心当たりがあるんじゃないのか」
フィストも聞かれると分かっていた質問だが、それはより一層嘘をつけなくさせた言い回しになっている。もとより嘘をつく気はなかったのだが、フィストにその聞き方は重荷になっていた。
「……」
「何があったのか、話してもらえるな」
言葉を発することなく、フィストの首はゆっくり上下した。
明かすことに対する抵抗は無いはずなのだが、フィストの口はなかなか話しださない。やはり気まずい思いがどこかにあったようで、いざ話すとなるとなかなかの勇気を必要としている。
「何も気にするな。本当のことを話せばいい、それだけだ」
そんな言葉が届いた。奥底にしまいかけていた言葉が喉元まで登ってくる。
「…実は…」
後は長いようですぐだった。
自分のしたこと、ユリスのこと、列車のこと…話せることはすべて話した。
「…なるほど」
粗方聞き終えたアーミルの反応はフィストの予想よりもずっと希薄なものだった。フィストの方を一度も見ずに遠くを見ている。
「迷惑はかけたくないんだ」
フィストはアーミルと顔を合わせれらないでいる。その勇気すら、たった今使い果たしたところだ。
「…迷惑、ねえ」
「あんまり長居もしないつもりだよ。今すぐにだって…」
「は?ちょっと待て」
「…僕が一緒にいたから、あの人は…」
フィストの瞼には、今はっきりとバスティールの顔が浮かんでいた。あの時、どれだけ自身を責めたか。どれだけ苦しんだか。
彼だけではない、彼女も。ユリスと一緒にいた、ルフィーネという女の子。
自分に関わった人が、すでに二人死んでいる。これ以上そんな人が増える、それがどれだけ辛いことなのか、フィストは身にしみて分かっていた。
「おいフィスト、ちょっと俺の話を」
「もうこれ以上、余計に人が死んでほしくないんだ!」
声を荒げる。
「僕だって、いろんな人と出会って、一緒に過ごして、嬉しかった!楽しかった!…でも、だからこそそんな人たちを巻き込むのが怖い!」
「…フィスト…」
アーミルは特に何も言わず、フィストの言うことに耳を傾けている。
「…僕は、弱い……誰一人守れない…!ユリスを守るって誓ったそばから、僕は逆にユリスに守られてた…何もできなかった!」
倒れる自分と、その前に立つユリス。フィストにとっては何より情けない構図だった。
「僕は、大切な人を守れない!守る力が無い!」
フィストの手は震えていた。前を見ていた顔が下を向く。
「…強く、なりたかった…!」
思いの程をすべて言葉に託し、言い切ると額を手すりに押し付けて泣き声を押し殺し始めた。手すりに何滴もの雫が伝って下に落ちていく。
恐ろしさと情けなさに追われる小さな少年の姿が、そこにあった。
「フィスト」
アーミルがフィストの顔を起こした。
フィストは、何を言われても構わない覚悟だった。すぐに出て行けと言われれば出ていったし、黙っていたことを怒られるのならば甘んじて受け入れるつもりだった。
そして、フィストに与えられたものは―――
「―――っ!」
全く力の入っていない、しかし耐えかねるほど痛いアーミルの平手打ちだった。
威力は皆無であったにもかかわらず、フィストはいくらかよろめいた。これが罰か、とフィストはむしろ安らぎを感じていた。
「…フィスト…今まで大変だったんだな」
だが次の一言は、あまりにもその一撃とギャップがあった。優しさと同情の滲む、小さな一言。
「アーミル…?」
「…これ以上、逃げるな。辛いかもしれないだろうが、向かい合う勇気を持つんだ」
「…向かい合う勇気…」
「強くなるのを諦めるのが一番あっちゃいけないだろ。敵がどんなに大きくても、それに立ち向かう。それが強さだ」
フィストは思い返していた。
自分が逃げることしかしてこなかったことを。
何の解決にもならないことは、どこかで分かっていた。
「俺たちは巻き込まれたなんて思っていない。人と人とが出会うってのには必ず意味があるんだからな。それでも怖いって言うんなら、怖くなくなるまで強くなればいい」
「……アーミル…」
「俺達に出来ることは何でもするさ。俺たちは、もう他人じゃないんだ。今まで一人で悩んで辛かっただろうが、今は俺たちがいる。遠慮せずに頼ってくれて構わないからな」
「…う……うわぁっ…!」
それ以上は、フィストも堪えることはしなかった。
アーミルにしがみつき、声をあげて泣いた。恥ずかしがることも、強がることもせずに。ずっと溜めこんでいた恐怖や悲しみを残さず吐き出すように。
その泣き声は、夜の街にゆっくりと染み込んで消えていき、二人以外の誰の耳にも入ることはなかった。
どれだけ時が過ぎただろうか。
フィストはゆっくりとアーミルから離れた。泣き声はしばらく前に止み、今は息遣いを元に戻そうと深呼吸をしている。
「…ありがとう」
フィストが笑った。納得したようにアーミルも笑って返す。
アーミルの信念、フィストの決意。それらはお互いにしっかり伝わったようだ。
「もう中に入るか?」
アーミルが聞いた。まだフィストの体をいたわっているのだろう、フィストの腹部に巻かれている包帯を意識している。
「いや、もう少しここにいるよ。先に戻ってて」
まだなめらかな文を発することはできないようで、明るくしようとしてぎこちなくなっている。アーミルもそれは分かっていたが、あえて気付かなかったふりをした。
「じゃあ、早いうちに入りな。お前、今日腹を撃たれたんだからな」
扉が開き、そして閉まった。張っていた空気が緩み、また一度溜息をついて街の明かりを虚ろ気に眺め始める。
「フィスト?」
扉の方から声がした。ティリアの声のようだ。軽快な足音をさせてフィストの方へ歩いてくる。
「あ、ティリア」
「下にいないから探したよ。アーミルと何話してたの?」
何の気なしに聞いてきているが、それが微妙に答えにくいものであるのも事実だ。僅かに返答を考える。
「…もう逃げないって話」
「へーえ…」
ティリアの返事には何故だか張りが無かった。手すりに体重を掛け、フィストの方を向かずに遠くを見ている。雰囲気がいつもと違い、隣にいても持ち前の明るさを感じさせない。
「あのさぁ、フィスト」
話し出したのはティリアだった。
「話したいことがあってさ…」
声の調子からは深刻そうなイメージがある。重大な悩みを抱えた、低い位置の声だった。
「僕に相談?」
「ああ…ユリスが、あれからずっと落ち込みっぱなしなんだ」
自分より人生経験豊富な人間の悩みなど答えられるのか、とフィストは不安だった。ユリスの名前が出てティリア自身の悩みでないと分かった時には、その意味ではホッとしていた。
それでも、他人のことでこんなに悩めるものなのか、とフィストは少し驚いていた。
「…そっか、ユリスが…」
「うん。話をするときとか、顔は笑っているんだよ。だけど、心の中で苦しんで泣いているのが見えるんだ。何があったのかよく分からないから私からは何も言えなくて…」
フィストには、ティリアが他人のことでこれほどまで落ち込む人間には見えなかった。他人のことを自分のように考えられるのは人生経験が豊富である証拠だと考えている。
「ユリス、ずいぶんあなたになついてるみたいだから、あなたから声をかけてほしいんだよ」
「うん、それはいいけど…」
最初はフィストも、ユリスを元気づけようと考えた。だが、自分が一度落ち込んでいるユリスに声をかけられなかったことを思い出した。
ルフィーネの墓の前で、ユリスが泣き崩れていたあの時。
ティリアさえ元気にしてやれないのに、自分に出来ることはあるのだろうか。彼にはその自信が無かった。
「…僕じゃ、ダメなんじゃないかな…」
思わず出た本音。ティリアがムッとして少し怒った様子になった。
「逆だよ、逆!…むしろ、あなたじゃないといけないんだ。確証はないけどさ、ユリスは…」
諭すようにフィストを見ていたティリアの視線がその瞬間それた。言葉が暫く詰まって出てこない。
「ユリスは?」
「…いや、なんでもない。でも、ユリスのことは頼むよ」
「…うん、やってみる」
それを聞くと、すぐにティリアの表情がいつものものに戻った。それ以上のフィストの追及を逃れるように駆け足で屋上を離れていく。明るく戻ったのは、フィストにしっかりと伝えることができたからだろう。
勢いよく扉が閉められた。フィストに遅れた孤独が残る。
「ユリス…どうしたらいいのさ…」
星空に答えを求めるが、返答は煌めきだけだった。諦めて手すりから離れ、扉に向かう。
その視線は、自信を得られないように下向きになって屋根のタイルを見つめている。ティリアのように明るくこの場を離れるのは、彼には無理な相談らしい。
だが彼は、もう逃げ出すことは無かった。
迷わず、向かい合うことを選んでいる。